冬真の手の中で契約書が軋んだ。指に力が入り、紙面に不規則な皺が刻まれる。凌一の冷静な声は、抗うすべを持たない威力を帯びていた。「兄の教育が行き届いていない」——その言葉は台風のように吹き荒れ、冬真の長年の誇りと自負を木っ端微塵に粉砕した。橘家の舵取り、グループの指揮者として、誰もが彼の意向に従ってきた。万人の上に立つ絶対的な王者だと思い込んでいた。だが、その上に君臨する神が、こうして裁きを下すとは。一瞬にして、冬真は息をするのも困難になっていた。「叔父様、私たちは無関係な人間ではありません。覚えていらっしゃいますか?汐と一緒に本邸でお会いした時の……」楓が親しげに話しかけようとした。凌一からは特別な威圧感こそないものの、あまりにも整った容姿に、二メートルほどの距離でその顔を見つめながら話すだけで、楓の言葉は次第に歯切れが悪くなっていく。「そうです!」楓の言葉に便乗するように盛樹が声を上げた。「私たちも以前お会いしましたし、私は夕月の父親です。家族なのに、どうして無関係な人間だなんて……」凌一の冷めた視線が、ようやく盛樹に向けられた。まるで百年の秩序の外側から差し込む一瞬の光のように、その眼差しは盛樹の血液を凍らせた。「自分の娘を家から追い出した人間が、家族を名乗るのか?」夕月の心臓が高鳴った。なぜ凌一は、自分と瑛優が家を追い出された事実を知っているのか。「いえ、これには事情が……」盛樹の声が掠れる。「黙れ」その声は柔らかでありながら、見えない封印のように盛樹の口を塞いだ。凌一は顎をしゃくり、冬真に告げた。「彼らを外に出しなさい」盛樹は息を呑んだ。これまでのキャリアで、こんな扱いを受けたことはない。食事の途中で、家族全員が追い出される——そんな屈辱を。楓は慌てた眼差しを冬真に向けた。だが冬真は氷のように冷たい表情を浮かべるだけだった。「出ていけ」凌一が7歳で天才の片鱗を見せ始めて以来、橘家には一つのルールがあった——凌一を喜ばせることが何より重要だ。盛樹は心音の肩を抱き、立ち上がろうとする。「お腹すいてるのに〜」心音が小声で不満を漏らした。「いい子だから、外で食べようね」盛樹は慌てて宥めた。心音は箱の中のドレスを素早く手に取った。夕月は気にも留め
冬真の表情が強張り、鋭い喉仏が震えた。「分かったなら『はい』と答えなさい」凌一の声は相変わらず穏やかだった。冬真は頭皮が痺れるような感覚に襲われながら、いつもの傲慢な頭を下げた。「……はい」敗北した将軍のように、広い肩に暗い影が落ちる。返事を確認した凌一は、満足げに部屋を後にした。夕月は車椅子に座る凌一の横を歩きながら、柔らかな声で言った。「橘博士、助けていただき、ありがとうございます」瑛優も母の後に続いて、キラキラした目で凌一を見上げた。「すごいです、橘博士!」小さな頭の中では、まだあの衝撃的な光景が残っていた。生まれて初めて、いつもの威厳に満ちた父が、まるで別人のように萎縮する姿を目の当たりにしたのだ。瑛優は憧れの眼差しで凌一を見つめた。彼女にとって、凌一は父をも超える存在に映っていた。「昔のように、先生と呼んでくれていい」凌一は眉を少し寄せた。夕月が"博士"と呼ぶたび、何か違和感を覚えるのだ。まるで二人の間にあった親しい関係など、なかったかのように。確かに夕月は昔、彼を深く信頼し、頼りにしていたのに……「昔は、お兄さんって呼んでいましたよね」夕月は目尻を下げて微笑んだ。どうしてお兄さんと呼ばせてくれないの?まるで神様みたいに、距離を置くような。車椅子に座った凌一は、漆黒の瞳を深く沈ませ、何かを思案しているようだった。「じゃあ、ママの先生のことは、なんて呼べばいいの?」瑛優の声が響いた。夕月は娘の肩に優しく手を置いた。「凌一おじさまでいいわ」凌一は長い睫毛を一瞬だけ揺らし、世代を一つ下げられたことを、意外と心地よく感じていた。「冬真の誘いを断ったということは、サミットへの参加機会も失ったことになりますね」サミットは主にビジネス界の人物を招待するもので、数学コンテストで賞を取った夕月とはいえ、まだビジネス界の人間とは言えない。もし大学からの誘いを受けてサミットに参加すれば、その大学と強く結びついてしまうことになる。凌一は車椅子の肘掛けを指先でそっと撫でながら「私から——」「実は、サミットからの招待状をいただいているんです!主催者から直接です!」夕月は嬉しそうに報告した。凌一は本当に自分のことを考えてくれている。冬真の誘いを断ることで生じる不利益まで、心配してくれてい
スタッフの報告を聞き、眉間に深いしわを寄せる。叔父と夕月は、そこまで親しい関係だったのか?記憶を辿っても、二人が言葉を交わす場面など見たことがない。だが冬真はすぐに納得した。叔父は才能を愛でる人物だ。夕月への配慮も、その才能ゆえなのだろう。それに、叔父は古風な人間だ。夕月とは離婚したとはいえ、瑛優の血には橘家の血が流れている。叔父は単に、橘家の孫娘の母親として、彼女に気を配っているに過ぎない。冬真は部下に電話をかけた。「叔父の車を尾行しろ。どこへ向かうのか確認したい」「冬真くん」一度は帰ろうとした盛樹が、センチュリー ノブレスが去っていくのを目撃し、妻と娘を連れて戻ってきた。「博士はなぜ?それに夕月は?まさか博士と一緒に?」盛樹は個室に冬真だけが残っているのを見て、不思議そうに尋ねた。「夕月姉さん、あなたの叔父様とそんなに親しかったの?さっきから夕月姉さんの味方ばかりして」楓の声には妙な響きが混じっていた。冬真は椅子に深く腰掛けたまま、整った顔に冷気を漂わせ、一度目を閉じて深く息を吸い込んだ。再び開いた瞳は、底なしの淵のように暗く沈んでいた。「まだ帰らないのか?」冬真の一喝に、盛樹の体が小さく震えた。「冬真くん、どうしてもサミットの入場券が必要なんです。オームテックが藤宮テックの買収に興味を示していますが、サミットで他の道を探りたくて……」冬真は盛樹の腹の内を見抜いていた。藤宮テックの業績は年々下降の一途を辿り、今年は国の新しい貿易規制で輸出収益が完全に断たれた。海外のオームテックが安値での買収を狙っている今、盛樹は名流が集うサミットで、買収価格を吊り上げてくれる企業を探そうとしているのだ。「来週のサミットのレセプションパーティー、楓と北斗も一緒に来い」冬真の言葉に、盛樹は目を丸くした。「もう、そういう付き合いって大嫌いなのに!」楓は喜びを抑えきれない様子で声を上げた。「先に言っておくけど、ドレスは絶対着ないからね!」「好きにしろ」楓がドレスを着ようが着まいが、どうでもいい。夕月との対立を意識した冬真の頭の中には、別の思惑が渦巻いていた。自分の好意を突っぱねた夕月への報復——手に入れられるはずもない招待状が、他の者にとっては朝飯前というところを見せつけてやる。藤宮家の
アシスタントの膝上のノートパソコンには追跡車両の詳細が映し出されていた。スカイネットシステムで即座に車両を特定したのだ。夕月は思わず額に手を当てた。元夫ってば、本気で病んでるんじゃない?凌一の漆黒の瞳に、かすかな笑みのような感情が宿る。「君の元夫は、随分と執着が強いようだね」その言葉には妙な響きがあった。まるで冬真が甥ではなく、まったくの他人であるかのような。「本当に……病気としか思えません」夕月は凌一の前で、冬真への罵倒を必死に抑え込んだ。凌一は前を向いたまま、アシスタントに淡々と指示を出した。「好きにさせておけ」黒いセンチュリー ノブレスは凌一の邸宅へと向かう。敷地から半径五キロ圏内は、人工衛星による厳重な監視下に置かれていた。その範囲内には監視所が点在し、邸宅から一キロ圏内に入ると、十歩ごとに警備員が立っている。車窓の外では、巡回車両が絶え間なく行き交うのが見えた。地下駐車場へと滑り込むセンチュリー ノブレス。凌一が何か言う前に、夕月は期待に輝く目で尋ねた。「先生、ここに連れてきてくださったということは……日興研究センターへの採用が!?」夕月の頭の中では、凌一邸に掲げられた国旗の前で、守秘義務と忠誠を誓う自分の姿が浮かんでいた。「違う」凌一の一言で、夕月の夢想は一瞬で砕け散った。「でも、私、金賞を取りましたよ?」夕月は食い下がる。「たかがコンテストごときが、日興の門戸を開くわけではない」夕月は霜に打たれた茄子のように、すっかり意気消沈してしまった。上唇を軽く噛みながら、鼻筋に落ちた髪の毛を息で払う。薄暗い車内で、凌一はそんな彼女の仕草を興味深げに見つめていた。彼自身も気付いていなかったが、その眼差しには思わず優しさが滲んでいた。「これからは家で資料でも見ていけばいい」その言葉を聞いた途端、夕月の表情が見違えるように明るくなった。今にも凌一の足にすがりつきたい気持ちを必死に抑える。凌一の邸宅は、彼女にとって知識の宝庫そのものだった。車のドアが開き、夕月は瑛優の手を引いて急いで降りた。振り返ると、秘書が凌一を車から車椅子へと移すのが目に入った。動かない両足を見つめる夕月の瞳に、悲しみの色が浮かぶ。車椅子の凌一が彼女の前を通り過ぎながら、冷たく
しかし夕月の前に来ると、急に自制心が働いたように下唇を噛み、桜色の頬を上気させながら、無邪気な笑顔を見せた。「星来くん、久しぶり!抱っこしてもいい?」瑛優が両手を広げると、星来は少し緊張した様子で袖口をぎゅっと握りしめる。「うん!」小さく頷く星来。瑛優が星来を抱きしめると、次の瞬間、彼の足は地面から離れていた。「星来くん、前より重くなったね!ちゃんとご飯食べてるんだ!」瑛優は星来を抱き上げながら、何度か軽く揺らした。星来の顔が一気に真っ赤に染まる。その光景を背に、二列に並んだスタッフ全員が一斉に深々と頭を下げた。「橘様、藤宮様、お嬢様、こんばんは」「こんばんは」瑛優は星来を下ろすと、状況が飲み込めないまま、しかし骨身に染みついた礼儀正しさで、深々と頭を下げて挨拶を返した。夕月も同様に挨拶を交わしながら、心の中で感嘆していた。凌一の邸宅には、こんなにも大勢のメイドさんがいるのだろうか?まるでモデルの集まりのような美しさだ。「藤宮様、私どもはValenciaのVIPサービスチームでございます。こちらが首席デザイナーのイジーダです。本日は橘様のご依頼で、ドレスのお仕立てにまいりました」スタイリッシュなブロンドヘアのデザイナーが、メジャーを手に優雅な笑みを浮かべる。「お久しぶりです、藤宮様。早速、採寸を始めさせていただきましょうか?」14歳の頃、凌一に連れられて桜都にやってきた日を思い出す。サイズの合わない古い服を着て、高層ビルを不安げに見上げていた自分。そう、あの時もValenciaのVIP専用フロアで、イジーダが採寸してくれたのだ。「ここのお洋服、高いんですよね?花橋大に行くのに、こんな高価な服が必要なんでしょうか?」当時の自分は凌一にそう尋ねた。飛び級クラスにこれほどの出費が必要なら、諦めようと思った。実家にそんな余裕はなかったから。凌一の答えは今でも耳に残っている。「君には品位ある生活を送ってほしい。大学は純粋な象牙の塔ではない。凝縮された小さな社会だ。最初は戸惑うかもしれないが、それも成長に必要な過程だ。十分な物質的支援は、君が後顧の憂いなく、胸を張って学業に専念するためのものだ」あれ以来、Valenciaのドレスには特別な思い入れがある。この上質な生地に身を包むと、かつて凌一
「サミットでは、君の輝きを見せてもらおう」凌一の瞳には深い想いが宿っていた。「先生、お支払いは?」夕月は軽い調子で尋ねる。イジーダが優雅に微笑んだ。「藤宮様、どうぞご自由にお選びください。橘様のご指示で、アジア太平洋地域の既製服をすべてお持ちしました。予算の制限はございません」夕月の胸が高鳴る。これは、日興研究センター入りへの布石なのかもしれない。サミットで成果を上げられるよう、凌一は自分を磨き上げようとしているのだ。また一つの試練を与えられたのだと確信した。「先生、素敵な贈り物をありがとうございます。必ず何倍もの価値でお返しします。私の実力をお見せしますから」無垢な笑顔が夕月の麗しい顔に花開いた。凌一が自分に投資してくれるなら、必ずや何倍もの価値で恩返しをしてみせる。瑛優と共にドレスを選び、試着室に入った夕月が姿を現すと——「わぁっ!」ソファに座っていた瑛優が目を輝かせた。キラキラと光るビジューを纏った母の姿を見るのは初めてだった。夕月が優雅に歩を進めると、スカートが星屑のように揺らめく。「ママ、お姫様みたい!」瑛優は両手の親指を立てて見せた。「こちらへ」凌一の声に、夕月は彼の前にそっと膝をつく。「いかがでしょう?」スカートが波紋のように広がり、まるで凌一に最敬礼を捧げるかのような佇まい。凌一はアシスタントが捧げ持つ宝石箱から真珠のネックレスを取り出した。すっと手を伸ばし、夕月の首に直接留め具を掛ける。涼やかな指先が後頸の滑らかな肌に触れ、夕月は思わず息を呑んだ。かすかな接触に、胸の奥が微かに揺らぐ。見上げた瞳には、叙勲を受ける女将のような凛とした決意が宿っていた。瑛優はスマートウォッチでその瞬間を収めた。画面には桐嶋涼からのメッセージが届いていた。最近カピバラにハマっている瑛優のために、ぬいぐるみの写真を送ってきたのだ。瑛優は今撮った写真を即座に涼に送信する。「今日のママ、天使みたい!」法律事務所に戻った涼は、夕月の写真を見て思わず微笑んだ。まるで蓮の花が水面から顔を出したかのような、そんな自然な美しさだ。執務室に腰を下ろし、じっくりと写真を堪能しようとした矢先――視線が写真の端に映り込んだズボンの裾に釘付けになる。誰のズボンだ!?今すぐ切り取って
「落ち着け!」幸雄は制止しようとしたが、既に遅かった。「父さん、はっきり言っておくけど、俺は保守的な男だ。夕月がまた他の男と結ばれるなら、俺は間男になる」幸雄は震える指でキーボードを打った。「愛されない者に、横恋慕の資格があるのか?」涼の返信が途絶える。「息子よ、お前は確かに道徳も品性も怪しいが、横恋慕は思うほど簡単ではないぞ」幸雄は諭すように送信した。涼は完全に凍りついた。十年もの間、暗がりで見守り続けても叶わなかった想い。今更、可能性などあるのだろうか。ソファに力なく横たわり、凌一に眩しい笑顔を向ける夕月の写真を見つめる。「二人の幸せを祈ろう……いや、違う!諦められない!俺が加わって何が悪い?」目を腕で覆い、暗闇の中で苦悶する。奥歯を噛みしめ、独り言を呟く。「凌一の知能指数は200かもしれないが、俺には200分の体力がある!」高尚な魂も素晴らしいが、若く逞しい肉体だって、想像以上の悦びを与えられるはずだ。考えを整理すると、涼は意を決してソファから身を起こした。瑛優にメッセージを送る。「真珠のネックレスも、ママの美しさの前では光を失うね」「瑛優ちゃん、着替えてくるわね」メッセージを読んでいた瑛優の耳に、夕月の声が響く。「ママ!涼おじさんが、ママ綺麗すぎて真珠も霞んじゃうって!」夕月の頬が一気に紅潮する。「桐嶋さんが?どうして知ってるの……」瑛優は母親に、涼とのLINEのやり取りを見せた。「ママの美しい姿を記録したかったの!こんなに素敵で優秀なママがいるって、みんなに知ってもらいたくて!」娘の無邪気な賛辞に、素顔の頬が桜色に染まる。夕月は膝をついて、顎に手を当てながら、慎重に言葉を選んだ。「桐嶋さんに写真を送ってくれた気持ちは嬉しいわ。でも、ママはね……大人の男性の携帯の中で、鑑賞される存在になりたくないの」瑛優は母の言葉の意味を完全には理解できなかったものの、素直に頷いた。「分かった!今の写真、取り消すね。これからは、どのおじさんにもママの写真は送らないよ!」そう言うと、送信してから2分も経っていない写真を即座に取り消した。突然の取り消しに、桐嶋は目を見開いて画面を見つめ、胸に疑問符が渦巻いた。すぐに瑛優からメッセージが届く。「ごめんなさい、涼おじさ
「瑛優」リビングで凌一が静かに呼びかけた。近寄ってきた瑛優に、凌一は尋ねる。「涼おじさんのこと、好き?」先ほどの母娘の会話が耳に残っていた。「うん、大好き!」瑛優は屈託なく答えた。「涼おじさんはすっごくいい人!ママが桐嶋家で授業してる時、私が寝てると、お耳元で天使様が『涼おじさんは素敵な人』って囁いてくれるの!」天使?その一言で、凌一は涼の策略を見抜いた。ふん、狐が自分のバラを咥えて逃げようとしているわけか。「次は寝たふりをして、天使様が話しかけてくるか試してみるといい。声が聞こえたら目を開けろ。そうすれば、天使様に会えるはずだ」瑛優は凌一の提案に大きく頷いた。いつも耳元で囁いてくる天使様の姿を、この目で見てみたい!ドアが開き、夕月が手で扇ぎながら顔を冷やしつつ出てきた。最終的に二着のドレスを選び、現在のサイズに合わせて調整してもらうことになった。瑛優にも可愛いドレスを一着、幼稚園での勇気ある行動への褒美として選んでやった。一週間後——ドレス姿の夕月が車に乗り込んだ時、桐嶋涼から送られてきたリンクに目を通す。開いた画面には桜都大学の掲示板が表示され、学生たちの白熱した議論が繰り広げられていた。ストリートダンス部の部長・平田安人が寮で倒立回転しながら排泄行為に及んだという。部屋のドアは閉まっていたものの、悪臭が漏れ出していたらしい。事情を知らない学生たちは、実験室から違法に持ち出された薬品かと疑ったという。過去に似たような事例があったためだ。寮母に「1206号室から異臭が漂い、複数の嘔吐する声が聞こえる」と報告が入った。ドアを開けた寮母の目に飛び込んできたのは、均一に汚物を浴びた数学科の学生たちと、下半身を露わにした安人の姿だった。寮母は昼食を即座に吐き出してしまったという。「現場の動画も送られてきたけど、見せるのは遠慮しておくよ」と涼。「文字を読むだけでスマホを消毒したくなる」夕月は安人の動画には一切興味を示さなかった。するとまた涼から、新たな写真が届く。夕月は胸をドキドキさせながら画面を見つめた。まさか、また過激な写真ではないだろうか。意を決して目を凝らす。違った!安堵のため息が漏れる。どこかで密かに期待していた自分に気付き、少し恥ずかしくな
冬真の瞳が見開かれた。涼の言葉の意味を、まさか……思わず写真で確認しそうになる衝動を必死に抑え込む。涼のあそこの色が本当にピンクなのかどうか……怒りに震える冬真の視線の先で、涼は冷ややかな目つきで彼の胸元を見つめていた。冬真の顔が真っ黒に染まる。涼は勝ち誇ったような笑みを浮かべている。まるで何かの勝負に勝利したかのように。冬真の喉が詰まりそうになる。こんな馬鹿げた争いで負けるわけにはいかない。「ふん」鼻を鳴らして態勢を立て直す。「メラニン色素の沈着は普通だ。布との摩擦で色が濃くなるのは当然のことだろう。お前みたいに薄いほうが異常なんだ!」自分の言葉の意味に気付いた瞬間、冬真の頭の血管が爆発しそうになった。涼の罠にまんまとはまってしまった。誘導されるままに、仕掛けられた罠に足を踏み入れていた。冬真は顎を上げ、スマートフォンを涼に投げつけた。しかし涼は受け取らない。端末は床に落ち、数メートル先まで滑っていった。ふん、怖気づいたか。冬真の瞳に冷たい光が宿る。先日のテクノロジーサミットで一発食らわせた時のことを思い出す。涼は血を吐くほどの打撃を受けた。この男は自分の前では無力な雑魚同然だ。「なるほどね」涼は涼しげに微笑んだ。「俺は七年前からスキンケアを欠かさないんだ。事実、この色の方が夕月の心を揺さぶれるってことさ」冬真の怒りは限界に達していた。「どんなに取り繕っても、所詮は見かけだけだ!私が彼女に与えた悦びには及びもしない!」鼻から荒い息を吐き出す。自分が今、怒り狂った野獣のように醜い形相をしているのは分かっていた。橘グループの後継者として常に冷静さを保つべきなのに。なぜこんなにも涼に感情を掻き立てられるのか。制御が利かない。これは男としての独占欲なのか?いや、違う。ただ涼のこの傲慢な挑発が許せない。男としての誇りを踏みにじられた——これは夕月とは無関係だ!涼の整った顔立ちが冷たさを帯び、氷の結晶のような瞳が冬真を射抜く。「彼女が俺では物足りないなら、他の男を探せばいい。でも覚えておけ。他の男は一時の宿、俺こそが彼女の居場所になる」冬真の価値観が根底から揺さぶられ、瞳が激しく震えた。両手が強く握り締められ、手の甲から腕にかけて青筋が浮き上がる。涼には分かっていた。この男が今
長身で背筋の伸びた涼は、あまりにも端正な容姿のせいか、店内の視線を一身に集めていた。涼がトイレの方へ向かうのを見た冬真も、席を立った。「冬真さん!」女性の呼び声も無視し、彼は冷たく言い放った。「お帰りください。一人にしてもらいたい」世間知らずの令嬢が、こんな扱いを受けたことなどあるはずもない。顔から血の気が引いた。「ふん!」お見合い相手はブランドのバッグを掴むと、怒りに任せて店を出た。レストランを出るなり、携帯を取り出して電話をかける。「はい、楼座様。私の任務は……失敗したようです」*夕月は冬真がトイレに向かうのを見て、二人の男が同時にトイレへ行くのは明らかに不自然だと感じ、すぐに涼にメッセージを送った。個室の中で、涼は夕月からのメッセージを確認する。スマートフォンの光が瞳に映り込む中、彼は口元を緩めて小さく笑った。夕月が自分を気にかけてくれている。なんだか、嬉しいな。涼は個室を出て、洗面台にスマートフォンを置いた。手を洗い、ペーパータオルで手を拭きながら出口へ向かう。険しい表情の冬真が奥の個室から出てきて、洗面台に置き忘れられたスマートフォンに目を留めた。涼のスマートフォンか。手に取ると、画面にLINEの通知が表示されていた。相手の名前は「月ちゃん」。「橘のやつもトイレに来た」その表示名を見た瞬間、冬真の胸に鈍い衝撃が走る。メッセージの内容を確認した途端、その表情は今にも豪雨を落とさんばかりの暗雲のように険しくなった。奥歯を強く噛みしめ、顎の筋肉が微かに震える。スマートフォンにロックが掛かっていないことに気付いた。冬真は即座に画面をロック解除した。息を詰まらせながら、親指が画面上を這うように動く。まるで闇に潜む怨霊のように、夕月と涼のやり取りを覗き込んでいった。突然、冬真の指が止まった。涼の自撮り写真が目に飛び込んでくる。涼が夕月に送っているのは、一体何なんだ……!?冬真の目が憤怒に燃えた。画面に触れる指の関節が、力が入り過ぎて真っ白になっている。手の甲に浮き出た青筋が、今にも皮膚を突き破りそうだ。これは……見るに堪えない!!破廉恥な男め!荒い息を吐きながら、獅子のように激昂した冬真が顔を上げると、鏡に涼が映っていた。西洋ズボンのポケット
降り注ぐ淡い陽光の中、冬真の頭の中で無数の蝿が飛び交うような騒がしさが渦巻いていた。*昼時、夕月は涼と共にレストランを訪れていた。涼がメニューに目を落としている間、夕月は何気なく視線を巡らせ、そこで凍りついた。少し離れたテーブルに冬真が若い女性と座っているのが目に入った。今日は厄日だったのか。あの男が視界に入っただけで胸が締め付けられる。「夕月さん、何か食べたいものは?」涼の澄んだ声に、夕月は慌てて視線を戻した。「もう他の男性に目移りですか?」涼が片眉を上げて茶目っ気たっぷりに言った。夕月は思わずナプキンで顔を隠したくなった。「あの人が見えちゃって……」頬を膨らませながら、涼に向かって舌を出す仕草を見せた。涼の目の前で、彼女の表情が途端に生き生きとして、たまらなく愛らしい。「僕の店選びが悪かったね」涼が口元を緩めて言った。「席を替わろうか?」涼の座る席は、ちょうど衝立で隠れていて、冬真からは見えない位置にあった。夕月は首を振った。「もう気付かれてると思う」冬真は席に着くなり、窓際に座る夕月の姿を目にした。スーツ姿の夕月など見たことがなかった。子供の世話に明け暮れていた元妻が、キャリアウーマンのように凛とした雰囲気を纏っているとは。一瞬、目を疑うほどだった。彼の視線に気付いたのか、夕月は顔を逸らした。もしや、自分を観察していたのか。この店は橘グループのビルから近い。夕月は自分を待ち伏せていたというのか。昼下がりの光が夕月の周りを優しく包み込み、束ねた黒髪の端が金色に輝いてい「冬真さん?聞いてらっしゃいます?」向かいに座る女性が彼の様子に気付き、その視線の先を追おうとした。その時、一本のフォークが夕月に差し出された。長く逞しい指をした男の手だった。「味見してみて」涼が切り分けたステーキを夕月の唇元まで運ぶ。夕月は頬を染めた。これは冬真に見せつけているのだろうか。口を開けて、差し出されたステーキを受け取る。瑛優以外の人に食べ物を口移しされるのは、なんだか変な感じ。夕月の頬が薔薇色に染まる。まるで本当に恋をしているみたいだった。涼が分けてくれたステーキは、確かに美味しかった。冬真は突然立ち上がった。向かいの女性が驚いて身を引く。男から放たれる威圧的
楓は期待に満ちた目で彼を見つめた。しかし、男の表情は冷ややかなままだった。「お前は悠斗の人生を台無しにした。刑務所に入らないで済むと思っているのか?甘すぎる」その声に、楓は全身の血が凍るのを感じた。「やだ……刑務所なんて嫌!汐だって、私が刑務所に入るなんて望んでないはず……昔は警察に捕まっても、汐がすぐに助けに来てくれたのに……」楓は涙を流しながら、必死に首を振った。男は彼女の言葉を冷たく遮った。「それは汐の話だ。私は違う。私は悠斗の父親なんだ」冬真は、もはや楓を非難する言葉すら口にしなかった。バイクに悠斗を乗せた彼女の無謀な行動も、あれほど止めていたのに。楓の考えは見え透いていた。悠斗が自分に懐いていれば、どんな面倒を起こしても冬真が庇ってくれると。そして事実、汐との絆を考えて、冬真は何度も彼女を見逃してきた。だが今回は違う。我が子がICUに運ばれるところまで追い詰められた。もう、彼女の行動を許容できる限界を超えていた。楓は彼から放たれる威圧的な雰囲気に萎縮し、赤く腫れた瞼を震わせた。「今日、私が来たのは……汐との約束があったからだ。お前の面倒を見てやってくれと」冬真は差し入れの入った袋をテーブルに置いた。留置場でゆっくり正月を過ごすといい」立ち上がって背を向けた冬真に、楓は必死な声で叫んだ。「私の部屋の化粧台、二段目の引き出しに古い携帯があるの。汐が……最期に残した伝言が入ってるわ」その言葉に、冬真の足が止まった。「本当は教えるつもりじゃなかったの。でも冬真、汐の死の真犯人はまだ罰を受けていないのよ!」冬真がゆっくりと振り返る。その鋭い眼差しは、まるで楓の心の奥底まで見通すかのようだった。「その犯人というのは……」楓は冬真の鋭い視線に震えながら、「私の家に行って、汐の最期の声を聞いて。冬真、また会いに来てね……」もう後がない。楓は、ここまで追い込まれた自分の境遇を肌で感じながら、全てを賭けた一手を打つことを決意した。留置場を出た冬真の携帯が鳴り響く。母親からの着信に、思わず眉間にしわが寄った。無視しようとしたが、執拗に鳴り続ける着信音に、結局応答せざるを得なかった。「はい、母上」「冬真、お見合いの約束を入れたわよ。正午にムードレストランで。お相手は……」冬
「私のため?」盛樹の体が震えた。雅子は髪を弄びながら、シートに片手をついた。深く開いたスーツの襟元には何も着ていない。少し前かがみになると、盛樹の視線は自然とその谷間へと吸い寄せられ、思わず喉が鳴った。目の前で艶やかに揺れる魅惑的な曲線に、盛樹は我を忘れ、ただ真紅の唇の開閉を追いかけるばかり。「藤宮テックを買収したいの」「な、何だって?」盛樹は再び震えた。しなやかな指が彼の太ももに触れる。「盛樹さん、私の願いを叶えて?」盛樹は鼻腔が熱くなり、全身が強張る。もはや自分の言葉すら制御できない。「い、いいとも……」雅子が片方の唇を上げて笑う。対面に座っていた北斗が耐えきれず口を開いた。「父さん、確か買収案件は全て夕月に一任したはずでは?」「夕月?」雅子が首を傾げた。盛樹は北斗を睨みつけながら答えた。「私の娘だ。雅子さん、彼女に関するニュースを見たことがあるだろう?」「海外にいたものでね。国内の話題にはうとくて」雅子は首を振った。盛樹は誇らしげに語り出す。「うちの娘はALI数学コンペで金賞を取ったんだ!それだけじゃない。あの有名なレーサー、Lunaとしても活躍している。この前の国際レース・エキシビションにも出場したんだよ。七年間も主婦をしていたのに、社会に出るや否や八面六臂の活躍ぶり。すごいと思わないかい?」「主婦がコンペの金賞?何か裏があるのでは?」雅子は物思わしげに呟いた。「うちの娘は14歳で花橋大学の飛び級に入った天才なんだ!」盛樹は興奮気味に反論する。雅子は艶のある眼差しを向けながら、「でも、ALIコンペが主婦に金賞を与えるなんて……研究に打ち込む院生や博士たちに失礼じゃないかしら?それに、また主婦に戻るかもしれないのよ?」「そ、それは……」盛樹は言葉に詰まった。「七年も主婦をしていた人が、急にレース界に現れるなんて。プロのレーサーたちはどう思うでしょうね?」盛樹は雅子の言葉に次第に説得され始めていた。「でも夕月は買収案の責任者として、二つの有力な買い手を見つけてきた。ムーンワールドグループ傘下のフェニックス・テクノロジーと桐嶋氏の引力テクノロジーが競合していて、引力は4000億もの高値を提示してきたんだ」「雅子おばさん」北斗が割り込む。「うちの会社、いくらで買収するつもり?」雅
「#楼座雅子帰国#」というトレンドワードが瞬く間にネットを席巻した。「女帝、お帰りなさい!」「楼座雅子様の帰国で、桜都の名門家に激震が走るぞ」「楼座雅子って誰?すごい人なの?」「知らないとか、さては2000年代生まれでしょ」年配のネットユーザーたちが、次々と解説を始めた:楼座家は桜国を代表する財閥の一つ。古くから金融界に君臨してきた名門で、雅子は楼座家が迎えた養女。今年で47歳。25年前、彼女と楼座家三兄弟との愛憎劇は、長編小説が書けるほどの話題を呼んだ。最終的に、雅子は心を閉ざし、楼座財閥の経営に専念。三人の兄は、一人が不具に、一人が精神を病み、もう一人は出家した。25年前、雅子は最も注目された女性実業家で、メディアは彼女の出現を「新時代を切り開く女性の幕開け」と称えた。子供は一人もおらず、結婚歴もない。だが、世界中から才能ある少女たちを養女として迎え入れ、育て上げた。その養女たちは今や、各界で活躍する著名人となっている。*桜都国際空港。VIP専用ゲートの前で、盛樹は真っ赤なバラの花束を抱え、首を伸ばして待ちわびていた。その横で北斗は両手をポケットに入れ、退屈そうにガムを膨らませては潰す。「パチッ」という音が何度も鳴り響く。「うるさい!」盛樹が苛立ちを爆発させた。「私が雅子を迎えに来てるのに、お前は何しに来たんだ」北斗は艶のある瞳に笑みを浮かべる。「父さんの忘れられない初恋の人が、もしかしたら僕の母親かもしれないじゃない」盛樹が何か言おうとした瞬間、黒いスーツワンピースを纏った女性が姿を現した。漆黒の髪が滝のように流れ、真紅の唇が艶めく。サングラスを外すと、まるで花のように美しい横顔が露わになる。時の流れが彼女だけを特別扱いしたかのように、年齢を感じさせない艶やかな表情。丸みを帯びた顔立ちに、凛とした眉目は妖艶な大人の魅力を漂わせていた。10センチの厚底ヒールを履いた足取りは、まるでランウェイを歩くモデルのよう。「雅子!」盛樹の目が釘付けになる。楼座雅子の後ろには、黒い制服に身を包んだ六人の精悍な男たちが整然と並び、30インチの黒いスーツケースを手に、まるでトップモデルのような佇まいで従っていた。北斗は盛樹と共に歩み寄る。「雅子おばさん」北斗は雅子の顔をじっ
「……もう一つは桐嶋さんが率いる引力テクノロジーからの提案です。買収額400億、全従業員と部門の維持、そして新オーナーの下での独立経営を保証する内容となっています」盛樹は真っ先に引力テクノロジーの企画書を手に取り、数ページ目を捲って呟いた。「400億?なぜ桐嶋さんがこれほどの高額を……」涼は椅子に深く寄りかかり、どこか投げやりな態度で答えた。「美人の笑顔一つのためさ。夕月さんへのプレゼントってところかな」盛樹の疑わしげな視線が、夕月と涼の間を行き来する。「夕月さんは僕の彼女だからね」涼は続けた。「彼女が喜ぶなら、それだけで価値があるさ」盛樹は驚愕の表情で夕月を見つめた。「お前と桐嶋さんが……」実は盛樹は、娘のために離婚歴のある実業家を何人か物色していた。早く夕月を片付けて、藤宮家の利益になる縁戚関係を作りたかったのだ。まさか、あまり期待していなかった長女が、こんな大きな驚きを用意していたとは。「やるじゃないか、夕月」盛樹は満足気に顎を撫でながら、口角を上げた。他の役員たちも内心で思いを巡らせていた。まさか桐嶋が長年独身を通してきたのは、橘冬真の妻を想っていたからとは。盛樹は引力テクノロジーの企画書を手に、零れそうな笑みを必死に押さえ込んだ。「400億か。さすが桐嶋さんだ」「夕月さんのことは随分前から好きでした」涼は率直に言った。「今、やっと付き合えることになった。だから、彼女が喜ぶ数字を出させてもらいました」声のトーンを落として続ける。「藤宮社長、断る理由はないでしょう?」グラスを指先で回しながら、一滴の水も零さない。「断るなんて、少し物分かりが悪すぎますよね」涼は軽く笑ったが、漆黒の瞳に鋭い光が宿る。「冗談ですよ。義父上を脅すわけないじゃないですか」その傲慢な眼差しに、盛樹は凍りついた。「義父上」という言葉に、体が震える。まさか、娘を遊び半分で口説いているわけではない?興奮で手を擦り合わせながら、何か言おうとした瞬間、テーブルの上の携帯が震えた。最初は無視するつもりだったが、画面を見た途端、また体が震えた。慌てて電話に出る盛樹。声が震えている。「も、もしもし……」女性の声が響いた。「盛樹さん、帰国したわ」盛樹は立ち上がった。「会議は一時中断!空港まで行っ
でも、涼が自分を見つめる時、その夜空の星のように深い瞳の中には、ただ夕月だけが映っていた。エレベーターのドアが開くと、夕月は颯爽と外に出た。会議室に向かいながら、後ろを歩くフェニックス・テクノロジーのメンバーに指示を飛ばす。「三分以内に全役員を会議室に集めて」その言葉を受けて、背後の精鋭たちが瞬時に散開した。彼らは次々と役員たちを半ば強引に会議室へと連れてきた。「何者だ!」「警察を呼びますよ!」役員たちは顔を真っ赤にして抵抗する。だが会議室に入れられた途端、彼らは椅子の背もたれに寄りかかるように座る夕月の姿を目にした。細身の体つきに柔和な表情。しかし主席に座る彼女から放たれるオーラは、その場にいる全員を圧倒していた。役員たちは皆、夕月のことを知っていた。中には夕月の叔父にあたる者も何人かいる。「夕月、お前がこんなことを?」「夕月、やり方が乱暴すぎるぞ」夕月は腕時計に目をやり、「定刻に遅れました。今年のボーナスは30%カットです」と告げた。「何の権限があってボーナスをカットするんだ?」藤宮の姓を持つ役員が不満げに言う。その時、藤宮盛樹が怒りに任せて駆け込んできた。「反乱を起こすつもりか」夕月を見るなり詰め寄る。「お父さん」夕月は穏やかな声で返した。「私は、あなたが任命した副社長であり、買収プロジェクトの責任者です。業務にご協力をお願いします」盛樹は嘲るように冷笑を浮かべ、まるで三つ子を見るかのような目で夕月を見下ろした。「新任の意気込みってやつか。さあ、どんな手を打つのか、見物だな」そう言いながら、入室時から気になっていた涼の方へと歩み寄る。キャビネットから葉巻を取り出すと、にやつきながら涼に差し出した。「桐嶋さん、お忙しい中、わざわざ娘の付き添いとは」涼は翡翠を彫り上げたような長い指で葉巻を受け取った。低く声を落として言った。「藤宮社長、察しが悪いですね」盛樹は即座に会意し、ライターを取り出して葉巻に火を点けた。立ち昇る青い煙に夕月が眉を寄せるのを見て、涼は直ちに葉巻を消し、ゴミ箱に投げ入れた。上着を脱ぎ、夕月の隣に座り直す。夕月は思わず舌先を噛んだ。妊娠中、冬真の吸う煙を散々吸わされた日々が蘇る。受動喫煙の害を伝えた時、大奥様に「田舎者の分際で、よくそん
朝焼けがほのかに空を染め始めた頃、専用のマイバッハSクラスが、黒豹のように藤宮テックの本社ビル前に滑り込むように停車した。ドアが開き、長い脚が最初に姿を現す。艶やかな革靴が大理石の床を踏みしめた。涼が車から降り立つ。深みのあるグレーのオーダーメイドスーツが、鍛え上げられた体躯にぴったりと馴染んでいた。彼は振り返り、今まさに降りようとする夕月に手を差し出した。「彼女さん」すっかり役になりきった様子で、夕月は微笑みながら、その大きな手のひらに自分の手を載せた。オフィスビルのロビーに入ると、夕月と涼を先頭に、フェニックス・テクノロジーの買収プロジェクトチーム——会計士、財務アナリスト、税理士たちが堂々たる行列を成していた。先頭を歩く二人の姿に、フェニックス・テクノロジーのプロジェクトリーダーは思わず目を留めた。夕月の黒いスーツは肩のラインが美しく、細い腰が際立つ上品な仕立て。そして気づいたのは、夕月と涼のスーツが同じブランドだということ。二人の歩調が自然と揃い、醸し出す雰囲気が不思議なほど調和していた。その光景は、まるで絵になるようだった。夕月は迷うことなくエレベーターに向かう。以前二度訪れた経験から、社内の配置は把握していた。「ちょっと!」受付の女性が、ヒールを鳴らして駆け寄ってきた。予約なしでエレベーターには乗れませんよ!」夕月は振り返り、「新任副社長の藤宮夕月です」と告げた。「副社長だなんて、そう言えばなれるんですか?そんな通達、受けてませんけど!」夕月は相手を見向きもしなかった。この異常な対応は、明らかに誰かの指示を受けてのことだった。エレベーターのドアが開く。受付は叫び声を上げ、ドアを押さえようとすると同時に夕月を押しのけようとした。だが夕月に触れる前に、フェニックス・テクノロジーのメンバーが動いた。鉄壁のように夕月の前に立ちはだかり、受付との間を遮った。全員が退役軍人という経歴を持つ専門家たちは、一糸乱れぬ威厳に満ちていた。彼らは何も言わず、ただそこに立っているだけで、小柄な受付の女性の背筋が凍るほどの存在感を放っていた。エレベーターに乗り込みながら、夕月は受付に告げた。「給与計算を済ませて、明日から来なくていいわ」「私を解雇するって?何の権限があるんですか!」受付