LOGIN規制線の外で発された夕月の声は、決して大きくはなかった。だがその一言は、周囲の喧騒を一瞬にして静まり返らせるだけの重みを持っていた。警官は一瞬呆気にとられたが、現場の指揮官が頷くのを見て、静かに規制線を持ち上げた。夕月は迷うことなくその下をくぐり、一歩、また一歩と楓に向かって歩み寄り始める。その後ろ姿を、涼は追いかけなかった。ただ規制線の外に立ち、夜風に揺れる彼女の細い、けれどもしなやかで強い背中をじっと見守っている。頬を打つ冷たい風に、夕月の髪が乱れた。顔色は蒼白で、赤く縁取られた瞳とは対照的に、その唇は鋭い一文字に結ばれている。地べたに無様に座り込んでいる楓。夕月はその前まで来ると、泥を這うような妹の姿を氷のような眼差しで見下ろした。顔を上げた楓と目が合う。その瞬間、楓の瞳から噴き出したのは、剥き出しの怒りと怨念だった。地面に突いた両手を、楓はギリリと握り締める。「……夕月。私の無様な姿を笑いに来たんでしょ!?」絞り出すような冷笑。一番見下している夕月に、これ以上ないほど惨めなところを見られた。その屈辱に、楓のプライドはズタズタに引き裂かれていた。どうせこいつも、手柄目的で駆けつけたに決まっている。私が悠斗を助け出すところを横取りしようとして――「悠斗はどこ?」夕月の問いは、ただただ低く、冷たかった。「そんなの、知るわけないでしょ!」楓は吐き捨てるように答えた。その顔には、隠しようのない焦燥が滲んでいる。「自分の甥を攫っておいて、自分で助けるふりをして……あんた、正気なの!?それが人間のすること!?」夕月の声が、一気に激昂を帯びて跳ね上がった。「攫ってなんてない!拉致なんてしてないわよ!」楓は半狂乱になって叫び、立ち上がろうともがいた。だが、再び腹部に走った激痛に、思わず顔をしかめて押し黙る。「……嵌められたの。あの運転手が、私を陥れるために嘘をついてるだけよ!」警察も、そして夕月も。これだけの人間を前に、自分の罪を認めるわけにはいかなかった。「嘘?よくそんなことが言えるわね」夕月の口から、乾いた冷笑が漏れた。「あんたの汚いライブ配信、全部見てたわよ。拉致犯の言葉も録音も、一千万を超える人間が聞いた。拉致を企てたのも、金を払ったのもあんた自身じゃない。……証拠は揃っているのよ。往生際が悪すぎるわ」
生配信のコメント欄は、この瞬間完全に大炎上していた。楓のアカウントのリアルタイム視聴者数は、すでに十万人を大きく突破している。彼女は「命懸けの子供救出劇」を配信することで一気にトップインフルエンサーへ上り詰める腹積もりだったのだろう。だが今やその目論見は外れ、ネット全土が視聴する公開処刑の場へと成り下がっていた。【マジかよ!これ全部自作自演!?】【何がバイク乗りの女神だよ、ただの拉致の主犯じゃねえか!!頭おかしいだろ!】【藤宮楓、お前人間の心ないのか!橘家の坊ちゃんまだ五歳だぞ!よくそんなことできるな!】【子供をダシにしてセレブと結婚しようとする女に、良心なんてあるわけない。橘の社長は実の姉の元旦那なんだぞ!よくそんな男のベッドに潜り込めるよな!】【通報完了!画面録画もした!こんな奴、母親になる資格なし!】【早く垢BANしろ!二度とネットに顔を出すな!】コメントは濁流のように押し寄せ、文字を追うことすら不可能な速さでスクロールしていく。だが、その一つ一つが剥き出しの怒りと軽蔑に満ちていた。配信の管理人が慌ててコメント欄を閉鎖しようとしたものの、楓のアカウント権限はすでに運営プラットフォームによって緊急凍結されていた。先ほどまで彼女をもてはやしていた大勢の視聴者たちは、今やそっくりそのまま通報者へと変わっていた。*一方その頃。夕月は涼が運転する車の助手席に座り、問題の国道へと急いでいた。彼女もスマートフォンで楓の配信を見ていた。最初から、楓は狂っているとしか思えなかった。しかし、楓が雇った拉致犯に寝返られ、あっけなく事実を暴露される姿を見た瞬間、夕月の全身にぞっとするような絶望感が広がった。いっそ、あんな自作自演の茶番でもいいから、大きなお腹を抱えて子供を救い出してくれていた方が、まだマシだった。計画が破綻した今となっては、悠斗がどこにいるのか、誰も分からなくなってしまったのだから。涼が車を路肩に急停車させる。夕月は弾かれたようにドアを押し開けた。強烈な吐き気が胃の奥からこみ上げ、喉元までせり上がってくる。強く握りしめた指先は血の気を失って真っ白になり、無意識のうちに噛み締めていた唇からは、じわりと鉄錆のような血の味が滲んでいた。国道を埋め尽くすパトランプの赤と青の光が、夜空の半分を毒々し
男は腹の底から怒鳴り声を上げた。「お前が俺を雇ったんだろうが!遊園地で橘家の坊ちゃんを攫って、このバンに閉じ込めろってな!」怒号と共に飛び出したのは、あまりにも決定的な暴露だった。「自分で命懸けの救出劇を演じて、フォロワーを爆増させるって言ったのはどこの誰だ!橘家に恩を売って、その腹のガキごと橘家に嫁ぎ込むのが狙いだったくせに!」一千万人の前で剥き出しの真実を叩きつけられ、楓はカッとなって全身の血が逆流するのを感じた。あれだけの大金を積んだのに、どうして裏切るのよ……!「デタラメ言わないで!」楓は金切り声を上げて男の言葉を遮ると、弾かれたようにレンズへと振り向いた。「切って!早くカメラを止めて!こいつは頭がおかしいのよ!拉致犯の言うことなんか、一言だって信じちゃダメ!」しかし、同行していたカメラマンは事の重大さに呆然と立ち尽くしたまま、録画を停止する気配は微塵もなかった。男は楓に息をつく隙も与えなかった。作業着の内ポケットから黒いICレコーダーを引き抜き、迷いなく再生ボタンを押し込む。小さなスピーカーから、クリアな音声が夜の国道の静寂を切り裂いた。『……あんたは子供をバンに隠しておいて。私が人を連れて見つけに行ったら、適当に抵抗するふりをして子供を渡すのよ。安心して、金なら1千万円用意してあるわ。前金で四百万、終わったら残りの六百万を払うから……』それは紛れもなく、楓自身の声だった。得意げで、ひどく軽薄で、人を見下すような傲慢な響き。『……悠斗を助け出せば、あの橘家が私に多大な借りを作ることになる。私のお腹には橘冬真の子供だっているんだから!無事に橘家に入り込めば、桜都で私に逆らう権力者なんていなくなるわ。仮にあんたがムショに入っても、私が絶対に出してあげるから!』その先も、生々しい自作自演のシナリオが冷酷なまでに垂れ流されていく。楓の顔からは完全に血の気が失せ、紙のように真っ白になっていた。彼女は狂ったように男へ飛びかかり、レコーダーをもぎ取ろうと手を伸ばした。なりふり構わぬ激しい突進に合わせて、大きく膨らんだ妊婦の腹が異常なほど揺さぶられる。それでも男は避ける素振りも見せず、あっさりと機材を奪い取らせた。それどころか、喉の奥からくくっと押し殺したような笑い声さえ漏らしたのだ。男の歪んだ笑み――そこには、あか
茂みから姿を現したその人物を見た瞬間、楓の中で張り詰めていた緊張が一気に解けた。――なんだ、金で雇った運転手じゃないか。濃暗色の作業着に、目深に被ったキャップ。まさに事前の打ち合わせ通りの格好だった。楓は心の中で毒づく。何やってんだよ、あのバカ。運転席で大人しく追い詰められる芝居を打つ段取りだったろ?勝手に茂みなんかウロチョロしやがって。無駄に焦らせるんじゃないよ。だが、そんな些細なミスはどうでもいい。重要なのは、今この瞬間もカメラがしっかり回っているということだ。楓は瞬時に表情を作り直す。焦りの色は消え去り、怒りと正義感に燃える凛々しい「ヒーロー」の顔へと完璧に切り替わった。彼女はカメラマンの方を向いて鋭い視線を送ると、勢いよく振り返り、男に向かって大股で歩み寄っていく。「お前だな!」夜空をつんざくような大声。抑えきれない怒りと、作り物の悲痛さを絶妙にブレンドした名演技だった。「橘家の坊ちゃんを誘拐したのはテメェだな!人の心ってモンがねえのか?まだ五歳の子供に、よくもあんなひどい真似を!」その声に合わせ、取り巻きの男たちが一斉に近づき、男の退路を塞ぐようにぐるりと包囲する。カメラマンは肩に乗せた機材を構え、楓の勇敢で凛々しい姿と、正義に満ちた表情を余すところなくフレームに収めていた。今頃、生配信のコメント欄は尋常ではない勢いで滝のように流れているはずだ。画面の向こうのリスナーたちがどれほど自分を称え、熱狂しているか。それを想像するだけで、楓は笑いがこみ上げてくるのを止められなかった。この茶番劇は、彼女が何度も頭の中でシミュレーションを重ねてきた完璧なシナリオだ。まず、配信で「今夜、とんでもないことが起きる」と匂わせる。そして仲間を引き連れて誘拐犯の車を「勇敢に」追い詰め、何万人ものリスナーが見守る中で悠斗を救い出す。最後は、橘家の大切な御曹司を、冬真の腕に直接手渡してやるのだ。そうすれば、あの高慢な橘家だって、涙を流して自分に這いつくばるしかない。何より生配信という「証拠」を盾にすれば、ネットの世論を使って橘家を完全にコントロールできる。『橘冬真は命の恩人である藤宮楓と結婚すべきだ』『橘家は彼女の身の安全と未来に責任を持て』そんな声が、SNS全体から怒涛のように湧き起こるはずだ。さらに、身重でありなが
午前三時。郊外を貫く国道の虚無を、オレンジ色の街灯が等間隔に切り裂いている。 遠くから地鳴りのようなエンジン音が響いたかと思うと、十数台の大型バイクが放つヘッドライトの群れが、流れる炎のように夜の静寂を食い破った。先頭を走るのは、マットブラックのハーレー。車体には暗赤色のスプレーで『楓』の一文字が荒々しく描かれている。ヘルメットを被ったライダーの腹部は、よく見ればわずかに膨らみを帯びていた。半分だけジッパーを上げたレザージャケットの奥には、ゆったりとした黒いパーカーを着込んでいる。「楓兄貴、具合はどうすか?」並走する仲間の一人が、インカム越しに声をかけてきた。「馬鹿言ってんじゃねえよ。私の身体は鉄でできてんだ。ガキ孕んだくらいでピーピー騒ぐような、か弱い女と一緒にすんな!」風切り音に負けないほどの傲慢な響きに、インカムの向こうからどっと下品な笑い声が沸き起こる。「さすが楓兄貴、マジでハンパねえ!」「SNS史上最強の妊婦ライダー爆誕っすね!」 イヤホンから聞こえてくる持ち上げ文句に、楓はヘルメットの下で得意げに口角を吊り上げた。 最近、彼女はネット上で一気にバズっていた。大きなお腹を抱えて大型バイクを乗り回す女など、動画界隈を探しても彼女ただ一人だ。コメント欄には案の定、「非常識だ」「そのうち事故るぞ」といった批判的な声が殺到している。だが、アンチが騒げば騒ぐほど、炎上目的の野次馬が毎回の動画を欠かさずチェックしに来るのだ。これこそが『数字』の力。アクセス数さえ稼げるなら、見ず知らずの連中からどれだけ罵られようが呪われようが、痛くも痒くもない。 お腹が大きくなるにつれて、さらに注目度は跳ね上がるはずだ。 このままいけば数ヶ月後には、念願のミリオンインフルエンサーになれると確信している。だが、今夜こうして国道を爆走しているのには、単なるバズり目的とは違う、もう一つの明確な狙いがあった。並走するバイクの後部座席では、専属のカメラマンが彼女の勇姿をしっかりとレンズに収めている。今夜の動画のメインテーマは――『妊娠四ヶ月のヤンキー妊婦が、国道で橘家の御曹司を華麗に救出!』だ。「いいかテメェら、今日私の邪魔をする奴がいたら、誰だろうとぶっ殺す!」楓がインカム越しに吠えると、背後を追従する取り巻きたちが一
夕月の静謐な眼差しが、雲珠を、そして冬真の顔をゆっくりと通り過ぎていく。その視線が触れるたび、雲珠は耐えがたい屈辱に顔を歪め、冬真は身を切り裂かれるような自責の念に打ちのめされた。「警察署の前で私を拉致し、地下室に閉じ込め、首を絞め……身に覚えのない罪を認めろと迫る。それが、橘家流の『孫を捜す方法』なの?」雲珠の唇が激しく震えたが、言葉の一片さえ継ぐことができなかった。「橘家を破滅させる気かと言ったわね」夕月の声が、不意に一段と冷え切ったものに変わる。「……教えて。この家を壊しているのは、私?それとも、あなたたち自身なの?」 彼女は冬真を正面から射抜いた。その瞳は研ぎ澄まされた刃のようだ。「自分の胸に聞いてみなさい。なぜ悠斗が行方不明になったのか。幼稚園であの子がどんな屈辱を味わい、なぜたった一人で、見知らぬ外の世界へ放り出されたのかを」そこへ、瑛優が静かに口を開いた。「幼稚園の友達、みんな言ってたよ。悠斗くん、泣きながら橘おじさんを追いかけて、外へ走っていったって」雲珠の視線が、縋るように冬真へと向けられた。「……あなた、あんな小さな子を相手に、何を意固地になっていたの?」冬真が何かを言い返そうと唇を動かした瞬間、夕月の言葉が一本の矢となって、彼の胸を正確に貫いた。「冬真。……あの子を突き放したのは、あなた自身よ」冬真の身体から、すべての力が抜け落ちた。顔色は紙のように白く、風が吹けば今にも塵となって消えてしまいそうなほど、その存在は脆く、儚く崩れ去っていた。「そのまま大人しく連行されて、法の裁きを受けて。……手加減はしないわ。徹底的に告訴させてもらうから」夕月の鋭い眼差しの中に、かつての慈しみや温もりは欠片も残っていなかった。「……腕利きの弁護士が必要か?」耳元で、涼の低く余裕のある声が響いた。夕月が彼を振り返ると、不思議と強張っていた心が少しだけ解けていくのを感じた。「ええ。……お願いするわ」夕月は冷淡な一瞥を雲珠に投げ、突き放すように言った。「悠斗のことは、私が必ず見つけます。橘家の勝手な理屈で、これ以上あの子を救い出す時間を奪わないで」彼女は最後に一度だけ、冬真を見た。その瞳には、もはや激情も失望の色もなかった。ただ、鏡のように透き通った、完全な訣別の静寂。夕月はもう、彼に対して言葉を尽くすこ
星来は周囲を警戒するように見つめ、誰にも触れられまいと、ボディガードたちの間で身を縮めていた。舞台裏は人で溢れ、大きな小道具が所狭しと並べられている。派手なメイクを施し、色鮮やかな衣装を着た子供たちの間で、星来は車の往来に迷い込んだ子猫のように、周囲の環境に恐れおののいていた。「星来くん!」瑛優が星来を見つけ、張りのある声で呼びかけた。人混みの中から瑛優と夕月の姿を見つけた瞬間、星来の黒い瞳が輝きを帯びる。小さな足を踏み出し、二人に向かって駆け出した。瑛優も星来に向かって走り寄り、彼の目の前で飛び跳ねると、そのまま抱き上げて高く持ち上げた。宙に浮いた星来は、瑛優
京花は斎藤鳴の横に腰を下ろすや否や、彼の視線が夕月の方へ釘付けになっているのに気づいた。「何をそんなにじっと見てるの?」京花の声音が鋭く冷たくなる。鳴は思わずビクッと体を震わせ、慌てて姿勢を正した。「い、いや、別に何も!」だが京花は執拗に追及した。「あなた、ずっと夕月のことを見てたでしょう!なぜ彼女なの!?」京花の瞳に怒りの炎が宿る。斎藤鳴は焦って宥めるように、「いや、星来くんが彼女の膝の上に座ってるから、ちょっと驚いただけさ。あの子があんなに夕月さんに懐くなんて、意外でね」そして鳴は意地悪そうな口調で続けた。「ねぇ、夕月さんがこれほど星来くんを可愛がってるってことは、もし
望月が舞台中央で深々とお辞儀をすると、会場は拍手喝采に包まれた。京花を知る保護者たちが振り返り、次々と賛辞を送る。「望月ちゃんのお母様、素晴らしい教育をなさっているわ」「望月ちゃんのダンス、とても素敵でしたね。彼女がいるだけで、全体が引き立ちましたわ」クラスメートの保護者たちも同調する。「京花さんが瑛優ちゃんを外したのは賢明な判断でしたわ。あの子が入っていたら、こんなに素晴らしい演技にはならなかったでしょうね」「そうそう、京花さんの先見の明があったからこそですよ」彼女たちは話しながら、さりげなく夕月の方へ視線を送る。学校という小さな社会の中で、保護者たちは階層で区分
「瑛優ちゃんに謝って!」「望月ちゃんのママ、約束したことは守らなきゃダメだよ!」子どもたちが次々と声を上げ、京花の強張った表情が徐々に崩れ始めた。周囲では保護者たちがスマホを取り出し、撮影を始めている。「橘家の京花さん、何かしたの?年長組みの子たちに囲まれちゃって」「瑛優ちゃんが特別賞を取ったら、望月ちゃんと一緒にお菓子を食べさせてくれるって約束したよね?それも守らないの?」ある子どもが問いかけた。望月は涙で赤くなった目で、母親を見つめていた。これは夕月と瑛優がようやく彼女のために勝ち取ってくれたチャンスだったのに、母親はその約束を守るつもりがないようだった。







