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第7話

Author: キラキラ猫
悠斗が結衣にちょっかいを出したのは、単に彼女が可愛いからだ。

「許してくれ、これから幼稚園であなたを守ってやるから!

誰にもいじめさせないって約束する!」と悠斗は必死に訴えた。

この件で結衣の母親が怒って、結衣を転園させてしまうのではないかと悠斗は怯えている。

遥は確かにそう考えている。

だが、転園したところで、また同じような目に遭わないとは限らない。

「結衣ちゃんはどうしたい?別の幼稚園に行く?

それとも、ここに残る?」と彼女は優しく娘に尋ねた。

結衣は少し考えてから、こくりと頷いた。

「先生もお友達も、みんないい人だから」

遥にも打算はある。

今回の件で、湊は少なからず負い目を感じているはずだ。

彼が裏で圧力をかければ、幼稚園側も悠斗のようなガキ大将を厳しく監視するようになるだろう。

そうすれば、結衣はかえって安全に過ごせるかもしれない。

謝ることができるなら、悠斗もまだ救いようがあるのだろう。

自宅近くの交差点で、遥は車を停めさせた。

結衣を連れて車を降りると、彼女は湊と会話を交わすこともなく立ち去った。

彼女は、話す気分ではなかったのだ。

その背中を見るだけで、湊にも分かっている。

遥は今、怒っている。

数年前とは違い、今の遥は鎧を纏ったように心を閉ざしているが、その短気な性格や細かな癖は昔のままだ。

彼女は怒ると、口を利かなくなる。

以前はただ、湊に怒りをぶつけるのを嫌い、自分の機嫌が直るまでじっと我慢してから、また彼に会いに行っていただけだ。

湊は周辺の景色を見渡す。

築古の団地が立ち並ぶエリアだ。

家賃は安いが、会社までは通勤で一時間はかかるだろう。

遥は今、こんな場所に住んでいるのか?

どうやら彼女の夫とやらは、本当に甲斐性のない男らしい。

湊は胸の奥に広がる違和感を押し殺し、ハンドルを切った。

「お前、あの子をよくいじめてたのか?」

悠斗は唇を尖らせた。

何度か聞き返して、悠斗がようやく口を開いた。

「あいつにはパパがいない、パパに捨てられた野良犬だって言った。

だって本当だもん!あいつのパパなんて一度も見たことないし。

遊んでくれないから、おやつとか果物を取り上げたこともある。

あと、何回か突き飛ばした。

あいつのスカート、千円の安物なんだよ?おじさん、千円の服なんて見たことある?

超ボロくて、ちょっと引っ張っただけで破れちゃったんだ。

あとは、あいつが飲んでる薬、捨てたこともある……」

湊は眉間を揉んだ。

今にして思えば、あいつが遥の前で余計なことを言わなくてよかった。

もし彼女が聞いていたら、あの親バカな性格だ、もっと激怒していただろう。

湊は悠斗を恵の家に送り届け、事の顛末を説明した。

車を発進させる間もなく、その家の中から悠斗の泣き叫ぶ声が聞こえてきた。

車内、湊はすぐに立ち去ろうとはせず、その泣き声をBGMにスマホを取り出した。

社内チャットを開き、実名登録されているアカウントの中から遥を探す。

遥のアイコンは、ゆるいタッチで描かれた犬のイラストだ。

大きな口を開けて間抜けな顔で笑い、手には花を持っている。

昔の彼女によく似ている。

メッセージを送ろうとしたが、送信エラーが出た。

【社内規定により、他部署への直接連絡は制限されています。上長の承認が必要です】

と小さな文字で書いてある。

湊はスマホを見つめ、眉をひそめた。

社長である自分が、社員に連絡するのに秘書を通さなければならないとは。

湊は健太のLINEを開いた。

【俺のアカウントを立花遥に教えろ】

健太は遥の企画書にまた何か不備があったのかと思い、スマホを握りしめて平謝りする勢いで遥に湊の連絡先を送信した。

しかし遥からは、【?】という一文字が返ってきただけだった。

そして、遥は【何の用ですか?】と打ちかけて削除し、【了解です】とだけ送る。

健太から送られてきた【連絡先】をタップする。

湊のLINEは彼自身と同じく、得体が知れない。

アイコンは真っ黒で、名前はただの【K】だ。

IDは彼のイニシャルと誕生日の組み合わせだ。

すぐに友達追加が完了した。

【娘さんの怪我について、今後の治療費などは全て俺が持つ】

【わかりました】

湊から動画が送られてきた。

動画の中では、小太りの悠斗が床を這いずり回り、まるで出荷前の豚のように泣き叫んでいる。

遥は一度だけ再生し、湊の意図を察した。

「もう十分にお仕置きはしたから、この件はこれで手打ちにしてくれ」ということだろう。

見て取れるのは、湊があの子をどれほど可愛がっているかということだ。

おそらく、彼が愛してやまない女性との間に生まれた子なのだろう。

遥の胸がチクリと痛んだ。

午後、幼稚園で湊が悠斗を庇っていた姿が脳裏に焼き付いている。

お仕置きだって、ポーズだけで、本気で叩いてなどいないはずだ。

それもそうだ。

湊のような男なら、子供が欲しければ喜んで産んでくれる女などいくらでもいる。

遥は自嘲気味に笑い、動画メッセージを引用して返信した。

【了解しました】と送って、遥は全ての感情を押し殺した。

その日の夜、結衣が熱を出した。

感染症を防ぐため、遥は自分と結衣にマスクをつけさせ、急いで病院の救急外来へと向かった。

診察の結果は、いつもの持病の発作だった。

医師は奥のカーテンを指差した。

「お子さんを抱いてそこで待っていてください。点滴の準備をしますから」

「はい、わかりました!」

小さな娘を抱いて仕切りの中に座り、遥は片手でスマホのメッセージを確認した。

彼女は芸術学部出身で、大学時代からずっとイラストを描いている。

当時は金に困っていなかったため、趣味でゲームやアニメの二次創作を描いていただけだったが、それがかえって評判を呼び、ファンが増えていった。

今ではフォロワー数30万人を抱える有名イラストレーターだ。

依頼のDMはひっきりなしに届くが、余裕がある時だけ受けるようにしている。

ただ、絵を描くのは時間も体力も使う。

彼女の場合、一枚仕上げるのに一週間はかかる。

結衣の看病もある今は、どうしても作業効率が落ちてしまう。

依頼の問い合わせをいくつか開き、見積もりを送ってからアプリを閉じた。

その時、湊からLINE通話がかかってきた。

「娘さんの上着、俺の車に忘れてるぞ」

「明日の朝、駐車場へ取りに伺います」

遥が声を潜めているのに気づき、今は都合が悪いのだと察した湊が、電話を切ろうとした。

その時、向こうから騒がしい声が聞こえてきた。

老婦人の不機嫌な声だ。

「まったく、湊もどうかしてるわ。

うちの悠斗は幼稚園でお友達を作ろうとしただけなのに、それをいじめだなんて言うんだから!

見てごらんなさい、可哀想に。うちの悠斗は、怖くて熱出しちゃったじゃない!」

湊の従姉、恵が呆れたように諌める。

「お義母さん、湊が悠斗を叱ったのはあの子のためですよ。それに、悠斗に何をしたか聞いてごらんなさい。

あれはお友達付き合いじゃありません、ただのいじめですよ!」

「だとしても、手を上げるなんて!悠斗は生まれてから一度も叩かれたことなんてないのに!」

老婦人は引かなかった。

「悠斗から聞いたわよ。そのガキ、千円の服着て、父親も一度も姿を見せたことがないってね。

どうせそのガキも母親も、玉の輿狙いでわざとセレブな幼稚園に潜り込んだに決まってるわ!

じゃなきゃ、あの湊がわざわざ車で送っていくわけないじゃない!

悠斗も言ってたわ、そのガキの母親は顔がいいって。どうせ尻軽女よ!

許せない、明日学校に乗り込んで、あの図々しいガキを退学にさせてやるわ!」

恵も我慢の限界だった。

「その言葉、湊の前で言えるんですか?」

老婦人は湊の前では借りてきた猫のようになる。

カーテンの中で、遥は手足が冷たくなるのを感じた。

耳を覆いたくなるような罵倒が突き刺さり、鼓膜が痛む。

耳鳴りが渦を巻き、思考をかき乱す。

あまりのショックに、通話がまだ繋がっているままであることに気づきもしなかった。
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