ログインあれから、詩織が賢人の姿を見ることは二度となかった。噂では会社を売却し、行方を知る者は誰もいないという。その後、隆史と涼子から何度か連絡があったが、詩織は何も答えず、かつて彼らが送りつけてきた『親子関係断絶誓約書』をそのまま送り返した。心が痛まなかったと言えば嘘になる。けれど、詩織はもう彼らと関わりを持つつもりはなかった。彼女にとって、それはもう遠い過去の出来事になっていたからだ。……一年後。詩織は自分の小さなデザインスタジオを構えていた。志を同じくする数人の仲間もできた。会社勤めの頃より肉体的にはハードだったが、彼女はかつての夢を叶えていた。心は、かつてないほどの充実感に満たされていた。スタジオ設立初日のことだ。詩織は恒例の小さなお祝いをしようと、晴斗を誘うことにした。だが、彼の部屋のドアをノックしても反応がない。電話をかけても、何度コールしても繋がらない。ふと、スマホにニュース速報が入った。【黒のパガーニ、スピード超過により追突事故。運転手は即死】詩織の心臓が、鷲掴みにされたように縮み上がった。晴斗の二十五歳の誕生日プレゼントは、まさにその黒のパガーニだったからだ。記事の詳細を読む余裕もなく、詩織はタクシーを拾い、事故現場へと急行した。これほどのパニックに襲われたのは、人生で初めてだった。赤信号で止まるたび、彼女は心の中で必死に祈り続けた。現場に到着すると、警察がすでに規制線を張っていた。詩織は中へ入ろうとしたが、警察官に制止された。「通してください!車の持ち主は私の知り合いなんです!」「被害者とどういうご関係ですか?」警察官に問われ、詩織は迷わず答えた。「私の……恋人です!」その必死な形相に、警察官は少し困惑した様子で、身元確認のための資料を提示した。「確認してください。被害者はこの男性ですか?」写真に写っていたのは、六十代の男だった。心臓発作を起こして事故死した、麻薬の密売人だという。詩織は全身の力が抜け、その場にへたり込んだ。晴斗ではなかった。……その後、警察から連絡を受けた晴斗もまた、状況が飲み込めず困惑していた。現場に駆けつけ、大破した黒のパガーニを見て、ようやく事態を察した。晴斗は震える詩織を見つけると、力強
スーパーを出る頃には、雨はすっかり上がっていた。詩織と晴斗は、食材が詰まった大きな袋を提げて、のんびりと並んで歩いていた。雨上がりの空気は心地よく、二人の間には穏やかな時間が流れていた。だが、マンションの下まで戻ってきた時、詩織の視界にあまりにも見覚えのある人影が飛び込んできた。その瞬間、詩織の口元から笑みが消え失せた。まさか、本当にここまで追ってくるなんて。一番会いたくない相手――賢人が、そこに立っていた。鋭い観察眼を持つ晴斗は、すぐに詩織の異変に気づいた。彼は視線の先にいる賢人の姿を確認すると、反射的に詩織の前に立ち、彼女を庇うように視界を遮った。賢人は、詩織に会えるという期待を胸に待っていた。しかし、彼女が親しげに男と連れ立って現れたのを見た瞬間、その顔色はどす黒く変わった。近づいて晴斗の顔を確認すると、賢人の怒りは頂点に達した。彼が大股で詰め寄ろうとすると、晴斗がすかさず二人の間に割って入った。「あなたは誰ですか?」「そのセリフはこっちのものだ。お前こそ誰だ?」賢人は怒りを露わにしたが、詩織の手前、なんとか感情を爆発させまいと必死に抑え込んでいた。晴斗は賢人の挑発には乗らず、冷静に振り返って詩織を見た。「詩織さん、この人と知り合いですか?」詩織は無言で小さく頷いた。「……今すぐ部屋まで送りましょうか?」晴斗の瞳には、彼女を案じる色が浮かんでいた。「いいえ、大丈夫です。行きましょう、相手にする必要はありません」詩織はそう言い捨て、賢人の横を通り過ぎようとした。「詩織!頼む、話がしたいんだ!」賢人が悲痛な声を上げた。その声に、詩織の足がわずかに止まった。晴斗は二人の様子を見て、大体の関係性を察したようだ。「……この様子では、ここできちんと話をしないと、かえって長引いて厄介なことになりそうです。少し話してくるといいですよ。僕はあちらで待っていますから」「……分かりました」詩織が頷くと、晴斗は彼女の手から荷物を受け取り、少し離れた場所へと移動して背を向けた。その間、二人は賢人の方を一度も見なかった。まるで彼がただの通行人であるかのような扱いだった。詩織はゆっくりと賢人に向き直った。「賢人。私たち、もう話すことなんて何もないはずよ。あなた
賢人は、茉優の行方を探す以外は、かつて詩織と共に暮らしたあの古びた家に戻り、そこで時を過ごしていた。そこは西園寺家の「捨て駒」として追いやられていた時にあてがわれた場所で、住環境は決して良くない。雨漏りがすることさえあり、部屋全体に湿気が籠もっている。だが、それでも賢人はここが好きだった。ここには、詩織の匂いが残っているからだ。その残り香だけが、彼の焦燥感をわずかに鎮めてくれた。部屋の家具や配置を眺めると、懐かしさと見慣れぬ感覚が同時に押し寄せた。懐かしいのは、詩織の存在が温もりを与えてくれていたから。見慣れないのは、当時の彼が失明しており、これらの景色を一度も見たことがなかったからだ。唯一、心で感じ取ることができたのは、詩織の献身的なサポートだった。彼女は、彼の闇の中の希望だったのだ。賢人が彼女に惹かれたのは、単なる恋愛感情だけではない。詩織という人間そのものへの敬愛があった。彼女は、彼が転ばないよう何度も何度も歩き方を練習に付き合ってくれた。彼が手探りでも取りやすいよう、習慣に合わせて物を配置してくれた。彼女の愛は、目には見えなくても、痛いほど誠実に伝わってくるものだった。思い出が潮のように押し寄せ、賢人の頬を音もなく涙が伝った。その時、秘書から電話が入った。詩織の居場所が判明したというのだ。彼女は現在オーストラリアに滞在しており、デザイン会社の面接を受ける準備をしているらしい。その報告を聞いた瞬間、賢人の神経は再び張り詰めた。見つからない日々の不安とは違う、新たな恐怖が彼を襲った。彼女は、自分を許してくれるだろうか。あれほど彼女を傷つけ、別人だと決めつけ、追い出した自分を。誰だって失望し、恨むはずだ。「……今すぐ、最短のフライトを手配してくれ。すぐに彼女を迎えに行く」「しかし社長、今の精神状態で長時間のフライトは……」秘書が心配そうに口籠もったが、賢人は聞く耳を持たなかった。彼はすぐに立ち上がり、衣服を整えると、部屋を出ようとした。秘書はそれ以上何も言えず、先に車を回しに走った。二人は空港へと直行した。……飛行機が青空を切り裂き、白い飛行機雲を描いていく。それはまるで、期待と緊張が入り混じる賢人の心模様のようだった。一方、オーストラリアで
茉優たち三人を処分した後も、賢人の怒りは収まるどころか、ますます燃え盛っていた。詩織はもう水瀬家の人間ではない。ならば、心置きなく水瀬家に復讐ができる。彼は三人が拘束されている隙に、水瀬家が経営する会社の株式を大量に買い占め、同時に市場での取引価格を操作し始めた。異常な安値でダンピングを行ったことで、水瀬家の会社は競合他社から猛反発を受け、業界全体から排斥される事態となった。だが、それだけでは飽き足らなかった。彼はこの絶望的なニュースを、わざと地下室の三人に伝えた。会社が倒産寸前だと知り、隆史はショックのあまりその場で気絶した。涼子も半狂乱になって右往左往している。水瀬家の会社は、夫婦が人生をかけて築き上げてきたすべてだったからだ。唯一、会社のことに無関心だったのは茉優だ。彼女は賢人の姿を見るなり、必死に命乞いを始めた。「賢人、お願い、ここから出して!もう反省したわ、だからもう閉じ込めないで!ここは怖いの、ゴキブリやネズミが這い回ってて……私の足を齧ってる気さえするの。お願いだから出してよ!」賢人は蔑むような笑みを浮かべ、からかうように言った。「出してほしいか?いいだろう。ただし、お前か両親か、どちらか一方だけだ。お前が決めろ」「もちろん私を出してよ!あの人たちはもう年寄りじゃない!私はまだ若いのよ!それに、詩織の代役をさせるって言い出したのもあの人たちよ!私は関係ないわ、調べてみてよ賢人!あのブレスレットだってそう。あれは詩織の物なのに、あの人たちが私の物だと言い張ったの!賢人、本当に私は悪くないのよ!」茉優が迷いなく責任を転嫁したことに、賢人は何の驚きも感じなかった。彼女の利己的な本性はとうに知っている。「なるほど、信じてやるよ……ところでお前、あっちを見てみろ」茉優が彼の指差す方向を見ると、そこには隆史と涼子が立っていた。今の会話は、すべて筒抜けだったのだ。「茉優!私たちがお前のためにどれだけ尽くしてきたか……よくもそんなことが言えるな!」意識を取り戻したばかりの隆史は、胸をかきむしるような思いで叫んだ。涼子の目にも、深い失望の色が浮かんでいた。溺愛してきた娘が、裏で自分たちの献身をこれほど軽んじていたとは、夢にも思わなかったのだ。「ち、違うの!お父さん、お母さ
西園寺家の別荘に車が到着しても、茉優はまだ事態を飲み込めていなかった。今日は誰もドアを開けてくれないのかと、不満げに眉を寄せる。仕方なく、バッグを持ったまま自分でドアを押して降りようとした。その瞬間、強い力で外へ引きずり出された。間髪入れずに、分厚い黒い布で目隠しをされる。恐怖が全身を駆け巡った。茉優は反射的に叫んだ。「誰よ!放して!私は賢人の妻よ、誰に向かって手を出してるの!」その声は金切り声のように鋭かった。彼女を拘束していた男が、苛立ったように茉優のすねを蹴り飛ばし、吐き捨てた。「黙れ。命が惜しければ大人しくしろ!」その言葉を聞いて、茉優はようやく悲鳴を飲み込んだ。それ以上、音を立てる勇気はなかった。……どれくらい時間が経っただろうか。茉優は、どこか密閉された場所に連れてこられた気配を感じた。空気も薄く、息苦しい。不意に、目隠しが乱暴に剥ぎ取られた。目の前にいたのは、賢人だった。茉優は反射的に身を引いた。「どうした?何を怯えている?何かやましいことでもあるのか?」賢人は茉優の顎を強く掴み上げ、冷たい目で見下ろした。茉優の心に後ろめたさが広がった。「賢人、どうしてあなたが?なんでこんな真似を?」「なぜこんなことをされるか、心当たりがないとは言わせないぞ」そう言いながら、賢人は指に力を込めた。顎の骨が軋むほどの痛みに、茉優は言葉を発することもできず、ただ苦痛に満ちたうめき声を漏らした。賢人はそこでようやく、ゆっくりと手を離した。「茉優、まだ芝居を続ける気か?自分のしたことを忘れたわけじゃないだろう。詩織はどこだ?本当に知らないのか?」詩織の名が出ると、茉優は言葉を濁し、咳き込みながら視線を泳がせた。「詩織の予定はお父さんたちが決めたのよ、私が知るわけないじゃない!」賢人の瞳は、不気味なほど静まり返っていた。「知らない、か。いいだろう。ならこれに見覚えはあるか?」賢人は茉優の体にスマホを投げつけた。彼女は慌ててそれを拾い上げ、画面を確認した。そこには、自分が詩織に送りつけた数々の悪意あるメッセージが表示されていた。茉優は血の気が引くのを感じた。彼女はとっさに弁解した。「あの子があなたに変な気を起こさないように送っ
「西園寺社長、調査をご依頼されていた件です」アシスタントはそう言って、手にした書類袋をデスクの上に置いた。賢人が中身を取り出すと、それは当時の病院の請求書やカルテのコピーだった。そこには、茉優が三歳の時に難病を患い、救命のために緊急で「臍帯血」を必要としていたことが記録されていた。つまり、詩織の出生は、茉優を救うためのドナーとして計画されたものだったのだ。賢人は書類を握りしめる手に力を込めた。隆史と涼子の偏愛ぶりにはずっと疑問を抱いていたが、まさか根本にこれほど残酷な理由があったとは。袋の中には、画面の端がひび割れた一台のスマホも入っていた。賢人はそれに見覚えがあった。かつて詩織が使っていたものだ。アシスタントは彼女の通話記録からSIMカードの最終位置情報を割り出し、回収した端末のデータを復旧させていたのだ。賢人はロック画面の四桁のパスコード入力欄を見て、一瞬ためらったあと、「0616」と入力した。カチッという音と共に、ロックが解除された。賢人の目頭が、瞬時に熱くなった。6月16日は、賢人の誕生日だったからだ。アプリの多くはログアウトされていたが、消し忘れた写真や数件のメッセージが残っていた。アルバムを一枚ずつめくっていく。道端に咲く花や、様々な形の雲。だが、それ以上に多かったのは、賢人の写真だった。学生時代の隠し撮りから、事故で失明していた頃の姿まで。詩織は一枚一枚、すべての写真を大切に保存していた。学生時代のクラスの集合写真でさえ、彼女にとっては宝物だったようだ。賢人の胸に、苦い感情がこみ上げてきた。彼女は誰にも知られない場所で、ずっと彼を想っていたのだ。西園寺家の厄介者として捨て駒にされていた時でさえ、彼女だけはそばにいてくれた。二人が寄り添って過ごした日々。詩織が捧げてくれた真心。彼女の愛は、いつも静かで控えめだった。まるで波のない湖のように、決して主張することはないが、底まで透き通るほど清らかだった。メッセージアプリを開くと、意外なことに、詩織への送信履歴が最も多い相手は茉優だった。茉優は自分のウェディングドレス姿や、賢人との親密な日常写真を、執拗に詩織へ送りつけていた。賢人はその履歴を遡り、顔をしかめた。写真の下には、悪意に満ちたメ