Short
枯れた愛が、ふたたび春に咲く

枯れた愛が、ふたたび春に咲く

By:  夕凪サキCompleted
Language: Japanese
goodnovel4goodnovel
28Chapters
158views
Read
Add to library

Share:  

Report
Overview
Catalog
SCAN CODE TO READ ON APP

夫・佐久間義彦(さくま よしひこ)が別の女と結婚したその夜、日向茜(ひなた あかね)は二人で八年間暮らした家をめちゃくちゃに壊した。

View More

Chapter 1

第1話

午前二時、日向茜(ひなた あかね)は腹部の痛みで目を覚ました。

隣の寝床に手を伸ばすと、そこは冷たく、夫・佐久間義彦(さくま よしひこ)はまだ帰宅していないことに気づいた。

下腹部の痛みは徐々に強まり、茜は震える手で義彦に電話をかけた。

長い呼び出し音の末、ようやくつながったが、茜が声を発するより先に、聞こえてきたのは女の子の甘えたような声だった。

「茜さん?義彦はもう寝ちゃったの。用があるなら、明日にして。じゃあ、切るね」

「待って......お願い......」

激痛に耐えながら、茜は絞り出すように言葉を発した。だが、相手は聞く耳も持たずに電話を切った。

再びかけても、すでに電源は切られていた。

茜は大きく息を吸い、痛みと恐怖に全身を震わせた。

死にたくない。まだ二十六歳。両親もいる、義彦もいる。

懸命に119番へ電話をかけ、這うようにしてリビングまで進み、玄関の鍵を開けると、そのまま意識を手放した。

意識が薄れる中、団地の夜を突き破る救急車のサイレンが耳に届いた。

医師の初見は子宮外妊娠。すぐに手術が必要だった。

だが、義彦の電話は何度かけてもつながらない。

「他にご家族やご友人に連絡は取れますか?」

看護師は青ざめた茜を気遣いながら、そっと尋ねた。

茜は苦笑して、首を横に振った。

両親はこの町にはおらず、早くても明日の午後にならないと来られない。

しかも、母の日向早苗(ひなた さなえ)は心臓が弱く、この状況を知らせれば命に関わるかもしれない。

市内に住む親友・桜井結衣(さくらい ゆい)も、今は臨月を迎えており、いつ出産になってもおかしくない時期だった。彼女に心配をかけるわけにはいかなかった。

「......同意書は、自分で書きます」

手術は夜通し行われた。

茜が目を覚ましたのは翌朝だった。

目を開けると、介護士が駆け寄り、湯飲みを差し出した。

「日向さん、ようやく目が覚めましたね。どれほど危険だったか、お分かりですか?

お医者様によると、子宮外妊娠の位置がかなり悪かったらしく......あと少し遅れていたら、助からなかったかもしれないそうです」

茜は無意識に下腹部に手を当てた。

そして、込み上げる悔しさと哀しみに、胸が締め付けられた。

義彦との子を二年間待ち続け、ようやく授かった命だった。

それなのに――まさかの、子宮外妊娠。

茜は震える手でスマホを握りしめた。一晩経っても、義彦からは一通のメッセージも、電話もない。

この事実を知らせなければ。子どもを失ったのだ。父親である彼には、伝えるべきだった。

茜は再び義彦に電話をかけた。

今度は、本人が出た。

「義彦、私......」

「茜、最近無視してたのは悪かったよ。でも、本当に疲れてるんだ。英里さんが昨日拒絶反応を起こして、状態がひどく悪くて......

それから、優香とは何もないよ。妹みたいな存在だし、君の立場を脅かす気なんてない。もう、いい加減騒がないでくれないか?」

苛立ちを隠しきれない声だった。

茜は言葉を失い、スマホを握る手に力がこもった。

数秒の沈黙の後、義彦が口を開いた。

「茜?どうした?」

「私......子宮外......」

言い終える前に、電話の向こうから別の女の声が飛び込んできた。

「義彦、早く来て!お母さんの様子がおかしいの!」

小林優香(こばやし ゆうか)だった。

「じゃあ、あとで」

義彦は一方的に電話を切った。

天井を見つめたまま、茜の目から涙がぽろぽろとこぼれた。

義彦と結婚して、もう八年になる。

高校三年の受験期を乗り越え、大学の四年間は遠距離恋愛。それでも支え合い、ようやく結婚したのが二年前だった。

「一緒に赤ちゃんを迎えよう」

そう約束したはずだったのに。

たった三ヶ月。

幼馴染の隣人が戻ってきただけで、彼の目には自分がただの嫉妬深い女に映るらしい。

「......はっ」

茜は笑った。

目を覆い、笑いながら泣いた。

Expand
Next Chapter
Download

Latest chapter

More Chapters

Comments

No Comments
28 Chapters
第1話
午前二時、日向茜(ひなた あかね)は腹部の痛みで目を覚ました。隣の寝床に手を伸ばすと、そこは冷たく、夫・佐久間義彦(さくま よしひこ)はまだ帰宅していないことに気づいた。下腹部の痛みは徐々に強まり、茜は震える手で義彦に電話をかけた。長い呼び出し音の末、ようやくつながったが、茜が声を発するより先に、聞こえてきたのは女の子の甘えたような声だった。「茜さん?義彦はもう寝ちゃったの。用があるなら、明日にして。じゃあ、切るね」「待って......お願い......」激痛に耐えながら、茜は絞り出すように言葉を発した。だが、相手は聞く耳も持たずに電話を切った。再びかけても、すでに電源は切られていた。茜は大きく息を吸い、痛みと恐怖に全身を震わせた。死にたくない。まだ二十六歳。両親もいる、義彦もいる。懸命に119番へ電話をかけ、這うようにしてリビングまで進み、玄関の鍵を開けると、そのまま意識を手放した。意識が薄れる中、団地の夜を突き破る救急車のサイレンが耳に届いた。医師の初見は子宮外妊娠。すぐに手術が必要だった。だが、義彦の電話は何度かけてもつながらない。「他にご家族やご友人に連絡は取れますか?」看護師は青ざめた茜を気遣いながら、そっと尋ねた。茜は苦笑して、首を横に振った。両親はこの町にはおらず、早くても明日の午後にならないと来られない。しかも、母の日向早苗(ひなた さなえ)は心臓が弱く、この状況を知らせれば命に関わるかもしれない。市内に住む親友・桜井結衣(さくらい ゆい)も、今は臨月を迎えており、いつ出産になってもおかしくない時期だった。彼女に心配をかけるわけにはいかなかった。「......同意書は、自分で書きます」手術は夜通し行われた。茜が目を覚ましたのは翌朝だった。目を開けると、介護士が駆け寄り、湯飲みを差し出した。「日向さん、ようやく目が覚めましたね。どれほど危険だったか、お分かりですか?お医者様によると、子宮外妊娠の位置がかなり悪かったらしく......あと少し遅れていたら、助からなかったかもしれないそうです」茜は無意識に下腹部に手を当てた。そして、込み上げる悔しさと哀しみに、胸が締め付けられた。義彦との子を二年間待ち続け、ようやく授かった命だった。それなのに
Read more
第2話
小林優香とその母・小林英里(こばやし えいり)が義彦にとってどんな存在か、茜はよく知っていた。義彦の両親は共働きで多忙を極めており、子どもだった彼は、しばしば隣家の英里に夕食を世話してもらっていた。英里はシングルマザーで、女手一つで優香を育てていた。そんな二人の家庭に、幼い義彦は自然と馴染んでいった。幼少期からずっと一緒に過ごしていた義彦と優香は、周囲から見れば絵に描いたようなお似合いの幼なじみ。誰もが、やがて二人は恋人になり、結婚するのだろうと信じていた。だが、高校三年の夏。優香は母と共に突然海外へと旅立ち、そのまま八年もの歳月が流れた。そして三ヶ月前。膵臓がんを患った英里の看病のため、優香は母を連れて帰国した。その日から、義彦は家に帰らなくなった。「病院にいる」とだけ告げられた。もちろん茜は、二人の関係を知っていた。だが、一言の不満も口にはしなかった。信じていた。義彦と自分の絆は、たとえ幼なじみが戻ってきても揺るがないと。最初の頃は、むしろ自ら専門医を調べて紹介しようともした。けれど、いつからか、茜が病院を訪ねるたびに、優香はすぐ涙を浮かべるようになった。まるで、自分が余計な存在かのように。そしてある日、義彦から冷たく告げられた。「もう、病院に来ないでくれ」何がいけなかったのか、茜には分からなかった。騒ぎ立てることもなく、義彦を責めることもせず、ただ静かに状況が落ち着くのを待っていた。いつか、元の二人に戻れると信じて。だが、子宮外妊娠の緊急手術、そして、あの夜の義彦の態度は、茜の心を深くえぐった。涙を拭き、思いを整え、茜は診断書の写真とともに、義彦にメッセージを送った。その頃、同じ病院の待合室で、義彦はスマホを開いていた。画面を覗き込んだ優香の表情が、みるみるうちに曇っていく。メッセージを読み終えると、目にはすぐに涙が浮かび、ぽろぽろとこぼれ落ちた。「ごめんなさい、義彦。私、やっぱりここにいるべきじゃなかった。茜さんがあなたを取るのが怖くて、きっと......こんな無理な理由まで作って......私とお母さんのせいで、あなたたち夫婦の仲が壊れたのなら、本当に、本当にごめんなさい......」震える声と涙に、義彦は一瞬言葉を失った。だが、冷静になって思い返せば、
Read more
第3話
失望が幾重にも重なるとき、最後の失望こそが、すべての終わりを告げる。涙を拭いながら、茜は義彦にたった一言だけ返信した。【うん】そして、心の奥で静かに決意を固めた。三日後、茜は退院した。その間、義彦からの連絡は一度もなかった。茜もまた、自分から会いに行こうとはしなかった。「日向さん、子宮外妊娠とはいえ、一応産後にあたりますからね。冷たい水は避けて、栄養を摂って、しっかり休むんですよ」看護師が気遣うように声をかけると、茜は微笑みながら、ほんの少し寂しさを滲ませて頭を下げた。「ありがとうございます。気をつけます」病院のロビーをひとりで歩き出したそのとき、背後から懐かしい声が飛んできた。「茜?」振り返ると、そこには大きなお腹を抱えた親友・結衣が立っていた。「えっ......なんで病院に?顔色、すごく悪いよ......」茜は淡々とした表情で口を開いた。「妊娠してたの」おめでとう、と結衣が言いかけた瞬間、茜は静かに続けた。「でも......子宮外妊娠だった。手術して、今日退院なの」「なんで、なんで教えてくれなかったの!」思わず声を荒げた結衣は、すぐにその手を茜の手に添え、不安そうに彼女を見つめた。「義彦さんは?迎えに来てるんじゃ......」友人たちの間では、義彦は「完璧な愛妻家」として知られていた。妻を何よりも大切にし、どんなときも茜を優先してきたはずだった。「あの人はね、幼なじみの母親の付き添いで入院してるの。私のことなんて、構ってる暇ないのよ」「はあ?」義彦とその幼なじみの関係については、結衣も噂程度には聞いていた。だが、妻が子宮外妊娠で緊急手術を受けたというのに、彼が一度も顔を見せない?「大丈夫。もう終わったことだから」茜はそれ以上語らず、話題を変えた。「結衣もひとりで来たの?」「うん、今日が最後の検診で、夫が支払いに行ってるところ」結衣は、まだ茜の話を聞きたそうにしていたが、彼女の青白い顔を見て、それ以上は口を閉ざした。まもなくタクシーが到着するという通知が来た。結衣は「送っていく」と言って譲らなかった。二人でエレベーターを降りたその瞬間、ロビーの向こう側に、義彦が立っていた。腕には、優香がしっかりとしがみついていた。その場にいた全員の動きが
Read more
第4話
見物人の数はどんどん増えていき、誰もが茜を指さしては囁き合っていた。次の瞬間、結衣が迷うことなく駆け出し、義彦の頬を平手で打った。「あんた、頭おかしくなったの?」義彦は生まれてこの方、誰かに手を上げられたことなど一度もなかった。呆然としたあと、怒りに満ちた目で茜を睨みつけた。「よくもやったな。妊婦を連れて来て見世物とはな。さすがは『ご立派なデザイナー様』、その教養はどこへ消えたんだ?」結衣が再び手を振り上げようとしたとき、茜がその腕をそっと止めた。「行こう、タクシーが来たわ」茜は床に跪いたままの優香にも、怒鳴り声を上げる義彦にも一瞥もくれず、結衣の手を引いてその場を去ろうとした。その無関心こそが、義彦にとっては最大の侮辱だった。今まで、茜が自分を無視するなんて一度だってなかった。プライドを傷つけられた義彦は、衝動的に茜の腕を掴み、声を荒げた。「待て、優香に謝れ」茜が無言で立ち去ろうとすると、義彦はさらに力を込めた。「優香に謝れって言ってるんだ!」手首に食い込む痛みよりも、心の奥に広がる鈍い痛みのほうが何倍も苦しかった。茜は深く息を吸い、静かに振り返った。「なぜ私が謝らなきゃいけないの?私、何か言った?何かした?それに、この病院はあなたの所有物なの?あなたは来てよくて、私は来てはいけないの?佐久間教授、あなたの教養は、どこに置いてきたの?」義彦はその言葉を浴び、思わず手の力を緩めた。目の前の茜は、もはや自分の妻ではない。他人に向けるような、冷ややかな視線だった。茜はもう、これ以上この男と関わる必要などないと悟っていた。彼女は結衣の手を再び握り、無言で病院の出口へと向かった。残された義彦は、困惑したような表情で茜の背を見つめ、そんな彼の袖を、優香が恐る恐る引いた。「義彦......私、また迷惑かけちゃったかな......」我に返った義彦は、優香の手を軽く叩いて宥めるように言った。「お前のせいじゃない。最近、俺が茜に構ってやれなかっただけだ」そう、自分が忙しすぎて、彼女の気持ちをちゃんと見てあげなかっただけ。機嫌を取れば、また元に戻れるはずだ。茜は話のわかる、理性的な人間なのだから。自分にそう言い聞かせ、義彦は胸の奥に渦巻いた一抹の不安を無理やり押し込み、優香の手を引いてエレベーターへ
Read more
第5話
義彦は、自分なりに最大限譲歩しているつもりだった。だが茜は何に怒っているのか、さっぱり理解できなかった。「茜......俺にどうしてほしいんだ?優香に送ったメッセージ、全部見たぞ」言いながら、義彦の声は徐々に荒くなっていく。「確かに優香は幼なじみだ。でも、俺にとっては妹同然だ。なんでそんな下劣な憶測ばかりするんだ?英里さんにしたって、俺にとっては......母親みたいな存在なんだ。子宮外妊娠だと嘘をつかれても怒らなかった。今日、病院に張り込んできたことも、もう許す。だから......もう拗ねるのはやめてくれ!」しばしの沈黙のあと、茜は静かに言った。「疲れたから、出て行って」「出て行け......だと?」義彦は一瞬、自分の耳を疑った。ここは二人で築いた家だ。どこに行けというのか?どうして、自分が追い出されなければならない?怒りが込み上げ、茜に詰め寄ろうとした瞬間、隣に置かれていたスマホが鳴った。反射的に画面を確認し、通話ボタンを押した。「義彦......お母さんが吐血しちゃったの!怖いよ、早く来て......!」優香のかすれた声が震えていた。「落ち着け。すぐ行く」一気に現実へ引き戻され、義彦は慌てて服を身にまとい、部屋を飛び出していった。その足音とドアの閉まる音を聞きながら、茜はゆっくりと目を閉じた。病院のベッドの上、英里は蒼白な顔で横たわっていた。義彦はその手を握り、眉間に深いしわを刻みながら、彼女の顔を見つめた。やがて英里がゆっくりと濁った瞳を開け、義彦を見た。「義彦......私の......たった一つの心残りは......優香のことよ......」苦しげな息の合間に、英里はか細く語った。「無理なお願いだと分かってる......でも......優香と......結婚して......ずっと面倒を見てやってくれないか......?」その言葉に、義彦の全身が強ばった。優香の面倒を見ることはできる。だが、結婚なんて......しかも、自分は茜を絶対に裏切らないと誓ったはずだった。しかし、義彦の躊躇いに気づいた英里は、激しく咳き込み、差し出されたティッシュが血で染まった。優香は泣きながら母をなだめた。「お母さん、義彦は......もう結婚してるの。そんな無茶なこと、言わ
Read more
第6話
弁護士の動きは驚くほど早かった。翌日には、離婚協議書がきっちりと作成され、茜の元に届いた。茜はその内容にざっと目を通し、静かに頷いた。財産トラブルは一切なく、唯一の共有物――現在の住居は義彦が結婚前に購入したマンションだったが、内装に関してはすべて茜が手がけたものだった。設計、インテリア、家具選びに至るまで、茜はこの「愛の巣」に情熱のすべてを注いだ。かけた費用は、もはや家本体の価格に匹敵するほどだった。そして、将来の子どものために用意した一室。その柔らかな光の入る空間は、茜にとってまさに夢の象徴だった。けれど今、そのどれもが茜の目には空虚に映っていた。笑っちゃうほど馬鹿馬鹿しい――そう感じた。思い出に囚われるのは性に合わない。茜は休暇を切り上げ、出勤の準備を始めた。そして職場での引き継ぎ作業を進めながら、心の中で静かに決意した。仕事を辞める。すべてを終わらせて、両親の元へ戻ろう。あの遠くへ嫁いだ生活に、終止符を打つのだ。会社ビルの前に車を停めたその瞬間、視界に最も会いたくなかった二人の姿が飛び込んできた。義彦と、その背後に涙ぐんだ優香。「茜、優香に心から謝ってほしい。あのメッセージは、君の本心じゃないって信じたい」義彦の声には、怒りと哀しみ、そして戸惑いが混じっていた。彼がここまで来たのは、謝罪を求めるためだけではない。英里の遺志――つまり優香との偽装結婚について、茜に理解を得たかったのだ。だが、その目に宿る非難を見た瞬間、茜は思わず口角を上げた。「で?私が何を言ったっていうの?まさかその程度で、佐久間教授がわざわざご登場?」「まだ認めないのか?優香、スマホを見せて」優香はしおらしく首を振り、それから茜の腕を握った。「茜さん、私のことをどう思っていても構いません。ただ......母がもう長くないんです。せめて最期に、私と義彦さんの結婚を見届けさせてあげたくて......」「ちょっと待って」茜はその手を振り払い、優香の台詞を遮った。「私が、何て言ったって?はっきり言いなさいよ」茜の鋭い問いかけに、優香はビクリと体を震わせ、まるで驚いたウサギのように義彦の背後に逃げ込んだ。その様子を見て、義彦は前に出て声を荒げた。「茜、いい加減にしろ。優香はな、君の顔を立てようとして黙ってる
Read more
第7話
「本当に......決めたの?」三浦理奈(みうら りな)は茜の退職願いを手に取り、しばし黙った。惜しい――その思いが、言葉の端々に滲んでいた。茜は穏やかに微笑んで、うなずいた。「うん。両親には私しかいないし、二人とも体があまり丈夫じゃないから。実家に戻って働こうと思ってるの」「じゃあ、佐久間教授は?彼の仕事は?」茜の私生活について、理奈は知っていた。大学時代の四年間を遠距離恋愛で乗り越え、卒業後は帝都に遠嫁――まさに愛を貫いた夫婦だった。特に、義彦。帝大の最年少教授として注目を浴び、将来を嘱望されていた。そんな彼が、地方に移るはずがない。「離婚するつもり」「離婚?」理奈の目が見開かれた。けれど茜は、変わらず穏やかな笑みを浮かべたままだった。「もう、手続きは進めてるの」理奈は深く息をついた。茜の芯の強さを、彼女はよく知っていた。一度決めたら、決して揺らがない人間なのだ。「わかった。あなたの新しい人生に、幸あれ」理奈はそれ以上、何も言わなかった。退職願にすっとサインを入れ、静かに手渡した。茜の一日は、慌ただしい引き継ぎ作業で過ぎていった。夜には離婚協議書が会社に届き、茜は全条項を確認した上で、迷いなくサインした。その夜、社長が送別の食事会を開いてくれた。部署の仲間たちが集まり、笑顔と涙が入り混じった時間が流れた。誰かが言った。「カラオケ、行こうよ」茜は断らずにうなずいた。以前なら、こういう場にはほとんど参加しなかった。義彦が嫌がったからだ。彼の好みに合わせ、彼の生活を尊重し、彼の影の中で控えめに生きてきた。にもかかわらず、待っていたのはこんな惨めな終わりだった。皮肉にも、その夜の最後に流れたのは、別れを歌ったラブバラードだった。帰宅したのは、夜中の十二時を過ぎていた。茜が玄関のドアを開けると、リビングからタバコの匂いが漂ってきた。ソファには義彦が座り、手に持ったタバコを慌てて灰皿に押し付けた。「ごめん。つい、家で吸っちゃった」「いいよ」もはや、どうでもよかった。この家を出て行くのだから、彼がどこで何をしようと構わない。茜は靴を脱ぎ、静かに浴室へ向かおうとした。だが、義彦がその行く手を遮った。「茜、ちょっと......話がある」彼女は立ち止まり、振り
Read more
第8話
その後、義彦は三日間一度も家に帰らなかった。茜は静かに荷物をまとめ、すべて実家へ送った。段ボールの封を閉じながら、胸にぽっかりと空いた空虚だけが、そっと横たわっていた。そんなある晩、茜は思い切って母に電話をかけた。「お母さん......数日したら、帰るね」「え?休み取れたの?義彦さんも一緒に?」電話口の向こうで、早苗の声がはずんでいた。「茜、妊活の調子はどう?栄養あるものたくさん食べてる?身体を整えなきゃダメよ。義彦さんにも言っといてね、タバコもお酒も夜更かしも厳禁だからね。もう......隣の幸子さんったら、毎日孫娘の自慢ばかり。『うちの孫はねー』って。ふん、うちの茜は美人だし、婿さんだってイケメンなんだから、孫ができたらもっと可愛いに決まってるのに!」いつものように、母は言葉の洪水だった。だが今日は、それすらも胸に染みる。茜はじっと耳を傾けながら、静かに涙をこぼした。すすり泣きが受話器越しに伝わったのだろうか。母の声がふと優しくなった。「茜......どうしたの?泣いてるの?何かあったの?」茜は、涙を指でぬぐいながら小さく答えた。「......お母さん、私、義彦と......離婚するつもりなの」一瞬、沈黙が落ちる。そして――「......そっか。じゃあ、帰っておいで。新しい布団セット買ったの。茜の好きそうな色だったから......ちょうどよかった」「......うん」声が震えた。茜は堪えきれず、用事があるとだけ言って電話を切った。ソファに腰を下ろし、茜はふと壁に目をやった。そこには、和やかに笑う自分と義彦の結婚写真が掛けられていた。八年の歳月を封じ込めた一枚。でも、ねえ義彦、あなたがいなくなっても、この世界には私を無条件で愛してくれる人がちゃんといる。母も、父も。......私自身も、きっとそうなれる。その時、スマホに通知が届いた。送信者は優香。写真が一枚、添付されていた。そこに映っていたのは、白無垢姿の優香と、紋付き袴に身を包んだ義彦だった。優香は慎ましやかに微笑み、義彦はどこか誇らしげな顔をしている。茜は、自分たちの結婚写真を見上げた。あの時、和装の写真を撮りたいと提案したのは自分だった。けれど義彦は「和装は面倒で似合わない」と言って、聞く
Read more
第9話
義彦は一ページずつ、無機質なカルテをめくっていった。「救急搬送時はショック状態」「家族と連絡が取れず、患者本人が手術同意書に署名」「手術時間は3時間」読むたびに、喉の奥が焼けるように痛み、胃の底が冷たくなっていく。文字は理解できるのに、意味だけが遠ざかっていった。繰り返し読み返したカルテを、火傷でもしたかのように投げ出すと、義彦は茫然と立ち上がった。「こんなの......嘘だ。あり得ない。茜が俺を、騙してるんだ!子宮外妊娠の手術なんて、そんな大事なことを、俺が知らないはずがない......ただのわがままを言ってるだけだ。あんなに俺を愛してた彼女が、離婚なんてするはずがない!あり得るわけがない......」信じられなかった。目の前の全てが悪夢か幻覚に違いないと思った。目を覚ませば、すべてが元通りになるだろうと考えたが、何もかもが消えたリビングを見渡す。ベッドも、椅子も、棚もない。かつて二人で過ごしたぬくもりの欠片すら、もうどこにもなかった。「なぜ、こうなった......?どうして......?」震える声で、振り返った。「優香......これは......全部、嘘だよな?」必死に縋るように、優香の肩をつかんだ。義彦の目は真っ赤に充血し、声は擦れていた。だが優香は、どこか冷静だった。ここまで徹底してくれた茜に、むしろ「助かった」とさえ思っていた。「義彦、まず落ち着いて。茜さんに連絡してみて。きっと何か誤解があるはずよ。こんな極端なこと、普通じゃないもの」「そ、そうだよな」義彦は、まるで何かにすがるようにスマホを取り出し、茜の番号に発信した。「申し訳ありません。おかけになった番号は、現在使われておりません」何度かけても、同じアナウンスが流れるだけだった。焦った義彦は、LINEにボイスメッセージを送った。送信直後、「このユーザーにはメッセージを送れません」と表示された。ブロックされていた。その頃、茜を乗せた飛行機は、ちょうど故郷の空港に着陸していた。ゲートを抜けると、到着ロビーの先に両親の姿が見えた。父・日向孝雄(ひなた たかお)の手には、大きなピンクのチューリップの花束。早苗は人混みの中から大きく手を振っていた。「茜!こっちよ!」そんな両親の姿に、茜もつい微笑んだ。けれど、その笑
Read more
第10話
この言葉を口にした瞬間、義彦は深く後悔した。だが、それでも怒りは収まらなかった。茜の行動が、どうしても理解できなかったのだ。「なんで黙ってるんだ?何か言ってみろよ、言い訳でもしてみろ!」「何も言うことなんてないわ。あなたがどう思おうと、それはあなたの自由。繰り返すけど、協議書には早くサインして。期日が来たら、離婚届を出しに行くから」その冷ややかな言葉を最後に、茜は一方的に電話を切った。何度かけ直しても、応答はなかった。がらんとした未完成の部屋に独り立ち尽くしながら、義彦の胸の内もまた、空洞のようにぽっかりと空いていた。あれほどまでに愛した茜。その彼女が、最後に義彦に残したのは、離婚協議書に記された、たった一つの署名だけだった。義彦は怒りと虚しさに任せて、離婚協議書をぐしゃぐしゃに破り捨てると、そばにいた優香には一瞥もくれず、その場を足早に立ち去った。優香はその場に取り残され、ゆっくりと周囲を見回した。実は、彼女はこの家の元々のインテリアがけっこう気に入っていたのだ。壊すには少し惜しい気もするが、古いものが壊されることで、新しいものが入ってくる。そう、自分と義彦の結婚証明書を手に入れたら、この家を一からリフォームして、以前よりももっと素敵な空間に変えてしまおう。一方その頃、茜は外での食事を終え、両親とともに実家へと戻っていた。長年離れていたにもかかわらず、彼女の部屋はほとんど変わっていなかった。柔軟剤の香りがほのかに漂うピンク色の新しい寝具は、一目で母の好みだと分かった。孝雄と早苗は、娘が何か深く傷つくような出来事を経て、義彦との離婚を決意したことを察していた。だが、彼女が自ら語り出さない限り、無理に問い詰めることはしないと決めていた。早苗は茜の頬にそっと手を当て、案じるような瞳で見つめる。「こんなに痩せちゃって......顔色もよくないじゃない。明日、お父さんがお味噌汁を作ってあげるからね」「うん、お父さんが作ってくれるなら、何でも食べるよ」茜は甘えるように、父の腕にそっと身を寄せた。孝雄は破顔し、力強く頷く。「よし、じゃあ明日の朝、スーパーでいい鶏肉を買ってくる。うちの自慢の娘に、栄養たっぷりの具だくさん味噌汁を作ってやらなきゃな」三人は久しぶりに賑やかに笑い合い、そのまま夜更けま
Read more
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status