LOGIN最後まで言い切れなかったけれど、その声には必死な願いがにじんでいた。高司は顔も上げず、手元の書類に目を落としたまま、淡々と「うん」とだけ返した。私はそれ以上何も言わず、そっとドアを閉めて、彼のオフィスを後にした。事務所を出た瞬間、外の冷たい風が正面から吹きつけてきて、春先のひんやりした空気を運んでくる。それでも、頬に残る熱はまったく冷めなかった。さっきのあの恥ずかしくて気まずい光景が、頭から離れない。……オフィスの中。高司は秘書に氷水を持ってこさせた。そのままグラスを傾け、一気に飲み干す。冷たい水が喉を滑り落ちていくのに、体の奥で渦巻くざわつきは、まるで収まらなかった。デスクに座ったまま、無意識にグラスの縁を指でなぞる。しばらく考え込んだあと、ようやく内線を取り、亮介を呼び入れた。「桐生家に伝えてくれ。あの提案、受ける」高司の声は淡々としていて、まるでどうでもいい話でもするかのようだ。けれど亮介は一瞬で固まり、信じられないという顔をした。「高司さん……冗談、ですよね? 桐生家のあの案件、どう見ても先がないって誰でもわかりますよ。最初はきっぱり断ってたじゃないですか。それに最近、あちこちに声をかけてるみたいですけど、業界じゃ誰も乗り気じゃないです。江城家でさえ手を出してませんよ」亮介は慎重に言葉を選びながら、遠回しに止めようとする。長年そばで見てきたからこそ、高司がどれだけ抜け目なく、損をする取引をしない人間かをよく知っている。急に考えを変えたのは、何か赤字を覆す手があるからだと思っていた。けれど様子を見る限り、そんな当てがあるようにも見えない。高司は何も説明せず、ただ淡々と繰り返した。「いいから、行け」それでも亮介は腑に落ちないまま、ふと思い出したように付け加える。「そういえば桐生家、もう別の協力先は見つけてるみたいですよ。ただ、まだ契約は結んでないとか。このタイミングで割って入るのは……ちょっとまずくないですか?」つい口を挟んでしまう。高司は一度決めたことは必ずやり通す人で、こんなふうに横から割って入るような真似はほとんどしない。外に知れたら、評判にも関わる。しかも、損をするのが目に見えている話のためにそんなことをするなんて、どう考えても、いつもの彼らしくない。高司だってわ
高司ははっきりと「出て行け」と言ったのに、私の足は鉛のように重く、どうしても動かなかった。だって分かっていたから。この扉を出た瞬間、沙耶香は桐生家によってロリコンの変態男に差し出されてしまう。そうなれば、彼女の一生は終わりだ。目の奥と鼻がつんと痛み、必死に涙をこらえながら、震える指で一つ、また一つ……ニットのボタンを外していく。絶望と無力感に押し潰され、息が詰まりそうだった。高司の視線が熱を帯びる。深い黒い瞳の奥で、複雑な感情が渦巻き、喉仏が無意識に上下した。彼はただじっと私を見つめ、視線を一瞬も逸らさなかった。オフィスは暖房が効いているはずなのに、私は寒さで震えている。ニットが肩から滑り落ち、中に着ていた薄手のトップスもゆっくり脱いでいく。上半身に下着だけが残ったそのとき、高司が突然立ち上がり、こちらへ歩いてきた。怖くなって、思わず目をぎゅっと閉じる。体の震えが止まらない。けれど、予想していた触れられる感覚は来なかった。彼はわずかに身をかがめ、温かな吐息が耳元をかすめる。だが、その言葉は氷のように冷たかった。「どうして俺が、既婚者に手を出すと思った?昭乃、自分を買いかぶりすぎだし、俺を見くびりすぎだ」その一言は、強烈な平手打ちのように私の頬を打った。私ははっと目を開き、顔が一気に熱くなる。恥ずかしさが足元から一気にこみ上げてきて、今すぐどこかに逃げ込みたくなった。慌てて背を向け、背中に手を回してブラのホックを留めようとする。けれど手が震えて、どうしても留まらない。焦れば焦るほど、うまくいかない。そのとき、高司がゆっくりと私の後ろに回り、私の乱れた手をそっと取った。指先が背中の肌をかすめ、その瞬間、体がびくっと震える。私はその場に固まって、息をするのも忘れてしまった。彼の動きはとても優しく、あっという間にホックを留めてくれた。終始、ひと言も発さないまま。留め終えると、彼はそのままデスクへ戻り、書類を手に取って何事もなかったかのようにサインを始めた。まるで今の一切が存在しなかったかのように、半裸同然の私など最初からそこにいないものとして扱われていた。私は慌てて床に落ちた服を拾い、必死で身につける。着終えても、彼を見ることができず、声もかけられないまま、うつむいてドアへ向かった。ドア
高司は眉をきつく寄せ、晴臣に電話をかけた。高司本人からの連絡だったため、里奈もごまかすことができず、会社で会議中だった晴臣に取り次いだ。向こうで何が話されたのかは分からないが、高司の眉間のしわはさらに深くなっていく。やがて、彼は電話を切った。私は食い下がるように聞いた。「どうでしたか? 沙耶は今どこにいるんですか?」高司はため息をつき、言った。「里奈さんがあの子を桐生家に置いてる。まだ送られてはいないらしい」胸がずしんと沈む。「じゃあ、晴臣は桐生家の人たちが沙耶を……差し出そうとしてること、知ってるの?」苦しくて、その先が言えなかった。高司は私の視線を避けながら言う。「江城家の事情はかなり複雑だ。晴臣にも、どうにもできない事情がある」「それ、どういう意味ですか?」信じられずに問い詰める。「じゃあ、晴臣さんは沙耶を見捨てるってことですか? 奥さんがあんな狂ったことをしているのに、止めないんですか?」高司の表情はほとんど動かない。冷めた声で言った。「晴臣が見て見ぬふりをするとは思わない。ただ、他人の家のことに俺が口出しするのは難しい。俺たちみたいな家は、一つ動けば全部に影響が出る」「でも、沙耶はどうなるんですか?」胸が引き裂かれるようで、言葉を出すのもやっとだった。「彼女、あんなに私たちを信じてたのに。あなたのことを『高司おじさん』って呼んで、私のことも『昭乃おばさん』って……自分の両親みたいだって言って……」そのとき、高司が私の言葉を遮った。声は冷たい。「まずは自分のことをどうにかしろ」私は、高司は他の人とは違うと思っていた。たとえ時生の裁判を手伝っていたとしても、どこかで彼には期待していた。でも結局、彼も、権力を持つ人間と何も変わらない。冷酷で、自分本位で、利己的――それが彼らの消えない本性だ。私はぎゅっと拳を握る。あの日、結城家で晴臣に言われた言葉を思い出したからだ。そして、このところの高司の距離の詰め方も重なり、私は覚悟を決めて、やっとの思いで口を開いた。言いづらさで声が震える。「その日、晴臣さんは……あなたは結婚する気はなくて、その……都合のいい相手が欲しいって」高司の眉がぴくりと動き、顔を上げて私を見る。その目には感情が読めない。「それで?」私は息を整えて言った。「も
もうこれ以上聞いていられなくて、淑江を押しのけて応接室を飛び出した。スマホを取り出し、慌てて晴臣の番号に電話をかける。緊張で指先が震えて止まらない。淑江の話がでたらめなのか、それとも本当なのか、私には分からない。だから本人に確かめるしかなかった。それと同時に、沙耶香をちゃんと守ってほしいと伝えるためにも。何度かコールが鳴って、ようやく繋がった。けれど、聞こえてきたのは里奈の甲高い声だった。「昭乃さん、あなたみたいな黒澤家に捨てられた女が、何度もうちの夫に電話してくるなんて、どういうつもりですか?」「奥さん、私が用があるのは旦那さんじゃなくて、沙耶のことなんです!」焦りで声が上ずる。彼女は鼻で笑い、見下した口調で言った。「四年間も育ててあげて、いいものを食べさせて、いい服も着せてあげたんです。お嬢様気分はもう十分でしょう? 今度は家のために少しくらい役に立ってもらって何が悪いんですか? それがあの子の幸せなんです! それに晴臣は今忙しいんです。あなたみたいなくだらない人間に構っている暇なんてありません。もう電話してこないでください!」そのまま電話は一方的に切られた。私は廊下に立ち尽くしたまま、スマホを握りしめる。足元から一気に冷たいものが這い上がってきた。つまり、淑江の話は脅しなんかじゃなくて、本当のことだ。必死に自分に言い聞かせる。沙耶香は私と血の繋がりなんてない。ただの他人。よその家のことに口を出すべきじゃない……でも、この間ずっと一緒にいた、あの柔らかくて愛らしい小さな子。あんなに優しくて、無垢で。まだ四歳なのに。あの子を、変態の男のもとに差し出すなんて。そんなの、想像すらできない……結局、理性よりも良心が勝った。上司に休みの連絡をする余裕もなく会社を飛び出し、タクシーをつかまえてそのまま君堂法律事務所へ向かった。今頼れる人は、高司しか思い浮かばなかった。……君堂法律事務所。記者証を取り出して言う。「高司さんに取材で来ました」受付が確認してから首を横に振った。「申し訳ありませんが、ご予約の確認が取れません」平静を装って言う。「高司さんの助手の亮介さんと直接約束しています。確認していただけますか?」受付がうなずいて電話を取ろうとした瞬間、私はそのままエレベーターに駆け込み、
私は心菜をなだめた。「そんなに考え込まなくていいから。いい子だから、もう寝なさい。あと何日かしたら、私のほうで先生に連絡を取ってみる。沙耶香が神崎家でどうしてるのか、ちゃんと様子を聞いてみるから」それでようやく、心菜はのろのろとバスルームに向かっていった。……翌日、会社に着くとすぐ、同僚に声をかけられた。応接室に上品そうな奥様が訪ねてきていると教えてくれた。応接室に入ってみて、私は思わず足を止めた。淑江だった。私の姿を見るなり、その目は刺すように鋭くなり、吐き捨てるように言う。「聞いたわよ。あんたがしつこく食い下がって、私を拘置所に一週間も入れさせたんだって?」私は冷たく返した。「児童虐待で一年でも十年でも入ることになるなら、そのまま徹底的に追い詰めるつもりだったよ。残念ながら、一週間で済んだだけだ」とはいえ、その一週間ももうとっくに過ぎている。今の淑江はすっかり身なりを整え、相変わらずの上流婦人ぶりだった。彼女は皮肉たっぷりに笑う。「少し前に高司にサインを迫られたのに、どうしても拒んだって聞いたわ。どうしたの?もう高司に相手にされてないって気づいて、神崎夫人の座も望めないから、今度は時生にしがみつこうってわけ?」私は相手にせず、まっすぐ聞いた。「で、今日は何の用?」淑江は勢いよく書類の束をテーブルに叩きつけた。「これにサインしなさい!私の孫を死なせておいて、まだ黒澤家に居座るつもり?いいこと、私がいる限り、あんたは二度と黒澤家に入れない!」私はその離婚協議書を一瞥もせずに言った。「そこまでして優子を将来の嫁だって決めて、早く家に入れたいなら、心菜の親権は私に頂戴。黒澤家の財産も家も、一円もいらない。私は娘が欲しいだけ」淑江はまるで大笑いでもこらえきれないかのように、鼻で笑った。「バカ言わないで。あの子、あんたと数日一緒にいただけで優子の流産を手伝うような子になったのよ?どれだけ性根が腐ってるの。そんな子をあんたに育てさせたら、将来はあんたと一緒になって黒澤家に噛みついてくるに決まってるでしょ。あんたみたいな女に、母親の資格なんてないのよ!」「話し合いにならないなら、仕方ない。裁判で決着をつけよう」私は書類をまとめながら、はっきりと言い切った。「それと、ここは私の職場よ。あなたが好き勝手できる場所じゃない。もう
時生の顔に浮かんでいた笑みが、ぴたりと固まった。信じられないという目で心菜を見つめ、そこにははっきりとした寂しさがにじんでいる。「心菜、パパは君を捨てたりしないよ。そんな言い方をされたら、パパは悲しいよ」心菜はじっと彼を見つめた。その目は年齢に似合わないほど真剣だった。「じゃあ、なんでママのことは捨てたの?前はどうしていじめてたの?ママだって、そのときすごく悲しかったよ」時生は衝撃を受けたように娘を見つめる。まるで自分の娘ではなく、見知らぬ子を見るかのように。口を開き、何か言おうとしたが、結局ひと言も出てこない。ただその場に立ち尽くし、顔色がさっと青ざめた。そのとき、心菜がくしゃみを立て続けにした。初春の夜風はまだ冷たく、小さな鼻がすぐに赤くなる。時生は思わず一歩近づいた。「風が強い、先に車に乗ろう。無理に帰らなくていい。でも、風邪をひくなよ」そう言って、自ら車のドアを開け、心菜を見つめた。心菜は私の手を握りながら、顔を上げて聞いた。「ママ、その車に乗るの?」私は時生のこわばった顔を一瞬見てから、心菜に言った。「タクシーで帰ろうか、いい?」心菜はこくんとうなずいた。ちょうどそのとき、一台のタクシーが通りかかったので、私は慌てて手を挙げて止めた。私と心菜はそのまま車に乗り込んだが、時生はまだその場に立ち尽くしていた。街灯の光が彼の上に落ち、影を長く引き伸ばす。いつもの自信に満ちた姿は消え、隠しきれない落胆だけが残っている。まるで、行き場のない戸惑いがにじんでいた。帰り道、心菜は私の腕にもたれたまま、ほとんど口を開かなかった。家に帰ってドアを開けると、部屋の中はしんと静まり返っていた。買ったばかりのすべり台付きベッドも、ひとり分空いている。沙耶香の下の段はぽっかりと空き、あの子のウサギのぬいぐるみだけが、ぽつんと取り残されていた。心菜は唇をぎゅっと結び、目を赤くして、小さな声で言った。「たまにね、沙耶香のことちょっと嫌だなって思ってたの。いつもママを取り合うから。でも今は……ちょっと会いたいかも」私が何か言う前に、スマホが鳴った。画面には「晴臣」の名前が表示されている。私はすぐに電話に出た。電話口から聞こえてきたのは、少し疲れたような晴臣の声だった。「昭乃さん、今日は本当に申し訳ありませ
親子鑑定の結果は一日で出るものだと思っていて、潮見市立病院の仕事の早さに感心していた。ところが、電話口からは詫びる声が返ってきた。「申し訳ありません。昨日お預かりした血液サンプルは、正式な手続きを踏まずに個別で検査に回されていました。浩平先生からは指示があったのですが、実習生の引き継ぎの際に見落としがありまして……お子さまの分は、廃棄検体として処理されてしまいました」「……処理、されました?」指先が震え、スマホを落としそうになる。「そんな仕事の仕方、ありえないでしょう?完全にミスじゃないですか!」「本当に申し訳ありません」相手は淡々と説明を続けた。「結城様の血液サンプルは残っていま
私は無理やり笑って、答えた。「まあ、こんな感じかな。大丈夫」どうせ時生と一緒にいれば、どこにいようが居心地は最悪だ。彼が退院する日まで耐えきれば、すべて終わらせられる。春代が帰ったあと、洗面用具を持って浴室へ行き、シャワーを浴びてパジャマに着替えた。その間、最初から最後まで、時生とは一言も言葉を交わさなかった。深夜一時になっても、彼は寝る気配もなく、ベッドに半分身を預けたまま書類を読んでいる。私は今夜、毎時間彼の体温を測らなければならず、どうせ眠れない。それならいっそ、徹夜で小説を書いて眠気を飛ばそうと思った。 正直、もうまぶたが落ちそうなくらい眠いのだけれど。
「昭乃さん、こういうものは時生の前に持ってくるべきじゃないですよ。何年も結婚してるのに、そんなことも分からないですか?」彼女は、私の手にある出前の袋を見て、あからさまに見下した目を向けてきた。私は軽く笑って言った。「忠告ありがとう。おかげで分かったよ。でも、仏教を信じる人なら食べ物を無駄にしないほうがいいでしょ?病院の裏に野良犬がたくさんいるから、あの子たちにあげてくるね」優子は、信じられないという顔で私を見つめた。時生の視線は、今にも私を引き裂きそうなほど冷たかった。私は本当に、その料理を犬にあげた。精進料理とはいえ、店の料理なら動物の脂も入っているはずだ。それで
ほっとしたように、私は笑みを浮かべた。そうか、記者としてだけでなく、時生の妻としてだけでなく、私にはまだできることがたくさんあるんだ。その時、高司の事務所から電話がかかってきた。本人からではなく、助手の亮介からだった。「あなたが雅代を名誉毀損で訴える裁判は、明日の午前十時に開かれます。その時、澄江様も来られます」亮介が言った。澄江の私への気遣いは、いつも私に何もお返しできないもどかしさを感じさせる。……翌日、潮見市地方裁判所に着き、車を降りた途端に、正面から歩いてくる時生、優子、そして雅代の姿が目に入った。数日ぶりに会った優子は、顔色が疲れ切っていて、以前の輝く







