登入結婚して3年、安藤若葉(あんどう わかば)はずっと安藤宗介(あんどう そうすけ)の言う通りにしてきた。 新婚の翌日に盛沢市へ単身赴任させられても、若葉は文句一つ言わなかった。 3年の間、若葉は支社を盛沢市で軌道に乗せただけではない。特許を活用し、数百億円もの利益を上げた。 母親が危篤の時、若葉は休暇を懇願したが宗介に冷たく断られた。「死んでないんだろう?」と一蹴されたのだ。 若葉は意を決して戻ってみると、この結婚生活のすべてが嘘と欺瞞に満ちたものだったと知った。 自分との結婚は、宗介と初恋の人の間に生まれた子供のためだったのだ。 自分が盛沢市へ飛ばされたのも、宗介たちが邪魔されずに暮らすためだった。 さらに、自分が残していった大切な犬までもが、虐待され怪我を負わされていた。 この瞬間、若葉の心は完全に凍りついた。 退職届を出し、離婚届にサインをし、若葉は安藤家を去る決意をした。 事態を知った宗介は彼女を嘲笑った。若葉は必ず戻ってくると高を括っていたからだ。 しかし、再会した若葉は別人のようだった。あるバイオテクノロジー企業の記者会見で、若葉は開発した最新の遺伝子技術を発表していた。 そして彼女の隣には、盛沢市で圧倒的な権力を持つ大物が立っていた。 宗介がひざまずき、懇願した。「若葉、俺が悪かった。もう一度だけチャンスをくれ」 若葉はこれまでに何度もチャンスを与えていた。これ以上、宗介に渡すチャンスはない。 傍らの男性が若葉の腰に手を回し、周囲を見渡して告げた。「彼女は今、俺の妻だ」
查看更多宗介は答えなかった。その沈黙で、涼香はかえって確信を深めた。「だから言ったでしょう。あの女、ろくな人間じゃないって。大した能力もないくせに態度だけは大きいし。前に私が連絡したときもそうだったけど、相手があなたでもまるで態度を変えないなんて、いったい何様のつもりなの?」ただでさえ苛立っていた宗介は、涼香の声を聞いているうちにますます鬱陶しくなった。返事もせず、煙草に火をつける。だが感情が高ぶっている涼香は、宗介の顔色が変わったことにも気づかず、そのまま話し続けた。「私に言わせれば、ああいう人にはもっと強く出たほうがいいわ。今度の案件会議で、これまでどんな態度を取られたか、明和バイオ側にも全部伝えたら?社内の人たちにも、あの人がどんな人物なのか知ってもらえばいいのよ」できることなら、司の目の前であの女のこれまでの態度を全部暴いてやりたい。司が怒って解雇してくれれば、もう二度と顔を合わせずに済む。終わりの見えない資料修正に毎日振り回されることもなくなる。そんな想像に浸っていた涼香を、宗介が突然遮った。声には、苛立ちが隠しようもなくにじんでいた。「もういい。出ていけ」涼香は不満だったが、何も言い返さなかった。宗介がどういう人間かは、よく知っている。機嫌がいいときなら、多少わがままを言っても許される。だが一度機嫌を損ねれば、相手が誰であろうと容赦しない。そんなときは、さっさと離れるのがいちばんだった。涼香は取り繕うように言った。「じゃあ、仕事の邪魔にならないように先に出るわ。何かあったら呼んで」自分のオフィスへ戻ると、すぐ拓海にメールを送り、来週月曜日の案件会議に向けて資料を準備するよう命じた。メールで連絡したのは、以前、拓海が自分の指示に従わなかったことに腹を立て、電話を着信拒否にし、LINEまでブロックしていたからだ。それでも仕事では彼を使わなければならない。今のところ、連絡手段はメールしか残っていなかった。指示を出し終えると、涼香はまた一人で考えを巡らせた。月曜日の会議で、あの女の鼻を明かせると思うだけで、笑いがこみ上げてくる。幼い頃から、ここまで屈辱を味わわされたことなど一度もない。何度も駄目出しをされ、冷たくあしらわれるなど、物心がついて以来、ほとんど経験した
宗介は一瞬、言葉を失った。それから、信じられないものを聞いたように問い返す。「俺が誰なのか、きちんと説明したのか?」「はい」「なら、さっき俺が壇上で話していたのも見ていただろう?」「おそらく。あの時点では、すでに会場にいらっしゃいましたので」「つまり、俺が誰かも知っていて、今日わざわざ会いに来たこともわかっていて、壇上で話しているところまで見たうえで、それでも断ったということか?」宗介は、一つ一つ確かめるように言った。自分がわざわざここまで出向いたというのに、それでも顔を立てようとしない。そんな相手がいること自体、信じられなかった。「彼女はどこだ?」宗介は秘書に怒鳴った。「もう会場を出られました」「どっちへ行った?」「あちらです」秘書が指した方向へ、宗介はすぐに歩き出した。相手がいったいどんな女なのか、今度こそ自分の目で確かめてやるつもりだった。しばらく進むと、確かに一人の女性が見えた。ガラス扉を隔て、宗介は建物の中、あの女は外でタクシーを拾おうとしている。宗介は足を速め、回転ドアを抜けた。あと少しで追いつくというところで、女はタクシーに乗り込み、そのまま走り出してしまった。諦めきれず、宗介は車に向かって声を張り上げた。「停まれ!」車内の若葉は気づかなかった。運転手に声をかけられて、初めて後ろを振り返る。「お客さん、後ろで誰か呼んでますけど、停めますか?」「そうですか?」若葉が振り返ると、風の中に立つ宗介の姿が目に入った。途端に眉を寄せ、すぐ運転手へ向き直った。「そのまま行ってください。知らない人です」宗介は、遠ざかっていく車を見送るしかなかった。行き場のない苛立ちを持て余し、その場を何度か歩き回る。これまではただの疑いだった。だが、これではっきりした。あの女は、意図的に自分を避けている。それでも、いくら考えても、自分がいつ彼女の恨みを買ったのか思い当たらなかった。冷たい風が吹きつけ、宗介の頭も少しずつ冷えていく。先ほど見た後ろ姿を思い返すと、不思議なくらい若葉に似ていた気がした。宗介は鼻で笑った。今日だけでも、これで2度目だ。あの女を若葉に似ていると思うなど、どうかしている。あり得ないことは、自分がいちばん
ほどなく、宗介が壇上へ上がっていく姿が見えた。上質なオーダーメイドのスーツに、同系色でまとめたネクタイとカフリンクス。髪も隙なく整えられ、身なりに十分手をかけてきたことが一目でわかる。案の定、壇上に姿を現しただけで、会場にはざわめきと大きな拍手が広がった。皆、あの外見に惑わされているのだと、若葉にはすぐわかった。かつての自分も、そうだった。だが実際に接し、どんな人間かを知ってしまえば、見た目がいいだけの男だとわかる。嫌いになってしまえば、整った顔さえ目に入れたくなくなるものだ。今の若葉が、まさにそうだった。宗介という人間が嫌いすぎて、声も顔も受けつけない。理屈ではなく、身体のほうが拒んでいた。顔を見た途端、思わず眉間にしわが寄った。そのため宗介が話している間、若葉はずっとうつむき、眉を寄せたまま、手元の資料をめくって意識をそらしていた。壇上の宗介も、彼女が会場へ来たことには気づいていた。ただ、終始うつむいていたため、顔までは見えない。それでも遠目に見ただけで、かなりの美人だとわかった。物静かで、どこか上品な雰囲気がある。一瞬、若葉に似ているようにも思えた。面白い。見た目はあれほど柔らかそうなのに、やることはずいぶん頑なだ。早く直接、顔を合わせてみたい。だが今は壇上にいる。遠くから眺めることしかできなかった。11時近くになり、フォーラムは終了した。3時間にわたる講演もすべて終わり、ここからは参加者同士が自由に交流する時間となる。壇上で注目を集めていた宗介の周囲には、終了と同時に多くの人が押し寄せた。すぐには動けそうにない。そこで秘書を先に向かわせ、自分もあとから行くと伝えさせた。秘書は指示どおり、若葉のもとへ向かった。彼は入社したばかりで若葉のことを知らず、以前安藤グループに勤めていたことも知らない。いつもの商談と同じつもりで、宗介からの申し出を伝えた。初め、若葉は単に名刺交換に来たのだと思い、ほかの参加者と同じように、明るく丁寧に応じた。だが宗介の代理だと聞いた途端、眉をひそめた。もちろん、秘書を責めているわけではない。彼も仕事で命じられて来ただけだということは、若葉にもわかっていた。それでも、嫌悪感までは抑えきれない。若葉
秘書はすぐに確認へ向かったが、相手はまだ到着していなかった。そのまま急いで戻り、宗介に報告する。宗介は鼻で笑った。この時間になっても来ないとは、ずいぶんと大物ぶっているらしい。その頃、宗介の到着を聞きつけた人々が、名刺を手に次々と控室を訪ねてきた。安藤グループの取引先も少なくない。仕事の場である以上、内心どう思っていようと、表向きの付き合いはこなさなければならない。気づけば大勢に囲まれ、ほかのことを考える余裕もなくなった。一方、若葉がまだ会場へ着いていなかったのは、乗っていた車が故障したためだった。すでに路上で30分近く立ち往生している。すぐ直ると思っていたが、いまだに修理は終わらない。車も運転手も、昭夫が手配してくれたものだった。若葉がこのフォーラムに出席すると知り、送迎を用意すると申し出てくれたのだ。初め、若葉は断った。自分でタクシーを呼べば済むのだから、わざわざ会社の車を使う必要はないと思った。だが昭夫は譲らなかった。副社長という立場で会議に出席する以上、専用車での送迎は必要だという。移動の利便性だけでなく、会社としての体面にも関わるのだと説明された。実際には、もっと大きな理由があった。だが、それを昭夫が口にすることはなかった。若葉を一人で会議へ行かせ、会社が車すら用意していなかったと司に知られたら、ただでは済まない。若葉の移動から宿泊、食事に至るまで、すべて社内最高水準で手配するよう、司からとっくに指示されていたのだ。そこまで言われては、若葉も断れなかった。まさか途中で、こんなことになるとは思ってもいなかったが。運転手は、実直そうな中年男性だった。車が故障してからというもの、何度も若葉に頭を下げている。どうやら職を失うのが怖いらしい。会社には報告しないでほしいと、今にも泣きそうな顔で頼み込んできた。若葉は気の毒になり、会社には言わないと約束した。ただ、このままではフォーラムに遅れてしまう。いつまでもここで待っているわけにはいかなかった。そこで、自分はタクシーで向かうから、運転手はここに残って修理を続けるよう提案した。運転手はおとなしくうなずいた。苦情さえ入れられなければ、若葉の言うとおりにするつもりらしい。結局、若葉は路上でタク






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