妻を3年単身赴任させた夫。離婚宣告で執着?

妻を3年単身赴任させた夫。離婚宣告で執着?

By:  八雲詩乃 Ongoing
Language: Japanese
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結婚して3年、安藤若葉(あんどう わかば)はずっと安藤宗介(あんどう そうすけ)の言う通りにしてきた。 新婚の翌日に盛沢市へ単身赴任させられても、若葉は文句一つ言わなかった。 3年の間、若葉は支社を盛沢市で軌道に乗せただけではない。特許を活用し、数百億円もの利益を上げた。 母親が危篤の時、若葉は休暇を懇願したが宗介に冷たく断られた。「死んでないんだろう?」と一蹴されたのだ。 若葉は意を決して戻ってみると、この結婚生活のすべてが嘘と欺瞞に満ちたものだったと知った。 自分との結婚は、宗介と初恋の人の間に生まれた子供のためだったのだ。 自分が盛沢市へ飛ばされたのも、宗介たちが邪魔されずに暮らすためだった。 さらに、自分が残していった大切な犬までもが、虐待され怪我を負わされていた。 この瞬間、若葉の心は完全に凍りついた。 退職届を出し、離婚届にサインをし、若葉は安藤家を去る決意をした。 事態を知った宗介は彼女を嘲笑った。若葉は必ず戻ってくると高を括っていたからだ。 しかし、再会した若葉は別人のようだった。あるバイオテクノロジー企業の記者会見で、若葉は開発した最新の遺伝子技術を発表していた。 そして彼女の隣には、盛沢市で圧倒的な権力を持つ大物が立っていた。 宗介がひざまずき、懇願した。「若葉、俺が悪かった。もう一度だけチャンスをくれ」 若葉はこれまでに何度もチャンスを与えていた。これ以上、宗介に渡すチャンスはない。 傍らの男性が若葉の腰に手を回し、周囲を見渡して告げた。「彼女は今、俺の妻だ」

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Kabanata 1

第1話

盛沢市に単身赴任して3年。安藤若葉(あんどう わかば)は初めて、安藤宗介(あんどう そうすけ)に電話をかけた。

電話越しに、たった今医者から聞いた母親の椎名美津子(しいな みつこ)の病状をすべて伝えた。

血液の感染症で容体は非常に不安定であり、いつ何があってもおかしくない状況だった。

だから、すぐに深津市へ帰らなければならないと訴えた。

だが話を聞いた宗介は冷淡に返すだけだった。「お前は医者じゃないだろう」

深津市へ戻ったところで何も変わらない、と言わんばかりだった。

医者でないことなんて、言われなくても若葉は分かっている。

それでも、倒れたのは大切な母親だ。せめて最期の時はそばにいたい。

普段は宗介の言いつけに従い、一度も逆らったことのなかった若葉だが、勇気を振り絞って言った。「お願い、看病に行かせてほしいの。数日だけお休みをもらうけれど、仕事に穴は開けない」

まさか抵抗されるとは思わなかったのか、宗介は一瞬沈黙した。若葉が自分の前で反論するなど、一度もなかったからだ。

しばらくして、宗介は先ほどよりさらに冷たい声で突き放した。「まだ死んでいないんだろう?」

あまりに残酷な言葉に、宗介の冷淡な言動に慣れているはずの若葉も、これには耐えきれず声を上げた。「そんな言い方、あんまりよ!」

しかし、宗介は彼女の怒りなど意に介さず、不快感を露わにして言い放った。「立場をわきまえろ。俺にそんな口を利く権利が、お前にあると思っているのか?」

この3年間と変わらず、宗介は若葉の感情にも、若葉という人間にも、少しも関心がなかった。

夫婦とは名ばかり。赤の他人よりも冷めた関係だった。

若葉は分からなかった。結婚を申し込んできたのは宗介の方だ。自分が傷つき、子供が望めないと告げても、なお養子を迎えようと言ったのも宗介なのに。

胸が締め付けられ、若葉は屈辱を飲み込みながらもう一度すがりついた。「お願い、宗介。私……」

「いい加減にしろ」すでに我慢の限界だったのだろう、遮るように宗介が冷たく言い放つ。

「若葉、俺の性格は知っているな。この話は終わりだ。深津市へ帰りたければ、安藤グループを辞めてからにしろ」

宗介は容赦なく通話を切った。

プツンと静まり返ったスマホを握りしめ、若葉は呼吸すらできなくなるほど胸が苦しかった。

盛沢市に来てから、若葉は一度も休まずに身を粉にして働いてきた。その尽力のおかげで基盤は安定し、新しい特許技術の研究も形にしてきた。

若葉は、たとえ二人の間に夫婦の情はなくても、自分のこれまでの努力くらいは考慮してもらえるはずだと信じていた。

しかし、どうやらそれは全てただの思い込みに過ぎなかったようだ。

それなら、迷いはない。本当に仕事を辞めてしまおう。

人事システムにログインし、若葉は退職届のフォームに入力し、送信ボタンを押した。

一気にすべてを終わらせ、深津市行きのチケットを深夜のうちに予約した。

朝6時。深津市の空港へと到着した。

病院へ向かうと、医師が美津子の病状を詳細に説明してくれた。

原因不明の突発的な急性白血病だという。一時的に落ち着いてはいるものの、今後は移植を視野に入れた治療が必要であり、少なくとも4000万ほどの費用が必要だと告げられた。

病床の美津子のあまりに弱々しい姿を見て、若葉は目を潤ませた。

実は、美津子と血のつながりはない。若葉は引き取られた身の上だが、美津子はずっと実の娘のように深い愛情を注いでくれた。

美津子はずっと苦労ばかりしてきた人だ。若葉の養育、夫の椎名宏志(しいな ひろし)の残した借金。今回の病気だって、近所の人が倒れた美津子を見つけなければどうなっていたか分からない……

もし誰も気づかなかったら。その後のことを考えると、若葉は恐ろしくて想像もできなかった。

無菌室のため、これ以上の付き添いは断られ、若葉は今後の手続きに関する書類を病院側から手渡された。医師から、今後必要になる莫大な費用の調達を急ぐよう促された。

病院のベンチに座り、若葉はこれまでの蓄えを計算してみた。どれだけ質素に暮らし、物欲を抑えてきたとしても、手取りが少なかったせいで貯まった金額はわずか600万円程度だった。

4000万円という金額の前で、その貯金など焼け石に水だった。

これほどの大金、今の若葉にどうにかできる策など一つもなかった。

病院を後にして、若葉は宗介との家・澄波ヶ丘へと向かった。

結婚初日を除けば、若葉が足を踏み入れるのはこれが二度目だ。

出てきた家政婦が不審そうに若葉の顔を覗き、宗介に取り次ぎに行くと告げた。

ドア越しに、楽しそうな笑い声が漏れてくる。女の声に子供の声――おそらく宗介の養子、安藤悠人(あんどう ゆうと)の声だろう。

悠人のことを思うと、若葉の胸の奥が柔らかくなった。

写真でしか見たことがない名目上の息子だが、母親として、愛情を抱かずにはいられない。

何かプレゼントでもしようと考えたとき、奥の部屋の笑い声がふっと消えた。家政婦に促されるままリビングへ向かった若葉だったが、ソファに座っている3人の姿を目にして、思わず身体が強張った。

宗介の隣には、華やかな女性と悠人の姿があった。

宗介は黒のスーツに同系色のネクタイを締め、髪を軽くかき上げていた。整った眉に鋭い眼差し、精悍な顔立ち。全身から、頂点に立つ者特有の威圧感が漂っている。3年という歳月が、彼をより成熟させ、同時にそのオーラを強めていた。

若葉が部屋に入っても、宗介は視線をスマホから外すことはない。画面にはシステムからの通知が並んでいるが、彼は内容を確認することさえせず、一括承認のボタンをタップした。

隣の女性も口を開かず、ただ冷ややかな視線で若葉を値踏みするように見つめていた。その瞳には冷淡さが宿っているだけで、戸惑いの色はない。どうやら若葉の顔を知っているらしい。

先に口を開いたのは悠人だった。「ママ、この人誰?すっごくダサくて太ってる。パパとママのお友達なの?育ちのいい人とだけ付き合うっていつも教えてくれるのに、どうしてこんな人を招待したの?」

無邪気な子供の言葉ほど、突き刺さるものはない。

若葉はいたたまれなかった。ここ数年、仕事に追われて連日残業を繰り返し、食事もろくに摂れない生活が続いた結果、体調を崩し、体重も以前より随分と増えてしまっていたからだ。

しかし、それ以上にショックだったのは、今、悠人がソファに座っている女性を「ママ」と呼んだことだった。

その女性が悠人の母親なら、自分はいったい何者なのか?

若葉が言葉を探すより先に、その女性が優しく悠人の頭をなでた。「悠人、言ったでしょ?私は『叔母さん』って、ママはそこの人よ」

そう言って、女性は若葉を指し示した。

悠人は途端に表情を歪め、腕を組んで言った。「いやだ!あんなのママじゃない!こんな醜くて太った人なんて大嫌い!今すぐ追い出して!」

張り詰めた空気の中、女性が挑発的な笑みを浮かべて若葉を見ている。

何か言い返そうとした若葉だが、黙り込んでいた宗介の声が先に割って入った。「涼香、悠人を2階へ連れて行って」

自分に対しては向けられたことのない、あまりに優しい声だった。

若葉は悟った。あの女性は宗介の義理の妹であり、安藤家の養女、安藤涼香(あんどう りょうか)だ。

若葉と宗介が結婚式を挙げた時、涼香はそこにいなかった。若葉は宗介に妹がいることは知っていたものの、今日まで一度も顔を合わせる機会がなかったのだ。

実際に会ってみると、そのどこか冷たく、他人を寄せ付けないようなオーラまで宗介とそっくりだ。ただ、顔立ちは宗介より、隣にいる悠人の方によっぽど似ていた。

涼香は宗介の言葉に素直に従い、すぐに悠人を引き連れて階段を上っていった。

二人の足音が遠ざかると、宗介の視線がようやく若葉に向けられる。一瞬、若葉と彼の視線が真っ直ぐにぶつかった。

その瞬間、若葉のスマホに通知が届いた。退職届が受理されたという報告だった。

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第1話
盛沢市に単身赴任して3年。安藤若葉(あんどう わかば)は初めて、安藤宗介(あんどう そうすけ)に電話をかけた。電話越しに、たった今医者から聞いた母親の椎名美津子(しいな みつこ)の病状をすべて伝えた。血液の感染症で容体は非常に不安定であり、いつ何があってもおかしくない状況だった。だから、すぐに深津市へ帰らなければならないと訴えた。だが話を聞いた宗介は冷淡に返すだけだった。「お前は医者じゃないだろう」深津市へ戻ったところで何も変わらない、と言わんばかりだった。医者でないことなんて、言われなくても若葉は分かっている。それでも、倒れたのは大切な母親だ。せめて最期の時はそばにいたい。普段は宗介の言いつけに従い、一度も逆らったことのなかった若葉だが、勇気を振り絞って言った。「お願い、看病に行かせてほしいの。数日だけお休みをもらうけれど、仕事に穴は開けない」まさか抵抗されるとは思わなかったのか、宗介は一瞬沈黙した。若葉が自分の前で反論するなど、一度もなかったからだ。しばらくして、宗介は先ほどよりさらに冷たい声で突き放した。「まだ死んでいないんだろう?」あまりに残酷な言葉に、宗介の冷淡な言動に慣れているはずの若葉も、これには耐えきれず声を上げた。「そんな言い方、あんまりよ!」しかし、宗介は彼女の怒りなど意に介さず、不快感を露わにして言い放った。「立場をわきまえろ。俺にそんな口を利く権利が、お前にあると思っているのか?」この3年間と変わらず、宗介は若葉の感情にも、若葉という人間にも、少しも関心がなかった。夫婦とは名ばかり。赤の他人よりも冷めた関係だった。若葉は分からなかった。結婚を申し込んできたのは宗介の方だ。自分が傷つき、子供が望めないと告げても、なお養子を迎えようと言ったのも宗介なのに。胸が締め付けられ、若葉は屈辱を飲み込みながらもう一度すがりついた。「お願い、宗介。私……」「いい加減にしろ」すでに我慢の限界だったのだろう、遮るように宗介が冷たく言い放つ。「若葉、俺の性格は知っているな。この話は終わりだ。深津市へ帰りたければ、安藤グループを辞めてからにしろ」宗介は容赦なく通話を切った。プツンと静まり返ったスマホを握りしめ、若葉は呼吸すらできなくなるほど胸が苦しかった。盛沢市に来てから、若葉は一度
Magbasa pa
第2話
まさか、こんなに早く承認されるなんて。若葉は愕然とし、胸が締め付けられる思いがした。前から、自分を追い出したかったということか?「誰が帰ってきてもいいと言った?」宗介が、ふいに口を開いた。冷え切った口調、刺すような言葉。電話でいつも聞いていた、あの冷徹な宗介そのものだった。若葉がよく知る、宗介の姿がそこにはあった。「昨日、電話で伝えたはず」若葉は宗介の視線を避け、突き刺さるような冷たさに耐えるように答えた。「俺がいつ認めた?」「だから、お母さんが病気なの」「だからどうした?」宗介は冷ややかな目で若葉を見下ろす。「お前の身勝手な私情を、会社が尻拭いするわけがないだろう?」向けられた視線はこれまで通り、何も映さない凪のように、若葉を徹底的に突き放していた。「自分で会社へ行って処分を受けろ」処分?退職届を出した自分に、彼がどんな処分を下せるというのだろう。そう言い返せばしつこく口論になるだけだし、今の彼女には、他に優先すべきもっと大事なことがあった。「処分のことは会社に行って人事と話をつける。でも今日来たのは、別の用件があったから」「話があるなら家政婦を通せ」宗介は話を続ける気はないようで、時計に視線をやりながら立ち去る姿勢をとった。彼が背を向けるのを見て、若葉は単刀直入に切り出した。「今すぐお金が必要なの」宗介は一瞬だけ立ち止まり、不快げに眉をひそめた。「いくらだ?」聞いてくれたことに望みを感じ、若葉は少しホッとした。それまでの不安な気持ちも、少し軽くなった。「3400万円」さらに誤解をされないように、続けて説明を加えた。「母が入院したの。私の貯金を合わせても、あと3400万円足りない」そう言うと、彼女は夫と呼ばれるその男を、すがるように熱い眼差しで見つめた。若葉は、彼なら出してくれるだろうと信じていた。仕事の上では厳しい間柄でも、プライベートでは夫婦なのだから。何より大学時代から知る仲で、プロポーズも彼からだったのだから、少しは大切に思われているはずだ。結婚して3年、これほど尽くしてきた気持ちだって届いているはずだし、宗介にとって3400万円なんて端金のようなものだ。普段着るコートだってそれ以上の価値があるのだから。だが彼が洩らしたのは承諾ではなく、鼻で笑う低い声と、剥き出しの嫌味だっ
Magbasa pa
第3話
涼香のその言い草には違和感があった。勝ち誇ったようなその表情を見て、若葉はふと、もしかしてこの件に涼香が関わっているのではないかと疑念を抱いた。考える間もなく、後ろから足音がした。そして宗介の声が響く。「一体、何があったんだ?」若葉が言葉を発する前に、悠人が先に駆け寄って訴え始めた。彼は若葉を指差し、騒ぎ立てる。「パパ、この人が僕をいじめてきたんだ!今も叩こうとしてきたよ!ううっ……パパ、僕を助けて。早くこのおばさんを罰してよ!」悠人はあざとい涙まで流してみせた。先ほどコロに対して見せていた残忍な姿とは別人のようだ。目の当たりにしなければ、若葉だって子供のそんな手の込んだ演技など信じられなかっただろう。宗介は悠人の話を信じたようだった。いや、単に、宗介は最初から若葉の言葉など信じていなかったのかもしれない。「悠人に謝れ」その言葉を聞いて、若葉はただただ呆れた。事情を聞こうともせず、こうして問答無用で謝らせるのか?宗介、本当にえこひいきがひどすぎる。若葉は冷たい視線を宗介に返すと、謝罪もせず言葉も交わさず、そのままコロを抱いて立ち去った。背後から悠人の泣き声と、涼香がなだめる声が聞こえた。その響きは、若葉にとってただただ滑稽だった。帰りの道中、若葉の腕の中でコロはずっと震えていた。どんなになだめても、その震えは止まらない。動物病院に行くと、獣医は首を振った。長年この仕事をしてきたが、これほど酷い傷を負った犬は見たことがないと言う。打撲や骨折もさることながら、心身ともに深い傷を負っているようだ。処置を終えた後、獣医は若葉に言った。「できるだけのことはしました。あとは生命力に懸けるしかありません」元気いっぱいだったコロがこんな姿になってしまい、若葉の胸にはやり場のない恨みが渦巻いていた。けれど、自分自身にも責任はある。あの時、迷わずコロを連れて行くべきだったのだ。過ぎてしまったことは仕方がない。これからは、一日一日を大切にコロに尽くすと心に決めた。コロを寝かしつけた後、若葉は一度、安藤グループの本社へ向かうことにした。退職届はすでに出してあったが、許可なく深津市へ戻ってきた件について、事務的な手続きが残っていたからだ。安藤グループ本社ビル。もう3年も足を運んでいない場所だが、目の前に立つとまるで別世界にいるかのよ
Magbasa pa
第4話
昭夫は、安藤グループの盛沢市における最重要取引先だ。安藤グループの全事業の8割を担っている。それだけでなく、若葉の取引先の中で最もやり取りしやすい相手でもあった。若葉が盛沢市に来たばかりの頃、経験もなく名前も知られていない彼女は、冷ややかな視線を向けられ、仕事に苦しんでいた。その状況で、昭夫だけが助けの手を差し伸べてくれたのだ。彼が投資してくれたことで、他の企業も次々と取引に応じてくれるようになった。それに、商談も値切ったり駆け引きしたりせず、非常に誠実だった。昭夫こそが、何年にもわたって若葉を支えてくれた恩人だと言える。若葉は感情を素早く整え、電話に出た。「一ノ瀬さん、お疲れ様です」「お疲れ様、若葉さん」昭夫はいつも丁寧で謙虚で、取引相手としての傲慢さなど微塵も感じさせない。若葉はそこまで丁重に扱わないでほしいと何度も伝えたのだが、彼は一向に譲らなかった。「深津市へ戻られたと伺いましたが……」「ええ、昨晩帰ってきました」若葉は昭夫が仕事を心配しているのかと思い、補足した。「プロジェクトの件はご安心ください。同僚の青木拓海(あおき たくみ)さんへすべて申し送りを済ませています。何かあれば彼に直接連絡してもいいし、もちろん、私に直接連絡をくれても構いません」「仕事の話ではありませんよ」昭夫は、若葉の説明が終わるのを待ってから続けた。「それほど急いで戻られたのは、何かあったのですか?」「ええ……」若葉は隠さず言った。「母が病気で入院しまして」「容体はどうなのですか?お手伝いできることはありませんか?」その言葉を聞いて、若葉は目頭が熱くなった。母の病気を知って以来、心から気にかけてくれる人がいたのはこれが初めてだったからだ。若葉が答えるより先に、昭夫がさらに重ねた。「お金か、それともコネクションか。どちらが必要ですか?」他の人間から言われれば気分を害していたかもしれないが、昭夫の穏やかで誠実な口調を聞くと、彼が本当に心配してくれているのだとわかった。追いつめられていたのか、それとも昭夫を信頼していたからか、若葉はとっさに口にした。「3400万円、お貸しいただけませんか?」昭夫は即答した。「わかりました。口座の番号を教えていただけますか?」「いえ、大丈夫です」自分の浅はかなお願いに気づいた若葉は、慌てて断った。
Magbasa pa
第5話
若葉が再び澄波ヶ丘に姿を現すと、家政婦は驚いたように目を見開いた。「どうして来たのですか?」朝とはうってかわって、態度は横柄で警戒心に満ちている。誰かから指示を受けているようだ。対照的に、若葉はいたって冷静だった。「ここは私の家よ。来てはいけない理由があるの?」「あなたの家?何の冗談ですか?」家政婦は鼻で笑った。「ここは宗介様と涼香様がお住まいの場所です。どこから紛れ込んだのか知りませんが、自分の家だなんてよく言えたものですね」そう言って、家政婦はドアを閉めようとした。「帰ってください。そうでなければ警備員を呼びますよ」若葉はドアに手をかけ、淡々と切り出した。「そんな風に言うなんて、涼香さんから私の噂でも聞かされたのね?彼女は教えてくれたかしら?私は、機嫌を損ねると暴力的な一面があるということ。力加減なんて考えないわよ」言い終わると、彼女は脅すように手のひらを大きく振り上げた。案の定、家政婦はおびえて、顔に血の気がなく、真っ青になった。若葉は冷ややかな目で見た。ただのでまかせにこれほど怯えるとは思わなかったのだ。それにしても、普段から涼香にどれだけ酷い噂を吹き込まれていたのだろう。「ドアを開けて。私物を引き取りに来ただけよ。終わればすぐに帰るわ」正直、用事でもなければ二度と足を踏み入れたくない場所だった。かつて、宗介と一生を共にするのだと、希望に胸を膨らませて結婚した。だから、自分が最も大切にしてきた物もすべて持ってきたのだ。アルバムや写真、色々なプレゼント、幼い頃からの思い出の品のすべてを。今、別れを決意した以上、それらをすべて持って行くのは当然だった。若葉が視線を送ると、家政婦は少し迷った様子を見せたが、最後にはドアを開けた。中に入った若葉は、真っ直ぐ2階へと向かった。結婚当初、若葉は寝室に荷物を置いていた。だが、ドアを開けると室内のインテリアはすっかり模様替えされており、愛着のあった家具も、引き出しの中の私物も、何ひとつ残っていなかった。「中に入っていたものは?」若葉は空になった引き出しを指差し、背後に控えていた家政婦に問いかけた。家政婦は、彼女が何か盗みでもするのではないかと、泥棒を見るような目でずっとぴったりついて監視していた。「知りません」家政婦は冷めた視線を向けるだけだった。「知らない
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第6話
吉川佳奈(よしかわ かな)は弁護士だ。そして、若葉が過ごしてきた25年で、いちばん仲のいい親友だった。二人は高校からの知り合いで、大学も同じだった。この7年で、お互いに隠し事など何もないほどに仲を深めていた。関係が崩れたのは3年前、若葉が宗介と結婚すると決めた時だった。佳奈は猛反対した。「宗介は、あなたが思うほどあなたを好きじゃない。あの人といても、幸せにはなれない」と、何度も言った。けれど当時の若葉は完全に恋愛のことしか頭になかった。どうしても宗介と結婚したかった。少しでも愛してくれるなら、愛情はこれからゆっくり育めばいいし、時間はいくらでもあると思っていた。説得できないとわかった佳奈は、若葉と宗介の結婚をだまって見ていられなかった。かっとなって、二人は絶交した。それきり、連絡は途絶えた。時を経て今振り返ると、佳奈こそが初めから真実を見抜いていたのだと、若葉は痛感していた。当時の自分には、それがまったく分からなかったけれど。電話越しに沈黙が続いたため、若葉は通話が切れたと思い、問いかけた。「佳奈、聞こえてる?」「うん」やっと佳奈が答えた。声はまだ硬いが、初めのような冷たさはなかった。「今、どこにいる?」若葉は「澄波ヶ丘」のサインプレートを見上げた。佳奈に余計な気を使わせたくなくて、近くにある通りの名前を告げた。「そこで待ってて。すぐ行くから」「あ、来なくて大丈夫……」「そこで待ってて」言葉を遮り、佳奈が言い切った。「30分で着く。暖かい場所にいて」「うん」と返事をして、若葉は思わず目を潤ませた。強い言葉だし優しい言い方ではないけれど、これこそが彼女なのだ。いつもきつい口調の裏で思いやり、ピンチの時にいつも寄り添ってくれる。深津市の冬はかなり寒く、若葉は少し外にいるだけで手足が冷たくなった。彼女はスマホで近くのカフェを検索した。割安なコーヒーでも頼んで時間を潰すつもりだったが、その時突然、スマホに宗介から電話がかかってきた。若葉が通話ボタンを押すと、冷徹な声が響いた。「悠人を叩いたのか?家の物を壊したって聞いたぞ」澄波ヶ丘を出てわずか10分。これほどの短時間で宗介から咎める電話が来るとは、彼は本当にあの子のことが可愛いらしい。「その通りよ」と若葉は素直に答えた。「少し甘く見すぎたようだな」宗
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第7話
若葉が家へ戻ったのは、単にコロを連れ帰るためだった。佳奈もコロのことを覚えていて、抱っこしようとした。しかし、それまで大人しかったコロは誰かが近づくのを見た瞬間、激しく吠え始めた。そして体を震わせ、丸くなってしまった。佳奈は訳がわからずに尋ねた。「どうしたの?」「人が怖いのよ」「どうして?」「ひどい虐待を受けていたの」若葉は隠すことなく、澄波ヶ丘に戻った時に目撃した悲惨な光景をすべて打ち明けた。それを聞いた佳奈は怒りで声を荒らげた。「あの二人が人でなしなのはわかってたけど、あのガキもひどいことをするなんて!」佳奈は今すぐ怒鳴り込みに行こうとしたが、若葉がそれを止めた。トラブル続きで疲れていたので、これ以上彼女を巻き込みたくなかったのだ。若葉がそこまで言うので、佳奈も引き下がった。コロの荷物をまとめると、二人はすぐに家を出た。若葉の家から佳奈の住むマンションは遠くない。しかし、二つの場所が醸し出す雰囲気は対照的だった。佳奈の住まいはこの界隈では有名な高級住宅街だった。佳奈は本来、とても家柄が良い深津市にある吉川グループの経営者の一人娘だ。不動産業の実家は、安藤グループには及ばないものの、地元の上流階級では有名だった。しかし佳奈は家業を継ぐ気などなく、法律の道へ進んだ。そのことで親と大喧嘩になり、この数年は実家と疎遠になって一人暮らしをしていた。今日、彼女が若葉を連れてきたのは、実家のグループが開発した高級住宅街の一角だった。厳しいセキュリティーをくぐり、二人はようやく家に入った。佳奈は真っ先に冷蔵庫をあさった。何年も料理をしてこなかったが、今夜は特別だ。「やっぱり、私やるよ」若葉はコロを落ち着かせると、キッチンへ向かった。「ううん、自分でするから大丈夫」「それじゃあ、食材を切るだけでも」「本当に大丈夫。包丁なんて触らないで」「なら、炒め物にする?」「それもダメ、危ないから火から離れていて」佳奈が頑ななので、若葉はふと察した。思えばさっき自宅にいた時から、佳奈はずっとぴったり付きまとっていたのだ。そして今は、台所に近づけず、刃物や火といった危険なものから自分を遠ざけようとしている。まさか……「私が落ち込んで、変なことでもするんじゃないかって心配してるの?」若葉は苦笑した。佳奈は笑
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第8話
宗介だ、絶対に宗介の仕業に違いない……若葉が悠人を叩いたことを逆恨みして、こんな方法で報復してきたんだ。最初にあれこれ言われた時から、若葉はこうなる覚悟ができていた。何が起きても受けて立つつもりだったし、彼のことなど怖くなかった。ただ、母にまで手を出すなんて……宗介のあまりの卑劣さに、若葉は言葉を失った。若葉はスマホを取り出し、宗介の番号に慌ててかけた。しかし、何度呼び出してもすぐに切られる。しまいには、電源が切られていた。行き詰まった若葉は、医師からしつこく転院を急かされた。焦るなかで、カードに入った1億円のことと、前に昭夫が手を貸すと言ってくれたことを思い出す。彼女は意を決して、電話をかけた。電話をかけると、すぐに応答があった。若葉がまだどう切り出そうか考えていないほど、早い対応だった。昭夫から先に口を開いた。「若葉さん、どうなさいましたか?」「今、お電話大丈夫でしょうか?」若葉は言葉を選びながら言った。「ええ、もちろんです。何かお困りのことでも?」昭夫は即答した。若葉は迷いを振り切って言った。「ご相談したいことがあるんです。深津市で、信頼できる医療のつてはありませんか?」ここまで追い詰められ、隠し事をする余裕はない。「母が急性の白血病になってしまって、今いる病院からすぐに別の場所へ移るよう言われているんです。でも状況が急で、転院先がみつからなくて……頼れるところがなくて、ダメ元でお電話しました。ご都合が悪ければ、気にしないでください。何とかして自分で他の方法を探しますから」「心配いりません。若葉さんのお母さんの件は、こちらが責任を持って対応します」昭夫はすぐに若葉を安心させた。「正直に申し上げます。今日の電話がなくても、こちらから連絡するところでした。前にお母さんの入院のお話を聞いてから、ずっと準備を進めていたんです」「本当ですか?」今の若葉にとって、その言葉はただの喜びではなかった。暗闇の中でようやく見つけた、救いの光のように感じられた。「もちろんです」昭夫が言葉を継ぐ。「病院の住所を送ってください。明和バイオの関連病院をすぐに手配します。あとのことはお任せを」「本当に、ありがとうございます」ようやく落ち着きを取り戻した若葉だったが、ふと不安がよぎった。「ですが、そんな手配までしていただ
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第9話
「容態は落ち着いているので安心してください。瑞光総合病院は最新の設備と最高の医療環境が整っていますから、必ず良くなります」「ありがとうございます」若葉は改めてお礼を言った。自分にはお返しできるものが何もないと思い、会社を辞める話を切り出した。「すでに安藤グループには退職の意思を伝えています。あと1か月で辞められます」話の最中、若葉の耳に別の男性の声が入ってきた。低くて落ち着いた声だった。何を言っているのかはちゃんと聞き取れなかったが、どこか惹きつけられる響きがあった。「今、お忙しいですか?」若葉は昭夫の迷惑にならないかと心配して尋ねた。「いえ、大丈夫です。先ほどの声は通りすがりの人のです」昭夫は否定した。若葉はそれ以上聞かなかった。もともと報告だけが目的だった。「それでは、失礼します」「何かあればいつでもご連絡ください」通話を終え、昭夫は額の冷や汗を拭った。咄嗟に司を通りすがりの人だと言ってしまい、怒らせていないか気が気ではない。司から、若葉とのやり取りで自分の情報を一切漏らさないよう釘を刺されていたのだ。そうせざるを得なかったのだから仕方ない。「社長、すみませんでした」司は気に留める様子もなく言った。「次は気をつけろ」「はい、必ず気をつけます」「ああ。それと病院に、食事を彼女が食べ慣れた料理のメニューに変更するよう伝えてくれ。果物やデザートもだ。すべて彼女が喜ぶものに変えるように」「承知いたしました。すぐに手配します」若葉が通話を終えて少し待つと、母がようやく目を覚ました。長い間眠っていたためか、まだ頭がぼんやりしているようだった。ようやく娘の姿に気づき、声を絞り出した。「若葉、どうしてここにいるの?」「お母さんに会いに戻ってきたの」若葉は母の額の髪を優しく整えた。具合はどうかも聞こうとしたが、突然、美津子が涙を流し始めた。「日焼けしたし、やつれてる。この数年、大変だったんじゃない?私までこんなことになって足手まといになるなんて、目覚めなければよかった」「何を言ってるの」若葉は少し怒ったふりをした。「水臭いことを言わないで。私はお母さんの娘なんだから、面倒を見るのは当たり前でしょ?先生も大した病気じゃないって言ってたし、ちゃんと治療を受ければすぐ退院できるから」「本当に?」美津子は少し落ち着き
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第10話
宗介は一日の仕事を終え、涼香とキャンドルディナーを楽しんだ後、その電話をかけた。朝、若葉からの電話をわざと切った彼は、一日中連絡を断つことで若葉が自分自身の立場を思い知っただろうと踏んでいたのだ。「考えはまとまったか?」「何のこと?」若葉の口調は冷めていた。以前の、びくびくと顔色を窺うような様子はそこにはなく、宗介は眉をひそめた。短い時間でここまで性格が変わるとは信じられず、若葉の愛情が消えたとも思えない。宗介には、今の若葉が駆け引きをしているようにしか見えなかった。「何のことか、分かってるだろ?」宗介の声はさらに低くなった。「分からないわ。用がないなら切るから」若葉は今、病室にいる。美津子と扉を挟んだ別室にいるとはいえ、声を聞かれるのは不安で、抑えた声で応じた。「悠人に謝ることについてだ」やはり、そのことだったのか。「言ったはずよ。私は何も間違っていない。謝るつもりはない」若葉の決意は固かった。「まだ懲りないようだな。忘れるな。俺が病院を1つ止める権力があるなら、2つ目だって潰せるんだ」宗介は美津子が転院したことは掴んでいたが、細かい状況を確認する気もなかった。その言葉に若葉は鼻で笑った。自分がしたことを潔く認めるあたり、さすがと言うべきか?若葉は言い返したり揉めたりする気力がなかった。どうやってこの状況を乗り切るか、そればかり考えていた。今母は瑞光総合病院にいるが、ここが深津市である以上、安藤グループの力からは逃げられない。しかも、昭夫にはこれ以上迷惑をかけたくなかったのだ。「結局、何が目的なの?」若葉は単刀直入に問いかけた。「簡単だ。悠人に謝罪し、盛沢市に戻れ。以前通りの暮らしに戻るんだ」ふざけないで。若葉は心の中で毒づいた。そのどちらの条件も受け入れるつもりは微塵もない。「宗介、本気でそれが子供のためになると思ってるの?善悪の区別も教えずに、間違った歪んだ価値観を植え付けるなんて」「お前が俺の子育てについて口出しすることじゃない」「じゃあ誰ならいいの、涼香さんならいいわけ?」若葉はあえてチクリと言い放った。「忘れちゃいけないわ、私は悠人の戸籍上の母親なんだから」「お前に俺を批判する資格はない」宗介は同じ言葉を繰り返した。「一晩猶予をやる。明日の回答を待っているぞ」「明日、
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