Masuk五年前、望月紗和(もちづき さわ)は妊娠七か月だった。 けれど、夫・御堂怜央(みどう れお)の特別な女である花宮莉乃(はなみや りの)に腹を蹴られ、お腹の子を失った。 さらに紗和を深く傷つけたのは、怜央の一言だった。 「莉乃もわざとやったわけじゃない。彼女を刑務所に行かせるわけにはいかない」 彼は紗和の意思を無視し、勝手に示談書に署名した。 それから五年。 海外留学から戻ってきた莉乃を前に、紗和が養子として育ててきた御堂晴翔(みどう はると)は、無邪気な顔で言い放った。 「ママ、きらい。いつも莉乃ママをいじめるんだもん」 その瞬間、紗和はようやく思い知った。 この家には、最初から自分の居場所などなかったのだと。 もう誰にも踏みにじられない。紗和は奪われたものを一つずつ取り戻し、8年ものあいだ捧げ続けた愛を、未練ごと断ち切った。 怜央と莉乃が破滅へ向かっていくのを見届けながら、紗和は密かに自分を守り続けてくれていた大物と籍を入れる。 やがて莉乃の本性が暴かれ、すべてを失った怜央は、紗和の前に膝をついた。 「紗和、全部俺が悪かった。お前を大切にしなかった。頼む、許してくれ。俺のところへ戻ってきてくれ」 けれど紗和は、静かに微笑むだけだった。 少しふくらみ始めたお腹に、そっと手を添えた。そこには、彼女を心から愛する人との新しい命が宿っていた。 そして彼女を愛する人は、いつだって彼女のそばにいた。 一度も、欠けることなく。
Lihat lebih banyak「どんな夢だ?」紗和は答えた。「父と母が死ぬ夢……」征臣は少し黙ったあと、静かに言った。「夢じゃない。それは、本当に起きたことだ」残酷ではある。だが今は、現実を曖昧にしてはいけなかった。医師からも、紗和に尋ねられたことには、知っている限り正直に答えるよう言われている。周囲が現実を否定すれば、かえって記憶の混乱を深める可能性があるからだ。紗和は涙を拭わず、そのまま続けた。「九条家の叔父さんが、燃えてる車から命懸けで私を助けてくれた夢も見たわ」征臣はうなずいた。「俺が頼んだんだ。あの人も昔からお前を可愛がってた。だから危険を承知で助け出してくれた」「そのあと、田舎へ連れていかれて、優しいおばあちゃんと暮らしたの。もう、征臣とは一緒にいられなかった」「お前を殺そうとしてる奴がいた。だから国内の、人目につかない場所へ隠してもらったんだ。居場所を知られないように、こちらから金を送ることも、電話をかけることもできなかった」紗和は泣きながら続けた。「それから、人さらいにも遭った。縄で縛られて、車に引きずり込まれたの」征臣の目が暗く沈む。「国内に残してた部下が、その車を横転させた。犯人のうち二人は死んだ。もう、お前を傷つけることはできない」紗和は征臣を見つめた。「征臣は、ずっと私を守ってくれてたのね。ずっとそばにいてくれたのに……私は、ほかの人を好きになってしまった」征臣は何も答えられなかった。目が痛々しいほど赤くなる。幼い頃の二人は、いつも一緒だった。紗和は何度も、大人になったら征臣お兄ちゃんのお嫁さんになると言っていた。征臣も、そのたびに笑って答えた。それなら、大きくなるまで待っている、と。だが成長した紗和が別の男を愛する姿を、征臣はただ見ていることしかできなかった。涙に濡れた紗和の瞳が、きらきらと揺れている。「征臣、どうして私のところへ来てくれなかったの?私が好きになるはずだったのは、あなたなのに!」「……何だって?」征臣は目を見開いた。「今、何て言った?」紗和が、自分を好きだと言ったように聞こえた。思わず両肩をつかむ。普段の冷静さは完全に消えていた。「俺が好きなのか?今、俺が好きだって言ったんだな?」征臣がここまで取り乱したのは
紗和は、征臣に対する態度まで変わっていた。これまでは彼を恐れ、警戒し、どこか距離を取ろうとしていた。だが今、その眼差しにはまったく違う感情が宿っている。紗和の目から、涙が一気にあふれ出した。「思い出したの、征臣。全部、思い出したわ」「何を思い出した?」「今まで忘れてたことを全部。しかも、驚くくらいはっきりと」征臣は息を呑み、慎重に少しだけ身体を離した。紗和の顔をじっと見つめる。「俺のことも……思い出したのか?」紗和は力強くうなずいた。「ええ」両親を失ったあの事故は、紗和から幼い頃の記憶まで奪っていた。征臣にまだ彼女を守り抜くだけの力がなかった、あの頃。記憶を失ったことは、ある意味では紗和を守っていたのかもしれない。そうでなければ、あまりにも辛い過去に、何度も苦しめられていただろう。もともと紗和は、この世で誰よりも幸せな子供だった。大勢から愛され、ほんの少し一緒に過ごしただけでも、誰もが自然と彼女を好きになった。だが、そのすべてを一度に失った。両親の事故について、征臣は事情を知る立場にいた。それでも、今まで真相を話すことはできなかった。紗和も、今はそれ以上問い詰めなかった。幼い頃のように、征臣の胸へ顔を埋める。だが不意に、表情が止まった。自分はいったい、何者なのだろう。頭の中が急に混乱し始めた。目の前にいる征臣は、両親を除けば、幼い頃の自分が最も好きで、最も信頼していた人だった。それなのに――暗く苦しい別の記憶まで、次々と押し寄せてくる。大学で怜央と出会った。背が高く、頼もしく見えた怜央なら、自分を守ってくれる。支えになってくれる。当時の紗和は、無意識のうちにそう思ったのだろう。その事実は、征臣だけでなく、今の紗和自身にも受け入れがたいものだった。さらに多くの記憶が、幼い頃の記憶と激しくぶつかり合う。紗和は顔を上げた。「征臣、頭がすごく痛い。車まで抱いていって、家に連れて帰ってくれる?」大きな瞳には、まだ涙がたまっている。甘く柔らかな声を聞き、征臣は一瞬動きを止めた。何も言わずに紗和を抱き上げ、そのまま車の座席へそっと下ろす。帰り道、紗和はずっと眠っていた。邸宅へ着くと、征臣は再び紗和を抱き上げ、主寝室のベ
あの日、両親と紗和が乗っていた車も、大型車に前後から挟み込まれた。逃げ道は、ほとんど残されていなかった。最後に両親は、自分たちの命と引き換えに、わずかな隙間へ向けて思いきりハンドルを切った。車の前部を横の車へぶつけ、その車を道路の外へ押し出したのだ。そのおかげで包囲から抜け出すことはできた。だが両親は助からなかった。後部座席にいた紗和だけを、命と引き換えに守ったのだ。思い出した。紗和は、すべてを思い出した。あの事故も偶然ではなかった。何者かが同じやり方で、両親を殺したのだ。涙が頬を伝った。だが今は、泣いている場合ではない。征臣は悪態をつきながらも、巧みにハンドルを操り続けていた。感情に任せてボディガードを遠ざけなければ、相手にこんな隙を与えることもなかった。後悔が一瞬、征臣の胸をよぎる。その手の甲へ、紗和がそっと触れた。「征臣、大丈夫。私に方法がある。少しだけ時間を稼いで」征臣はうなずいた。瞬時に冷静さを取り戻した。どれほど追い詰められても、自分を見失うわけにはいかない。車高の低いスポーツカーに対し、隣を走る大型車ははるかに車高が高い。征臣はぎりぎりまで距離を詰め、わずかな空間を使って相手の動きをかわし続けた。だが後方の大型トラックは、すでに車体の後部すれすれまで迫っている。あと少しでも前へ出られれば、横の大型バンとの間に押し込まれる。そうなれば命はない。緊張が極限まで高まる中、征臣はアクセルを限界まで踏み込んだ。車は狭い隙間を縫うように、一気に前へ飛び出した。距離を取ったあと、征臣がバックミラーを見る。そこで異変に気づいた。3台とも、ほぼ同時に速度を落としていた。やがて完全に動きを失い、惰性だけで進み始める。前方の大型トラックは積み荷が重いため、そのまま長く進んだ。一方、後方と側面の車は先に速度を落とす。そのわずかな差によって、車同士の間隔が開いたのだ。征臣は運転を続けながら、こちらへ向かっているボディガードへ指示を飛ばした。「3台の運転手を全員捕らえろ。一人も逃がすな」横を見ると、紗和は小型端末を開き、画面いっぱいにコードを走らせていた。征臣はすぐに察する。「あの車を止めたのは、お前か?」紗和はうなずいた
それなのにここ数日、征臣はなぜか、紗和がまだ怜央を忘れられずにいると疑い続けていた。湖へ落ちた紗和を怜央が助けようとした、あの日からだろうか。征臣は本気で、紗和が今も怜央を愛していると思っているのか。そう考えると、紗和の中にも怒りが湧き上がった。紗和もとうとう腹が立ち、わざと征臣に逆らうように顎を上げた。「だったら、どうするの?」「俺の怒りは、お前に受け止められるようなものじゃない。だから煽るな」紗和はこれまでずっと我慢してきた。征臣に合わせ、機嫌を損ねないよう気を遣い続けた。だが紗和だって、生身の人間だ。どれほど穏やかな人間でも、我慢を重ねればいつか限界が来る。ここ数日で、とうとうそれを越えてしまった。何もしていないのに、なぜここまで疑われなければならないのか。紗和は全身で拒むように激しくもがいた。征臣は身体を押さえつけ、片手で両手首をまとめてつかむ。そのままシートへ押しつけるように、強く動きを封じた。抵抗されればされるほど、征臣の中では屈服させたいという衝動が強くなる。自分以外のことなど考えられないほど、深く溺れさせたくなった。紗和は涙を浮かべながら、かすかに笑った。「征臣、放して……」その表情にさらに煽られ、征臣は赤くなった目で再び唇を塞いだ。言葉も抵抗も、すべて飲み込ませるような激しい口づけだった。車が停まっているのは、市街地から遠く離れた郊外の分岐路だった。近くを通るのは、轟音を響かせながら走り去る大型トラックくらいしかない。果てしなく広がる夜空には星が瞬き、涼しい風が草木を揺らしていた。革張りのシートが倒され、紗和はその上へ横たえられる。揺れる星空を見上げた。滲んだ星明かりが涙に溶け、目尻から静かに流れ落ちていく。ぼんやりした視界の中で、夜空は絵具を重ねた油絵のように滲んでいた。どれほど時間が過ぎただろう。やがて星明かりさえ薄れ、厚い雲が夜空を覆った。深夜の冷たい露が窓を濡らす頃になって、ようやく征臣は動きを止めた。コンドームを外し、口を結んでティッシュに包み、車内のごみ袋へ捨てる。紗和の身体をきれいに整えると、そのまま腕の中へ抱き寄せ、唇を重ねた。かすれた声で尋ねる。「痛むか?」紗和は答えなかった。二人の体
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