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第100話
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去りゆく後 狂おしき涙 第100話
隼人は、確かに「隠し事はしない」と言った。その瞬間、紗季の瞳にかすかな嘲りがよぎり、彼女は静かにうなずいた。「いいわ。信じてあげる」その言葉が落ちた直後、耳もとに柔らかな声が響いた。「陽向くん、こっちは楽しいかしら？」紗季と隼人が同時に振り向くと――朝、二人と一緒に水族館に来るのを嫌がり、姿を消したはずの陽向が、美琴に手を引かれて楽しげに歩いてくるところだった。陽向と美琴は笑い声を交わしながら談笑しており、実に親しげな様子だった。隼人は思わず紗季の手を強く握りしめる。まさかこんな光景に出くわすとは想像もしていなかったのだ。眉間に深い皺を寄せ、不快な色を隠そうともしなかった。紗季は手を振り払おうとしたが、隼人は放さなかった。彼はそのまま紗季を連れて歩き出した。二人が美琴と陽向の前に立つと、隼人の冷たい視線に美琴は一瞬身を竦ませ、慌てて陽向を自分の背後に庇った。先に口を開いたのは美琴だった。「誤解よ、そんなつもりじゃないの。本当は私……」「俺はお前に話してない」隼人は彼女の言葉を遮り、視線を逸らさず陽向を見据えた。「どうして俺たちと一緒に来なかった？わざわざ美琴と来る必要がどこにある」隼人の厳しい口調に、美琴の顔色がかすかに翳った。陽向はすぐさま言い返した。「美琴さんだって、俺の『ママ』だよ！それに、ママにはパパがいるんだからいいでしょ？美琴さんは一人なんだ。俺が一緒に来て何が悪いの！」その声には強い反発と不満が滲んでいた。父の威圧で押さえつけられようとしても陽向は決して引かないだろう。隼人の顔に冷ややかな影が落ちた。紗季はそっと彼の手を引き、淡々と告げた。「お手洗いに行ってくるわ」隼人の反応を待たず、彼女は踵を返して去っていった。隼人が追おうとしたとき、美琴が前に立ちふさがった。その表情は真剣だった。「昨日の夜、あなたが電話で話したこと……もう一度、ちゃんと話し合わない？」隼人は心配そうに紗季の背を見送った。確かに手洗い場の方へ向かっていると確認し、やむなく美琴と共にイルカ館の外にある休憩スペースへ向かった。二人は並んで腰を下ろした。美琴は隼人を見つめ、苦笑を浮かべた。「体調が良くなったら、あなたと一緒に離婚の手続きをしようと思っていたの。でも今
去りゆく後 狂おしき涙 第99話
隼人はわずかに落胆を滲ませながらも、紗季を伴って車に乗り込んだ。本当は三人揃って出かけたかった。子どもがいない分、どうしても物足りなさが残る。ハンドルを握った隼人は、そのまま紗季を水族館へと連れて行った。館内は多くの人で賑わっていたが、隼人は終始紗季を庇い、他人とぶつからないよう細心の注意を払っていた。人混みの中でも、紗季が押されることは一度もなかった。代わりに隼人の腕が何度も人とぶつかったが、彼は眉ひとつ動かさず、不満も苛立ちも見せなかった。立ち寄る場所ごとに、隼人は「これはどうだ？」「面白くないか？」と問いかけ、必死に紗季の興味を引き出そうとしていた。その様子は、紗季にはまるで子どもをあやすように扱われているように感じられた。この行き過ぎた優しさは、心からのものではなく、ただ彼女の気を逸らし、逃げ出させないため――そう思うとどうにも馴染めなかった。紗季は何気なく案内板を見やり、ぽつりとつぶやいた。「イルカを見に行きましょう」「分かった、連れて行くよ」隼人は口元をわずかに緩め、すぐさま彼女をイルカプールへと案内した。イルカたちは飼育員と戯れ、観客たちは目を輝かせながらその様子を見守っている。紗季も少し離れた場所から眺めていたが、ふと隆之の言葉を思い出した。――隆之が一番好きだったこと。それは紗季が疲れているときにイルカを見に連れて行くことだった。海外にはイルカが多く、専用の保護施設もある。紗季はそこで幾度となくイルカと触れ合い、心を癒されてきた。あの頃の自分には何の憂いもなく、今のように弱り切ってはいなかった。――気づけば随分長い間、水族館には来ていなかった。再び目の前に現れた愛らしく、聡明な生き物。だが今の自分は、命が尽きようとしている。紗季は唇を噛み、ぽつりと口を開いた。「聞いたことがあるわ。寿命が尽きかけたり、病気になった動物は、自分の『死に場所』をあらかじめ探しておくのだって。死ぬその日には、仲間や人間に迷惑をかけず、ひっそり姿を消すの」突如として告げられた言葉に、隼人は理由も分からぬまま、心臓を鷲掴みにされたような不安を覚えた。思わず彼は紗季を抱き寄せた。「もうやめろ。俺たちは遊びに来たんだ。そんな縁起でもないこと言うな、な？」紗季は顔を上げ、隼人の真剣な
去りゆく後 狂おしき涙 第98話
隼人は一瞬言葉を失い、どこか拗ねたような響きを帯びてつぶやいた。「俺はお前と一緒にここでいちゃ駄目なのか？」紗季は黙って隼人を見つめ、何も答えなかった。その視線だけで彼女の気持ちを悟った隼人は、落胆の色を浮かべて紗季の手を離した。「ゆっくり休め。もう邪魔はしない」そう呟き、唇を噛みしめて背を向けると静かに部屋を出ていった。隼人が去ったあと、紗季はようやく息を吐き出し目を閉じて次の計画を思案した。――どうか無事に抜け出せますように。そして数日のうちに、隼人が書斎に自分の残したものを見つけてくれますように。いや、今すぐでなくてもいい。私が完全に消え去ったあとなら、遅かれ早かれ、隼人は自分がなぜ見捨てられたのかを知ることになる。翌朝。まだ目を開けぬうちに、すぐ隣に人の気配を感じた紗季は驚いて振り向いた。そこには、外国語の本を手に静かに読んでいる隼人の姿があった。彼の横のテーブルには、湯気を立てる朝食と、きちんと分けられた錠剤、そして清潔なぬるま湯の入ったコップが並んでいた。紗季の胸はざわついた。不気味なほど整いすぎた光景だった。「どうして、ここにいるの？」問いかけると、隼人は顔を上げ、柔らかな笑みを浮かべた。「お前が起きて朝食を取るのを待ってた。薬はもう届けさせてある。ただ……どの錠剤にも名前や注意書きがない。これ、本当にそのまま飲んで大丈夫なのか？」隼人は眉をひそめ、航平の処方があまりに雑ではないかと疑っていた。――紗季はそっと安堵した。航平ならきっと察してくれると思っていた。薬箱や説明書を添えずに渡してくれたのは、自分の秘密が隼人に知られないようにするためだ。紗季はテーブルにつき、錠剤を手に取ると水で一気に飲み下した。紗季は淡々と口を開いた。「わざわざ朝から待っていたのは、私に言いたいことがあるからでしょ？」隼人は微笑み、伸ばした指先で彼女の鼻先を優しくかすめた。「やっぱりお前は俺のことを分かってるな。この数日は、昔みたいに仲良く過ごしたい。俺たちの距離が曖昧なまま長く続いてきたけど……そんな関係はもう嫌なんだ」そう言って、彼は紗季の手を強く握った。「前に言ってただろ？子どもを連れて水族館に行きたいって。一緒に行こう、な？」紗季は興味なさそうに眉をひそめ、鬱
去りゆく後 狂おしき涙 第97話
紗季の胸に強い嫌悪が込み上げてきた。彼女はこんな状況を許すつもりはなかった。静かに、誰にも気づかれぬようにこの家を出て行き、永遠に隼人や陽向の世界から消え去らなければならない。――隼人に最後に会うつもりもない。一言たりとも言葉を交わすつもりもない。どうせ隼人は真実を打ち明けて自分を大人しく退かせ、美琴を正々堂々と迎え入れたいだけだ。――違う。私は絶対にそんな機会を与えない。紗季の瞳には、憎悪の炎が宿っていた。隆之に頼みごとを告げると、彼女は電話を切った。その瞬間、隼人が扉を押し開けて入ってきた。紗季が振り向くより早く、彼は彼女を抱きしめていた。紗季は眉をひそめた。「離して」隼人は顎を紗季の肩に乗せ、耳たぶに軽く口づけしながら囁いた。「声が聞こえたから、起きてると分かった。誰に電話してたんだ？こんな夜更けに」紗季はスマホを握りしめ、力いっぱい彼を突き放した。「兄よ」言い終える間もなく、隼人は再び彼女を抱き寄せ、低く宥めるように語りかけた。「俺のことを告げ口したのか？ごめん。最近は何もかも俺が悪かった。お前をないがしろにしたし、子どものこともちゃんと導けなかった」――繰り返されるのは、いつも同じ言葉ばかり。紗季はもう聞き飽きていた。「考えてみれば、最近の陽向は美琴にばかり懐きすぎていた。でも彼はお前の実の子だ。しばらく家から出ずに一緒に過ごせば、きっとお前との絆も取り戻せる」そう言う隼人を、紗季は無表情のまま見つめてひと言も返さなかった。その沈黙に、隼人の胸には不安が広がった。彼は必死に視線を合わせようとし、紗季の心の奥を読み取ろうとした。だが紗季は静かに顔を背け、その瞳には冷ややかな嘲りの光が宿っていた。「あなた、本気で私と陽向の関係を修復する必要があると思ってるの？実の母親である私に、少しも懐かず、心はすっかり美琴さんに向いている。もう、私のことを母親だなんて思ってないのでしょう？」隼人は眉を寄せた。「今、陽向が美琴を『名付け親』として受け入れているのは、むしろ都合がいいんじゃないの？あなたが美琴さんを家に迎えれば、陽向も私と無理に向き合わずに済むでしょう」隼人は肩に手を置き、焦りをにじませた。「違う……そんな言い方をするな。俺を突き放すだけじゃなく、陽向
去りゆく後 狂おしき涙 第96話
紗季の部屋のドアには鍵がかかっていなかった。ただ、この別荘には執事や使用人が常に控え、外には運転手と門番役の用心棒が二人いる。紗季が出て行こうとしても、それは極めて困難だった。もっとも、紗季自身は無理に抗うつもりはなかった。頭の中は、どうすれば一刻も早くこの窮地から抜け出せるかという思案でいっぱいだった。彼女は階下へ降り、水を飲もうとリビングに向かった。隼人に強引に連れ戻されて以来、これまで服用していた薬は病院に置き去りのままだった。病状を安定させる薬がなければ、容体は悪化する一方だ。――どうにかして薬を取り戻さなければ。そう考えながらコップの蓋をひねったとき、二階から微かな声が漏れ聞こえてきた。紗季は顔を上げる。二階の書斎の扉は半ば開いており、机の上のスタンドライトだけが灯っているため、部屋は薄暗い。注意して見なければ、そこに人がいるとは気づかないだろう。立ち止まった紗季の耳に、隼人の声が届いた。「紗季はもう俺が家に連れ戻した。大きく騒ぎ立てはしなかったが、状態は安定していない。何かあったらと思うと怖い。だから俺たちの件は早めに片をつけなければならない」紗季は愕然と立ち尽くし、指先が氷のように冷たくなった。続けて隼人の声がした。「そうだ、近いうちに時間を作ろう。俺たちのことをきちんと決着させる。それで紗季の気持ちが落ち着いたら、すべて正直に打ち明けるつもりだ」「そのときはお前も一緒にいてくれ。これまでの真実を彼女に伝えよう。もう十分だ……これ以上隠し通すつもりはない」その声には深い疲労と苛立ちが滲んでいた。まるで、法的にも無効なこの結婚生活を続けること自体が、彼にとっては耐え難い苦痛であるかのように。手にしていたコップの中身は熱いお湯だったが、紗季の手は止められないほど震えていた。この数日、隼人は命を削るようにして紗季を引き留め、ついには力ずくで家に連れ戻して錯乱したかのように彼女を閉じ込めた。紗季はそれを、安定した日々を必死に繋ぎ止めようとしているのだと考えていた。だが実際には――ただ真実をすべて明かし、事を収めるためだった。もし今さら「隼人と美琴こそが七年間の真の夫婦だった」と暴かれれば、世間の憶測と非難が爆発することを恐れて。紗季は苦笑して瞳に絶望の冷たい色を宿し
去りゆく後 狂おしき涙 第95話
隼人は、もう紗季を不快にさせるようなことを一言も口にできなかった。「わかった。じゃあ部屋でゆっくり休んでくれ。俺は出ていく。邪魔はしない」紗季をもう一度見やったが、彼女がまったく反応を示さないのを確認すると、深い失望を抱えたまま部屋を後にした。廊下に出ると、ひとりの使用人が恐る恐る近寄ってきた。「隼人様……紗季奥様はとてもお弱りのようにお見受けします。専門医を呼ばずに放っておくのは、さすがに危険ではないでしょうか。あの病室は、重病人か、あるいは心を静めて養生しなければならない方でなければ、通常は使うことを許されない部屋だと伺っております」隼人は苛立つように眉間を揉んだ。冷たく答えた。「そのあたりは俺が調べる。今は彼女が医者を拒んでいる。ならば無理に呼ぶ必要はない。数日待ってからだ」どうせ彼女はここにいる。逃げられるはずがない。隼人の目に一瞬鋭い陰が走り、薄い唇が固く結ばれた。普段の彼は冷静沈着で寡黙だが、紗季のこととなると抑えていた感情が露わになる。使用人は息を呑み、その眼差しに漂う危うさを直視できず、一瞬錯覚を覚えた。――もし本当に紗季様が消えてしまったら……隼人様は理性を失い、闇に堕ちてしまうのではないか。恐ろしくなった彼女は目を逸らし、慌てて踵を返すと足早に去って行った。使用人が階下へ降りていくのを見届け、隼人も目を伏せたまま書斎へ向かった。引き出しを開けると、中には一通の封筒が入っていた。だが隼人はそれに目もくれず、頭の中は紗季との関係をどう修復するかでいっぱいだった。一方その頃、紗季は部屋の中で静かに座っていた。外がしんと静まり返ったのを確かめると、そっと立ち上がり窓辺へ向かう。しかし、思いがけず気づいてしまった。以前は簡単に開けられた窓に、外側から鍵がかけられているのだ。明らかに、彼女が飛び降りて逃げ出さないようにするためのものだった。紗季は思わず冷笑を漏らした。――隼人が今回、必死になって自分を連れ戻した決意は本物。あらゆる手を打って、自分を閉じ込めるつもりなのだ。紗季はカーテンを握りしめ、心身とも疲れ果てていた。顔色も紙のように白い。そのとき、ドアがノックされた。紗季はベッドに戻って腰を下ろし、淡々と答えた。「入って」すぐに扉が開き、一人の人影が慌ただ
