元夫が、息子の幼稚園の前をうろついています

元夫が、息子の幼稚園の前をうろついています

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5年前に離婚した元夫が、突然息子の幼稚園前に現れた。自分の子だと知った財閥CEOの彼は、失った父親の時間を取り戻そうと不器用に距離を詰めてくる。だが、傷ついた過去を抱える私は簡単には許せない。親子と元夫婦、三人の距離が少しずつ変わっていく、後悔と再会の家族ロマンス。

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Chapter 1

1話. 五年ぶりの公園

国内のプライベート・エクイティ業界に君臨する鷹宮インベストメント。その本社四十二階にある社長室の窓からは、東京・丸の内の無機質なビル群がはるか遠くまで見渡せた。

華やかな摩天楼の頂にいながら、鷹宮怜司(たかみやれいじ)は、この五年間、一晩たりとも心安らかに眠れたことがなかった。

数百億円の投資を眉ひとつ動かさず決める冷徹な勝負師。そう呼ばれる男の胸の片隅には、いつも凍てつく風が吹いていた。使い古した革の手帳に挟んだ、色あせた一枚の写真。その表面を指でなぞるたび、指先が情けないほど震えた。

「社長。ようやく見つかりました」

秘書室長が慎重な足取りで近づき、タブレットを差し出した。

画面に映っていたのは、多摩丘陵の静かな住宅街、桜ヶ丘ニュータウンの一角だった。塗装の色あせた、どこか懐かしい団地。その前にある小さな公園には砂場があり、藤棚の下に緑色の木製ベンチが置かれていた。

そこに、ベージュのリネンシャツを着て、長い髪を無造作に束ねた女性が座っている。

藤崎紗季(ふじさきさき)。

五年前に離婚した妻だった。

怜司は指で画面を引き寄せ、もう一度拡大した。転居先がわかったという報告も、似た女性を見かけたという連絡も、これまで何度も受け取っている。

だが、今度は間違いない。髪を耳にかけるときも、ペンだけは手放さない。その癖まで変わっていなかった。

椅子の背にかけたジャケットをつかむと、怜司は社長室を飛び出した。

「今日の残りの予定は全部取り消せ。すぐに車を用意してくれ」

エレベーターの扉に映った自分の顔を見て、ようやくスマートフォンを握り直した。先に連絡しなければ。

けれど、五年前に使われなくなった番号に、何を送るつもりなのか。メッセージの入力画面すら開けなかった。

「誰もついてくるな。俺一人で行く」

秘書室長がうなずく。怜司は写真のベンチをもう一度大きくした。

古い住所でも、誰かの曖昧な目撃談でもない。今日撮られた写真の中に、紗季がいる。

会えたら何を言うか、あれほど考えてきたはずだった。それなのに、口の中に残っているのは、彼女の名前だけだった。

***

都心を抜け、高速道路をひた走ること一時間二十分。

怜司は小さな公園の入口で、赤いインターロッキングの上に立ち止まった。百八十八センチの長身に、隙なく仕立てられたチャコールグレーのスリーピース。磨き上げた手製の革靴が控えめな光を放っている。

砂ぼこりの舞う住宅街の公園には、悲しいほど似合わなかった。

通りかかった住民二人が、ちらりと怜司を見た。ネクタイを緩めても、すぐにはベンチに近づけない。

写真ではわからなかった、紗季の指先の動きが見えた。近づけば、あの手がペンを止める。そのあと彼女は、どんな顔で自分を見るのだろう。

どこかで、勝手に思い込んでいた。

紗季は自分を恨んで泣いているのではないか。一人きりで暮らしに追われ、疲れ果てているのではないか、と。

そうであれば、今さらでも自分の財産と力をすべて差し出せる。ひざまずいて、その足を拭うことでも、何でもして許しを請える気がしていた。

だが、目の前の現実は、その傲慢で身勝手な想像をあっさり裏切った。

「はい。ロゴの字間を〇・二ポイント詰めた最終パッケージ案、今メールしました。印刷の立ち会いは明日伺いますね」

紗季はワイヤレスイヤホンをつけたまま、タブレットの上でペンを滑らせていた。ベンチの脇には、氷が半分ほど溶けたアイスアメリカーノがある。

晩夏の日差しに少し目を細めているだけで、疲れた様子はなかった。

怜司の知らない仕事があり、その仕事を相談する相手がいる。自分がいなくても、彼女の一日はきちんと回っていた。

喉が焼けつくように乾いた。怜司はゆっくり足を踏み出した。

ざり、と重い革靴が砂混じりの地面を踏む。その音に、紗季のペン先が止まった。短く通話を終え、顔を上げる。

砂地に立つ革靴から、見覚えのある顔へ。

五年ぶりに向き合った彼女の瞳は、記憶にあるものよりもずっと硬く、冷えた黒曜石のようだった。

息が止まりそうな沈黙の中、怜司は震える手を伸ばし、乾いた唇を動かした。

「……紗季」

喉につかえた名前を、やっとのことで押し出す。

今にも崩れ落ちそうな怜司とは対照的に、紗季は整った眉をほんの少し寄せただけだった。驚きもしない。涙の一滴も浮かべない。

ぱたん、とタブレットを閉じ、静かに口を開いた。

「そこ、私の日差しを遮ってるんですけど。どいてもらえます?」

「紗季、俺だ。怜司だよ……。どれだけ捜したと思って……」

心臓がひやりと沈んだ。わざと知らないふりをしているのだ。そう信じ、焦って一歩近づこうとした、そのときだった。

滑り台の向こうから、よく通る子どもの声が公園いっぱいに響いた。

「ママー! 滑り台、下から登るの百回できた! ねえ、見て見て! すごいでしょ!」

怜司の体が、その場で凍りついた。

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1話. 五年ぶりの公園
国内のプライベート・エクイティ業界に君臨する鷹宮インベストメント。その本社四十二階にある社長室の窓からは、東京・丸の内の無機質なビル群がはるか遠くまで見渡せた。華やかな摩天楼の頂にいながら、鷹宮怜司(たかみやれいじ)は、この五年間、一晩たりとも心安らかに眠れたことがなかった。数百億円の投資を眉ひとつ動かさず決める冷徹な勝負師。そう呼ばれる男の胸の片隅には、いつも凍てつく風が吹いていた。使い古した革の手帳に挟んだ、色あせた一枚の写真。その表面を指でなぞるたび、指先が情けないほど震えた。「社長。ようやく見つかりました」秘書室長が慎重な足取りで近づき、タブレットを差し出した。画面に映っていたのは、多摩丘陵の静かな住宅街、桜ヶ丘ニュータウンの一角だった。塗装の色あせた、どこか懐かしい団地。その前にある小さな公園には砂場があり、藤棚の下に緑色の木製ベンチが置かれていた。そこに、ベージュのリネンシャツを着て、長い髪を無造作に束ねた女性が座っている。藤崎紗季(ふじさきさき)。五年前に離婚した妻だった。怜司は指で画面を引き寄せ、もう一度拡大した。転居先がわかったという報告も、似た女性を見かけたという連絡も、これまで何度も受け取っている。だが、今度は間違いない。髪を耳にかけるときも、ペンだけは手放さない。その癖まで変わっていなかった。椅子の背にかけたジャケットをつかむと、怜司は社長室を飛び出した。「今日の残りの予定は全部取り消せ。すぐに車を用意してくれ」エレベーターの扉に映った自分の顔を見て、ようやくスマートフォンを握り直した。先に連絡しなければ。けれど、五年前に使われなくなった番号に、何を送るつもりなのか。メッセージの入力画面すら開けなかった。「誰もついてくるな。俺一人で行く」秘書室長がうなずく。怜司は写真のベンチをもう一度大きくした。古い住所でも、誰かの曖昧な目撃談でもない。今日撮られた写真の中に、紗季がいる。会えたら何を言うか、あれほど考えてきたはずだった。それなのに、口の中に残っているのは、彼女の名前だけだった。***都心を抜け、高速道路をひた走ること一時間二十分。怜司は小さな公園の入口で、赤いインターロッキングの上に立ち止まった。百八十八センチの長身に、隙なく仕立てられたチャコールグレーのスリーピース。磨き上げた手製の革靴が控えめ
last updateLast Updated : 2026-10-01
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2話. 滑り台から現れた、そっくりさん
「ママ! 夜ごはん、約束のチキンナゲット五個だからね! ケチャップもいっぱいつける!」黄色いプラスチックの滑り台を勢いよく滑り降りた小さな男の子が、砂ぼこりを巻き上げながらベンチへ駆けてきた。汗で濡れた前髪を揺らし、紗季の胸に飛び込む。その小さな顔に視線が触れた瞬間、怜司の頭の中が真っ白になった。まるで、思考の回路をまとめて吹き飛ばされたようだった。(……え?)眉の形も、何か気に入らないときに鼻をくしゃっとさせる癖も、見覚えがある。書斎にしまってある古いアルバムが浮かんだ。母にシャツのボタンを一番上まで留められ、不機嫌にカメラをにらんでいた、幼い頃の自分の顔。その子も今、同じような顔でこちらを見ていた。似ている子など、いくらでもいる。そう思おうとしても、視線は紗季へ戻ってしまう。彼女は子どもの背中をさすりながらも、怜司には何も言わなかった。「陽翔、汗びっしょりじゃない。そんなに走ったら服まで濡れちゃうよ。先に拭こうね」怜司など目に入っていないように、紗季は慣れた手つきでトートバッグから恐竜柄のハンカチを取り出した。額から耳の周り、首の後ろまで丁寧に拭いていく。その口元には、この五年間、一度も見ることのできなかった、優しく温かな笑みが浮かんでいた。一緒に暮らしていた頃、残業で疲れ切り、ソファに倒れ込んだ自分の額を撫でてくれたときと、同じ優しさだった。紗季が曲がるストローつきの有機麦茶のパックを渡すと、陽翔(はると)と呼ばれた子はごくごくと喉を潤し、ふと首をかしげた。黒いスーツ、光る銀色の腕時計。その順に小さな瞳が動く。視線が顔まで上がってきても、怜司は口を開けたまま、何も言えなかった。陽翔は小さな指で怜司を指し、母の服をつんつんと引いた。「ママ、あの背の高いおじさん、誰? よその公園でマネキンみたいに固まってるけど」「……気にしなくていいの、陽翔」「もしかして、夜にこっそり砂を盗みにくる泥棒? 幼稚園の先生が、怪しいおじさんには気をつけなさいって言ってたよ」怜司は開いた口を閉じた。この子の目には、自分はそんなふうに映っているのか。泥棒。それも、公園の砂泥棒。年間数千億円もの資金を動かし、ウォール街や東京の金融街で名を轟かせる鷹宮怜司が、まさかそんな扱いを受けるとは。だが、今はプライドも屈辱も入り込む隙がなかった。血が逆流
last updateLast Updated : 2026-10-01
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3話. 考える時間なら、もう終わりましたけど?
満四歳。怜司は、レストランで別れた晩春の日と、その年の夏に離婚届が受理された日を、順に思い返した。紗季は二度も確かめた。本当に、このまま終わりにするのかと。それでも彼は、最後には彼女が戻ってくると思い込んで、書類に署名した。陽翔は、そのあとに生まれた年齢だ。頭の中で日付がつながると、足から力が抜けた。けれど、自分の推測を子どもの前で事実のように口にはできない。いつわかったのか。誰と病院へ行ったのか。聞きたいことが一度に喉までせり上がった。紗季は、まず子どもの汗を拭いていた。その手を見ながら、自分が一度も渡せなかったハンカチや水筒のことを考えた。この子が生まれ、育っていく間、自分はここにいなかった。「紗季……俺の子なのか? まさか……俺たちの子なのか?」声がひどくかすれた。耐えきれない罪悪感と驚き、名前のつけられない感情が押し寄せ、目の奥が熱くなる。それでも、紗季の態度は揺らがなかった。淡々とベンチのタブレットと仕事の書類バッグを肩にかけ、陽翔の服についた土を払う。「ここでその話はしないで。陽翔は、私が育てた私の息子です。似ている、その一言であなたの居場所ができるわけじゃありません」「どうして俺に……いや、ごめん。責めてるんじゃない。本当に何も知らなかった。こんなに遅くなるなんて……」怜司が胸元をつかみ、すがるように近づくと、紗季は冷たく鼻で笑った。その笑いは、この五年間、彼が浮かべてきたどんな傲慢な笑みよりも残酷に胸をえぐった。「今さら、何を守るつもりですか?」静かな声だった。だからこそ、その鋭さが公園の沈黙に突き刺さった。「五年前、あの高級レストランで、ワイングラスをくるくる回しながら頬杖をついて、何て言いましたっけ。『紗季、俺たちの関係を真剣に考える時間がほしい。君は俺に執着しすぎだ』。そう格好つけて、先に席を立ちましたよね」「……!」「あのとき社長さんがおっしゃった『考える時間』が、五年もかかるとは思いませんでした。半世紀くらいかかるかと思っていたので、案外お早いんですね?」息が詰まった。五年前の、自分の愚かで思い上がった言葉。それがそっくり返ってきて、喉を締めつける。友人たちのくだらない助言に踊らされ、夫婦だって主導権が大事だと、得意げに振る舞っていた。そんなことを口にした自分を、殴り倒してやりたかった。あの
last updateLast Updated : 2026-10-01
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4話. 元凶どもの襟首をつかむ
紗季は陽翔の手を引き、一度も振り返らず、公園の向こうの団地へ消えていった。砂ぼこりの舞うベンチの前で、怜司は力なく座り込んだ。仕立てのいいズボンには、小さな靴跡がくっきり残っている。胸の真ん中を撃ち抜かれ、大きな穴が開いたようだった。砂の上には、陽翔が落としたヘアピンが残っていた。黄色い恐竜の形をしたピンを拾い、ハンカチに包む。これを返す口実ができた。そう思った直後、真っ先にそんなことを考えた自分が嫌になった。物を一つ持っているからといって、また訪ねていいわけではない。スマートフォンを取り出し、秘書室長に電話をかけた。子どもの名前を告げかけて、一度止まる。また、自分の焦りを鎮めるために、他人の私生活を探らせようとしていた。「……社長。紗季様にはお会いになれましたか?」「もう人をつけて調べるな。今日、彼女を見つけた経緯も、俺以外には報告しないでくれ」「追加の調査は中止いたします」「自分の戸籍の記録を確認する手続きを教えてくれ。それと、相沢と瀬川はまだ会社にいるか?」その声ににじむ険しさに、秘書室長が息をのんだ。「相沢取締役と瀬川取締役は、本社四十二階の役員ラウンジで、来週の投資家向け説明会の資料を確認しておられますが……」「待っていてほしいと伝えてくれ。俺から話がある」***車内で手続きの案内を開き、すぐに閉じた。運転中に確認することではない。画面を伏せても、信号待ちの間に浮かぶのは、陽翔が広げて見せた四本の指ばかりだった。甲高いブレーキ音が、鷹宮インベストメントの地下駐車場に響いた。ベントレーを降りて四十二階まで上がると、怜司はためらいもなく役員ラウンジの重い扉を蹴り開けた。何も知らない二人は、それぞれのグラスを手に、くつろいでいた。「おお、鷹宮社長。郊外視察はいかがでし……ぐっ!」高級シングルモルトのグラスを揺らしていた相沢航平(あいざわこうへい)の襟首が、怜司の大きな手につかまれた。ぐいと持ち上げられ、体が浮く。隣でコーヒーを吹いた瀬川直人(せがわなおと)が、慌てて駆け寄った。「おい、怜司! 何してんだよ! 昼間っから、いきなりどうした!」「黙れ、直人。お前もこっちに来い」直人に腕をつかまれ、怜司はようやく航平から手を離した。ソファの背をつかみ、呼吸を整える。怒りをぶつける相手は目の前にいる。それなのに、気持
last updateLast Updated : 2026-10-01
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5話. 消されなかった名前
怜司は、机にそろえた書類をしばらくしてから手に取った。藤崎陽翔。先ほどは震えてまともに読めなかった名前を、指でたどる。あの子は確かに、藤崎陽翔と名乗った。紗季は嘘をついていなかった。嘘をついていたのは自分だ。姓が違うのだから、自分の子ではないかもしれない。ただ似ているだけかもしれない。認めてしまえば、失った五年間をどこから引き受ければいいのか、わからなかった。初めて婚姻届を出した日にも、紗季の名字を書いた紙があった。「いつか子どもができたら、私の姓も残してあげたいの」実家がまた結婚式を延期してほしいと言っている。その話を伝えた直後だった。紗季は、式を急いでほしいとは言わなかった。代わりに婚姻届と、二人の約束を書き留めた紙を並べた。仕事では藤崎の名前を使い続けること。子どもの名前や育て方は、家の意向に任せず二人で決めること。役所に出す書類ではない。紗季が確かめたかったのは、怜司自身の気持ちだった。「あとで、親が嫌だと言ったら……」言葉を濁すと、紗季はペンを置いた。「今、あなたに聞いてるの。ご両親じゃなくて」彼は、その約束の下、紗季の名前の隣に自分の名前を書いた。帰り道に、小さな指輪を二人で選んだ。紗季は紙袋を膝に置き、何度も中をのぞいていた。あの日だけは、何でも二人で決められる気がしていた。いつからだったのだろう。食事の席で母が紗季をけなしても、怜司が謝るのは家に帰ってからだった。仕事で潰れた約束は翌週へ回した。紗季が翌週も待ってくれるから、待てる人なのだと思ってしまった。レストランで、考える時間がほしいと言ったときもそうだ。彼女のほうから謝ってほしかった。なぜ紗季が謝らなければならないのかは、考えもしなかった。そのあと、紗季は二度、離婚について話したいと言った。一度目には会議があると返し、二度目には、そこまですることかと問い返した。いよいよ書類を目の前にしても、彼女が考え直すと信じていた。手続きが終わるまで、自分から引き留めたことは一度もなかった。離婚が成立すると、連絡が途絶えた。友人たちに事情を話すときでさえ、妻が自分のもとを去った、とは言わなかった。紗季が突然姿を消したのだと言った。そのほうが、自分が少しだけ卑怯に見えずに済んだから。書類を折りかけ、怜司は手を止めた。ちょうど、子どもの名前の真ん中に折り目が
last updateLast Updated : 2026-10-01
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6話. 幼稚園の前にいる、怪しい大男
翌朝八時四十分。桜ヶ丘のひだまり幼稚園の正門前には、明るい日差しが降り注いでいた。黄色い送迎バス。子どもの手を引いて集まってくる保護者たち。その穏やかな風景に、どう考えてもなじまないものが一つあった。園の塀の角、桜の木陰。黒いサングラスをかけた男が、落ち着きなく行ったり来たりしている。英国サヴィル・ロウで仕立てたダークネイビーのスリーピースに、エルメスのシルクタイ。鷹宮怜司だった。問題は、その男が花壇の向こうから顔だけをのぞかせ、ひまわり組の入口をものすごい目つきで見つめていることだ。スーツのポケットは、夜明けから秘書室を総動員して集めた高級な贈り物や、手作りのオーガニックキャンディで、不自然に膨らんでいた。「ねえ、あの人、何……?」「公園でもうろうろしてたわよ。まさか、誘拐犯じゃないわよね?」「あんな高そうなスーツで、どうして隠れてるの? 顔は普通なのに……警察に連絡したほうがよくないですか?」登園中の母親たちのささやきも、怜司の耳には入らなかった。昨夜は戸籍の書類を握りしめたまま、一睡もできなかった。自分が父親なのだと思うと胸がいっぱいになる。その一方で、この五年間、紗季と子どもが味わった苦しみや、自分が空けていた場所を思えば、胸が裂けそうだった。重いお腹を抱えて、一人で産婦人科に通った紗季。病気の子を背負い、救急外来を探し回ったであろう紗季。思い浮かべるたび、自分の胸をえぐってしまいたくなる。そのとき、離れた横断歩道を渡ってくる二つの姿が見えた。水色のシャツワンピース姿の紗季と、ひよこのような黄色い園服に帽子をかぶった陽翔だった。陽翔は母と手をつなぎ、弾む足取りで鼻歌を歌っている。小さな通園バッグを背負って歩く姿が、胸が苦しくなるほど愛おしかった。(陽翔……俺の、息子……)込み上げるものを抑えられず、怜司は体面も理性も放り出して木陰から飛び出した。長い脚であっという間に距離を詰め、二人の前に立ちはだかる。そのままアスファルトに片膝をついた。突然の大男の出現に、近くの保護者から短い悲鳴が上がった。先生たちまで驚き、正門へ駆け寄ってくる。担任が陽翔の前に手を差し出した。陽翔はさらに母にくっつき、紗季はほかの子が通れるよう、バッグを脇へ寄せた。「まず道をあけて。子どもたちが入れないでしょう」怜司はそこで初めて、自分が入口
last updateLast Updated : 2026-10-01
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7話. 一一〇番と白い封筒
「鷹宮さん。一秒たちました。今から一一〇番にかけます」冷ややかな声が、怜司の耳を刺した。スマートフォンの画面に浮かぶ、三つの数字。紗季の親指が緑色の通話ボタンに触れる直前、怜司は反射的に両手を高く上げた。ウォール街で名を轟かせ、数百億円の投資契約を動かしてきた男とは思えない、見事な降参の姿勢だった。「お、押さないでくれ! 頼む、それだけは押さないで、紗季!」切羽詰まった声に、周囲の保護者がいっせいに振り返る。顔面蒼白で両手を掲げ、膝を折っている名家の御曹司。朝の幼稚園には、あまりにも珍しい見世物だった。母の背中に隠れていた陽翔が、その隙に顔をのぞかせた。小さな指を怜司の額に向け、よく通る声で言う。「ママ! 背の高いおじさん、目から汗が出てる! 膝ついて手を上げてるけど、お仕置きされてるの? 嘘ついて怒られたの?」「……これは、冷や汗だよ」怜司は声にならない悲鳴をどうにかこらえ、震える声で答えた。実の息子に、幼稚園の前でお仕置き中の嘘つきだと思われるなんて。だが今は、体面を気にしている余裕すらなかった。紗季の指がわずかに動く。怜司は慌てて、スーツの内ポケットへ手を突っ込んだ。「紗季、一分だけ聞いてくれ! これを……一度でいいから見てほしい!」取り出したのは、白い書類封筒だった。昨夜、何度も出しては読み返した戸籍関係の書類が入っている。折れた部分を伸ばすうち、封筒の端はすでに傷んでいた。両手で恭しく支え、紗季の前に差し出す。「確かめた。俺の名前があったんだ。陽翔の、父親として……。気づくのが、遅すぎた」目の縁が赤くなり、大粒の涙が頬を伝った。息子の存在を確かめた喜びと、五年間の空白への後悔。二つが絡まり、声になってあふれた。けれど、封筒を見る紗季の目は、少しも揺れなかった。むしろ、さらに冷たい笑みが口元に浮かぶ。「それで?」彼女はまず、封筒の上に見える子どもの名前を手で隠した。のぞき込もうとする保護者がいるのに気づくと、書類を怜司のほうへ押し戻す。「自分の記録を今になって見た、その報告を、子どもの前でするんですか? ここで広げないでください」怜司には答えられなかった。昨夜は、父親だと確かめられれば、何かが変わると思っていた。今は、封筒を持つ手をどこへ下ろせばいいのかすらわからない。紗季は先に陽翔を見た。子どもは、二人
last updateLast Updated : 2026-10-01
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8話. 四十二階の社長、交番でうなだれる
「待ってください! 怪しい者じゃありません! 誘拐犯じゃないんです!」怜司は両手を高く上げたまま、慌てて叫んだ。青ざめて取り乱せば取り乱すほど、警察官の目は厳しくなっていく。「まず落ち着いて、身分証を見せてください。登園の時間帯に、塀の陰から子どもたちをのぞいている男性がいる、という通報です」年配の警察官が無線機を手に、怜司の前に立った。怜司は言葉を詰まらせながら内ポケットを探り、財布を取り出した。金箔の入った名刺と運転免許証を、震える手で差し出す。「鷹宮インベストメントの代表取締役、鷹宮怜司です。ご覧の通り、知り合いに……いえ、大事な用があって、少し訪ねてきただけなんです」警察官は名刺と免許証を見比べ、目を大きくした。「鷹宮インベストメント……? 経済ニュースでよくお見かけする、あの鷹宮社長ですか?」「そうです。私がわざわざ、こんな明るい時間に、よその幼稚園で誘拐なんてすると思いますか?」ようやく息をつけそうになった、その瞬間だった。紗季の背後から陽翔が飛び出し、警察官のズボンをつかんだ。「おまわりさん! あのおじさん、嘘ついてる! さっき、ぴかぴかの黒いプラスチックのカードで、ぼくをつろうとしたんだよ! ハイチュウもないくせに、お菓子でつろうとしたの!」怜司は思わず、カードの入ったポケットを手で押さえた。その動きまで怪しく見えそうで、すぐに手を下ろす。警察官の目に、再び疑いが戻った。「ブラックカードで子どもの気を引こうとした、と。社長であっても、子どもへの不用意な接触は、相手を強く怖がらせます。お母さん、この方とは、どういうご関係ですか?」丁寧に尋ねられた紗季を、怜司はすがるように見つめた。知っている人です。その一言だけでいい。元夫だと言ってくれれば。けれど、紗季の口から、助け舟は一つも出なかった。「以前、知り合いだった人です。今は連絡を取りたくない関係です」冷えた声で、はっきり線を引く。「この人が社長でも会長でも、今の私には関係ありません。突然、私と子どもの前に現れて、怖い思いをさせているんです。きちんと調べてください。もうこの近くに来ないようにしていただきたいです」「紗季……!」「陽翔、園長先生が来てくださったよ。ご挨拶して、中に入ろうね」紗季は怜司の声を無視し、迎えに出てきた園長に陽翔の手を預けた。門をく
last updateLast Updated : 2026-10-01
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9話. 鉄壁デザイナーの緊急事態
「はい。日程の前倒し、確認しました。今夜、遅くとも零時までには川越の印刷所へ入ります。特色インキの確認は私が直接しますので、ラインを空けておいてください」電話を切った紗季は、すっかり冷たくなったアメリカーノを一気に飲んだ。頭の中が、焼き切れそうだった。国内有数の化粧品会社から受注した、高級スキンケアラインの全面リブランディング。フリーランスの藤崎紗季という名前を業界に刻み、陽翔との暮らしを安定させられる、またとない大型案件だ。それが、クライアントの世界同時発売の日程変更で、最終パッケージの印刷立ち会いが三日も早まった。今夜、川越の工場に入って印刷の承認を出せなければ、数百万円の契約金どころではない。多額の違約金を求められかねなかった。それだけではない。この仕事が流れれば、何か月も徹夜を重ねて作り上げたデザインも、すべて水の泡になる。難しい仕事だからでも、徹夜が嫌だからでもなかった。問題は、そこではない。「午後四時……」紗季はパソコンの隅のデジタル時計を見つめ、両手で顔を覆った。陽翔の幼稚園のお迎えは、午後四時ちょうどだ。川越までの移動と事前の打ち合わせを考えると、遅くとも四時半には桜ヶ丘を出なければ間に合わない。一緒に連れていく?薬品の匂いと機械の轟音に包まれた印刷工場で、四歳の子を一晩過ごさせるわけにはいかない。まだ幼いあの子をそんな環境に置くことなど、母親として受け入れられなかった。(お母さんは遠いし……お父さんも、今すぐこっちへ来られる状況じゃない)震える指で連絡先を探す。この一年、折に触れて陽翔を見てもらっていた近所のベビーシッターに電話をした。返ってきたのは、絶望的な返事だった。『陽翔くんのお母さん? どうしましょう。私、昨日階段で足首をひねって、今、病院なの。ギプスをしていて、しばらく歩けないって言われて……。本当にごめんなさいね』足元が崩れるような気がした。紗季は慌てて地域の子育て掲示板に入り、緊急の募集を書き込んだ。【急募】本日午後四時から明日の朝まで、四歳の男の子を見てくださる方を探しています。時給は通常の三倍まで相談可能です。何十回も更新ボタンを押した。けれど、つく返信は、どれも求めていた答えではなかった。〈当日の数時間前だと、なかなか見つからないですよね……〉〈今から初めてのシッターさんを頼むのも
last updateLast Updated : 2026-10-01
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10話. スーツ姿の下僕のお願い
「鷹宮さん。正気ですか?」紗季はあきれたように笑い、怜司をきつく見据えた。「どうして、あなたがよその子のお迎えをするんです? つきまといだけでは足りなくて、今度は盗み聞きですか」「盗み聞きのつもりじゃない。交番を出たあと、君が心配で、少し離れたところから見てたら……電話の声が聞こえたんだ。君がうつむいて泣いているのに、通り過ぎるなんてできなかった」赤くなった怜司の目が、すがるように揺れた。ためらいなく、数千万円はするスイス製の腕時計を外す。さらにワニ革の財布、鷹宮インベストメントの印鑑カード、ベントレーのキー、最新型のスマートフォンまで取り出し、テーブルに並べた。「全部、君が持っていてくれ。身分証も、カードも、車のキーも、電話も預ける。少しでもおかしな真似をしたら、横領でもストーカーでも、警察に突き出していい。君に刑務所へ放り込まれたって、文句は言わない」「私の前で、お金持ち自慢ですか? そんなものに興味はありません。片づけてください」「自慢じゃない、担保だ! 俺の命も財産も、君に預けるって言ってるんだよ。紗季、今日川越に行けなければ、何か月も夜を削ってきた仕事が潰れるんだろう。違約金まで払って、変な噂でも広まったら、一人でどれだけ苦労することになるか……」怜司の声が、かすれて途切れた。彼女のプライドの高さも、デザインの仕事にどれほど誇りを持ち、打ち込んでいるのかも、誰より知っているつもりだった。それなのに五年前は、つまらない意地の張り合いで、彼女の自立心も情熱も勝手に軽く扱った。罰が当たって当然だった。「陽翔を安全に迎えに行く。君が川越から戻るまで、家の前で、ほこり一つつかないくらい大事に守る。幼稚園から連れて帰って、ちゃんと家に入ったことまで確認する。絶対に、嫌がることはしない」「鷹宮さん」紗季は腕を組み、冷たい声で痛いところを突いた。「一生、自分で何もしないで生きてきて、インスタントラーメンもまともに作れなかった人が、子どもを見られるんですか? 陽翔がお腹をすかせたら、そのご立派なブラックカードでもかじらせるつもり?」「そんなことはしない! コンビニで、好きなぶどうのハイチュウを買って……いや、君が食べさせていいと言ったものだけにする! 有機のジュースとバナナだけにするから!」怜司は両手を合わせ、必死に頼み込んだ。ウォール
last updateLast Updated : 2026-10-01
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