ANMELDEN結婚三周年の記念日。桜井大輔(さくらい だいすけ)は妻・桜井楓(さくらい かえで)に、世界最高級の宝石を使って作らせたダイヤのネックレスを贈った。名前は――「愛の楓」。 記者会見でそれを掲げ、永遠の愛を語る夫と題す。世間は感動し、SNSは祝福で溢れる。けれどその頃、楓は無人の家でひとり、膝を抱えて座っていた。 テーブルの上には、差出人不明の写真が一枚。そこに写っていたのは――楓のネックレスを身につけ、大輔の腕に絡みつく新しい秘書・鈴木智美(すずき ともみ)の姿だった。 三年間。楓は「完璧で従順な妻」を演じてきた。返ってきたのは、裏切りと、姑の嫌味、そして大輔の薄気味悪い言い訳。 ――「ただの体の欲求だ。君に愛情がないわけじゃない」 彼は思っていた。楓は父親の莫大な治療費に縛られ、泣き寝入りしかない、と。そのうえ愛人の子まで、屈辱ごと飲み込んで育てるだろう、と。 だが――大輔は間違っていた。 楓は家を売り、証拠を集め、裏切りを逃げられない形で突きつけた。すべてを終わらせたあと、彼女は白衣を纏い、薬学研究者として業界に名を轟かせた。家の中に閉じ込められていた頃の面影は、もうどこにもない。 数ヶ月後。泣きながら「やり直したい」と縋ってきた大輔に、楓は冷えた目で言い放つ。 「あなたの妻は、もう私じゃない……今の私は、あなたの叔母よ」 そして彼女の背後に立つのは、大輔の叔父――桜井雅也(さくらい まさや)。彼は静かに大輔を見下ろし、低い声で告げた。 「妻って何だ?――『叔母』、だろ」
Mehr anzeigen大輔は栄養補助食品の大袋と花束を抱え、病院へ駆け込んできた。顔に貼りついた不安と罪悪感が、遠目にも分かる。ICUの前に立つ楓を見つけた瞬間、胸がきゅっと痛んだ。やつれた頬、そして充血した目。眠れていないのは一目瞭然だ。「楓……大丈夫か?お義父さんは……?」声を落として、大輔は支えようと手を伸ばす。だが楓は冷えた目で見返し、一歩引いた。触れさせない。「峠は越えたわ」その短い一言だけで、距離が分かる。「昨日のこと、説明させてくれ」大輔は焦ったように言った。「智美が送ったあのメッセージ、あれは行き違いだったんだ。彼氏に送るつもりだったらしくて……」楓が鼻で笑う。「行き違い?大輔、そんな薄っぺらい嘘、私が信じると思う?」そのとき病室のドアが開き、看護師が顔を出した。「患者さんとの面会はもうできます。ただし静かにお願いしますね」二人は中へ入る。ベッドの上で、恒一が弱々しく横になっていた。二人の姿を見ると、ほっとしたように口元をゆるめる。「楓……来てたんだな」かすれた小さな声。「大丈夫だ。心配するな」楓は込み上げるものを飲み込み、父を不安にさせないよう笑顔を作った。「うん。お父さん、休んで。大輔が好きなサプリ持ってきたよ」大輔もすぐ調子を合わせる。父の前では、完璧に良い婿。「お義父さん、ゆっくり治してください。例のメッセージは新しい秘書が誤送信しただけです。俺がちゃんと処理します。医療費のことも、心配いりません」父はうなずき、ほどなくまた眠りに落ちた。看護師が「休ませてあげてください」と合図し、二人は外へ出る。病室の外には、楓と大輔だけ。空気が、いきなり重くなる。大輔は良い夫の顔のまま言った。「楓、徹夜しただろ。家に帰って休め。俺がここにいる」抱こうとして手を伸ばす。楓は容赦なく振り払った。「今さら低姿勢になって」声は刃物みたいに冷たい。「浮気を許してほしくて必死なだけでしょ」見抜かれた大輔の顔が歪む。彼は一度、取り繕うのをやめた。深く息を吸い、低い声で言う。「楓。智美と関係を持ったのは認める。でも、あれは……身体の処理みたいなもんだ。俺が本当に愛してるのは、昔から君だけだ」「……身体の処理?」楓は耳を疑った。「分かってくれ」大輔は平然と続ける。「俺たちの周りの男なんて、だいたい
大輔が重要な企業買収の契約書に目を通していた、そのときだった。秘書の航平(こうへい)が息を切らし、オフィスに飛び込んでくる。「大輔様、大変です!」肩で息をしながら叫ぶ。「木村様の容体が急変しました!今、病院に緊急搬送されたそうです!」高級万年筆がマホガニーの机に落ち、乾いた音を立てた。大輔は勢いよく立ち上がり、背後のレザーチェアが弾かれて窓にぶつかる。「どういうことだ!」焦りが声に混ざる。「最優先で最高の医療スタッフを手配しろと、俺ははっきり指示したはずだろ!」「そ、それは手配しました!」航平は必死に弁解する。「ですが医師の話では、木村様が重度の肺感染症を起こしたと……午後に動ける医師は全員、智美様の医療チームに回っていて、ICUの空きもなかったそうです」「無能どもが!」大輔は机を叩き、顔を真っ赤にした。「今すぐ全員、お義父さんのところへ戻せ!金はいくらでも出す!もし何かあったら、全員クビだ!」震える手でスマホを掴み、病院の院長へ直接電話をかけようとした、その瞬間。航平のスマホが鳴った。慌てて出た航平は、困惑した表情で大輔を見る。「……病院からです。木村様はすでに特別ICUに移され、容体は安定したと。ただ……手配したのは、雅也様だそうです」大輔の指が止まる。「……雅也?」低く呟く。「どうしてあいつが、お義父さんのことを……」そのとき、パソコンが新着メールを知らせた。送信者は――楓。心臓が嫌な音を立てる。メールを開いた瞬間、血の気が一気に引いた。そこには、数えきれないほどの音声、写真、動画。すべて、楓からのものだった。震える指で、最初の音声を再生する。「楓、大輔は今シャワー中なの。一日中、私の世話でクタクタで……かわいそうよね」大輔の顔色が紙みたいに白くなる。次の音声。「あら、タイミングが悪いわね。私も今日、妊娠の吐き気とめまいがひどくて。でも大輔、私とこの子のために、市内一番の医療チームをすぐ呼んでくれたのよ」胃の奥から、こみ上げるものがあった。楓の父が生死の境をさまよっている間、智美は自分の症状のために医療資源を独占していた。そして、最後の音声。「大輔が言ってたわ。私のほうが若くて綺麗だって。あなたにはできなかったこと――子どもを産めるって。三年も妊娠しないのは、体に問題がある
突然、父の木村恒一(きむら こういち)の身体が大きく痙攣し、激しい咳が止まらなくなった。息を吸い込めず、胸元を掴む指が小刻みに震えだした。顔色はみるみる青から紫へと変わり、手からスマホが滑り落ちた。床にぶつかって乾いた音を立て、そのまま転がっていく。楓は落ちたスマホの画面に映った内容を見て、すぐに察した――これが引き金になったんだ。怒りが一気に噴き上がる。けれど今は、智美を責めている場合じゃない。父の命が最優先だ。楓はナースコールを必死に押し、廊下へ向かって叫んだ。「誰か!先生呼んでください!今すぐ!」医療スタッフが一斉に駆け込んできて、父の状態確認が始まる。楓は部屋の隅で立ち尽くすしかなかった。目の前でどんどん悪くなっていく様子が、ただ怖い。診察を終えた主治医が重い顔で出てくる。マスクを外し、ゆっくり首を振った。「木村さんの容体が急変しました」疲れのにじむ声だった。「腎不全が一気に進行しています。至急、ICUへ移して集中管理が必要です」楓の足から力が抜けた。「……どれくらい、深刻なんですか?」「正直に言いますと、かなり危険です」医師ははっきり言い切る。「ただ、問題があります。ICUが満床なんです。市内の病院も同じ状況で、空き待ちになります」「……待つ?」楓は耳を疑った。「先生、父は待てません。見てください、こんな状態なのに!」父はまだ呼吸が安定せず、肌は灰色がかっている。恐怖で喉が詰まり、声がうまく出ない。「お気持ちは分かります」医師は苦しそうに言った。「今は薬で状態を保ちながら、空きが出るのを待つしか……」胸が押し潰されそうだった。楓の頭に真っ先に浮かんだのは、大輔――桜井グループの後継者。医療界にも太いパイプがあるはずだ。彼なら、父をICUに入れられる。震える手で、大輔の番号を押した。呼び出し音が数回鳴り、電話がつながる――けれど聞こえてきたのは、大輔じゃなかった。「もしもし?」甘ったるい声。智美だった。楓の血の気が引く。「私、楓。今すぐ大輔に代わって。緊急なの」「あら、桜井夫人」心配してるふりが、声にべったり貼りついている。「大輔、今シャワー中なの。今日はずっと私の看病で疲れ切ってて……かわいそうに。休ませてあげないと」怒りを飲み込み、楓は要点だけをぶつけた。「父
楓は大輔のほうを向いた。その瞳から、いつもの温もりは完全に消えていた。「……もう、前と同じ味がしないの」声は不思議なくらい静かだった。けれど、その静けさが大輔の背筋を冷やす。大輔は慌てて駆け寄り、楓を抱きしめる。「きっと店がレシピを変えたんだ」必死に取り繕う。「明日、電話して確認するよ。いくらかかっても、前とまったく同じ味に戻させる」楓の体は、腕の中で硬くこわばったまま。淡々と言う。「一度変わったら、もう元には戻れない」その言葉は氷の刃みたいに、大輔の胸に突き刺さった。彼女がケーキの話以上のことを言いたがっているのは、嫌でも理解せざるを得ない。胸の奥に焦りが一気に広がる。そのとき、スマホの着信音が鳴った。張り詰めた空気を切り裂く音。画面を見た瞬間、大輔の顔色が変わる。楓はその変化を見逃さなかった。失望が、さらに深く沈んでいく。「……出ないと」大輔はしどろもどろに言った。「仕事で、緊急の用事が」楓は完全に背を向けた。「行って。仕事は大事でしょ」大輔は数秒、その場に立ち尽くした。妻を取るか、電話を取るか。そして彼は、ドアへ向かった。廊下に出た瞬間、薄い壁越しに声が聞こえる。「智美?どうした?具合悪いのか?今すぐ行く……」声は遠ざかり、楓はリビングに一人残された。静けさが息苦しいほど重い。白い壁が、じわじわ迫ってくるように感じる。二十分後、楓のスマホが震えた。知らない番号。でも楓は出た。「楓、邪魔してないといいけど」智美の甘ったるい声だ。「今日は体調が悪くて。だから今夜、大輔を借りちゃった。電話したら、迷わず飛んできてくれたの。私が大丈夫かどうかが、何より大事だって」楓はスマホを握る手に力を込めた。けれど何も言い返さない。智美は満足げに続ける。「今日ね、大輔言ってたわ。私のほうが若くて綺麗だって」声が、さらに残酷になる。「それに私なら、あなたには叶わなかったこと——子供を産むこともできるのよ」間を置いて、嘲るように言った。「三年も妊娠しないなんて、体に問題があるんじゃないかって心配してたわよ」そして、最後の一撃でも与えるかのように笑う。「そうそう。今日あなたが捨てた苺ムースのケーキ。あれ、私にはしょっちゅう買ってくれるの。甘い女の