ログイン結婚三周年の記念日。桜井大輔(さくらい だいすけ)は妻・楓(かえで)に、世界最高級の宝石を使って作らせたダイヤのネックレスを贈った。名前は――「愛の楓」。 記者会見でそれを掲げ、永遠の愛を語る夫と題す。世間は感動し、SNSは祝福で溢れる。けれどその頃、楓は無人の家でひとり、膝を抱えて座っていた。 テーブルの上には、差出人不明の写真が一枚。そこに写っていたのは――楓のネックレスを身につけ、大輔の腕に絡みつく新しい秘書・鈴木智美(すずき ともみ)の姿だった。 三年間。楓は「完璧で従順な妻」を演じてきた。返ってきたのは、裏切りと、姑の嫌味、そして大輔の薄気味悪い言い訳。 ――「ただの体の欲求だ。君に愛情がないわけじゃない」 彼は思っていた。楓は父親の莫大な治療費に縛られ、泣き寝入りしかない、と。そのうえ愛人の子まで、屈辱ごと飲み込んで育てるだろう、と。 だが――大輔は間違っていた。 楓は家を売り、証拠を集め、裏切りを逃げられない形で突きつけた。すべてを終わらせたあと、彼女は白衣を纏い、薬学研究者として業界に名を轟かせた。家の中に閉じ込められていた頃の面影は、もうどこにもない。 数ヶ月後。泣きながら「やり直したい」と縋ってきた大輔に、楓は冷えた目で言い放つ。 「あなたの妻は、もう私じゃない……今の私は、あなたの叔母よ」 そして彼女の背後に立つのは、大輔の叔父――桜井雅也(さくらい まさや)。彼は静かに大輔を見下ろし、低い声で告げた。 「妻って何だ?――『叔母』、だろ」
もっと見る周囲の株主たちが自分を持ち上げ、奏を貶すのを聞き、季衡はこれ以上ないほど上機嫌だった。ここ数年、奏は会社で着実な実績を上げており、彼を社長の座から引き摺り下ろす隙など全く見当たらなかった。しかし今、ついに絶好の失態を犯してくれた。この機に乗じて、必ず日進グループの社長の座を手に入れてやる。いや……日進グループそのものを手中に収めてやる!「確かに、私が動けば会社をこの難局から救うことはできるでしょう。しかし、また鳴海社長が一時の感情に任せて会社の利益を損なうようなことをすれば、その時はもう誰も尻拭いなどできませんよ。過去に鳴海社長が会社を大きく成長させたのは事実です。しかし、たった一人の女のために会社の存続を危うくするような人間は、経営トップには不適格だと思いませんか、皆様?」ここにいる者は皆、海千山千だ。季衡が奏に取って代わろうとしていることなど、すぐに察した。実際のところ、季衡の持ち株比率を考えれば、奏を除いて彼ほど社長の座に相応しい人間は他にいない。何しろ彼は、日進グループの株式を30%保有する第二位の大株主だからだ。かつて季衡の父親は、奏の父親と共に日進グループを創設し、多大な貢献をした。心臓発作で亡くなる直前まで会社の書類に目を通すほど、会社に尽くした人物だった。ただ……季衡自身はこの数年間、会社で全く存在感がなく、その実力は未知数だった。今回の奏の行動が愚かだったのは間違いないが、それでも株主たちは、まだ奏を支持する気持ちの方が強かった。株主たちの考えを察した季衡は、腹を立てることもなく、笑顔で言った。「皆様がまだ私を信用しきれないのは承知しております。しかし、私には日進グループを率いるだけの能力があるということを、必ずや自らの力で証明してみせましょう」「よかろう!」突然、会議室の入り口から力強い声が響いた。全員が振り返ると、そこに立っていたのは奏の父親、鳴海弦一郎(なるみ げんいちろう)だった。弦一郎に連絡した隅の席の株主を除き、皆が一瞬呆気にとられた。弦一郎が会議室に入ってくると、株主たちは次々と挨拶をした。彼は上座に腰を下ろし、称賛するような目で唐澤理事を見たが、どこか彼を通して別の誰かを見ているようでもあった。弦一郎を見ると、季衡はテーブルの上で無意識に拳を握りしめ、目に一瞬、憎し
奏は目を曇らせ、冷たい声で言った。「分かった。すぐに行く」株主たちの顔色が一斉に険しくなった。考えるまでもない。こんな時に提携先が来る以上、契約解除の話に決まっている。「鳴海社長!彼らを翻意させられないなら、今日中に辞任するか、それとも私が先代に直接連絡して、社長の座をより相応しい者に譲るべきだと進言します!」奏の目がすっと冷たくなり、発言した株主を鋭く見据えた。その冷たい視線にひるみ、株主は顔を青ざめさせたが、すぐに我に返って怒鳴った。「鳴海社長、私をそんな目で睨んでも無駄ですよ!私も会社のことを思って言っているのですから!」「はぁ、これだから二代目のボンボンに経営なんて任せられないんだ。会社をオモチャにしているようなものだ!」「もうよしましょう。私たちは彼ほど株を持っていない以上、どうしようもない」「このままじゃ、自分の持ち株を全部売っ払って、他の会社に投資した方がマシだな」……周囲の嘲りを耳にしながら、奏は険しい表情で会議室を出た。司は奏の後に続き、低い声で言った。「社長、提携先の方々は皆、険しい表情をしていました。今日はかなり難航すると思われます。いっそ、桜井社長に頼んで……」彼が言い終わる前に、奏が冷たい視線を向けたため、司は慌てて口を閉ざした。彼は心の中でため息をついた。一人の女性のために、会社でこれほど苦しい立場に身を置く必要があるのだろうか。それに、この五年間、奏がどれほど楓に尽くしてきたかを間近で見てきた彼には、楓がいつも冷淡で、奏の思いに応えているようには見えなかった。時折、彼は奏が不憫でならなかった。「お茶を淹れてこい」冷たくそう言い残し、奏は応接室のドアを開けて中に入った。数時間後、提携先の代表たちは皆、酷く険しい顔をして応接室から出てきた。最後に出てきた男が冷たい声で言った。「鳴海社長、我々が今日ここへ来た以上、日進グループとの提携を続ける意思はありません。どうしても契約解除に応じないというのなら構いませんが、今後の業務を円滑に進められるかは保証できませんよ!」奏は笑みを浮かべていたが、目は冷たかった。「皆様、契約違反をしているのはそちらです。それに、日進グループにも長期戦に付き合う余力はありますよ」彼らがこのタイミングで一斉に契約解除を
雅也がわずかに目を細め、何か言おうとしたが、恵理が慌てて言葉を被せた。「それじゃあ、失礼するわ。デスクのスープ、冷めないうちに飲んでね。あまり無理しないで」そう言い残すと、恵理は足早に部屋を出た。足取りはどこか乱れ、まるで何かから逃げるようだった。恵理の後ろ姿を見つめながら、雅也の眼差しはいっそう冷たくなった。恵理が同意しようとしまいと、この婚約は絶対に破棄する。恭平が書類を届けに入ってくると、雅也は冷たい声で言った。「金沢グループのリゾート開発プロジェクトの企画書は、もう準備しなくていい」それを聞いて、恭平は驚いた。「社長、あの企画書は半月以上もかけて準備を進めており、すでに完成間近です。それに……」「金沢グループはすでに提携先を決定したそうだ」恭平は喉まで出かかった言葉を飲み込み、頷いた。「承知いたしました」オフィスを出た恭平は、別の秘書に「金沢グループの企画書はもう不要だ」と伝えた直後、スマホが鳴った。理一からの着信を見て、恭平は無意識にスマホを強く握りしめ、眉をひそめた。理一がなぜ突然連絡を?階段の踊り場へ移動して通話に出ると、理一の冷たい声が聞こえてきた。「恭平、お前、雅也の前で何か余計なことを言ったのか!?」「理一様、一体何のお話でしょうか?」恭平は全く状況が飲み込めなかった。自分が桜井社長に何を言ったというのだ?理一は鼻を鳴らした。「お前が雅也の前で余計なことを言っていないなら、なぜ雅也が突然、記憶を失っていた期間の出来事を調べ始めたのだ!」恭平は一瞬呆気にとられたが、すぐに雅也が最近、湊が自分の実の息子であることを確認した件を思い出した。楓に関するすべての記憶を失っている雅也にとって、彼女は全く見ず知らずの他人に過ぎないはずだ。それでも、雅也ほど勘の鋭い男なら、自分の記憶喪失が何者かに仕組まれたのではないかと疑うはずだ。それに、これまでの自分の言動が雅也の疑念を深めたのだろう。雅也が自分を信用せず、その数か月間のことを別の者に調べさせても不思議ではない。そう思い至り、恭平は目を伏せて言った。「理一様、私は桜井社長に何も申し上げておりません。社長は最近頻繁に頭痛を訴えておられました。おそらく、断片的な記憶が蘇り、疑念を抱かれたため、裏で調査を指示されたの
そう思い至り、恵理が金沢社長を見つめる視線はますます熱を帯びていった。「金沢社長、この辺りでお買い物ですか?」静江は笑顔を浮かべていたが、眼差しは明らかに冷ややかだった。「いいえ、友人に会っていたの。春川さん、他に用がないなら、私はこの後会議があるから失礼するわ。また今度ね」彼女が立ち去ろうとするのを見て、恵理は慌てて口を開いた。「静江、金沢グループが現在進めているリゾート開発プロジェクトは、まだ提携先がお決まりでないと伺いまして……」静江は微笑みながら彼女の言葉を遮った。「春川さん、そのプロジェクトの提携先は、先ほど決定したばかりなの。申し訳ないけれど、また次の機会があれば、ぜひ春川家と提携したいと思っているわ」恵理はその場に立ち尽くし、しばらくしてようやく状況を飲み込んだ。「金沢社長、差し支えなければ、どちらの企業に決まったのか教えていただけませんか?」静江はわずかに不快そうな表情を浮かべ、低い声で言った。「それについては、まだ公表を控えているの。春川さん、それでは」静江の後ろ姿が視界から消えるまで、恵理は呆然としていた。どの会社に先を越されたのかは分からないが、とにかくこの情報は一刻も早く雅也に伝えなければ。恵理はスマホを取り出して雅也に電話をかけようとしたが、ふと指を止めた。少し考えてスマホをしまい、そのまま車で展望技術へ向かった。恵理の姿を見て、雅也は意外そうな表情を浮かべた。「どうしてここへ?」恵理は、来る途中の店でテイクアウトしたスープをデスクに置き、微笑んだ。「しばらく会っていなかったでしょう?それに、私、決心したの。雅也、あなたのお子さんを受け入れるわ。過去がどうであれ、大切なのは私たちの未来だもの」書類にサインをしていた雅也の手が止まった。顔を上げて恵理を見つめ、眉をひそめた。「恵理、もう一度よく考えた方がいい」湊が自分の実の息子だと知って以来、雅也は結婚について考えることはなくなっていた。湊はまだ幼く、自分との間には親子としての情も育っていない。絆を築くには、時間をかける必要がある。もし恵理との関係をこのまま続ければ、湊は二人の見知らぬ大人に慣れなければならず、それは湊にとっても恵理にとっても不公平だ。恵理の瞳には強い決意が宿っていた。「雅也、よく考
「楓……本当に、離婚届を作ってほしいの?」電話の向こうで、早川明里(はやかわ あかり)の声が少し掠れた。迷いと心配が滲んでいる。「よく考えて。サインしたら……もう大輔とは、戻れないよ?」木村楓(きむら かえで)はグラスの中の琥珀色の液体を見つめた。ウイスキーは喉を焼く。けれど昨夜の光景だけは、脳裏に焼きついたまま離れることはなかった。握り締めたスマホが、手汗で少し滑った。「うん」楓は短く言った。「彼から離れることにしたの」「どうして……?大輔、楓には優しかったじゃない。愛されてるって――」その言葉に、楓は笑いそうになったが、喉の奥で押し殺した。愛だって?なんて面白い冗談だ。通話
突然、父の木村恒一(きむら こういち)の身体が大きく痙攣し、激しい咳が止まらなくなった。息を吸い込めず、胸元を掴む指が小刻みに震えだした。顔色はみるみる青から紫へと変わり、手からスマホが滑り落ちた。床にぶつかって乾いた音を立て、そのまま転がっていく。楓は落ちたスマホの画面に映った内容を見て、すぐに察した――これが引き金になったんだ。怒りが一気に噴き上がる。けれど今は、智美を責めている場合じゃない。父の命が最優先だ。楓はナースコールを必死に押し、廊下へ向かって叫んだ。「誰か!先生呼んでください!今すぐ!」医療スタッフが一斉に駆け込んできて、父の状態確認が始まる。楓は部屋の
楓は大輔のほうを向いた。その瞳から、いつもの温もりは完全に消えていた。「……もう、前と同じ味がしないの」声は不思議なくらい静かだった。けれど、その静けさが大輔の背筋を冷やす。大輔は慌てて駆け寄り、楓を抱きしめる。「きっと店がレシピを変えたんだ」必死に取り繕う。「明日、電話して確認するよ。いくらかかっても、前とまったく同じ味に戻させる」楓の体は、腕の中で硬くこわばったまま。淡々と言う。「一度変わったら、もう元には戻れない」その言葉は氷の刃みたいに、大輔の胸に突き刺さった。彼女がケーキの話以上のことを言いたがっているのは、嫌でも理解せざるを得ない。胸の奥に焦
大輔は若い女の体をそっと支えながら、産婦人科の診察室から出てきた。二人とも満面の笑みで、幸せがそのまま顔に浮かんでいる。楓は一瞬で気づいた。――あの写真の女だ。そのとき、先に楓の存在に気づいたのは女のほうだった。廊下に立ち尽くす楓を見るなり、驚き……そして、楽しげな悪意を瞳に灯らせた。「まあ!桜井夫人じゃないですか?」わざとらしく声を張り上げる。「病院で会うなんて、すごい偶然ですね」その声に、大輔が顔を上げた。視線が楓とぶつかった瞬間、彼の全身が固まる。慌てて女の腕から手を離し、動揺が隠せない。「楓!」大輔は駆け寄ってきた。声が上ずっている。「どうしてこ
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