Masuk四回目の結婚記念日。 それは、綾香にとって「離婚を決意した日」になった。 医師としてのキャリアを捨て、夫・優の“期限付きの契約結婚”に尽くしてきた四年間。 初恋の相手である愛人・咲子を優先されても、「あと半年で終わる結婚だから」と、自分に言い聞かせて耐えてきた。 ——けれど、四年目の結婚記念日に愛人を家へ連れ帰られた瞬間、綾香の心は限界を迎える。 そんな綾香の前に現れたのは、学会で出会った開業医・綾瀬隼人。 仕事も、住む場所も、人生の再スタートも。 隼人に背中を押され、綾香は少しずつ“妻”ではなく、“自分”を取り戻し始める。 これは、人生を奪われた女が、自分を取り戻し、本当の愛に出会う物語。
Lihat lebih banyak6月10日。
4回目の結婚記念日。
そして——
私が、あと1年で離婚しよう。そう、決めた日。
本当なら、こんな日になるはずじゃなかった。
少なくとも、4年前の私はそう思っていた。
その日の午後6時にちょうどなった。
さっきから、時計が次の針に進むのを見つめては。
帰ってこない夫への諦めが募り。ため息が溢れた。
私東郷綾香(とうごうあやか)はテーブルの上にまだ湯気の立つ料理を並べる。
壁の時計をもう見たくなかった。さっきから、穴が開くほど見つめている。
夫である東郷優(とうごうゆう)の帰宅予定は、7時だったはず。
もう、1時間前なのに。連絡は、全く取れずにいた。
まだ、遅くない。
——期待なんて、していない。
そう思いながらも、手は勝手に動いていた。
少しだけ良いワインを開けて。
優が好きだった、2年前くらいまではよく行っていたレストランの再現レシピを作って。
花屋で小さな白い花束まで買った。
馬鹿みたいだ。でも、そうでもしないと結婚の意味がないと自分に言い聞かせて。
無心で、優が帰ってくる準備をしたのだ。
三年前には、もうわかっていたのに。
結婚記念日なんて、私たちに意味はない。
スマホを手に取る。
『今日は何時頃帰れそう?』
送信。
既読。
それだけ。
さっきから同じようなメッセージを繰り返し送っている。
返信は、来ない。
まあ、いつものことだ。
胸が痛むほどではない。
もう慣れた。
慣れてしまった。
それが一番、嫌だった。
そのまま待っていると。時は既に8時を回った。
料理は冷え始めていた。
ワインもぬるい。
メッセージは、既読のまま。
ため息を吐きながらスマホを開く。
何気なく流れたSNS。
そして。
指が止まった。
『今年もありがとう♡』
投稿者は、白川咲子(しらかわさきこ)。
——優の初恋の人だ。
そして....今も続いている恋人。
写真に顔は写っていない。
けれど。
映り込んだ腕時計を見た瞬間、呼吸が止まる。
見間違えるはずがない。
結婚祝いに私が贈った時計だった。
胸が、すうっと冷える。
ああ。
今日も、そっちなんだ。
結婚記念日よりも。
大切な愛人との時間を選んだんだ。
….知っていた。
ずっと、わかっていたはずだった。
優が咲子を切る気なんて、一度もなかったこと。
この結婚が、父親同士の事情から始まった“期限付きの契約”だってことも。
最初に言われた。
「誤解しないでほしい」
「咲子との関係は終わらない」
「結婚は五年だけ」
「お互い、割り切ろう」
それでも。
私は好きだった。
頭が良くて。
堂々としていて。
完璧な見た目で。
どこか冷たいけれども、温かい面もある優が。
いつか、少しだけでも。
私のことを見てくれるんじゃないかと。
四年間、馬鹿みたいに期待してしまった。
10時半を過ぎた頃。
玄関のロック音がした。
遅かった。
けれど、帰ってきた。
立ち上がった瞬間。
身体が凍りつく。
「ただいま」
その隣には、当たり前のように彼女がいた。
「こんばんは、綾香さん」
咲子だった。
まるで自分の家みたいな顔で、笑っている。
綺麗だった。可憐、を絵に描いたような人。
私とは、正反対のタイプ。
昔から何も変わらない。
優が、ずっと好きな女。
「……なんで」
喉が、うまく動かない。
優はネクタイを緩めながら、当然みたいに言った。
「咲子が終電逃したら困るし、今日も泊まらせる」
一瞬、意味がわからなかった。
今日は、結婚記念日だ。
私たちの、形だけでも記念日のはずで。
なのに、堂々と愛人を連れて帰ってくる?
しかも。泊まらせるって?
「……今日」
声が震える。
「今日、結婚記念日なんだけど」
優は少しだけ眉を上げた。
本当に、不思議そうに。
「だから?」
空気が止まる。
咲子が小さく笑った。
「あ、ごめんね。気を遣わせちゃった?」
悪気なんてない顔で。
「優、あの台湾で買った紅茶ある?」
——あの、紅茶。
胸の奥が、小さな痛みで痺れた。
私も知らない。
この家にある“いつもの”。
優は迷いなく棚を開ける。
「これ?」
「そう、それ」
自然だった。
あまりにも自然に咲子と優は2人で家にいるのが、馴染んでいて。
4年間の私なんて、まるで存在しないみたいに。
気づけば笑っていた。
笑うしかなかった。
「……すごいね」
声が、自分のものじゃない。
「結婚記念日に.....愛人連れて帰るんだ」
一瞬、空気が凍る。
けれど。
優は少し困った顔をしただけだった。
怒るでもなく。
悪びれるでもなく。
ただ、本気で理解できない顔。
「最初に言ったよね?」
静かな声。
「これは期間限定の結婚なんだからさ」
「俺、咲子と別れるなんて言ってないし、責められる筋合いもない」
「綾香に。変な期待させた覚えもない」
「プロジェクトも。終わるまで後半年かからないくらいの見込みだし」
その瞬間。
何かが、ぷつんと切れた。
あ、そっか。
この人は....私の夫であるはずのこの男は。
最初から、一度も私を妻だと思ってなかったんだ。
私はただ、都合のいい“体裁”だった。
肩書きの綺麗な妻。
それだけ。本当にそれだけで。
….改めて心の中で言語化すればするほど。
ひどく惨めだった。
「ごめん、私」
静かにバッグを掴む。
「少し、外に行ってくる」
優は一瞬だけこちらを見る。
でも、止めないし気にもしてない様子。
「遅くなりすぎるようなら連絡して」
それだけだった。
まるで、どうでもいいみたいに。
玄関を閉めた瞬間。
初めて、涙が出た。
悔しかった。こんな扱いを、当たり前に受け入れていることが。
でも一番辛かったのは。
——まだほんの少しだけ、期待していた自分だった。
スマホが震える。
親友のみかからのメッセージ。
『生きてる?』
『今日どうだった?』少し迷ってから。
綾香は返した。
『最悪。』
『今から会えない?』数分後。
『青山駅前のカフェいる。おいで。』
迷わず、私は鞄を掴んで家を出てみかの元に向かうことにした。
家を出た瞬間。
誰も追ってこない自分の背中に感じた孤独と。
結婚記念日にひとりという事実と寂しさに、涙が溢れた。
年々、意味を持たなくなっていた結婚記念日。
それでも、今日ほどこの結婚の無意味さを実感する日はなかった。
間違いなく、今日は私の結婚生活の中で一番最悪な日。
だけど、この日家を出てみかに会いに行くと決めたことが。
夫である優との結婚生活を終わらせるきっかけとなり。
優が、私に向き合い始めて。
執着と言えるほどに。私を追い求める、最初の一歩になるなんて。
その時の私は、想像すらしていなかった。
「週一日の勤務が診療体制として成立するかは、患者数やほかの医師の配置を含めて検討が必要になる」「綾香ちゃんが残りたいと言ったから、そのまま認めるわけにはいかない」「分かっています」恋人だから特別に残すとも。離れたくないから認めないとも言わない。院長として必要な判断をしようとしている。それは、私が望んでいることだった。「もし転職するなら、いつ頃を考えてる?」「まだ正式な話をしていないので、分かりません」「ただ、急に辞めるつもりはありません」「引き継ぎもありますし、担当している患者さんのこともあるので」「うん」隼人くんは頷いた。「患者さんには、白松先生が決めるまで何も話さない」「スタッフにも」「ありがとうございます」「正式に話が進んだ段階で、院長として改めて相談して」「はい」必要な確認が一つずつ終わっていく。話している内容は、転職する可能性がある勤務医と、現在の勤務先の院長のものだった。感情の入り込む余地はない。隼人くんは、私を引き止めない。不利な条件を示すことも。兼務を餌にして、今のクリニックへ留めようとすることもなかった。それが正しいと分かっている。それでも、胸の奥には、昨日から続く小さな寂しさが残っていた。隼人くんは、私がいなくなるかもしれない未来を、もう受け入れ始めているように見えた。「院長として聞きたいことは、以上」隼人くんが資料から目を逸らした。それから、少しだけ姿勢を緩める。「個人的な話は」私を見る。「あとにしようか」「はい」「仕事が終わってから」昨日のメッセージの続きを、ようやく話せる。そう思った瞬間、胸の奥の緊張が少し和らいだ。私は膝の上の資料を揃える。「では」言葉にする前に、ほんの少し迷った。自分から誘うことには、まだ慣れていない。それでも昨夜は、会いたいと伝えた。今日は、どこで話したいのかも、自分から言ってみようと思った。「仕事が終わったら、うちに来ますか」隼人くんの表情が止まった。私は続ける。「クリニックから、そんなに遠くないですし」口にしながら、急にその提案が持つ意味を意識した。隼人くんを家へ呼んだことは、一度もない。離婚後、自分で選んだ部屋。誰かと暮らすためではなく、自分一人の生活を作り直すために整えた場所。そこへ隼人くんを招く。ただ話を
翌朝。クリニックへ着くと、いつもと変わらない一日が始まった。受付ではスタッフが予約表を確認し、待合室には診療開始を待つ患者が少しずつ増えていく。私は白衣へ着替え、前日に届いていた検査結果へ目を通した。昨日、見学した病院の光景が、まだ頭の中に残っている。自然光の入る待合室。患者が治療の選択肢を整理するための相談窓口。医師だけではなく、看護師や薬剤師、相談員が同じ研究へ参加する環境。そして、診療科長から言われた言葉。本気で考えたいなら、相談できる人はこの病院にもいます。今のクリニックへ不満があるわけではない。患者との距離が近く、日々の診療へ丁寧に向き合える今の環境があったからこそ。大学病院にいた頃には見えなかった疑問を持つことができた。それでも私は、真帆の病院で働いてみたいと思った。その気持ちは、一晩眠っても変わっていなかった。診療開始の時間が近づき、私はカルテを開いた。今日は隼人くんと話す。昨夜、互いに会いたいと伝えた。けれど院内では、まず仕事として整理しなければならないことがある。転職の可能性。兼務という選択肢。勤務日数や外来の引き継ぎ。恋人としての感情だけで話せることではなかった。廊下から聞こえた足音に、思わず顔を上げる。開いていた診察室の前を、隼人くんが通り過ぎた。一瞬だけ、視線が重なる。「おはようございます」「おはよう、白松先生」いつも通りの声だった。足を止めることもなく、隼人くんは隣の診察室へ入っていく。昨夜のメッセージを思い出している様子は見えない。それでいいはずなのに、胸の奥には、ほんの少しだけ距離を感じた。今は仕事中だから。そう自分へ言い聞かせ、私は最初の患者を呼び入れた。***午前の診療が終わる頃には、仕事へ集中していたこともあって。朝から感じていた落ち着かなさは少し薄れていた。最後の患者を見送り、カルテを閉じたところで、院内の内線が鳴る。『白松先生、少し時間ある?』隼人くんの声だった。「はい」『院長室へ来てもらってもいい?』「分かりました」受話器を置き、昨日病院でもらった資料をバッグから取り出す。院長室のドアを叩くと、中から落ち着いた声が返った。「どうぞ」入ると、隼人くんはデスクの上に広げていた書類を片づけ、向かいの椅子を示した。白衣を着たまま、眼鏡をか
「え、今の。言わない方が良かったですか...?」連絡先を聞かれたと言ったのは、余計なことだったのかもしれない。尋ねると、隼人くんがこちらを見る。「そうじゃないけど、嫌だったから」答えは早かった。けれど、そのあとすぐに、少しだけ視線を和らげた。「でも、綾香ちゃんが悪いわけじゃないから」「はい」「だから、何も言うことはない」そう言って歩き始める。私はその隣へ並んだ。しばらくして、隼人くんの手が身体の横へ下りる。私は再び、自分からその手へ触れた。手のひらが重なる。先ほどよりも、少しだけ強く握られた気がした。けれど、それもすぐにいつもの力へ戻った。「隼人くんも」私は歩きながら言う。「今日、何度も見られてましたよ」「そう?」「はい」「気づかなかった」「本当に?」「綾香ちゃんしか見てなかったから」あまりにも自然に返され、言葉が止まる。隼人くんは私の反応を見て、少しだけ目を細めた。「また、その顔」「どの顔ですか」「距離が分からなくなる顔」「私は何もしていません」「そういうところが困る」低い声だった。それでも、隼人くんは手をつなぐ以上には近づかなかった。歩く位置も。触れ方も。お鮨屋へ行った夜から変わらない。それが心地よいと、私は思っている。けれど今日は、その変わらなさの中に。少しだけ足りないものがあるような気がした。何が足りないのか。自分が何を望んでいるのか。まだ、はっきりとは分からなかった。***夕方。駅へ戻る頃には、空が少しずつ薄暗くなっていた。改札の前で立ち止まる。「今日は、ありがとうございました」「こちらこそ」隼人くんは、つないだ手をすぐには離さなかった。人が行き交う中で、私たちが触れているのは、その手だけだった。「楽しかった?」「はい」「何が一番?」尋ねられ、少し考える。古書店。中国茶。食事。川沿いの道。いくつも思い浮かぶ。「知らない隼人くんを知れたことです」答えると、目元が柔らかくなる。「俺も」「私の何かを知りましたか」「うん」「何ですか」隼人くんは少し考えるように私を見る。「興味を持つと、思ってたより素直なんだね」「そうですか」「中国茶も」つないだ手をわずかに揺らす。「知らないって言いながら、ずっと楽しそうに聞いてた」「興味が
「私も、まだ分からないかもしれません」「じゃあ、一緒に知ればいい」隼人くんは自然に言った。私が完成した答えを持っていることを求めていない。分からない状態のまま、隣にいることを選んでいる。そのことが、胸の奥を柔らかくした。料理が運ばれてくる。食べ始めると、隼人くんは古書店で買った本の話をしてくれた。建物そのものより、そこに暮らした人の痕跡が残る写真が好きなこと。海外にいた頃、休日には一人で古い街を歩いていたこと。有名な建築物より、誰かが生活を重ねたことで形が変わった家を見る方が面白いと思うこと。私は、隼人くんが一人で知らない街を歩く姿を想像した。人付き合いが広く、どこへ行っても誰かに声をかけられる。それでも、一人で過ごすことも好きだったらしい。「一人で、寂しくなかったんですか」「ならなかった」「人が好きなのに?」「人は好きだけど」少し考える。「ずっと一緒にいたいと思う人は、あまりいなかったから」胸が小さく鳴った。「今は?」尋ねてから、あまりにも直接的だったと気づく。隼人くんはすぐには答えなかった。食器を置き、私を見る。「今はいるよ、隣に」低い声だった。視線を逸らせなくなる。店内には人の話し声があり、厨房から食器の触れる音が聞こえている。それなのに、二人の席だけが急に静かになったように感じた。「そういう顔をするから」隼人くんが言う。「何ですか」「距離が分からなくなるんだけど」「私には、いつもと同じに見えます」答えると、隼人くんが少しだけ目を細める。「そう見えるなら、それでいい」それ以上は言わなかった。私たちの間には、テーブルがある。隼人くんの手は、自分の食器の近くに置かれたまま。こちらへは伸びてこない。以前より少し慎重になったように感じるのは、気のせいだろうか。私が少し近づこうとするほど。隼人くんは今までと同じ場所に留まろうとしている。それは私にとって、変わらず安心できる距離だった。それなのに、手をつなぐことより先のことを。隼人くんが何も望んでいないように見える瞬間だけ、少し寂しくなる。その理由を、まだ自分でもうまく説明できなかった。***食事を終えたあと、二人で川沿いの道を歩いた。午後の日差しは柔らかく、風にはまだ冷たさが残っている。私は自分から隼人くんの手へ触れた
「……それ」綾瀬先生の視線が、スマホに落ちた。そして。少しだけ、眉が寄る。「旦那さんですか?」反射的に、スマホを伏せた。「……違います」ほとんど条件反射だった。見られたくなかった。惨めな自分を。既婚者なのに。全然、大事にされていない現実を。家に帰るかどうかを、愛人の都合で決められる妻。そんなもの。第三者に見せられるほど、強くない。数秒だけ。静かな空気。ちょっと変な空気になる。そして。綾瀬先生が、少し困ったように笑った。「いや、それはちょっと無理あるよね」みかが横から吹き出す。「先生、正解です」身を乗り出して言う。「しかも超最低なんですよ、この人の旦
「返信しなよ、このタイミングだし」みかが、にやにやしながらスマホを指差した。「いや、無理でしょ」即答した。「なんて返すのよ、そもそも」「普通に、“どうしました?”でいいじゃん」「え、でもそんな感じの距離じゃないし」言いながら、スマホの画面を見る。【綾瀬隼人】『こんばんは。 この前の学会ぶりです。 急だけど、今少し話せたりする?』おかしい。なんで、このタイミングなんだろう。学会で少し話しただけの相手だ。連絡先だって、半ば強引に交換された。『現場戻りたくなった時のため』そう言って、名刺を渡されて。ついでみたいにメッセージアプリまで聞かれた。断るほどの理由もなく
青山駅前のカフェは、平日の夜なのに妙に混んでいた。窓際の席で、大きく手を振る女がいる。派手な金髪ボブだからこそ、いつもすぐに見つけられる。「綾香、こっち」香山みか。高校1年からの付き合いで。大学も違ったし、就職後はお互い忙しくなった。それでも。私が唯一、本音を言える相手だった。席に着いた瞬間。疲れ果てた表情が滲み出ていたのだろうか。みかの表情が固まる。「……え、待って」眉を寄せる。そして、急に顔が険しくなった。「本当にどうしたの、その顔」私は苦笑いした。「そんなにひどい?」「ひどすぎるレベル。大学のときに元カレに振られた次の日みたい」その言葉に、なぜか笑ってしま
6月10日。4回目の結婚記念日。そして——私が、あと1年で離婚しよう。そう、決めた日。本当なら、こんな日になるはずじゃなかった。少なくとも、4年前の私はそう思っていた。その日の午後6時にちょうどなった。さっきから、時計が次の針に進むのを見つめては。帰ってこない夫への諦めが募り。ため息が溢れた。私東郷綾香(とうごうあやか)はテーブルの上にまだ湯気の立つ料理を並べる。壁の時計をもう見たくなかった。さっきから、穴が開くほど見つめている。夫である東郷優(とうごうゆう)の帰宅予定は、7時だったはず。もう、1時間前なのに。連絡は、全く取れずにいた。まだ、遅くない。——期待なんて
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