Masuk四回目の結婚記念日。 それは、綾香にとって「離婚を決意した日」になった。 医師としてのキャリアを捨て、夫・優の“期限付きの契約結婚”に尽くしてきた四年間。 初恋の相手である愛人・咲子を優先されても、「あと半年で終わる結婚だから」と、自分に言い聞かせて耐えてきた。 ——けれど、四年目の結婚記念日に愛人を家へ連れ帰られた瞬間、綾香の心は限界を迎える。 そんな綾香の前に現れたのは、学会で出会った開業医・綾瀬隼人。 仕事も、住む場所も、人生の再スタートも。 隼人に背中を押され、綾香は少しずつ“妻”ではなく、“自分”を取り戻し始める。 これは、人生を奪われた女が、自分を取り戻し、本当の愛に出会う物語。
Lihat lebih banyak声をかけられ、隼人くんが足を止める。「ご無沙汰しています」相手は、隼人くんの父親か兄の知人なのだろう。隼人くんは驚いた様子を見せながらも、雑に会話を切り上げようとはしなかった。相手の近況を尋ね。以前聞いていた家族の話にも触れる。少し離れたところから別の人に呼ばれれば、そちらへもきちんと頭を下げる。早く私のところへ来ようとしているはずなのに。誰かを無視したり。自分の目的のために、相手を粗雑に扱ったりしない。丁寧に。真摯に。けれど、必要以上に長く留まらず。少しずつ、こちらへ近づいてくる。隼人くんの姿を見た優の表情が、ほんのわずかに強張った。口元も。姿勢も変わらない。けれど、それまで柔らかく私へ向いていた目から、一瞬だけ温度が消えた。「綾瀬家の人間が」真哉兄さんも入口へ目を向ける。「今日来る予定はなかったと思うけど」隼人くん本人ではなく、まず綾瀬家の人間として見る。それが、真哉兄さんにとって自然なことなのだろう。父の協賛先。医療法人を経営する家。今後、白松の仕事とつながる可能性のある存在。今夜の会場へ現れた意味を、仕事と家の関係から考えている。「どうして来たんだろう」真哉兄さんが小さく呟く。私は答えなかった。私が呼んだ。そう言えばいいだけだった。けれど、言葉にしようとすると、胸が詰まりそうになった。兄と一緒にいても。私は、安心できなかった。兄に誘われ。自慢の妹だと褒められ。疲れていると伝えても、あと一人だけと人へ差し出された。優がいても。助けられながら、揺さぶられ続けた。それなのに。会場の入口に隼人くんが見えただけで。ようやく息を吐いていいような気がした。私が助けを求めた相手は。兄でも。元夫でもなかった。そのことを、初めてはっきりと自覚した。「白松先生?」目の前にいた男性から呼ばれる。「すみません」意識を戻す。「お食事の件ですが」「申し訳ありません。個人的なお誘いはお受けしていません」先ほどよりも、少しだけはっきりと答えた。男性は一瞬残念そうな顔をしたが、すぐに引き下がった。その向こうで。隼人くんがまた別の人に呼び止められている。苛立った様子はない。相手の話へ耳を傾け、感じよく応じている。社交の中心へ入ろうとしなくても、自然に人が集まる。優とは違う形で
「それは素晴らしい」男性が感心したように頷く。「やはり、あの事業はご夫婦二人で成功させたようなものですね」「外からは東郷先生の手腕ばかり見ていましたが」別の男性が私を見る。「家庭で支えていらした奥様の存在も、大きかったんですね」「本当に、完璧なご夫婦だったのに」女性の声が加わった。「離婚されたのは、残念です」また。完璧だった夫婦。残念な離婚。優が私の支えを認めた言葉まで。周囲の中では、私たちが別れたことを惜しむ材料へ変わっていく。「でも、今もこうしてお仕事では信頼し合っていらっしゃるんでしょう?」「もったいないですね」「本当にお似合いでしたから」好意から向けられる言葉だった。優が、妻だった私を人前で立てたから。その敬意を美しいものとして受け取り、二人が別れたことを残念に思っている。誰も。私たちを傷つけようとはしていない。それでも。胸の奥へ、細かなざらつきが広がった。私が家で支えていたことを。結婚していた頃の優が、当然として受け取っていたことを。優自身は、今になって理解した。けれど周囲は。献身する妻と、仕事で成功する夫。互いに支え合う完璧な夫婦の物語として聞いている。その内側で。私がどれほど自分を後回しにしていたのか。何も求めない妻になろうとしていたのか。優の仕事へ理解を示すたび、自分の時間や希望を小さくしていたことは、どこにも残らない。「綾香は」優が、周囲の空気を察したように口を開いた。「妻としてだけではなく、一人の人間として、私よりずっと多くのものを持っていました」私を見る目が、さらに柔らかくなる。「それを、当時の私は十分に見ていなかったんです」一瞬。周囲が静かになる。けれど優は、場を重くしすぎないよう、わずかに口元を緩めた。「ですから、離婚については綾香の選択を尊重しています」「現在も仕事では信頼できる相手ですし」「私が今さら、周囲の皆様へ惜しんでいただける立場でもありません」笑いへ逃がすほど軽くはなく。相手に謝罪させるほど重くもない。誰も不快に思わない形で。私の離婚が、間違った選択だったわけではないと守っている。また。結婚していた頃にはなかった優しさだった。なぜ、今なのだろう。私がもう妻ではなくなってから。優の生活を支えることをやめ。自分のための生活を
『場所はわかるから、すぐに行くね』画面に表示された言葉を、もう一度読む。どこにいるのかも。何があったのかも聞かれなかった。私が連れ出してほしいと伝えたことだけで。来ると決めてくれた。そのことに。胸の奥を締めつけていたものが、少しだけ緩んだ。『はい』返信する。『真哉兄さんの会社が主催しているところです』送ると、すぐに既読がついた。『分かってる』 『もう出るところ』家で仕事をしていると言っていた。着替える時間も。ここまで来る時間も必要なはずなのに。どれくらいかかるのかとは聞かなかった。すぐに行く。その言葉だけで、今は十分だった。スマホを胸元へ抱えそうになり、直前でやめる。鏡の前へ移動し、自分の顔を確認した。化粧は崩れていない。目元も赤くはなっていない。口元へ薄く笑みを作れば。誰にも何があったのかは分からないはずだった。それでも、鏡の中の私は。家を出る前とは違って見えた。ドレスも。パールも。同じように整っている。けれど、楽しみにしていた気持ちだけが削られて。その内側へ疲れが溜まっていた。冷たい水で指先を濡らす。目元へそっと当てる。まだ帰れない。隼人くんが来るまで。真哉兄さんと優のところへ戻らなければならない。私は一度ゆっくり息を吸い、化粧室を出た。***二人は、先ほどと同じ場所にいた。真哉兄さんはスマホを手にしていて。食事のできる店を探している。優はその隣へ立ちながら。会場を行き交う人へ時折会釈を返していた。私に気づくと、優の視線が短く顔へ留まった。何かを確認するような目だった。けれど、何も聞かない。「近くの店、席を用意できるって」真哉兄さんが顔を上げる。「少し遅い時間になるけど、大丈夫?」「うん」返事をしながら、自分の声を確かめる。いつもと変わらなかった。「移動する前に」優が口を開く。「もう少しだけ、ここで案件の確認をしてもいいですか」「もちろん」真哉兄さんは、すぐに仕事の顔へ戻った。「ちょうど、父さんの関係者も何人か戻ってきたから」その言葉に、また人へ紹介されるのかと、身体がわずかに硬くなる。けれど、真哉兄さんは私の反応には気づかず、優へ続けた。「以前の複合開発のことを聞きたいって人がいて」白松家の不動産事業と、東郷側の法務が連携して進めた、
都合のいい旦那。別れるのはもったいなかった。外から見れば非の打ち所がなかった。目の前では。その評価を裏切らない優が、完璧に話を進めている。真哉兄さんの曖昧な提案を、法務上の論点へ整理する。私が話した臨床上の懸念を、運営体制の条件へ置き換える。誰かの意見を否定せず。けれど、決めるべきことを曖昧にしない。この人と仕事をすることは、確かに楽だった。言葉を途中まで出せば、意図を理解する。人の感情と、実務上の結論を分けられる。今夜も。私が疲れていることへ気づき。見たい絵の前まで連れ出した。真哉兄さんが、もったいないと言う理由は分かる。周囲の人たちが、完璧な夫婦だったと言う理由も。分かるからこそ。自分だけが、別の優を知っていることが苦しかった。そして今は。その別の優まで、少しずつ変わっているように見える。「綾香?」真哉兄さんに呼ばれ、意識を戻す。「聞いてる?」「うん」「相談窓口の運営主体について」「医療機関から完全に独立させるのは難しいと思う」私は答えた。「独立性を見せることと、責任の所在が曖昧になることは別だから」「その整理は必要だね」優がすぐに続ける。「契約上も、誰が説明主体なのかを明確にした方がいい」また、自然に会話がつながる。私と優が話せば。今でも仕事は滞らない。むしろ、以前より互いの境界が明確になった分だけ。話しやすいところさえあると思っていた。そのことを。周囲は、離婚しても理想的な関係だと見る。真哉兄さんは、別れるのはもったいなかったと言う。私自身も。一瞬だけ、何が正しかったのか分からなくなる。離婚を後悔しているわけではない。優と暮らしていた日々へ戻りたいとも思わない。けれど。今目の前にいる優が。結婚していた頃に、こうして私を見ていたなら。疲れていることに気づき。好きなものを理解し。困らせないと言いながら、自分の感情も隠さなかったなら。何かは違ったのだろうか。考えたくない問いが。疲れた頭の中へ浮かぶ。「そろそろ」真哉兄さんが時計を見る。「このあと、三人で食事しない?」私は顔を上げた。「終わってから?」「近くに店を取れると思う」真哉兄さんは、軽い調子で続ける。「案件の話も、ここだと落ち着かないし」「久しぶりに三人で、ゆっくり話せばいいだろ」三人
6月10日。4回目の結婚記念日。そして——私が、あと1年で離婚しよう。そう、決めた日。本当なら、こんな日になるはずじゃなかった。少なくとも、4年前の私はそう思っていた。その日の午後6時にちょうどなった。さっきから、時計が次の針に進むのを見つめては。帰ってこない夫への諦めが募り。ため息が溢れた。私東郷綾香(とうごうあやか)はテーブルの上にまだ湯気の立つ料理を並べる。壁の時計をもう見たくなかった。さっきから、穴が開くほど見つめている。夫である東郷優(とうごうゆう)の帰宅予定は、7時だったはず。もう、1時間前なのに。連絡は、全く取れずにいた。まだ、遅くない。——期待なんて
「……行かなきゃダメなの?」空気が、一瞬止まった。優の口からそんな言葉が出るとは思わなくて、私は少しだけ目を瞬く。「……え?」聞き返すと、優は一瞬だけ視線を逸らした。そして、いつものように少し面倒そうな顔をする。「別に」そっけなく、理由を説明することが煩わしいという態度だ。「最近、変な勧誘とか多いし」….言い訳みたいだった。私を心配している、というには雑で。でも、完全にどうでもいいなら出てこない言葉。その曖昧さが、妙に引っかかる。咲子さんが、ふっと笑った。「あー、優ってほんとそういうとこ心配性だよね」その言い方が、あまりにも自然だった。昔から知っている人の声。
「……誰それ?」優の声に、思わず指が止まった。寝室へ向かおうとしていた足も、その場で止まる。振り返ると、優はソファに座ったままこちらを見ていた。正確には、私ではない。私の手の中にあるスマホ。そこに表示されている名前を見ている。【綾瀬隼人】たった四文字の名前。それだけなのに、優は珍しく視線を外さなかった。私は少し戸惑う。こんなこと、今までなかった。私が誰と会おうと。誰と連絡を取ろうと。優は興味を示したことがない。会社の同僚。学生時代の友人。みかのことだってそうだ。誰とどこへ行くのか聞かれた記憶はほとんどない。だからこそ、その反応が妙に不自然だった。「……知
「逃げる準備、始めよっか」綾瀬先生がそう言った瞬間、その言葉だけが妙に耳に残った。逃げる。たったそれだけの言葉なのに、胸の奥がじくりと痛む。離婚する。家を出る。今の生活を終わらせる。頭では何度も考えていたはずなのに、「逃げる」という表現にすると急に現実味が増した。同時に、どうしてか罪悪感も湧いてくる。私は被害者のはずだった。夫は愛人を家に住まわせている。結婚生活なんて、とっくに壊れている。誰が見てもおかしい状況なのに。「逃げるのは悪いことなんじゃないか」という感覚が残っていた。ずっと我慢することが当たり前だったからだ。気づけば、自分の気持ちより相手を優先する癖が染
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