LOGIN白石瑞希(しらいし みずき)はずっと思っていた。 西園京介(にしぞの きょうすけ)との結婚は、始まりがあれほど情熱的で、心から愛し合っていたからこそ、終わりはこんなにも惨めで、笑ってしまうほど無残なものになったのだと。 その間にあったのは、まるで鈍い刃物でじわじわと心を切り刻まれるような日々だった。 身を引き裂かれるような痛みを何度も味わい、やがて何も感じなくなった。 だから瑞希は、もう自分を苦しめるのをやめ、京介に告げた。「私たち、離婚しよう」 …… その後、瑞希は再婚した。 大勢の招待客で賑わう結婚式。その片隅に、京介はいた。 世界で最も高価なダイヤモンドをあしらったウェディングドレスをまとった瑞希から、目が離せなかった。 彼女の顔には、かつて自分が誰よりもよく知っていた、幸せそうな笑顔が浮かんでいる。 その隣にいるのは、自分の親友だった。 二人は誓いのキスを交わし、永遠の愛を誓い、生涯を共にすることを約束した。 …… 藤沢冬弥(ふじさわ とうや)が何よりも悔やんでいたのは、若い頃、あれほど自分を好きでいてくれた彼女を逃してしまったことだった。 彼女と先に出会ったのは、自分だったのに。 それなのに、彼女がほかの男と恋に落ちるのを見届け、その結婚を祝福したのも自分だった。 自分はまるでストーカーのように、一生彼女の幸せを陰から覗き見ることしかできないのだと思っていた。 けれど、やがて。 ついに自分が、彼女を幸せにする男になった。
View More冬弥は仕立てのいいスーツを着こなし、背筋をまっすぐに伸ばしていた。彼は涼しげな目で瑞希を見た。整った顔立ちに浮かぶ、冷淡な表情。その姿が、十数年前、窓際の席で彼女を冷ややかに見つめていた、十七歳の頃の面影と重なった。瑞希は気を取り直し、軽く微笑んで声をかけた。「おはよう」冬弥はじっと彼女を見つめていた。黒い瞳には、問い詰めるような色が浮かんでいる。瑞希は気まずさをこらえながら病室に入り、たまごサンドを真弓のベッド脇にあるテーブルに置いた。「おばさんのお見舞いに来たの」冬弥は何も答えなかった。その表情には、はっきりと書いてあった。――信じられない。瑞希には弁解のしようもなかった。実際、彼に会うためという目的もあって、ここに通っていたのだから。真弓は二人の間に流れる微妙な空気には気づかず、瑞希の顔を見るなり、もうすぐ三十歳になる息子がいまだに独身であることを思い出したらしい。「あのね、瑞希先生の周りに、独身でいいお嬢さんはいない?よかったら、うちの冬弥に紹介してくれないかしら」真弓は瑞希のことが気に入っていた。ただ、瑞希はもう結婚している。それが残念だった。瑞希は少し考えてから、真面目に答えた。「いますよ。同僚に独身の人がいるので、時間があるときに聞いてみますね」言い終えた途端、隣からひやりとした空気が伝わってきた。瑞希がそちらに目を向けると、窓が少し開いていた。春先の冷たい風が、隙間から入り込んでいる。もちろん、春風よりも冷たかったのは、冬弥の不機嫌そうな顔だった。瑞希はそっと唇を引き結んだ。冬弥が自分に母親へ近づいてほしくないと思っている理由は、よくわかっていた。高校時代、勝手に冬弥の家庭事情を調べたせいで、彼の家のことが学校中に知れ渡ってしまった。そのとき、瑞希が耳にしたのは、心ない言葉ばかりだった。「母親が精神病なんだから、息子だってまともなわけないじゃん!」「前から変な奴だと思ってたんだよな。成績がいいだけで、普段はろくに口も利かないし。知らない奴が見たら、自閉症かと思うだろ!」「ちょっと、声が大きいって。あいつの父親が殺人犯だって知らないの?そういうのって、遺伝するんじゃない?」中には、冬弥の机にまで「精神病」「殺人犯」といった言葉を刻みつける者もいた。
瑞希は諦めなかった。「でも、今日こうして会ってくれたということは、まだ可能性はあるんですよね?」修平は否定しなかった。「黒田さん、どうかお願いします」瑞希が懇願すると、修平は少し考えてから尋ねた。「瑞希さん、昨日の電話で、私の名刺は冬弥社長からもらったと言っていましたよね?」「はい」瑞希は頷いた。「冬弥とは親しいんですか?」修平は意外そうに瑞希を見た。冬弥を「さん」付けもせず、名前だけで呼ぶ人は、これまで見たことがなかった。しかし、修平はあえてそれを口にすることなく、笑って答えた。「冬弥社長は、うちの事務所のオーナーなんです」瑞希は一瞬、呆気に取られた。思わず尋ねる。「じゃあ、冬弥が私の離婚案件を引き受けるなって言ったんですか?」京介と冬弥は親しい間柄だ。冬弥に頼んで、自分の離婚案件を断ってもらうくらい、京介にとっては簡単なことだろう。そもそも、冬弥が自分に手を貸してくれる理由も思い当たらなかった。何しろ、京介との関係を抜きにしても、自分はもともと冬弥に好かれていないのだから。「瑞希さん、誤解されていますよ」修平は微笑んだ。「冬弥社長は確かに、うちの事務所にとって最大の出資者です。ただ、桐原支店は冬弥社長が手がけている事業のほんの一部にすぎません。いちいち個別の案件にまで口を出すことはありませんよ」修平はそれ以上、詳しくは説明しなかった。話を切り上げると、店員を呼んで会計を済ませた。けれど、瑞希には彼の言いたいことがわかった。――冬弥なら、話を聞いてくれる余地があるかもしれない。……困ったことに、ついこの間までは、あれほど何度も冬弥と顔を合わせていたのに、いざ会おうとすると、まるで連絡がつかない。瑞希は彼の会社まで足を運んだ。だが、受付で告げられたのは、今から予約を入れても、最短で会えるのは一か月後だということだった。それに、予約が取れるかどうかも、冬弥本人の承諾次第らしい。瑞希は、彼が自分に会ってくれるとは思えなかった。送ったメッセージにすら、返事はなかったのだから。冬弥が直接、事務所に圧力をかけて離婚案件を断らせたわけではないのかもしれない。けれど、よく考えれば、彼が京介の顔をまったく立てないとも思えない。あえて口を出さず、どちらにも肩入れしない。それが冬弥にとっ
瑞希にはわかっていた。京介は離婚したくないのではなく、ただ自分の思いどおりにさせたくないだけなのだ。三年前、初めて京介の浮気を知ったとき、瑞希はそれを水に流すことを選んだ。一度は、すべてが落ち着いたかのように見えた。京介は毎日家に帰り、以前のように優しく瑞希に接し、彼女の気持ちを何よりも気遣うようになった。それでも瑞希は、毎晩ろくに眠れなかった。あの頃は仕事にも身が入らず、何をするにも気力が湧かなかった。病院に長期休暇を申請し、昼間は病院へ行くと言いながら、実際にはあてもなく街をさまよっていた。そんなある日、運がよかったのか、悪かったのか。偶然にも京介を見かけてしまった。彼の隣には、宮原香織(みやはら かおり)という秘書がいた。一か月前、瑞希は京介の会社を訪れ、彼がオフィスで若い女性とキスしているところを目撃していた。その相手が、まさに香織だった。けれど、京介ははっきりと言っていた。彼女はもう解雇した、と。その日、瑞希は何もしなかった。だが一か月後、京介の浮気の証拠をメディアに送りつけた。京介と香織の関係は世間に暴かれ、会社にも深刻な影響が及んだ。株価は見るも無残なほど下落した。しかし、京介の背後には西園家がついている。彼に手を出そうとする者など、誰もいなかった。その代わり、香織が世間の非難を一身に浴びることになった。大学を卒業したばかりの彼女には、その重圧に耐えられなかった。彼女は京介の会社から飛び降り、その場で命を落とした。京介が瑞希に激怒したのは、それが初めてだった。「彼女はただ、家の経済状況が苦しくて、仕事が欲しかっただけなんだ!だから俺が雇ってやったんだ!瑞希、どうしてだ?どうして君はいつだって自分のことしか考えないんだ!人の気持ちなんて、少しも考えようとしない!どうしてそんなに残酷になれるんだ!」瑞希だって、まさか人が死ぬことになるとは思っていなかった。それでも、自分から折れる気にはなれなかった。自分が間違っていたと認めることもできず、彼に言い返した。「あなたこそ、喜ぶべきじゃない?私があなたに仕返ししたおかげで、罪悪感も薄れたでしょ?これで何の後ろめたさもなく、次の女を探せるんだから」あのとき、京介は失望しきった目で瑞希を見た。瑞希には理解できなかった。傷つ
京介はネクタイを緩め、不機嫌そうな顔で瑞希を睨んだ。「この家の暗証番号、何に変えたんだ?」結婚記念日も、付き合い始めた記念日も、瑞希と自分の誕生日も、すべて試した。だが、どれも違った。しかも、指紋認証の登録まで削除されていた。京介は腹が立って仕方なかった。「暗証番号を変えたのは、犬に吠えられないようにするためよ。教えたら意味ないじゃない」瑞希は彼にまともに目も向けず、玄関の前まで歩いていった。指紋認証で鍵を開けようと手を伸ばした、そのとき。手首を乱暴につかまれた。京介は瑞希をドアに押しつけ、荒々しい口調で言い放った。「俺たちがこんなことになった理由がわかるか?君が自分の悪いところを反省したことなんて、一度もないからだ。いつだって人のプライドを踏みにじってばかりいる!」瑞希は背中をドアに押し当てていた。まるで氷に触れているかのように、冷たさが骨の髄まで染み込んでくる。「へえ。あなたにも、プライドなんてものがあるのね」瑞希は皮肉っぽく笑った。「ほかの女と寝てるときは、プライドなんて考えもしなかったくせに」京介は彼女の言葉を無視して顔を近づけた。だが、その瞬間、瑞希から男物の香水特有の、甘さを抑えた香りが漂っていることに気づいた。声が急に低くなる。「誰に会ってきた?」「死神よ。あなたみたいなろくでなしを、いつ迎えに来てくれるのか聞いてきたの」「……」京介の顔から、ますます表情が消えた。瑞希は薄く目を細め、彼を見上げた。「京介、離婚協議書のこと、最後にもう一度だけ言っておくわ。これ以上引き延ばすなら、弁護士を立てて法的手段を取るから」京介は数秒、彼女を見つめた。そして、不意に笑った。「なあ、瑞希。俺たち、もう長いことしてないよな」「京介、気持ち悪いからやめて」瑞希の冷たい目には、嫌悪感がありありと浮かんでいた。京介はそんな視線など意に介さず、大きな手を遠慮なく彼女の腰に回した。瑞希が手にしていたバッグを振り上げ、京介の頭に叩きつけようとした、そのとき。エレベーターの到着音が響いた。扉が開く。オレンジ色の照明の下、冬弥がエレベーターから降りてきた。「冬弥?」京介は眉をひそめ、瑞希を放すと、不思議そうに冬弥を見た。「どうしてここに?」「病院で会った。ちょうど通り道