離婚した君に、十年越しの想いを

離婚した君に、十年越しの想いを

By:  萌木しいUpdated just now
Language: Japanese
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白石瑞希(しらいし みずき)はずっと思っていた。 西園京介(にしぞの きょうすけ)との結婚は、始まりがあれほど情熱的で、心から愛し合っていたからこそ、終わりはこんなにも惨めで、笑ってしまうほど無残なものになったのだと。 その間にあったのは、まるで鈍い刃物でじわじわと心を切り刻まれるような日々だった。 身を引き裂かれるような痛みを何度も味わい、やがて何も感じなくなった。 だから瑞希は、もう自分を苦しめるのをやめ、京介に告げた。「私たち、離婚しよう」 …… その後、瑞希は再婚した。 大勢の招待客で賑わう結婚式。その片隅に、京介はいた。 世界で最も高価なダイヤモンドをあしらったウェディングドレスをまとった瑞希から、目が離せなかった。 彼女の顔には、かつて自分が誰よりもよく知っていた、幸せそうな笑顔が浮かんでいる。 その隣にいるのは、自分の親友だった。 二人は誓いのキスを交わし、永遠の愛を誓い、生涯を共にすることを約束した。 …… 藤沢冬弥(ふじさわ とうや)が何よりも悔やんでいたのは、若い頃、あれほど自分を好きでいてくれた彼女を逃してしまったことだった。 彼女と先に出会ったのは、自分だったのに。 それなのに、彼女がほかの男と恋に落ちるのを見届け、その結婚を祝福したのも自分だった。 自分はまるでストーカーのように、一生彼女の幸せを陰から覗き見ることしかできないのだと思っていた。 けれど、やがて。 ついに自分が、彼女を幸せにする男になった。

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Chapter 1

第1話

白石瑞希(しらいし みずき)が家に帰ると、浴室からシャワーの音が聞こえてきた。

ちょうど二階から、若い女性が下りてくるところだった。腕には、西園京介(にしぞの きょうすけ)の着替えを抱えている。

瑞希に気づくと、女性は少し緊張した様子で口を開いた。「瑞希さん、こんにちは。京介社長の新しい秘書になった小川美咲です」

瑞希は軽く笑った。「知ってるわ。京介の新しい恋人でしょ?先週も海外旅行に連れて行ってもらったそうね」

小川美咲(おがわ みさき)は慌てて手を振った。「瑞希さん、誤解です!瑞希さんは社長の奥さんですし、社長が裏切るようなことをするはずありません」

美咲が本当に何も知らないのか、それとも無邪気なふりをしているだけなのか、瑞希にはわからなかった。

自分たちのことは、社交界では周知の事実だった。かつては誰もが羨むおしどりカップルだった二人も、今では夫婦という形だけを残し、すっかり冷え切った関係になっていた。

京介が浮気をして女を作るのは、もはや珍しいことでもない。かつては誰よりも大切にされ、愛されていた自分も、今では彼に疎まれるだけの妻になり果てていた。

十八歳で出会い、二十八歳になった今まで。

二人が過ごしてきた十年間は、もう取り返しのつかないほど壊れてしまっていた……

「あなた、特別なのね。京介がほかの女をこの家に連れてきたことなんて、一度もなかったわ」

若葉苑は、五年前、瑞希と京介が結婚したときに購入した新居だった。

美咲の目に、かすかな喜びが浮かんだ。彼女はすぐに取り繕うように、柔らかな声で説明した。「社長、かなり酔っていらしたので、私が車でお送りしたんです」

上司の接待に付き合ったはずなのに、酔ったのは上司だけで、自分は一滴も飲まずに運転して帰ってきたというのか。

そもそも、京介には専属の運転手までいる。

それでも瑞希は何も言わなかった。わざわざ嘘を暴く気にもなれなかった。

京介とは、もう二か月も会っていない。

二か月前、瑞希が二十八歳の誕生日を迎えた日。

彼女は一人で高級ホテルのレストランに食事に来ていた。そこで偶然、京介が若いモデルと二人きりで食事をしているところを目撃した。二人のテーブルにはキャンドルまで灯っていた。

瑞希は彼のもとへ歩み寄ると、思いきり頬を打った。「最低。ほんっとに気持ち悪い!」

怒りに任せてそう罵ると、京介は冷ややかに笑った。「瑞希、君こそ鏡を見てみろよ。今の自分がどんな顔をしてるか、わかってるのか?」

そう言うと、彼はモデルの腰に腕を回し、そのまま最上階のスイートルームへ向かった。そして、その夜はモデルと一夜を共にした。

あの夜、瑞希は誰もいない家に帰ると、目につくものを片っ端から壊した。

そして、鏡に映った恨みと怒りに満ちた自分の顔を見つめているうちに、突然、声を上げて泣き出した。

どうして、どうしてこんなふうになってしまったのだろう。どうして自分は、夫の浮気に取り乱し、感情をぶつけることしかできない女になってしまったのだろう。

あの日を境に、瑞希はこの家を出たが、京介が彼女を探しに来ることはなかった。ただ、その後まもなく、彼があのモデルと別れたという話だけは耳に入ってきた。

まさか、こんなに早く次の女ができていたとは。

瑞希が今日ここへ戻ってきたのは、離婚協議書を取りに来るためだった。

京介はまだシャワーを浴びていた。

美咲は浴室の前まで行くと、ドアを軽くノックした。「社長」と甘えるような声で呼びかける。

ほどなくして浴室のドアが開いた。瑞希の視界の端に、美咲が頬を赤らめながら京介に着替えを差し出す様子が映った。

瑞希は何も言わず、そのまま二階へ上がった。

……

荷物をまとめていると、瑞希は引き出しの中から、京介とおそろいの結婚指輪を見つけた。

五年前、京介はこの指輪を手に、片膝をついてプロポーズしてくれた。あの日は瑞希の二十三歳の誕生日で、京介は一生幸せにすると、真剣な眼差しで熱く誓ってくれた。

あの頃の瑞希は、五年後の誕生日に、二人が顔を合わせるのも嫌になり、言葉を交わすことさえ煩わしく思うようになるなんて、想像もしていなかった。

そんな過去を思い返しながら、瑞希は結婚指輪を引き出しに戻した。

再下に降りていくと、京介はゆったりしたパジャマ姿でソファに身を預け、長い脚を組んでくつろいでいた。

美咲は酔い覚ましにと用意したお茶を運び、京介に差し出した。すると京介は美咲の腰に手を回し、自分のほうへ引き寄せた。美咲は頬を真っ赤に染めていた。

「京介、離婚協議書にサインして」瑞希は落ち着いた声で切り出した。

お茶を飲んでいた京介の手が止まった。彼は顔を横に向け、瑞希を見た。

美咲の腰に回していた手を離し、ようやくテーブルの上の書類に気づくと、鼻で笑った。「今度は何のつもりだ?」

「もうあなたに時間を使うつもりはないの。サインしてくれれば、お互いすっきり別れられるわ」

「お互いすっきり、だと?」京介は、まるでとんでもない冗談でも聞いたかのように笑った。

「子どもも産めないくせに、何年も俺の時間を無駄にしておいて、離婚協議書にサインさせるだけで簡単に出ていけると思ってるのか?」

瑞希は表情ひとつ変えず、すかさず言い返した。「あなたとの子どもなんて、産まれた途端に性病をうつされそうで嫌だわ」

相手が一番傷つく言葉を選び、容赦なくぶつけ合う。そんなとき、瑞希も京介も決して引けを取らなかった。互いを思いやる気持ちなど、とうに失っていた。

瑞希はとっくに慣れきっていて、今さら何を言われても心は動かなかった。

京介もまた、冷たい目で彼女を見つめていた。

「社長……」隣にいた美咲が、おずおずと声をかけた。「お二人のお話の邪魔をしてもいけませんし、私はそろそろ失礼しますね」

京介は大きな窓の向こうに目をやった。外は一面の銀世界で、雪が激しく降り続いていた。

「この雪じゃ、道も凍ってるだろ。車で帰るのは危ない。今夜はここに泊まっていけ。空いてる部屋を使えばいい」

美咲は瑞希のほうをちらりと見て、困ったように眉を下げた。「でも……いいんでしょうか。瑞希さんもいらっしゃるのに……」

「別に構わないだろ」京介は美咲の言葉を遮った。

それから瑞希に目を向け、感情のこもらない声で告げた。「書類は一度こっちで確認する。そのあと弁護士を通して連絡するから、もう帰っていい」

……

若葉苑出た途端、吹きつける雪が目に入った。溶けた雪が目元を伝い、肌を刺すような冷たさが鼻先まで広がる。瑞希の目も鼻も、すっかり赤くなっていた。

ふと、京介と付き合い始めた頃のことを思い出した。

あの年も、今日のような大雪だった。

ちょうど学校が休みに入る時期だった。前の晩、京介に「すごく会いたいよ」とメッセージを送った。

すると翌朝、家の前には、肩や髪に雪を積もらせた京介が立っていた。自分を見つけると、彼は嬉しそうに笑い、両腕を広げて迎えてくれた。

おまけに、雪だるままで作ってくれた。真っ白で丸い雪だるまの頭には、自分がプレゼントした野球帽がかぶせてあった。

それなのに、今はもう。

あのときの雪だるまはとっくに溶けてなくなり、自分を愛していた京介も、もうどこにもいなかった。

激しい雪で視界が悪く、路面も滑りやすくなっていた。

瑞希は慎重に車を走らせていたが、ついていないときは何をしてもうまくいかないものだ。とうとう前を走るベントレーに追突してしまった。

車を降りると、ベントレーの運転手が後部座席のドアを恭しく開けた。中から降りてきたのは、全身黒のスーツに身を包んだ男性だった。

相手の顔がはっきり見えると、どこか見覚えがあり、瑞希は一瞬、動きを止めた。

「冬弥?」

藤沢冬弥(ふじさわ とうや)は、京介が特に親しくしている友人の一人だった。

幼い頃から何不自由なく育った、いわゆる裕福な家の御曹司たちとは違い、冬弥は貧しい家庭の出身だった。大学時代は奨学金や学費免除だけでは足りず、いくつものアルバイトを掛け持ちして生活費を稼いでいたほどだ。

そんな彼が、今ではかつての仲間たちをはるかにしのぐ、数兆円もの資産を持つ大富豪になっている。誰も、彼がここまで成功するとは想像していなかった。

瑞希と京介の結婚式にも冬弥は出席していた。しかも、新郎の友人代表まで務めていた。

物静かで、どこか近寄りがたい雰囲気の彼が、瑞希にかけてくれた言葉はたった一つだった。「結婚おめでとう」

あれから五年。

冬弥は以前にも増して冷たく、鋭い雰囲気をまとっていた。

雪と風の中を歩いてきた彼は、瑞希の前で足を止めた。静かに彼女を見つめるその目は、降りしきる雪の白さの中で、いっそう黒く鋭く見えた。

「どうして一人で出てきたんだ?京介はどうした?」

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第1話
白石瑞希(しらいし みずき)が家に帰ると、浴室からシャワーの音が聞こえてきた。ちょうど二階から、若い女性が下りてくるところだった。腕には、西園京介(にしぞの きょうすけ)の着替えを抱えている。瑞希に気づくと、女性は少し緊張した様子で口を開いた。「瑞希さん、こんにちは。京介社長の新しい秘書になった小川美咲です」瑞希は軽く笑った。「知ってるわ。京介の新しい恋人でしょ?先週も海外旅行に連れて行ってもらったそうね」小川美咲(おがわ みさき)は慌てて手を振った。「瑞希さん、誤解です!瑞希さんは社長の奥さんですし、社長が裏切るようなことをするはずありません」美咲が本当に何も知らないのか、それとも無邪気なふりをしているだけなのか、瑞希にはわからなかった。自分たちのことは、社交界では周知の事実だった。かつては誰もが羨むおしどりカップルだった二人も、今では夫婦という形だけを残し、すっかり冷え切った関係になっていた。京介が浮気をして女を作るのは、もはや珍しいことでもない。かつては誰よりも大切にされ、愛されていた自分も、今では彼に疎まれるだけの妻になり果てていた。十八歳で出会い、二十八歳になった今まで。二人が過ごしてきた十年間は、もう取り返しのつかないほど壊れてしまっていた……「あなた、特別なのね。京介がほかの女をこの家に連れてきたことなんて、一度もなかったわ」若葉苑は、五年前、瑞希と京介が結婚したときに購入した新居だった。美咲の目に、かすかな喜びが浮かんだ。彼女はすぐに取り繕うように、柔らかな声で説明した。「社長、かなり酔っていらしたので、私が車でお送りしたんです」上司の接待に付き合ったはずなのに、酔ったのは上司だけで、自分は一滴も飲まずに運転して帰ってきたというのか。そもそも、京介には専属の運転手までいる。それでも瑞希は何も言わなかった。わざわざ嘘を暴く気にもなれなかった。京介とは、もう二か月も会っていない。二か月前、瑞希が二十八歳の誕生日を迎えた日。彼女は一人で高級ホテルのレストランに食事に来ていた。そこで偶然、京介が若いモデルと二人きりで食事をしているところを目撃した。二人のテーブルにはキャンドルまで灯っていた。瑞希は彼のもとへ歩み寄ると、思いきり頬を打った。「最低。ほんっとに気持ち悪い!」怒りに任せ
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第2話
冬弥の声は低く、雪よりもひんやりとしていた。どこか人を寄せつけない響きがある。「……帰るところだったの」瑞希はうつむき、そう答えた。彼は瑞希がやって来た方向に目を向けた。表情からは何を考えているのか読み取れない。それがかえって、瑞希には気まずかった。冬弥は京介の親友だ。自分が車を走らせていた方向が若葉苑とは逆だったことも、京介がこの何年も好き勝手に遊び回っていたことも、当然知っているだろう。自分は今や、あの仲間内で噂話のネタにされ、笑いものになっていた。「修理代がわかったら、明細を送って。こっちから振り込むから」京介と関わりのある人間と、これ以上一緒にいたくなかった。冬弥はぶつかった二台の車に目をやった。それからふと視線を落とし、瑞希の目元に気づいた。長いまつげの下、泣いた跡がまだ残っている。そのまま視線を下げると、彼女の左手が目に入った。薬指には、もう何もはまっていなかった。「助手席に乗って」冬弥はそっけなく言った。瑞希が戸惑っている間に、彼はさっさと彼女の車の運転席に乗り込み、秘書にベントレーを運転していくよう指示した。秘書は、このあと大事な取引先との会食が控えていると言いかけた。だが、冬弥の有無を言わせない顔つきを見て、黙って従うことにした。冬弥は、車の外に立ったままの瑞希に目を向けた。「乗って。送るから」「ありがとう。でも、必要ないわ」瑞希は彼に車から降りるよう促した。けれど冬弥は、聞く耳を持たなかった。「そんな状態で運転できるのか?またベントレーかフェラーリにでもぶつけるつもりか?」「……」風雪にさらされ、瑞希の鼻先は赤くなっていた。彼女は腹立たしげに冬弥を睨んだ。こんなに顔がいいのに、どうして平気でそんなひどいことが言えるのだろう。だが、彼の言葉はそれで終わらなかった。そう思ったのも束の間、冬弥はさらに冷たい一言を放った。「乗らないなら、俺がこのまま行くぞ」「ちょっと、これ私の車なんだけど!」瑞希は思わず声を荒らげた。「だから、乗れって言ってるんだ」「……」結局、瑞希は自分の車の助手席に乗り込んだ。住所を伝えると、冬弥は「わかった」とだけ答えた。ナビを設定することもなく、長い指でハンドルを握り、黙ったまま車を走らせた。瑞希のマンションに着く
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第3話
瑞希と京介が結婚した年、芙美は夫の白石隆之(しらいし たかゆき)と離婚した。隆之は事業に失敗し、多額の借金を抱えた。けれど、それが原因で家族が壊れたわけではなかった。決定的だったのは、隆之が外で女を囲っていたことが発覚したからだ。白石家では、またしても夫婦喧嘩が始まり、家中がひっくり返るほどの大騒ぎになった。瑞希は今でも覚えている。父が家を出ていったあの夜、母は顔を怒りに歪め、父に向かって叫んだ。「そんなに行きたいなら、その女のところへ行けばいい!二度と帰ってこないで!」本当は引き止めたかったはずなのに、その言葉がかえって父に、何もかも放り出して家を出る口実を与えてしまった。あの日の瑞希は、今の芙美と同じように冷静だった。母から「結婚ってそういうものなのよ。京介と結婚するかどうか、よく考えなさい」と言われても、まるで聞く耳を持たなかった。恋に夢中になっている女は、誰だって自分だけは違うと思いたがる。瑞希もそうだった。自分はほかの女とは違う。京介との結婚が、両親と同じ結末を迎えるはずがない。そう信じて疑わなかった。それどころか、母にこんなひどいことまで言ったのだ。「私はお母さんとは違う。京介だって、お父さんとは違うわ」それなのに、どうなったのか。結局、自分も母と同じ道をたどることになった。電話は気まずいまま終わった。瑞希は力なく壁にもたれ、顔を覆った。胸の奥から、どうしようもない嫌悪感が込み上げてくる。京介に対してでも、芙美に対してでもない。自分自身に対してだ。結婚生活の中で繰り返される喧嘩や口をきかない日々は、目に見える形で現れた問題にすぎない。本当に残酷なのは、その積み重ねが少しずつ心をすり減らし、自信を失わせ、自分のことさえ大切に思えなくさせてしまうことだ。瑞希が涙を拭っていると、建物の脇にある裏口から冬弥が出てきた。仕立てのいいスーツに身を包み、涼しげで上品な佇まい。すらりとした白い指には、火のついていない煙草が挟まれていた。冬弥は黒い瞳を瑞希に向けた。けれど、その顔には何の感情も浮かんでいなかった。「車を取りに来たのか?」そっけなく尋ねられ、瑞希は頷いた。「うん」目に浮かんだ涙を、瑞希はどうにかこらえた。「昨日はありがとう」そう告げると、冬弥はちらりと彼女を見
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第4話
瑞希は前を向いたまま、歩き出した。京介の横を通り過ぎようとしたとき、彼が薄く笑って言った。「俺が汚いって?」「汚くないとでも思ってるの?」瑞希が言い返すと、京介は笑った。「じゃあ、どうする?そんな汚い男に、今まで散々抱かれてきたくせに」結婚前、瑞希は男の浮気にまつわる話をいくつも耳にしていた。若い頃から深く愛し合っていた二人も、幼なじみも、生死を共にした仲間同士も、どんなに理想的に見える関係だって、最後には悲しい結末を迎えることがある。それでも瑞希は、自分だけは特別なのだと思っていた。京介が自分を裏切るはずなんてない。二人の結婚生活は幸せで、いつまでも愛し合い、やがて二人の愛の結晶となる子どもにも恵まれる。そう信じていた。けれど、現実はどうだろう。結婚生活は幸せとはほど遠く、京介との間に子どもができることもない。二人はもう愛し合っていない。それどころか、今ではかつて誰よりも親密だったからこそ知っている弱みを、互いに傷つけるために持ち出すようになってしまった。「京介」瑞希はそっと目を閉じた。再び目を開けたとき、その瞳には凍りつくような冷たさが宿っていた。「私があなたを愛したことまで、後悔させないで」京介の体が、わずかに強張った。そのとき、看護師がやってきて瑞希に声をかけた。「白石先生、あと三十分で手術が始まります。そろそろ準備をお願いします」「わかりました」瑞希は現在、市立病院の脳神経外科で専攻医として働いている。まだ経験が浅く、執刀医を任される立場ではない。手術に入るときも、執刀医の助手を務めるのが主な役割だった。それでも、開頭手術に助手として入るだけで、かなりの集中力と体力を使う。しかも今夜は夜勤だった。夜、病棟の見回りを終えた瑞希は、当直室に戻って休むことにした。目を閉じると、昼間、京介と言い争ったときのひどいやり取りが、次々と頭によみがえってきた。京介は仕事熱心で、商売のためなら無理もする。仕事の付き合いで酒を飲みすぎ、体を壊して入院するのも、今回が初めてではなかった。数年前、飲みすぎたときもそうだった。瑞希に怒られたくないし、心配もかけたくない。そんな思いから、名家の御曹司である京介は、こっそり診療所に駆け込んで点滴を受けていた。ところが、運悪くそこは金儲けし
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第5話
「離婚協議書一枚で、俺と君の関係にケリがつくとでも思ってるのか?」京介は冷笑した。瑞希はうなずいた。「確かに、この書類一枚じゃ、あなたが私にどれだけの借りがあるのか、とても清算しきれないわね。残念だけど、離婚で分けられるのは財産だけ。あなたの命まで取り立てるわけにはいかないものね」「……」「いちいちそんな言い方しかできないのか?瑞希、何年経っても、まともな話し方ひとつ覚えられないんだな!」京介の、目を引くほど端正な顔が怒りでみるみる険しくなった。それでも瑞希は、表情ひとつ変えなかった。「普通に話すことくらいできるわよ。ただし、相手が人間で、こっちの言葉が通じる場合に限るけど」さらに追い打ちをかけるように、瑞希は吐き捨てた。「京介、あなた、本当に人間なの?」その瞬間、二人の間に重苦しい沈黙が広がった。互いに相手を食い殺さんばかりに睨み合う。そんな険悪な空気には、瑞希もすっかり慣れていた。三年前、京介の浮気を初めて知ってからというもの、互いに傷つけ合うことが、二人の日常の一部になっていた。そして、いつも先に火をつけるのは瑞希のほうだった。京介に裏切られたことが許せない。それなのに、きっぱり別れることもできない。だからこそ、来る日も来る日も、消えない不満とやり場のない怒りを抱えながら、京介を責め、自分自身をも苦しめてきた。けれど、もう終わりだ。京介への愛も、憎しみも、期待も、失望も。今ではすべて、きれいさっぱり消え去っていた。目の前の京介は、意地の悪い笑みを口元に浮かべ、鋭い眼差しを瑞希に向けていた。「離婚したいんだろ?いいぜ。子どもを産んでくれたら、その場で離婚してやるよ」瑞希にはわかっていた。京介は本気で子どもを望んでいるわけではない。ただ自分を嘲笑っているのだ。子どもも産めない女だと。結婚して最初の二年間、瑞希と京介は妊活をしていた。けれど、どうしても子どもを授かることができなかった。二人そろって検査を受け、ようやく原因が瑞希の側にあるとわかった。当時の瑞希は、京介に申し訳ないという気持ちでいっぱいだった。どうにか子供を授かりたくて、効果があると聞けば怪しげな民間療法にまで手を出した。あらゆる注射や薬にも頼った。そのせいで、お腹には、注射の痕がびっしりと残っていた。そ
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第6話
瑞希は伏し目がちに本を読んでいた。長く密なまつ毛が、目の下に影を落としている。白くほっそりした手の甲には点滴の針が刺さり、もう片方の手で医学書を開いていた。病院の白い照明に照らされ、瑞希の顔はいつにも増して青白く見えた。冬弥は目を細め、彼女を見つめた。すると、瑞希のまつ毛がかすかに揺れた。次の瞬間、彼女が顔を上げ、二人の視線がぶつかった。瑞希は、また病院で冬弥に会うとは思っていなかった。少し驚いたが、口元にかすかな笑みを浮かべ、彼に手を振って挨拶した。冬弥は口元を引き締めたまま、冷ややかな表情で視線をそらした。そして、そのまま背を向けて立ち去った。「……」瑞希は気まずそうに手を下ろした。母に気が強いと言われるのも、あながち間違いではない。特に、思春期真っただ中だった高校時代はひどかった。自分の思いどおりにならない相手ほど、意地でも手に入れたくなる。冬弥を追いかけていた頃もそうだった。彼が相手にしてくれないと、ますますしつこくつきまとった。「冬弥、こんな貧乏なあなたを私が好きになってあげてるんだから、ありがたく思いなさいよ。せっかくのチャンスを逃すなんてもったいないわ!私のことが好きじゃないなら、一生貧乏なままでいれば!冬弥って、ほんっとに鈍いんだから!」あの頃は自分の気持ちしか頭になく、思ったことを何でも口にしていた。今になって振り返れば、ずいぶん無神経だったと思う。相手のプライドを傷つけることなど、少しも考えていなかった。それにしても、だ。もう十年以上も前のことなのに、冬弥はまだあの頃のことを根に持っているのだろうか。瑞希は困ったように小さく息をついた。それ以上気にしても仕方がない。そう思い直し、またしばらく本を読んだ。やがて喉が渇き、点滴のボトルを手に持って水を買いに行こうとした、そのときだった。目の前に人影が差した。すらりとした長い指が、お湯の入った紙コップを差し出していた。瑞希が顔を上げると、その黒い瞳に冬弥の涼しげな顔が映る。「ありがとう」瑞希は紙コップを受け取り、少しずつお湯を飲んだ。「一人か?」冬弥の声は低く、どこか冷たかった。「うん」紙コップを握る瑞希の指先に、思わず力がこもる。冬弥は隣の空席に目をやり、点滴のボトルに半分ほど残っている液を
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第7話
京介はネクタイを緩め、不機嫌そうな顔で瑞希を睨んだ。「この家の暗証番号、何に変えたんだ?」結婚記念日も、付き合い始めた記念日も、瑞希と自分の誕生日も、すべて試した。だが、どれも違った。しかも、指紋認証の登録まで削除されていた。京介は腹が立って仕方なかった。「暗証番号を変えたのは、犬に吠えられないようにするためよ。教えたら意味ないじゃない」瑞希は彼にまともに目も向けず、玄関の前まで歩いていった。指紋認証で鍵を開けようと手を伸ばした、そのとき。手首を乱暴につかまれた。京介は瑞希をドアに押しつけ、荒々しい口調で言い放った。「俺たちがこんなことになった理由がわかるか?君が自分の悪いところを反省したことなんて、一度もないからだ。いつだって人のプライドを踏みにじってばかりいる!」瑞希は背中をドアに押し当てていた。まるで氷に触れているかのように、冷たさが骨の髄まで染み込んでくる。「へえ。あなたにも、プライドなんてものがあるのね」瑞希は皮肉っぽく笑った。「ほかの女と寝てるときは、プライドなんて考えもしなかったくせに」京介は彼女の言葉を無視して顔を近づけた。だが、その瞬間、瑞希から男物の香水特有の、甘さを抑えた香りが漂っていることに気づいた。声が急に低くなる。「誰に会ってきた?」「死神よ。あなたみたいなろくでなしを、いつ迎えに来てくれるのか聞いてきたの」「……」京介の顔から、ますます表情が消えた。瑞希は薄く目を細め、彼を見上げた。「京介、離婚協議書のこと、最後にもう一度だけ言っておくわ。これ以上引き延ばすなら、弁護士を立てて法的手段を取るから」京介は数秒、彼女を見つめた。そして、不意に笑った。「なあ、瑞希。俺たち、もう長いことしてないよな」「京介、気持ち悪いからやめて」瑞希の冷たい目には、嫌悪感がありありと浮かんでいた。京介はそんな視線など意に介さず、大きな手を遠慮なく彼女の腰に回した。瑞希が手にしていたバッグを振り上げ、京介の頭に叩きつけようとした、そのとき。エレベーターの到着音が響いた。扉が開く。オレンジ色の照明の下、冬弥がエレベーターから降りてきた。「冬弥?」京介は眉をひそめ、瑞希を放すと、不思議そうに冬弥を見た。「どうしてここに?」「病院で会った。ちょうど通り道
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第8話
瑞希にはわかっていた。京介は離婚したくないのではなく、ただ自分の思いどおりにさせたくないだけなのだ。三年前、初めて京介の浮気を知ったとき、瑞希はそれを水に流すことを選んだ。一度は、すべてが落ち着いたかのように見えた。京介は毎日家に帰り、以前のように優しく瑞希に接し、彼女の気持ちを何よりも気遣うようになった。それでも瑞希は、毎晩ろくに眠れなかった。あの頃は仕事にも身が入らず、何をするにも気力が湧かなかった。病院に長期休暇を申請し、昼間は病院へ行くと言いながら、実際にはあてもなく街をさまよっていた。そんなある日、運がよかったのか、悪かったのか。偶然にも京介を見かけてしまった。彼の隣には、宮原香織(みやはら かおり)という秘書がいた。一か月前、瑞希は京介の会社を訪れ、彼がオフィスで若い女性とキスしているところを目撃していた。その相手が、まさに香織だった。けれど、京介ははっきりと言っていた。彼女はもう解雇した、と。その日、瑞希は何もしなかった。だが一か月後、京介の浮気の証拠をメディアに送りつけた。京介と香織の関係は世間に暴かれ、会社にも深刻な影響が及んだ。株価は見るも無残なほど下落した。しかし、京介の背後には西園家がついている。彼に手を出そうとする者など、誰もいなかった。その代わり、香織が世間の非難を一身に浴びることになった。大学を卒業したばかりの彼女には、その重圧に耐えられなかった。彼女は京介の会社から飛び降り、その場で命を落とした。京介が瑞希に激怒したのは、それが初めてだった。「彼女はただ、家の経済状況が苦しくて、仕事が欲しかっただけなんだ!だから俺が雇ってやったんだ!瑞希、どうしてだ?どうして君はいつだって自分のことしか考えないんだ!人の気持ちなんて、少しも考えようとしない!どうしてそんなに残酷になれるんだ!」瑞希だって、まさか人が死ぬことになるとは思っていなかった。それでも、自分から折れる気にはなれなかった。自分が間違っていたと認めることもできず、彼に言い返した。「あなたこそ、喜ぶべきじゃない?私があなたに仕返ししたおかげで、罪悪感も薄れたでしょ?これで何の後ろめたさもなく、次の女を探せるんだから」あのとき、京介は失望しきった目で瑞希を見た。瑞希には理解できなかった。傷つ
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第9話
瑞希は諦めなかった。「でも、今日こうして会ってくれたということは、まだ可能性はあるんですよね?」修平は否定しなかった。「黒田さん、どうかお願いします」瑞希が懇願すると、修平は少し考えてから尋ねた。「瑞希さん、昨日の電話で、私の名刺は冬弥社長からもらったと言っていましたよね?」「はい」瑞希は頷いた。「冬弥とは親しいんですか?」修平は意外そうに瑞希を見た。冬弥を「さん」付けもせず、名前だけで呼ぶ人は、これまで見たことがなかった。しかし、修平はあえてそれを口にすることなく、笑って答えた。「冬弥社長は、うちの事務所のオーナーなんです」瑞希は一瞬、呆気に取られた。思わず尋ねる。「じゃあ、冬弥が私の離婚案件を引き受けるなって言ったんですか?」京介と冬弥は親しい間柄だ。冬弥に頼んで、自分の離婚案件を断ってもらうくらい、京介にとっては簡単なことだろう。そもそも、冬弥が自分に手を貸してくれる理由も思い当たらなかった。何しろ、京介との関係を抜きにしても、自分はもともと冬弥に好かれていないのだから。「瑞希さん、誤解されていますよ」修平は微笑んだ。「冬弥社長は確かに、うちの事務所にとって最大の出資者です。ただ、桐原支店は冬弥社長が手がけている事業のほんの一部にすぎません。いちいち個別の案件にまで口を出すことはありませんよ」修平はそれ以上、詳しくは説明しなかった。話を切り上げると、店員を呼んで会計を済ませた。けれど、瑞希には彼の言いたいことがわかった。――冬弥なら、話を聞いてくれる余地があるかもしれない。……困ったことに、ついこの間までは、あれほど何度も冬弥と顔を合わせていたのに、いざ会おうとすると、まるで連絡がつかない。瑞希は彼の会社まで足を運んだ。だが、受付で告げられたのは、今から予約を入れても、最短で会えるのは一か月後だということだった。それに、予約が取れるかどうかも、冬弥本人の承諾次第らしい。瑞希は、彼が自分に会ってくれるとは思えなかった。送ったメッセージにすら、返事はなかったのだから。冬弥が直接、事務所に圧力をかけて離婚案件を断らせたわけではないのかもしれない。けれど、よく考えれば、彼が京介の顔をまったく立てないとも思えない。あえて口を出さず、どちらにも肩入れしない。それが冬弥にとっ
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第10話
冬弥は仕立てのいいスーツを着こなし、背筋をまっすぐに伸ばしていた。彼は涼しげな目で瑞希を見た。整った顔立ちに浮かぶ、冷淡な表情。その姿が、十数年前、窓際の席で彼女を冷ややかに見つめていた、十七歳の頃の面影と重なった。瑞希は気を取り直し、軽く微笑んで声をかけた。「おはよう」冬弥はじっと彼女を見つめていた。黒い瞳には、問い詰めるような色が浮かんでいる。瑞希は気まずさをこらえながら病室に入り、たまごサンドを真弓のベッド脇にあるテーブルに置いた。「おばさんのお見舞いに来たの」冬弥は何も答えなかった。その表情には、はっきりと書いてあった。――信じられない。瑞希には弁解のしようもなかった。実際、彼に会うためという目的もあって、ここに通っていたのだから。真弓は二人の間に流れる微妙な空気には気づかず、瑞希の顔を見るなり、もうすぐ三十歳になる息子がいまだに独身であることを思い出したらしい。「あのね、瑞希先生の周りに、独身でいいお嬢さんはいない?よかったら、うちの冬弥に紹介してくれないかしら」真弓は瑞希のことが気に入っていた。ただ、瑞希はもう結婚している。それが残念だった。瑞希は少し考えてから、真面目に答えた。「いますよ。同僚に独身の人がいるので、時間があるときに聞いてみますね」言い終えた途端、隣からひやりとした空気が伝わってきた。瑞希がそちらに目を向けると、窓が少し開いていた。春先の冷たい風が、隙間から入り込んでいる。もちろん、春風よりも冷たかったのは、冬弥の不機嫌そうな顔だった。瑞希はそっと唇を引き結んだ。冬弥が自分に母親へ近づいてほしくないと思っている理由は、よくわかっていた。高校時代、勝手に冬弥の家庭事情を調べたせいで、彼の家のことが学校中に知れ渡ってしまった。そのとき、瑞希が耳にしたのは、心ない言葉ばかりだった。「母親が精神病なんだから、息子だってまともなわけないじゃん!」「前から変な奴だと思ってたんだよな。成績がいいだけで、普段はろくに口も利かないし。知らない奴が見たら、自閉症かと思うだろ!」「ちょっと、声が大きいって。あいつの父親が殺人犯だって知らないの?そういうのって、遺伝するんじゃない?」中には、冬弥の机にまで「精神病」「殺人犯」といった言葉を刻みつける者もいた。
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