慎也は、そもそも恩義に縛られるような男ではない。たとえそうだとしても、彼が恩を感じているのは言吾個人に対してであり、獅子堂家に対してではない。もし宗厳が心から言吾を案じているのなら、利益の一つや二つ、くれてやってもよかった。だが、この男は違う。そんな男に、ただでくれてやるものなど何一つなかった。宗厳は、慎也がそこまで言い放つとは思いもよらなかった。「私の息子は、お前たちを助けるために重傷を負ったんだぞ!」これほどの恩を仇で返す人間が、この世にいるとは。信じられない思いだった。「それが何か?俺が助けてくれと頼んだわけじゃない」慎也は、恩知らずで結構、お前に何ができる、とでも言いたげな、ふてぶてしい態度を崩さない。その態度に、宗厳は怒りで顔を歪ませ、「貴様……」と半ば呻くように呟いたが、それ以上言葉が続かなかった。彼は、矛先を一葉へと変える。「青山一葉!言吾がお前を助けたがためにこんなことになったのだぞ!貴様に少しでも良心というものがあるのなら、この実の父親を怒らせるような真似はすべきではない!」宗厳は、一葉を揺さぶることで、慎也を思い通りに動かそうとしているのだ。あのプロジェクトを、最終的に彼に差し出させるために。だが、一葉もまた、そんな薄っぺらな道徳論で動くような女ではなかった。確かに言吾が一葉を救ったために、彼は傷ついた。だが、それがこの宗厳という男と何の関係があるというのか。実の息子である言吾のことさえ、心から案じているかも怪しい男だ。そんな男に、なぜ一葉が気遣いを見せる必要がある?だから、一葉は宗厳を真っすぐに見据え、慎也と全く同じ言葉を繰り返した。「それが何か?私が助けてくれと頼んだわけじゃない」慎也の時よりも、一葉のその言葉がもたらした衝撃は大きかったに違いない。「き……貴様ら……!」宗厳は、到底信じられないというように絶句した。この二人、慎也と一葉が、これほどまでに恩知らずだとは、夢にも思わなかったのだ。特に、この女が!言吾が、彼女を救うために、どれほどのものを投げ打ち、全てを捧げたか。それなのに、この女は感謝のかけらも見せないどころか、「助けてくれと頼んだわけじゃない」と言い放ったのだ。その言葉に、それまで黙っていた文江が堪らず叫んだ。「この……性悪女!うちの息子があんたに
他の息子がいるという事実が、彼の心に微妙な変化をもたらしていた。もちろん、言吾が危険な状態にあることは辛く、この優れた息子を失いたくないという思いは本物だ。できる限りの手は尽くして救いたいと思っている。だが、もし言吾という後継者を失ったとしても、彼には代わりがいる。それゆえに、唯一の息子を失うかもしれないという、なりふり構わぬ焦燥感が彼にはなかった。この機に乗じて、長年欲しかったあのプロジェクトを慎也から手に入れようなどという計算が働く余地があったのだ。上流社会において、多くの経営者が家庭の外に別の家庭を持つことは珍しくない。表向きは良き家庭人を装いながら、裏では華やかな女性関係を謳歌する。宗厳もまた、その一人だった。ただ、彼のやり方は極めて巧妙で、関係を持った女性たちの後始末も迅速かつ完璧だったため、その事実を知る者はほとんどいなかった。つい先日、宗厳は海外出張に出ていた。そこで偶然、かつての愛人の一人と再会したのだ。一夜限りの関係だと思っていたその女性が、彼に隠れて息子を産んでいたとは、まさに青天の霹靂だった。その息子は、今M国のビジネススクールに通っているという。容姿も頭脳も、申し分のない青年だった。彼のような大企業のトップにとって、優秀な子供はいくらいても困らない。人生には何が起こるか分からないのだから。彼はその場で、その息子を認知した。だが、その時、宗厳に言吾に取って代わらせようという考えはなかった。言吾のビジネスにおける才能は、世界でも稀に見るものだ。そして何より、彼は正妻の子、つまり嫡子であり、名実ともにその後継者と目されていた。認知した息子は、あくまで「控え」のつもりだった。まさか、その息子を認知して間もなく。言吾の身に、こんなことが起ころうとは。まさに慎也の推測通りだった。彼は慎也から言吾の一報を受けると、即座に自身の情報網を駆使して、その詳細を探らせていた。国内屈指の富豪として、長きにわたりその地位を保ち続けてきた一族だ。慎也が掴める情報を、宗厳が掴めないはずがない。そして、知ったのだ。言吾は重傷を負い、たとえ助かったとしても、二度と意識は戻らない可能性が高い、と。その報せを受けた瞬間、宗厳は、本当に目の前が真っ暗になり、その場に崩れ落ちそうになった。あれほど優秀な息子。本気
一葉が一歩前に出て何かを言おうとするのを、慎也がそっと手で制した。彼女の前に立ちはだかり、宗厳と真っ直ぐに向き合う。「宗厳さん、どのような『けじめ』を、とお望みで?」「決まっているだろう。総力を挙げて息子の行方を探し、いかなる対価を払ってでも彼を救出することだ。そして……」宗厳が口にした最初の言葉は、一葉と慎也の胸に、言吾を思う温かい何かを感じさせた。母親がどうであれ、少なくともこの父親は、本心から息子の身を案じ、そのために筋を通そうとしているのだ、と。だが、その言葉は徐々に、商売の話へとすり替わっていった。彼は、遠回しに、そして時にはあからさまに、慎也が手掛ける事業の中で最も利益率の高いプロジェクトを獅子堂家に譲渡すること、それが今回の件に対する「けじめ」であり、「賠償」であると匂わせ始めた。その言葉を聞くうちに、慎也の瞳はますます冷たく凍てついていった。これしきの利益を手放すのが惜しいのではない。これほどまでに言吾を想っているように見えた実の父親が、その息子が生きているか死んでいるかさえ分からないこの状況下で、ただひたすらにその不幸を利用し、自らの利益を得ようとしている。その浅ましさに、心底うんざりしたのだ。しかもこれは、烈がまだ生きているという事実を、宗厳に伝えていない段階での話だ。もし、死んだはずの長男が、実はまだ生きていると知ったら。おそらくは、さらに……慎也はこれまで、宗厳は言吾に本心からの情を抱いていると信じていた。だが、闇の世界に身を置いてきた影響か、人の本性を常に最悪の方向で考えてしまう癖がついている。もし、宗厳が、烈が実は生きていると知ってしまえば……元々、手元で育ててきた烈の方を可愛がっていた彼のことだ、重傷を負った言吾を見捨て、烈を選ぶに違いない、と。それゆえに、言吾の事件後、宗厳に連絡した際も、言吾が例の犯罪組織に捕らえられたとだけ伝え、烈が生きていること、そしてその組織のトップが烈本人であることは伏せておいたのだ。烈が「死んだ」ことになっている以上、言吾は宗厳にとって唯一の息子。あれほど言吾の才覚を買い、獅子堂家を継がせるつもりでいたのだから、息子の有事を知れば、なりふり構わず、自分と協力して救出に全力を尽くすはずだ――慎也はそう踏んでいた。ところが、この状況下ですら、あの男
文江は、身も世もなく泣きじゃくった。事情を知らない者が見れば、誰もが同情し、胸を痛め、その悲しみを憐れむだろう。最愛の息子を失い、悲しみに打ちひしがれる母親の姿に。だが、誰が想像できただろうか。これほどまでに慟哭する彼女が、言吾の訃報にも近い知らせを聞いた瞬間、心の底から歓喜したことなど。天は我に味方せり、と。あの忌まわしい、生まれながらの悪魔を、ついに天が召してくれたのだと。文江は、心の底から言吾の死を望み、これまで幾度となくその命を狙ってきた。だが、どれほど憎んでも、言吾は彼女が腹を痛めて産んだ実の息子だ。自らの手で実の子を殺めるという行為は、どうしようもなく彼女の心を苛み、恐怖と罪悪感で蝕んでいた。夜ごと、夢を見る。目や鼻、口という顔中の穴という穴から血を流し、蒼白な顔をした言吾が近づいてきて、問うのだ。なぜ、どうして、実の息子である僕を殺そうとするのか、と。僕が、一体何をしたというのか、と。その度に、彼女は凄まじい恐怖に叫びながら目を覚ます。繰り返される悪夢と罪悪感は、彼女から安眠を奪った。眠れぬ夜が続けば精神は摩耗し、精神が摩耗すれば、ほんの僅かなうたた寝でさえ、あの悪夢へと引きずり込まれる。それはまさしく、地獄のような苦しみだった。だが、もう終わった。天が言吾を連れ去ってくれた。もう、あの罪悪感に苛まれることはない。もう、あの悪夢に怯える夜はないのだ。彼女は言吾の不幸を喜んでいた。だが、悲しみに暮れる母親を演じきらねばならなかった。この女、青山一葉に、代償を払わせるために。文江が「烈を殺した」と一葉を罵ったのは、単なる激情からの言葉ではない。彼女は本気で、死を偽装した最愛の息子が本当に死んだのは、この女のせいだと信じ込んでいるのだ。この女が誘拐されなければ、言吾が危険を冒して助けに行くこともなかった。そうすれば、私の可愛い烈が、言吾を助けるために危険な目に遭うこともなかったはずだ、と。文江の罵詈雑言は、ただでさえ険しかった慎也の眼差しを、さらに冷たく、獰猛なものへと変えた。「文江夫人、ご自分の息子に手ずから毒を盛ろうとしたあなたが、今更母親ぶるのは滑稽ですな」慎也の言葉は、常のように毒を含み、鋭く相手を抉る。宗厳が一葉たちを恨むのには、まだ理があった。彼は言吾という息子に
今までに、言吾のような男に会ったことがない。どう形容すればいいのか、言葉が見つからなかった。一葉を愛していると言いながら、彼女をあれほど深く傷つけることができる。愛していないのかと思えば、彼女の幸せのためなら、恋敵である自分の命さえ身を挺して救おうとする。まったく、食えない男だ。叔父がそこまで断言するのを聞いて、旭はかける言葉を失った。彼が我に返り、何かを言おうとした、その時だった。慎也の腹心が、血相を変えて駆け込んできた。烈が新たに手を回し、ここS国で一葉たちを暗殺しようと画策しているという。慎也は、指に挟んだ煙草をぐっと強く握りしめた。その瞳は、瞬時にして恐ろしいほどに陰りを帯びる。もはや理由は関係ない。獅子堂烈は、必ずこの手で殺す。奴の組織も、根絶やしにしてくれる……!何かを思いついたように、彼は部下に即座に行動するよう矢継ぎ早に指示を出した。慎也は、あくまで一介の商人だ。それも、裏社会とは一切関わりのない、クリーンな事業だけで財を成した男。どれほどの金や手腕があろうと、世界の無法地帯に根を張る最大級の犯罪組織を単独で壊滅させることなど、土台無理な話だ。だが、彼には金がある。この世の99.9%は、金で解決できる。組織を直接叩き潰す力がなくとも、金さえあれば、より強大な勢力を動かすことができる。その力をもって、組織を殲滅させるのだ。この計画をより確実に遂行するため、そして何より一葉の身の安全を万全にするため、慎也は彼女を連れて本港市へと戻る決断をした。彼は、本港市きっての富豪。ここは、彼の庭だ。この街で起きるどんな些細な動きも、彼の耳に入らないことはない。烈がこの地で一葉を暗殺するなど、万に一つも起こり得なかった。一葉は、S国に留まって言吾の救出を待つ、という選択をしなかった。慎也から聞かされた計画が、その判断をさせたからだ。S国にいれば、確かに言吾との物理的な距離は近い。だが、それは彼の救出にとって、決して有利に働くわけではなかった。慎也が計画の実行のために人脈をあたって奔走している間、一葉もまた、ただ腕をこまねいてはいなかった。彼女は自身の持つ科学界の大物たちとの繋がりを頼り、行動を起こしていた。烈の組織には、多くの研究者が囚われている。世界中のトップクラスの研究者た
それに、旭自身、一葉と慎也の婚約の件にどう向き合えばいいかわからず、自ら彼らと距離を置いていたという事情もある。そのため、彼は一葉の身に起きた事件など全く知らなかった。だが、慎也が一葉の救出に向かうにあたり、旭の助けが必要な雑務が山積したことで、ようやく彼は叔父の周囲の異変に気づいた。そして調べを進めるうち、衝撃の事実を知るに至ったのである。事実を知った旭は、いてもたってもいられず、狂ったようにここまで車を飛ばしてきたのだ。道中ずっと、心臓は張り裂けんばかりに高鳴っていた。そして先ほど、夜の闇に沈む叔父の姿を見た瞬間、最悪の事態を想像して恐怖に凍り付いた。だからこそ、張り詰めていた緊張の糸が切れた今、立っているのもやっとだった。しばらく息を整え、ようやく落ち着きを取り戻したが、ふとある可能性に思い至り、再び顔を強張らせた。「姉さんが……ひどい怪我を?」そうでなければ、叔父があんな顔をするはずがない。「それもない」慎也の言葉に、旭は今度こそ完全に安堵のため息を漏らした。「じゃあ、どうして叔父さん、さっきあんな様子だったんですか?」さっきの叔父の姿は、まるで何か取り返しのつかない、重い出来事が起きた後のようだった。だから、てっきり姉さんの身に何かあったのだと、そうとしか考えられなかったのだ。慎也は答えず、ただ窓の外の夜闇に目をやり、そしてまた、一服、また一服と紫煙を燻らせるだけだった。旭は、これほどまでに虚ろな叔父の姿を見たことがなかった。思わず再び問いかける。「叔父さん、いったいどうしたんですか」姉さんを無事に助け出して、怪我もない。だったら、叔父さんは喜んでいるはずじゃないか。それでも慎也は口を開かず、ただ煙草を燻らせるだけだった。旭が、これ以上聞いても無駄だと諦め、一葉の元へ行こうと踵を返しかけた、その時だった。ぽつり、と慎也が呟いた。「深水言吾が、やられた」慎也は敵対組織の内部に内通者を潜ませていた。それゆえ、言吾のその後の消息を掴むのは早かった。事態は、彼の予測通り、烈はまだ言吾を殺す気はない。追っ手は言吾の命を奪うどころか、むしろ彼を「救護」した。だが、言吾は追撃の際にさらに銃弾を受け、危険な状態に陥っているという。再び意識が戻るかは、五分五分……この事実を、どう