LOGIN離婚を決意する三ヶ月前、池上由奈(いけがみ ゆな)は職場に異動願を提出した。 一ヶ月前、滝沢祐一(たきざわ ゆういち)宛てに離婚届を送った。 そして、最後の三日前――彼女は自分の荷物をすべてまとめ、二人の家を後にした。 結婚生活は六年も続いた。 だが祐一は、初恋の相手である長門歩実(ながと あゆみ)と健斗(けんと)を連れて堂々と由奈の前に現れ、幼い子に「パパ」と呼ばせた瞬間、由奈はすべてを悟った。 ――ああ、この人にとって大切なのはあの親子なんだ。 彼女たちのために、祐一は何度も由奈を犠牲にし、譲歩するよう迫った。まるで由奈こそが邪魔者で、存在を知られてはいけない愛人のようだった。 ならば、もう終わらせよう。この婚姻を断ち切り、彼が本当に好きな人と共にいられるように。 そう覚悟して由奈は去った。 けれど、彼女が本当に姿を消した時――祐一は正気を失った。 由奈は、祐一が望みどおり歩実と結ばれると思っていた。だが、権勢を誇るあの男は、真っ赤に充血した目でメディアの前に立ち、惨めなほどの言葉を吐いた。 「俺は浮気なんてしていない。隠し子もいない。俺には妻の由奈しかいないんだ。だが……彼女はもう俺を必要としたりしない。俺は、彼女に会いたいんだ!」
View More由奈はぼんやりと顔を上げた。逆光の中からこちらへ駆けてくる人影が、人混みの中で少しずつ輪郭を帯びていく。その姿を認めた瞬間、胸が小さく震えた。反応する間もなく、力強い腕に引き寄せられる。温かく、確かな体温に包まれ、由奈はその胸に抱き締められた。「祐一……?」彼の腕の中で、由奈はしばらく呆然としていた。信じられなかった。これは、幻覚なのではないかと疑った。何も言えず固まる由奈を見て、祐一は抱き締める腕にさらに力を込め、呆れたように小さく笑う。「海外まで来ても、やっぱり君は手がかかるな。こんなことになるってわかってたら、もっと早く迎えにくるべきだった」本当に、祐一だった。耳元で響く声も、抱き締める腕の温もりも、すべて現実だった。張り詰め続けていた緊張の糸が、一気に切れる。鼻の奥がつんと痛み、熱い涙が堰を切ったように溢れ出した。恐怖も、不安も、そして募り続けていた恋しさも――すべて涙となって、祐一の胸元を濡らしていく。祐一は一瞬目を見開いたが、何も言わず、そっと由奈の背中を撫でた。その様子を見ていた心愛は、すべてを察したように静かにその場を離れた。一方、人垣の外では律と智宏が現場を見守っていたが、警察に連行される淳平の姿を見つけた途端、智宏は怒りに任せて駆け出そうとする。「おい、待て!」律が慌てて彼の腕を掴む。「今はやめろ!」智宏の胸は激しく上下し、握り締めた拳は血の気を失うほど白くなっていた。連行される淳平を睨みつける目には、抑え切れない怒りが宿っている。律が止めていなければ、本当に殴りかかっていただろう。「とりあえず落ち着けって。今回の一件で、あいつもしばらくは大人しくしていてくれるだろう。それより、まず妹さんと古澤さんを――」そこでふと、律は由奈を抱き締めている祐一へ目を向けた。「あれ……あの男は?」智宏は何も答えなかった。祐一がM国へ来ていることは、すでに知っていたからだ。その頃、心愛は女性警察官の事情聴取に応じていた。調書を取り終えたところで、智宏が近づいてくる。「古澤さん、怪我はないですか?」心愛は少し驚いたように目を瞬かせ、それから首を横に振った。「……大丈夫です」すると律が横から覗き込み、苦笑する。「どこが大丈夫なんですか?その手、腫れてるじゃないで
淳平は鼻を鳴らすと、ボディーガードたちに顎をしゃくった。「あの二人を捕まえろ」由奈と心愛は立ち尽くした。目の前の男たちは拳銃を手にしている。先ほどすぐそばで人が撃ち殺された光景もあり、二人は完全に追い詰められていた。逃げ場はない。それでも由奈は、混乱の最中にどうにか電話を発信していた。通話は切らず、そのままつないである。ボディーガードが迫ってくると同時に、彼女はスマホを袖口の中へ隠し、固く握りしめた。淳平は心愛の前まで歩み寄ると、乱暴に髪をつかみ上げる。「お前……結局は俺の手の中じゃねぇか。今日こそ逃がさないぞ!」「松本さん!」由奈は思わず叫んだ。「私たちを攫ったのは、告白を断られた腹いせですか?」淳平はようやく由奈へ目を向ける。「ああ、お前もいたな」心愛から手を離し、そのまま由奈へ向かおうとする。「松本さん!」心愛が慌てて声を張り上げた。「恨みがあるのは私だけでしょ?彼女を傷つけないで!」「落ち着けって」淳平は冷たく笑う。「今日は二人とも帰さない」そして、その笑みをさらに歪めた。「最近ネットで騒ぎになってた件……あれ、お前らの仕業だろ?ずいぶん楽しかったようだな。そんなに注目されるのが好きなら、俺がもっとデカいニュースを作ってやる」視線が二人の身体を舐め回す。「お前らを裸にひん剥いてネットに流したら……どれだけ盛り上がるだろうな?」由奈の背中を冷たい汗が伝う。スマホを握る指先は、力が入りすぎて白くなっていた。それでも必死に平静を装う。「松本さん……あなたのお父様は、今あなたが何をしているかご存じなんですか?こんなことをすれば、松本家は取り返しのつかないことになりますよ!」「取り返しがつかないだと?」淳平は吐き捨てるように笑った。「笑わせるな」由奈を指差し、嘲る。「中道家の人間だからって、俺がビビるとでも思ったか?だいたい、中道家だろうが何だろうが、ここはやつらの庭じゃない。やつらが駆けつける頃には、お前はとっくに冷たくなってるよ」淳平はボディーガードへ顎をしゃくった。「まずはこいつを可愛がってやれ。中道家のお嬢様が裸にされてネットへ晒されたら、さぞ話題になるだろうな」ボディーガードたちが一斉に由奈を押さえつける。由奈は必死に抵抗したが、その拍子にスマホが袖から滑り落ち、地面
そう言って心愛は由奈の手をそっと離し、茶髪の男を真っすぐ見据えた。「スピード勝負じゃなくて、もっとスリルのあるゲームはどうですか?」茶髪の男は眉を上げる。「というと?」「お互い目隠しをして、正面へ向かって走るんです。先に避けたほうが負け」その言葉が落ちた瞬間、それまで囃し立てていた連中が一斉に息をのんだ。「怖くて挑めないのですか?」相手が黙った隙を逃さず、心愛は畳みかける。「あなたたちのバイクチームの噂は聞いたことがあります。腕がいいってことも。まあ、度胸まで本物かどうかは知りませんけど」茶髪の男は口の端を吊り上げた。「森川、お前のバイクを貸せ」舌で頬の内側を軽く押し、喉の奥で低く笑う。「こんな無茶な勝負を挑んできた女は初めてだ。気に入ったよ」誰かがプロテクターを持ってくると、男は一式を受け取り、心愛へ放り投げた。「死ぬなよ」心愛は手際よくプロテクターを装着し、バイクへまたがる。サイドスタンドを軽く払うと、アクセルをひねり、エンジンが低く唸りを上げた。一台はトンネルの入口。もう一台は500メートル先の出口。互いに目隠しをしたまま、一直線にアクセル全開で突っ込む。ほんのわずかな障害物でも、命取りになる距離と速度だった。見物人たちは興奮気味に騒いでいる。だが、由奈だけは違った。胸が締めつけられ、恐怖で息が苦しい。心愛に何かあったら――そんな思いばかりが頭を巡る。やがて二人に黒い布が渡される。心愛はそれを目元へ巻きつけ、きつく結び目を作ると、その上からヘルメットを被った。向こう側でも準備が整う。審判役の青年が旗を高く掲げた。辺りが水を打ったように静まり返る。誰もが固唾を呑んで見守る中――甲高いホイッスルが鳴り響いた。次の瞬間。二人は同時にアクセルを全開にした。由奈の心臓は今にも喉から飛び出しそうだった。2台のバイクが、猛スピードで一直線に互いへ向かっていく。あと数秒で激突する。誰もが惨劇を覚悟した、その瞬間――茶髪の男がハンドルを切った。2台は紙一重のところですれ違い、激突を免れる。本当に、あと数十センチ。あの速度でぶつかっていれば、プロテクターを着けていても無事では済まなかっただろう。見守っていた者たちは、誰もが言葉を失って
野次と笑い声が飛び交う人混みの中、先頭に立っていた茶髪の男が、二人の前へゆっくりと歩み寄ってきた。品定めするように上から下まで視線を走らせると、後ろを振り返り、呆れたように肩をすくめる。「依頼したやつ、頭でもおかしいのか?2人の女相手に、俺が手を出す必要がある?」言い終わるや否や、男は由奈へ手を伸ばした。その瞬間、心愛が一歩前へ出て、由奈をかばうように立ちはだかる。「あなたたちを動かしているのが誰なのか、見当はついてます。この人は妊婦です、あなたたちの依頼主とは何の関係もありません」心愛が事情を察しているように、由奈ももちろん気づいていた。二人まとめてここへ連れて来られた以上、黒幕は十中八九、松本家の人間だ。「そんなに警戒しないでくれ。俺はただ挨拶しようとしただけさ」茶髪の男は両手を広げて笑う。「妊婦には興味ないよ。でも――」そこで一拍置き、心愛を指差した。「お前は大学じゃ有名人だからな。前から知ってる。写真で見るより、実物のほうがずっと綺麗だ」「どうも。それなら、先に彼女だけ帰してくれませんか?その代わり、私があなたたちの遊びに付き合うから」由奈は思わず目を見開いた。「俺たちの遊び?」男は吹き出し、わざと首を傾げる。「どんな遊びのことを言ってるんだ?」「ここはいろんな遊びがあるんでしょう?」心愛は少し離れた場所で若者が乗っている赤いスポーツバイクへ顎をしゃくった。「あのバイク、結構気に入ってます。ただ……あなたの腕前がどれくらいかは知らないけど」「おいおい、あいつ、ボスの腕を疑ってるぞ!」「マジかよ!ボスと勝負する気なのか?」周囲はたちまち囃し立て、歓声が上がる。物怖じしない心愛の態度に、茶髪の男はますます興味を示した。「俺と勝負したいって?」「ええ、もちろん応じてくれますよね?」男は若者へ顎で合図し、バイクを譲るよう命じた。「いいだろう。お前が勝てば、その妊婦は帰してやる」「ボス、それは――」仲間の一人が口を挟もうとしたが、男は手を上げて制する。「妊婦がいるなんて依頼主は一言も言わなかった。先にルールを破ったのは向こうだ。もっとも、金は受け取った以上、仕事は最後までやるがな」そして心愛へ向き直る。「もしお前が勝てば、二人とも解放する。だが負けたら、お前も彼女も
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