LOGIN離婚を決意する三ヶ月前、池上由奈(いけがみ ゆな)は職場に異動願を提出した。 一ヶ月前、滝沢祐一(たきざわ ゆういち)宛てに離婚届を送った。 そして、最後の三日前――彼女は自分の荷物をすべてまとめ、二人の家を後にした。 結婚生活は六年も続いた。 だが祐一は、初恋の相手である長門歩実(ながと あゆみ)と健斗(けんと)を連れて堂々と由奈の前に現れ、幼い子に「パパ」と呼ばせた瞬間、由奈はすべてを悟った。 ――ああ、この人にとって大切なのはあの親子なんだ。 彼女たちのために、祐一は何度も由奈を犠牲にし、譲歩するよう迫った。まるで由奈こそが邪魔者で、存在を知られてはいけない愛人のようだった。 ならば、もう終わらせよう。この婚姻を断ち切り、彼が本当に好きな人と共にいられるように。 そう覚悟して由奈は去った。 けれど、彼女が本当に姿を消した時――祐一は正気を失った。 由奈は、祐一が望みどおり歩実と結ばれると思っていた。だが、権勢を誇るあの男は、真っ赤に充血した目でメディアの前に立ち、惨めなほどの言葉を吐いた。 「俺は浮気なんてしていない。隠し子もいない。俺には妻の由奈しかいないんだ。だが……彼女はもう俺を必要としたりしない。俺は、彼女に会いたいんだ!」
View More由奈は唇を噛み、目に影が落ちる。カバンを下ろしながら言う。「……ご飯、作ってくるわ」そのままキッチンへ向かい、手際よく動き出す。冷蔵庫には家政婦が用意してくれた食材がそろっている。昔、由奈に余裕があった頃は、祐一の帰りを待って毎晩のように料理をしていた。たとえ彼が夕飯の時間に間に合わなかったとしても、帰ってきたときは温め直して出していた。けれど彼は、一度も箸をつけたことはなかった。「そんなことしなくていい」と、いつも冷たく言われるだけ。六年間、妻としてできることはすべてこなしてきたが、ことごとく拒まれた。今になって、由奈はもう疲れ切ったのに、逆に妻の役目を果たせと言うのか?余計なことは考えまいと、由奈は料理に集中した。調味料を取ろうと棚を探し、お酢の瓶に手を伸ばす。だが、瓶は上段にあり、指先が届かない。そのとき、不意に背後から大きな影が差した。ひょいと伸びた腕が、あっさりと瓶を取り下ろす。すぐ背後に迫る熱――まるで体を包み込むように覆いかぶさる気配に、由奈の心臓が跳ねた。二人はもちろん、体を重ねたことがある。いつかの夜、浴室で壁に押し付けられ、背後から強引に求められた、あの熱。今の彼も、あのときと同じ温度を纏っていた。由奈は思わず息を呑み、慌てて横にずれて声を絞り出す。「料理がまだなの……外で待っていて」わざと距離を取ろうとする彼女に気づいたのか、祐一の瞳がかすかに陰った。次の瞬間、彼は由奈の腕を強く引き寄せ、胸に抱き込む。びくりと体が硬直する。「逃げるな。前に触れたとき、一度も逃げなかったじゃないか」その眼差しには、どこか嘲るような色が宿っていた。羞恥と悔しさで、由奈の頬が一気に赤く染まる――これも、彼なりの侮辱なのか。「……やめて。こんなの、よくないわ」「どこが?」「……」言葉に詰まったその瞬間、彼の掌が服の中に忍び込む。由奈は反射的に押しとどめたが、祐一はさらに強引に手を這わせ、鼻で笑った。「……キッチンでっていうのも、悪くないかもな」かつて見てきた彼の欲望の顔――本能のまま彼女を貪ろうとする表情だ。けれど、彼が歩実を抱いた事実を思い出すだけで、由奈の胸はどうしようもなくかき乱された。由奈は必死に顔を背け、迫る唇をかわした。「……いや。したくない!」彼の
祐一は静かに視線を引っ込め、短く言い捨てた。「あんな人間、気にかけるだけ時間の無駄だ」そう言って背を向け、歩み去る。だが、その言葉は扉の向こうにいた由奈の耳にもしっかり届いていた。顔から血の気が引いていく。祐一の目には、浩輔はどうしようもない落ちこぼれとしか映っていない――けれど、由奈には反論できない。浩輔は人を大怪我させた。それは事実だ。姉として、由奈は弟のことをよく知っているつもりだ。確かに学業を投げ出し、喧嘩ばかりしてきたけれど、手を出すのはいつも相手が先で、これまで誰かに重傷を負わせるようなことはなかった。どうして今回だけそんなことになったのか。由奈も真相を知りたい。祐一が手を貸してくれること自体は感謝している。けれど、目の前で自分、そして弟を「あんな人間」と切り捨てたのは、胸に刺さる。だが、無理もない。池上家のことなど、祐一にとっては金に目がくらんだ卑しい家族、いい印象など抱いていないのだから。祐一の言葉を聞くと、歩実は勝ち誇ったように医局の中へ視線を送り、彼の後を追う。探るような態度はもう消えていて、わざと声を弾ませた。「祐一、池上先生はあんなに優しい人なのに、そんな言い方しなくてもいいじゃない」――祐一の口ぶりからして、彼は由奈を忌々しく思っているようだ。なら、二人に特別な関係などあるはずがない。歩実はほっとしたように祐一の腕に絡めた。「ねぇ祐一、今夜も一緒に健斗を迎えに行かない?それから食事でもどう?」「……あのトレンドは見たか?」その一言に、歩実の体が一瞬固まる。わざと撮らせた写真。どうせ祐一は自分のことが好きだから、あんな噂など気にしないと思っていた。ところが、騒ぎになる前に記事は消されてしまった。――つまり、彼はもう昔のように自分を想ってはいない。それでも、祐一が少しでも負い目を感じている限り、まだ望みはある。焦らず少しずつ彼を取り戻せばいい。歩実はそっと腕を離し、申し訳なさそうに俯いた。「その件……私も知ったばかりの。本当にごめん。ただ一緒に健斗を迎えに行っただけなのに、あんなふうに撮られるなんて……迷惑をかけてしまったね」「……あの子は俺の子じゃない。それに、仕事もあるから世話をするのも難しい。だからもう保育士を頼んである。これからは彼女に任せる」そ
由奈は怪訝そうに顔を上げた。「滝沢社長、何かご用ですか?」祐一は落ち着いた声で問い返す。「今日、ニュースは見たか?」「ニュース?」彼女は首をかしげる。祐一は数秒だけ視線を絡め、そのまま淡々とした口調で言った。「……いや、何でもない」そう言うと、踵を返して歩き去る。由奈はその背中を見送るうち、浩輔の件を思い出して思わず呼び止めた。「滝沢社長!」祐一が立ち止まり、振り返った。その眼差しには、どこか冷ややかな色が浮かんでいる。「まだ何か?」胸の奥がちくりと痛む。――用がある時は彼から連絡が来る。けれど、自分からは近づくなということなのだろうか。由奈は唇を結び、意を決して言った。「弁護士の件、ありがとうございます。ただ……社長がおっしゃった『態度次第』というのは……この数日中に時間を作って、離――」「祐一!」離婚届という単語を出す前に、明るい声が彼女の声を遮った。振り向けば、歩実が小走りで駆け寄ってくる。由奈の姿を認めた瞬間、彼女の笑顔はかすかに曇ったが、すぐに祐一の腕を当然のように取った。「せっかく病院に来てくれたのに、私のところにも顔を出してよ」――これは、自分の立場を誇示する言動だと由奈は瞬時に理解した。もし彼女が知っていたらどう思うだろう。いま隣に立つ男が、他人の夫だという事実を。祐一が答えるより先に、歩実は由奈へと振り返り、笑顔を作った。「池上先生、この前祐一とは親しくないっ言ってたよね?でも、ずいぶん楽しそうに話してるじゃない。私、池上先生のことを紹介してあげようと思ってたのに」その口ぶりは、一見すれば「権威ある人に推薦してあげる」という親切めいた響きをまとっていた。滝沢家の長男であり、すでに会社の実権を握る祐一。政財界の人脈も潤沢で、資金力も申し分ない。しかも病院の株主として、最新の医療機器を寄付し、研究プロジェクトの支援までしている。院内の誰もが歩実を羨んでいた。突然部長に就き、さらに裕福で地位ある彼氏を後ろ盾にしているからだ。こうして彼女が由奈を祐一に紹介していると、妬む視線を向ける看護師もいた。だが祐一の注意は、歩実の言葉の中でも「由奈が自分とは親しくないと言った」という一点に向けられていた。氷の影を帯びた視線が、由奈を射抜く。由奈は苦笑いを我慢し、まっすぐ歩
由奈がまだ気持ちを整理しきれずにいると、祐一から突然メッセージが届いた。【君の態度次第で、弁護士を探してやってもいい】彼女は戸惑う――「態度次第」とは?歩実とその子どものために、早く妻の座を譲れということなのか。長い沈黙のあと、由奈はただひと言【わかった】と返した。その頃、祐一は返信を確認すると、秘書の麗子に命じた。「池上浩輔が勾留された理由を調べてくれ」「承知しました」麗子が去ってまもなく、祐一の母親、千代(ちよ)が派手なブランドバッグを持って部屋に飛び込んできた。「祐一!あんた、隠し子がいるって本当なの!?」祐一はネクタイを緩め、顔色ひとつ変えない。「隠し子?」「とぼけないで!」彼女は写真を机に叩きつけた。そこには祐一と歩実が幼稚園で健斗を迎える姿が映っていた。祐一の目が一瞬だけ陰を帯びる。「もうネット中に広まってるのよ!あんたに隠し子がいるって!木原家の奥さんの孫まで『あの子のお父さんは祐一だ』って言ってるわ!」顔を真っ青にしながら千代は続けた。「これは完全に不倫スキャンダルじゃない!」彼女は由奈が好きではなかった。けれど彼女はまだ滝沢家の嫁である以上、この騒ぎは家の恥になる。祐一は黙々とペンを走らせ、書類に署名を終えると口を開いた。「健斗は俺の子じゃない」「本当に違うの?」千代は疑わしげに目を細める。「違う」祐一は淡々と答え、わずかに視線をあげる。千代は言葉を失った。息子の性格はよくわかっているつもりだ。由奈との結婚は不本意だったし、今も子どもはできていない。もし本当にほかの女との間に子をもうけていたなら、今さら隠すはずがないだろう。しばらく考え込んだあと、彼女は声を落として言った。「どうせ由奈のことなんて好きじゃないんでしょう?だったら離婚したらいいじゃない。私がちゃんとした名家のお嬢さんを紹介するわ。一人くらい気に入る相手が見つかるはずよ」由奈との結婚が祐一の意思ではなかったことは、彼女もよくわかっている。だが家の重鎮である和恵に逆らえず、二人の婚姻に口を挟むこともできなかった。けれど、離婚を勧めれば息子ならきっと応じてくれる――そう信じていた。由奈を愛しているかどうか、ずっとそばで見てきた自分にははっきりわかっていたから。祐一は手を止め、眉間にうっすら不快の影を