LOGIN離婚を決意する三ヶ月前、池上由奈(いけがみ ゆな)は職場に異動願を提出した。 一ヶ月前、滝沢祐一(たきざわ ゆういち)宛てに離婚届を送った。 そして、最後の三日前――彼女は自分の荷物をすべてまとめ、二人の家を後にした。 結婚生活は六年も続いた。 だが祐一は、初恋の相手である長門歩実(ながと あゆみ)と健斗(けんと)を連れて堂々と由奈の前に現れ、幼い子に「パパ」と呼ばせた瞬間、由奈はすべてを悟った。 ――ああ、この人にとって大切なのはあの親子なんだ。 彼女たちのために、祐一は何度も由奈を犠牲にし、譲歩するよう迫った。まるで由奈こそが邪魔者で、存在を知られてはいけない愛人のようだった。 ならば、もう終わらせよう。この婚姻を断ち切り、彼が本当に好きな人と共にいられるように。 そう覚悟して由奈は去った。 けれど、彼女が本当に姿を消した時――祐一は正気を失った。 由奈は、祐一が望みどおり歩実と結ばれると思っていた。だが、権勢を誇るあの男は、真っ赤に充血した目でメディアの前に立ち、惨めなほどの言葉を吐いた。 「俺は浮気なんてしていない。隠し子もいない。俺には妻の由奈しかいないんだ。だが……彼女はもう俺を必要としたりしない。俺は、彼女に会いたいんだ!」
View More祐一の顔から、すっと表情が消えた。瞳の奥には、隠そうともしない冷たい怒りが宿る。「祖父があなたを裏切ったことについては、私も弁解するつもりはありません。ですが――だからといって、無関係な人間まで巻き込んでいい理由にはならない」「無関係?」沙耶子は鼻で笑った。「本当に和恵が無関係だと思っているのかい?」祐一は腕時計の文字盤を指でなぞった。「どういう意味ですか?」「私の兄がどうして死んだと思う?」沙耶子はティーカップを勢いよくテーブルへ置いた。鈍い音が響き、熱い茶がこぼれて木目の上を筋のように流れていく。力の入った指先は白くなっていた。何十年も胸の奥に沈殿していた憎しみが、一気にあふれ出す。「芳樹に裏切られたことは、もう受け入れていた。忘れようともしたさ。でも兄は、私が泣き寝入りするのを見ていられなかった。だから私の代わりに筋を通そうとした。なのに和恵の実家に侮辱され、踏みにじられた!」彼女の声は震えていた。「それなのに芳樹はどうだった?親友のために一言だって口を利かなかった。兄はその一件から塞ぎ込み、病に倒れ、食事も喉を通らなくなった。それでも兄は生きていたんだよ。なのに和恵が病室に来て、『芳樹と仲直りしてほしい』、『もう水に流してほしい』なんて言った。兄に屈辱を飲み込めと迫ったんだ。兄は最後まで納得できなかった。あの悔しさを抱えたまま死んだんだよ」長年押し込めてきた感情を吐き出し終えると、沙耶子は荒く息をつきながら笑った。「和恵を今まで生かしてやっただけでも、私は十分情けをかけたと思ってる。そうでなければ、とっくの昔に芳樹のところへ送ってやってたさ」祐一は拳を握り締めた。祖父が沙耶子を裏切ったことは知っている。だが、祖母と彼女の間にどんな因縁があったのかまでは知らない。だから今の話がどこまで真実なのか、判断はできなかった。それでも一つだけ確かなことがある。――沙耶子は、祖母の事故と無関係ではない。祐一は静かに口を開いた。「長々と昔話をされたところで、結局は滝沢家への恨みを晴らしたいだけでしょう」指先でテーブルを軽く叩く。その声は氷のように冷たかった。「残念ですが、私は祖父たちみたいにあなたへ義理を感じていません。だから、私たちは分かり合えないかと」鋭い視線が沙耶子を射抜く。「例の事故に関
彰は由奈の視線から逃げるように目を伏せ、自嘲気味に笑った。「僕のこと、ひどいと思ったでしょ。でも僕はただ、あいつにしかるべき罰を与えただけだ」そう言って再び顔を上げた。「奈々美も、あいつの両親も同じだ。利益になるものに群がって、力のある者に媚びる。あの一家がどんな人間か、君だって見てきただろ」「奈々美たちに問題があることは認めます」由奈の表情は終始静かなままだった。怒りも憎しみも浮かんでいない。「彼女たちがどんな人間だったのか……そして、影山家がどんな一族なのかも、見てきたつもりです」彰は黙り込んだ。影山家がしてきたことについても、言い逃れするつもりはないようだ。「彰さん。あなたは確かに昔、私を助けてくれました。その善意が本物だったのか、それとも何か思惑があったのかはわかりません。でも少なくとも、私は助けられました」由奈は一度まぶたを伏せた。「だから、あの頃は本当に感謝していました」そして再び彼を見据える。「でも、この間の日を境に、私たちの関係が終わったんです」「あの日は、僕が衝動的になっただけで……由奈ちゃん、僕は本当にそんなつもりじゃ――」由奈は手を上げ、彼の言葉を遮った。「理由が何であれ、私はあなたを許すことはできません。なぜなら、私は妊娠してるんです。もしあの時、あなたのせいで私がお腹の子を失ってしまったら――私はあなたを一生恨むでしょう」彰は言葉を失った。妊娠。由奈のお腹に、赤ちゃんを……?「今日、お母さんは私に情で訴えてきました。昔あなたと仲が良かったから、一度は見舞いに来て欲しいって。でも、それが通じるのは今回だけです。私がここへ来たのは、あなたに一つだけ確認したいことがあったからです」「……何だ」彰はようやく声を絞り出した。もう期待はしていない。自分が何を失ったのか、嫌というほど理解したのだ。由奈は彼を見据えたまま尋ねる。「祐一の祖母と母親の事故に、あなたは関わっていましたか?」その一言に、彰の心臓が大きく跳ねた。しばらく黙り込み、視線を落とす。そして悲しげに笑った。「関わっていないと言ったら……信じるか?」「信じます」彰は再び目を見開く。由奈は静かに立ち上がった。「関わっていないなら、それで十分です。少なくとも、私が友人だと思っていた人が、救いようのない殺人者じ
敦は、沙耶子の言葉の裏にある意味を察していたが、あえて何も答えなかった。「ラウラ、前から海都市を回ってみたいって言ってたでしょう?せっかく来たんだから、少しゆっくりしていきなさい」沙耶子は隣に座る赤毛の女性へ目を向け、柔らかな笑みを浮かべた。ラウラはハーフらしい整った顔立ちをしている。しかし、言葉はまるでこの国でずっと暮らしてきたかのように流暢だった。「わかりました。お母さんがいらっしゃる間は、私も一緒にいます」「その方は……娘さんですか?」敦は意外そうに目を見開いた。沙耶子はラウラの手の甲をそっと撫で、慈しむように微笑む。「ラウラは私の実の娘じゃないよ。でも、小さい頃からずっと見てきた子なの。この子が私を母と呼ぶなら、私にとっても娘と同じだよ」……一方その頃――由奈と祐一は骨董品店を出たところだった。そのとき、祐一のスマホが短く震える。画面に表示された麗子からのメッセージを見た彼は、そろそろ午後の用事へ向かわなければならないことを悟る。「どうしたの?もう仕事に行く時間?」由奈が振り返って尋ねる。祐一はスマホをしまいながら頷いた。「ああ。今日の件はどうしても外せなくてな」「そうか。私とのデートよりも大事?」何気ない冗談のつもりだった。だが祐一が一瞬言葉を失ったのを見て、由奈は慌てて手を振る。「あ、今のは冗談。私だってわがままを言うつもりはないよ。大事な仕事なら、そっちを優先して当然。気にしないで」祐一は少し掠れた声で言った。「悪いな。加藤を迎えによこすよ」「うん、わかった」二人は商店街の出口で別れた。由奈は祐一を乗せた車が見えなくなるまで見送り、その後スマホのアルバムを開く。並んでいるのは十数枚の写真。そのどれにも祐一が映っている。胸がもやもやして、頭の中では二つの気持ちがせめぎ合っていた。――妊娠のこと、もう話してしまえばいいのに。――でも、あの人は何も説明しないまま離婚を切り出した。こっちの気持ちなんて考えてくれなかったのに、どうして私だけ気遣わなきゃいけないの?――だけど、彼が離婚を切り出したのは私を守るためであって……それに、妊娠のことはサプライズで伝えるつもりだったんでしょう?答えの出ない自問自答を続けていると、突然スマホが鳴った。見慣れない番号を見て、由奈は数
祐一は我に返り、視線を隣の由奈へ向けた。由奈は真剣な表情で絵馬に願い事を書き込んでいる。「お兄さんも一枚どう?神様に自分の願いを伝えるいいチャンスですよ」社務所のおばさんが並んだ絵馬を指しながら、満面の笑みで話しかけてくる。「じゃあ一枚をお願いします。支払いは彼女の分も一緒に」そう言って祐一は財布を出した。絵馬を受け取ると、祐一はマーカーでさらさらと数文字を書き込み、そのまま絵馬掛所に奉納した。ほんの数分の出来事だったので、由奈はまったく気づいていない。やがて隣まで来る彼に気がづくと、由奈は慌てて絵馬を胸元へ隠した。「見ちゃダメ!」「どうして?」「見られたら願いが叶わないんだって」祐一は数秒黙り込む。そして至極真面目な顔で言った。「でも、絵馬掛所に掛かってる絵馬はみんなに見られてるよな?それなら全部効力なくなってるんじゃないか?」「……」由奈は言葉に詰まった。確かに理屈としては間違っていない。反論できないのが悔しい。眉を寄せて本気で考え込む彼女を見て、祐一は思わず笑った。「分かった。見ないよ」そう言って背を向ける。由奈は書き終えた絵馬を絵馬掛所に奉納した。風が吹き抜け、絵馬同士が触れ合って澄んだ音を鳴らす。それから祐一のもとへ戻り、顔を覗き込んだ。「祐一は書かないの?」「もう書いた」「えっ、いつ?」不思議そうに首を傾げる由奈。祐一は顎で絵馬掛所の方を示した。由奈が振り返ろうとした瞬間――彼は後ろから片手で彼女の目を覆った。「君が言ったんだろ。見たら叶わなくなるって」「え?でも気になる。何書いたの?」由奈は諦めずに追及する。「君が書いた内容を教えてくれれば、教えてやってもいい」由奈は少し考えるふりをしてから、数歩前へ出た。そしてくるりと振り返り、にっこり笑う。「私はね――将来あなたが寂しくならないように、可愛らしいお友達ができますように、って書いたの」言い終えるなり、くすくす笑いながら駆け出した。祐一は呆れ半分、可笑しさ半分で息を吐き、大股でその後を追う。二人は雪化粧した並木の下を遠くまで走っていった。風が吹き、無数の絵馬が澄んだ音を立てる。そこには、数え切れないほどの願い事が書かれていた。その中の一枚、祐一が掛けた絵馬には、整った美しい字で、たった数文字だ
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