Masuk離婚を決意する三ヶ月前、池上由奈(いけがみ ゆな)は職場に異動願を提出した。 一ヶ月前、滝沢祐一(たきざわ ゆういち)宛てに離婚届を送った。 そして、最後の三日前――彼女は自分の荷物をすべてまとめ、二人の家を後にした。 結婚生活は六年も続いた。 だが祐一は、初恋の相手である長門歩実(ながと あゆみ)と健斗(けんと)を連れて堂々と由奈の前に現れ、幼い子に「パパ」と呼ばせた瞬間、由奈はすべてを悟った。 ――ああ、この人にとって大切なのはあの親子なんだ。 彼女たちのために、祐一は何度も由奈を犠牲にし、譲歩するよう迫った。まるで由奈こそが邪魔者で、存在を知られてはいけない愛人のようだった。 ならば、もう終わらせよう。この婚姻を断ち切り、彼が本当に好きな人と共にいられるように。 そう覚悟して由奈は去った。 けれど、彼女が本当に姿を消した時――祐一は正気を失った。 由奈は、祐一が望みどおり歩実と結ばれると思っていた。だが、権勢を誇るあの男は、真っ赤に充血した目でメディアの前に立ち、惨めなほどの言葉を吐いた。 「俺は浮気なんてしていない。隠し子もいない。俺には妻の由奈しかいないんだ。だが……彼女はもう俺を必要としたりしない。俺は、彼女に会いたいんだ!」
Lihat lebih banyak歩実はベッドの上で呆然と天井を見つめていた。頭が重く、意識は濁った水の中に沈んでいるようだった。――自分が、切り捨てられる側になるなんて。転落する前は、誰もが彼女に味方していた。けれどひとたび立場を失えば、同じ人間たちが、まるで示し合わせたかのように背を向ける。急に、昔のことが恋しくなった。祐一が、まだ彼女を宝物のように扱ってくれていたあの頃。あのときの彼女は、すべてを手にしていたはずなのに、それでも満たされなかった。だからこそ、圭介とあんな愚かな関係を持ってしまったのだ。圭介が与えてくれる金銭的な余裕を享受しながら、祐一の信頼と甘やかな愛情も手放せなかった。迷いがなかったわけではない。後悔だって、何度も胸をよぎった。それでも最後は、罪深い欲望に負けた。――もし、あのとき圭介と関わらなければ。妊娠もしなければ。四億を受け取って海外へ逃げなければ。結末は、違っていたのだろうか。そう思った瞬間、目の奥が熱くなる。込み上げてくるのは悔しさよりも、激しい後悔だった。自分が、選ぶ相手を間違えたのだ。廊下の足音に、はっと我に返る。警察官が一人の人物を伴って入ってきた。亜紀だと思い込んで顔を上げた、その瞬間――視線の先に立っていたのは、由奈だった。歩実の表情が凍りつく。「すみません、少しだけ二人で話をさせてもらえますか」由奈は穏やかに微笑んだ。警察官はうなずき、病室の入り口へ下がる。扉が閉まるや否や、歩実は勢いよく身を起こし、由奈の手首をつかんだ。「あなたがやったんでしょ!」歯ぎしりするような声。左耳が聞こえなくなってから、世界は半分閉ざされた。人の声が遠く、眠りから覚めたときは、静寂が怖くて息が詰まる。そんな自分を受け入れられない。けれど由奈の前で弱さを見せるわけにはいかなかった。自分がこんな目に遭ったのは、すべて由奈の仕業だ――そう思い込まなければ、立っていられない。由奈は手首を振りほどかず、静かに見つめ返す。「私が、何をしたんですか?」「弟のことで腹いせしたのよ!私に復讐したんでしょ!」歩実の声は震えていた。「今の私を見て満足?あなたは私を憎んでるだろうけど、結局、あなたも私と同じよ!絶対に許さない。あなたも、いつか全部失うから!」しばらくの沈黙のあと、由奈が口を開く。「証拠はあ
由奈はスマホを握ったまま、バルコニーへ出た。「……今、なんて?」「長門先生が、警察署から病院に運ばれて緊急手術になったんです」綾香の声はひどく抑えられている。「脾臓破裂による大量出血と脳震盪。さっきやっと一命は取り留めて、今はICUです」由奈は眉をひそめた。「警察が病室の前を固めてます。さっき様子を見たけど……正直、かなりひどいです。失禁もしてましたし。でも、おかしくないですか?今、勾留中だったんでしょ?どうしてこんなことに……」由奈も、その点が引っかかっていた。一瞬、これは歩実の常套手段ではないかと思った。同情を引き、保釈を狙うための「自作自演」。だが、命の危険を伴うほどの「苦肉の策」など、そう何度も使えるものではない。「因果応報じゃないですか?」綾香が鼻で笑う。「前に、あの人が浩輔さんにやったこと、今度は自分に返ってきただけですよ」由奈は、ほんのわずか言葉に詰まった。……本当に、そうだろうか。偶然にしては、出来すぎている。しかも、あまりにも。「池上先生?」沈黙が長いのを気にしたのか、綾香が声をかける。由奈は我に返った。「知らせてくれてありがとう。状況はよく分かりました」「ううん。役に立てたならよかったです」綾香は明るく言って、通話を切った。由奈が室内に戻ると、真里がショールを羽織って出てくる。「もう帰るの?」「はい。今日は本当にありがとうございました」「遠慮しないで。時間があれば、またいつでも来てちょうだい」真里はそう言って、由奈の手をやさしく包んだ。……目を覚ました瞬間、歩実は異変に気づいた。体が、動かない。そして――左耳が何も聞こえない。「……耳……?」痛みに耐えながら上体を起こそうとすると、すぐに看護師が駆け寄り、肩を押さえた。「長門さん、まだ起き上がっちゃいけません!」「どうして……どうして左が聞こえないのよ!」歩実は看護師の腕をつかみ、半ば錯乱したように叫ぶ。その声に反応して、警察官が病室へ入ってきた。「耳が聞こえないの!全部、あいつらのせいよ!」首筋に血管を浮かべ、必死に訴える。「刑事さん、あの人たち、最初から私を狙ってたの!裏で誰かが指示してたのよ!そう……池上由奈!あの女が黒幕よ!」警官はまず彼女を落ち着かせるよう、低い声で言った。「事情はきちんと
歩実の目に、あからさまな苛立ちが走った。「あなたたち、誰?気安く話しかけないで」その言葉に、先頭に立っていた短髪の女の笑みがすっと消える。次の瞬間、何の前触れもなく手が振り上げられ、乾いた音が留置場に響いた。歩実は勢いよく床へ倒れ込む。はっと我に返ったときには、すでに三人に取り囲まれていた。短髪の女が歩実の髪を乱暴につかみ、無理やり顔を上げさせる。「ここがどこだか分かってるの?その態度はないんじゃない?」「……ひ、人違いじゃないの?」三人の目に宿る敵意を察し、歩実はとっさに声の調子を落とした。「人違い?してないよ。あんた、長門歩実でしょ?」女は手のひらを滑らせ、顎を強くつかむ。「自分が何してきたか、忘れたとは言わせないよ」肩がびくりと震える。歩実は女を突き飛ばした。「何のこと?ここは警察署よ?手を出したら、あなたたちだって無事じゃ済まないわ!」少し太った女が腕を組み、鼻で笑う。「へえ、ここが警察署だって分かってるんだ。前にあんたも、同じことやらせたくせに」「……どういう意味?」一瞬、思考が止まる。だが、短髪の女は考える隙を与えなかった。鋭く蹴りが入る。「っ……!」腹部に衝撃が走り、息が詰まる。続けざまに拳と足が落ちてきた。「やめて……!」歩実は丸くなり、必死に身をかばう。だが三人は容赦しない。その間、壁の隅にあるはずの監視カメラは、いつの間にか電源が落ちていた。やがて、歩実がほとんど動かなくなった頃。「何をしてる!」当直の警察官が駆け込んできた。床に横たわる歩実は、全身が焼けつくように痛む。耳鳴りがひどく、周囲の声が遠く霞む。骨が折れたのではないかと思うほどの激痛。額の端から、熱い液体が頬を伝って流れていく。――痛い。ただ、それだけがはっきりしていた。そのとき、ふいに脳裏にある名前が浮かんだ――池上浩輔。……一方その頃。由奈は警察署を出たあと、真里の招きで麻雀の席へ向かった。集まっていたのは、沙也加と麻央。初めて触る牌に、由奈は少し緊張していたが、真里が一通り教えると、二、三局で流れをつかんだ。気づけば、かなりの額を勝っている。「初心者ボーナスってやつね」麻央が笑う。「これが本気のレートだったら、今ごろ私たち、財布が空っぽになっちゃったわよ」沙也加が八筒を捨て
夜、由奈がレストランに足を踏み入れたとき、そこにいる客はただ一人――祐一だけだった。白いシャツ姿の祐一は、柔らかな琥珀色の灯りの下に立っていた。袖を手首までまくり、細い指先でマッチを擦る。小さな火が揺れ、テーブルの燭台へと静かに移った。背後の大きなガラス窓の向こうには、ネオンが幾重にも重なり合い、夜の江川市を縁取っている。――ずいぶんと、気取った演出だ。もしこれが昔だったなら、きっと胸が熱くなっていたはずだ。けれど今は、ただ少し足を緩めただけで、由奈は静かに席へ歩み寄った。「……どういうつもり?」祐一は手に残った火を消し、かすかに笑う。「最近、君とちゃんと二人きりで食事してなかっただろ。せっかくだから、少しだけ『それらしく』と思って」「そこまでしなくてもいいのに」「もしかしたら、これが最後かもしれないし」その言葉に、由奈はぴたりと動きを止めた――また同情を引こうとしている。椅子を引き、腰を下ろす。「末期がんでも宣告されたみたいな言い方、やめてくれる?」祐一が低く笑う。「じゃあ、俺が死んだら困るってこと?」「くだらない」それ以上相手にせず、由奈は店員を呼んで注文を済ませた。祐一は何も言わず、ただ彼女を見つめている。食事が運ばれても、祐一はほとんど口にしなかった。視線だけを上げる。「俺たち、まともなデートって……したことあったかな」由奈は一瞬、言葉を失う。祐一はゆっくりとナイフを動かしながら続けた。「旅行に行ったときに、ちゃんと埋め合わせようと思ってた。でも……結局、行けなかったな」「祐一。結局、何が言いたいの?」彼は問いには答えず、静かに言った。「君と、ちゃんとした結婚式も挙げてやれてない」――結婚式。その言葉に、由奈の表情がわずかに曇る。フォークを置いた。「それを言うために、今夜はこんなことを?」祐一は否定も肯定もしない。由奈は小さく笑った。「この世にはね、取り戻せないものがあるの。祐一、心に残った傷は、なかったことにはできないのよ」祐一の指先が白くなる。喉の奥から、かすれた声が落ちた。「……それでも、忘れてほしい」由奈の瞳から、わずかな笑みが消える。「どうして私が忘れなきゃいけないの?」祐一はまっすぐに彼女を見る。「忘れてほしいと、俺が思ってるから」由奈は静かに
Ulasan-ulasan