LOGIN離婚を決意する三ヶ月前、池上由奈(いけがみ ゆな)は職場に異動願を提出した。 一ヶ月前、滝沢祐一(たきざわ ゆういち)宛てに離婚届を送った。 そして、最後の三日前――彼女は自分の荷物をすべてまとめ、二人の家を後にした。 結婚生活は六年も続いた。 だが祐一は、初恋の相手である長門歩実(ながと あゆみ)と健斗(けんと)を連れて堂々と由奈の前に現れ、幼い子に「パパ」と呼ばせた瞬間、由奈はすべてを悟った。 ――ああ、この人にとって大切なのはあの親子なんだ。 彼女たちのために、祐一は何度も由奈を犠牲にし、譲歩するよう迫った。まるで由奈こそが邪魔者で、存在を知られてはいけない愛人のようだった。 ならば、もう終わらせよう。この婚姻を断ち切り、彼が本当に好きな人と共にいられるように。 そう覚悟して由奈は去った。 けれど、彼女が本当に姿を消した時――祐一は正気を失った。 由奈は、祐一が望みどおり歩実と結ばれると思っていた。だが、権勢を誇るあの男は、真っ赤に充血した目でメディアの前に立ち、惨めなほどの言葉を吐いた。 「俺は浮気なんてしていない。隠し子もいない。俺には妻の由奈しかいないんだ。だが……彼女はもう俺を必要としたりしない。俺は、彼女に会いたいんだ!」
View More帰路の車内で、祐一は隣に座る由奈の様子がいつもと違うことに気づいていた。病院を出てから、ずっと口数が少ない。何かあったのだろうか。そう察した祐一は、そっと由奈の手を取った。指を絡め、しっかりと握る。「昔の同僚に会って、嫌な気分になったのか?」その言葉を聞いて、運転席の卓巳が、ちらりとバックミラーを覗いた。由奈は我に返ると、握られていた手をそっと引き抜いた。「中央病院に行くと、昔の知り合いに会うでしょう?そうすると、どうしても嫌なことを思い出しちゃうの」祐一は何も言わなかった。ただ、シートに深く身を預ける。口元には、何を考えているのか分からない、かすかな笑みが浮かんでいた。――嫌なこと。由奈ははっきり口にしなかったが、その言葉が自分や歩実のことを指しているのは、祐一にも分かっていた。そんな祐一の胸中など知る由もない卓巳は、車内に漂う妙な空気を感じ取ると、首を傾げた。「池上さんって、昔は中央病院で働いてたんですよね?もしかして、待遇が悪かったとか、前の同僚にいじめられたりしたんですか?」由奈が答えるより先に、祐一が眉間に皺を寄せた。「君には関係のない話だ」「いやいや、僕は池上さんのためを思って聞いてるんですよ!」卓巳は悪びれる様子もなく、むしろ得意げに続ける。「もし昔、池上さんをいじめていた人がいるなら、僕に任せてください。副業でいろいろやってましたから、そういう相手にちょっと痛い目を見せるくらいならできますよ」「へえ、副業なんてやってたんですか?」由奈が興味深そうに眉を上げる。「それは……いや、まあ……昔の話です」卓巳は前を向いたまま、背中に突き刺さる視線をひしひしと感じていた。――怖い。この後部座席から、身体を貫通するほどの圧が放たれている。祐一は由奈のほうへ向き直ると、途端に低姿勢になった。「じゃあ……次から別の病院にする?」「ですが社長、他の病院より中央病院のほうが安心するでしょう」卓巳が思わず口を挟む。「来月のボーナスはないと思え」「えっ?」卓巳は飛び上がるように反応すると、慌てて路肩に車を停めた。そして両手を合わせ、後部座席へ振り返る。「社長、申し訳ありません!静かにしますから!」さらに由奈へ助けを求める。「池上さん、助けてください!」由奈は思わず吹き出し、暗
翌日。昨夜のことを何も知らない紬は、咲子の同僚から話を聞こうと、再び病院を訪れた。ところが、薬剤部のオフィスへ足を踏み入れた途端、医療スタッフたちが示し合わせたように彼女を避け始める。目が合っても、見なかったことにされる。声をかけても、聞こえなかったふりをされる。これでは話を聞くどころではない。仕方なく、紬は一度病棟へ向かった。ところが、病室の前まで来てみると、そこにいたのはベッドを片づけている介護スタッフだけだった。「すみません。このベッドの患者さんは?」紬が尋ねると、介護スタッフが顔を上げる。「さっき退院しましたよ」紬は慌てて病院を飛び出した。ロビーまで駆け下り、咲子に電話をかける。しかし、何度かけても繋がらない。電源を切っているらしい。紬が途方に暮れていると、そのとき、一人の若い看護師が横を通り過ぎた。「きゃっ!」肩がぶつかり、看護師が手にしていたアイスコーヒーが大きく傾き、中身がそのまま紬の服へこぼれる。「す、すみません!大丈夫ですか?クリーニング代、出します!」紬は自分の服を見下ろした。コーヒーの染みが広がっている。さすがに腹が立ち、思わず文句が口をつきそうになった。けれど、相手の胸元にある名札が目に入る。――どうやらまだ研修中らしい。紬は一度息を吐き、怒りを飲み込んだ。「大丈夫です。染み抜き、自分でできますから」「……本当にごめんなさい」看護師は何度も頭を下げると、その場を離れていった。紬はしゃがみ込み、服についた染みを拭おうとする。そのときだった。足元に、折り畳まれた紙幣が落ちているのが目に入った。「……あれ?」さっきまで、こんなものはなかったはずだ。もしかして、今の看護師が落としたのだろうか。紬は紙幣を拾い上げた。ところが、折り畳まれた紙幣を開いた瞬間、その内側に小さな紙切れが挟まっていることに気づく。紙片には、ひとつの住所が書かれていた。……祐一は定期的に、由奈の妊婦健診に付き添っていた。今日も診察を終えると、片手で由奈の腰を支え、もう片方の手でさりげなく彼女の身体をかばいながら歩いている。「祐一、会計してきてくれる?私なら一人で大丈夫だから」由奈が足を止めて言う。けれど、祐一は心配そうに彼女を見た。「あとで土屋に払わ
夜が更け、宿の中は明かりが煌々と灯っていた。風呂を終えた倫也が寝室へ戻り、ドアを開ける。ベッドでは紬が布団にすっぽりくるまっていた。黒い髪のてっぺんだけが覗いている。寝息も穏やかで、すっかり眠りに落ちているように見えた。ところが、倫也がベッドの端に腰を下ろした途端、布団の塊がわずかに動いた。その隙間から片目だけがひょこっと覗き、倫也をちらりと盗み見る。そしてすぐに閉じた。いかにも「寝ています」と言わんばかりに。倫也は気づかないふりをした。ほどなくベッドへ横になると、いつものように背筋を伸ばし、眠る姿勢を取る。しばらくして、紬がそっと目を開けた。布団の端を指先でつまみ、何度も瞬きをする。唇を噛みながら、しばらく迷っていた。やがて、背後から落ち着いた声がした。「寝てないのは分かっていますよ」「……やっぱりバレてた?」紬は気まず言う。「あのね……看護師さんの鈴木さんに、もう調べないでって言われたの。私、まだ調べていいのかな。これ以上続けたら、本当にあの人が死んじゃったらどうしよう……」今の紬にとっては、同僚に失望されることも、笑われることも二の次だった。それより、人ひとりの命を危険にさらすことのほうが怖い。倫也は紬を見た。相変わらず、感情を読み取らせない淡々とした声だった。「だったら、まずはなぜ彼女が態度を変えたのかを突き止めましょう。自分の命を投げ出してまで、ヤクモヘルスの調査を止めようとしたんです。きっと何か大きな理由があるはずです」「……確かに!」紬は一度嬉しそうに頷いた。けれど、すぐに別の疑問が浮かんだらしい。ごろんと寝返りを打ち、倫也のほうを向く。「でも、今は会ってくれないよ。どうやって調べればいいの?」倫也も身体を横向きにして、彼女と向き合った。「本人が会ってくれないなら、周りの人間に聞けばいいじゃないですか?」一瞬、空気が止まった。紬の口元が引きつる。視線もふっと泳いだ。――自分が頭悪いと思われたりしてないだろうか。そんな不安がよぎる。けれど、すぐに何事もなかったような顔を作った。「そ、そうだった。分かった。明日、聞いてみるよ」そう言って目を伏せる。布団に半分顔を埋め、覗いているのはくるくる動く瞳だけ。何も言わなくても、彼女が考えていることまで倫也には手に取るように分
倫也は視線を戻した。「病院にいるんじゃなかったんですか?」「そうだけど……」紬は俯き、いかにも傷ついたように唇を尖らせた。「鈴木さん、何だか様子がおかしくて……急にすごく警戒するようになっちゃったの。私たちに帰ってほしいって、ずっと言ってる」「……そういえばこの前、農場で彼女に会ったとき、何人かの男を見たと言っていましたよね?」紬は頷いた。「うん。あのおばさんが言ってたんだけど、先頭にいた人が木谷市では有名な商売人で、金子さんっていうんだって。商売してる人なのに、周りには見るからに怖そうな不良みたいな人たちを何人も連れてて……」倫也の目が、すっと険しくなる。何か考えているのか、それ以上は口を開かなかった。紬は腕を組み、部屋の隅へ歩きながら考え込む。「やっぱり、誰かに脅されてるんじゃないかな。だって、あの日とは態度がまるで違うんだもん。うん、きっとそうだよ。ねえ、白石さんもそう思わない?」振り返った紬の瞳には、ひらめいたことへの嬉しさが浮かんでいた。笑うと、口元に大小の違うえくぼが浮かぶ。その無邪気な表情には、どこか人を惹きつける愛嬌があった。倫也は答えなかった。ただ、目の前で生き生きと話す彼女をじっと見つめる。やがて視線がゆっくりと下がり、よく動く唇へと吸い寄せられた。その視線は、深い夜のように静かで、どこか危うい気配を纏った。「ねえ、ちょっと!私が話してるのに、全然聞いてないじゃん!」紬が抗議しようと一歩近づいた、そのときだった。「わっ……!」足先を自分のスリッパに引っかけ、身体が大きくよろめく。倫也は避けなかった。――いや、避ける暇がなかったのかもしれない。倒れ込んできた紬の身体を、反射的に両腕で受け止める。大きな手が彼女の腰をしっかりと支え、紬もとっさに倫也の肩へ両手を回した。紬は目を見開いたまま、完全に固まった。以前の倫也なら、すぐに彼女を引き離していたはずだ。なのに今は――自分から抱き留めている。「え……あ、ごめんなさい」頭が真っ白になりながらも、紬は慌てて謝った。わざと距離を詰めたと思われたくない彼女は、倫也の腕からそっと抜け出すと、顔を見ることもできないまま、逃げるように寝室へ駆け込んでいった。一人残された倫也は、しばらくその場から動かなかった。やがて片手を額に当てる。
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