Mag-log in離婚を決意する三ヶ月前、池上由奈(いけがみ ゆな)は職場に異動願を提出した。 一ヶ月前、滝沢祐一(たきざわ ゆういち)宛てに離婚届を送った。 そして、最後の三日前――彼女は自分の荷物をすべてまとめ、二人の家を後にした。 結婚生活は六年も続いた。 だが祐一は、初恋の相手である長門歩実(ながと あゆみ)と健斗(けんと)を連れて堂々と由奈の前に現れ、幼い子に「パパ」と呼ばせた瞬間、由奈はすべてを悟った。 ――ああ、この人にとって大切なのはあの親子なんだ。 彼女たちのために、祐一は何度も由奈を犠牲にし、譲歩するよう迫った。まるで由奈こそが邪魔者で、存在を知られてはいけない愛人のようだった。 ならば、もう終わらせよう。この婚姻を断ち切り、彼が本当に好きな人と共にいられるように。 そう覚悟して由奈は去った。 けれど、彼女が本当に姿を消した時――祐一は正気を失った。 由奈は、祐一が望みどおり歩実と結ばれると思っていた。だが、権勢を誇るあの男は、真っ赤に充血した目でメディアの前に立ち、惨めなほどの言葉を吐いた。 「俺は浮気なんてしていない。隠し子もいない。俺には妻の由奈しかいないんだ。だが……彼女はもう俺を必要としたりしない。俺は、彼女に会いたいんだ!」
view more由奈の顔に一瞬、驚きの色が走った。「……どういう意味?」「そのままの意味だ」由奈は思わず手を握りしめた。あの滝沢祐一が、急に良心に目覚めたとでもいうのか?彼が池上家の人間を最も嫌っていたはずなのに。今さらどういう風の吹き回し?――それとも、浩輔を自分の手の内に置いて、いつか自分を揺さぶるつもりなのか?そんな疑念が胸をよぎる間に、祐一の視線が彼女の服装をすっとなぞった。淡々とした声が続く。「乗れ、服を買いに行く」由奈が何か言う前に、麗子がすばやく動き、ドアを開けた。さらに彼女の手から段ボール箱を受け取りる。「どうぞ」由奈は微動だにせず、表情ひとつ変えない。「用件があるなら、はっきり言って」祐一は腕時計の盤を弄んでいた手を止め、ゆっくりと顔を上げた。「父さんが戻ってきた。今夜、滝沢家で食事だ」――なるほど、そういうことか。祐一の父は仕事の都合で滅多に帰ってこない。けれど、帰国のたびに家族全員で夕食を囲むのが滝沢家の決まりだった。由奈は静かに拳をほどき、何も言わず車に乗り込んだ。……祐一が連れて行った先は、滝沢グループ傘下の高級商業施設「ソラモリ・インターナショナル」。かつて一度だけ祐一と来たことがある――けれど、それは「祐一の秘書」としてだった。高級ブティックの前に立つと、二人の店員がすぐに駆け寄る。「滝沢社長、いらっしゃいませ」その目が、祐一の背後にいる由奈を捉え、一瞬とまる。「彼女に似合う服を何着か見繕ってくれ」淡々とした声に、店員がすぐ頷いた。「かしこまりました。お客様、どうぞこちらへ」由奈は黙ってついていく。店の奥に通されると、瞬く間に三十着近い新作ドレスが並べられた。どれもが数十万の値札をつけている。彼女はざっと目を通しただけで、すぐにシンプルな背中の開いたドレスを手に取った。試着室の外、祐一は足を組み、時々腕時計に視線を落として待っていた。その横で、麗子がそっと口を開く。「社長、池上さん、少し時間がかかっているようですが……お声をかけましょうか?」祐一が答える前に、店内の奥から小さな歓声が聞こえた。「わあ、すごく綺麗……」「さすが滝沢社長が連れてきた女性ね。恋人かしら?」「確かに綺麗だけど……なんだか、壊れそうな人形みたい。目に光がないもの……」その言葉に、祐一はゆっ
車内で話すよう、祐一は誠へ目で合図を送った。誠は頷き、車の反対側へ回り込んでドアを開け、祐一の隣に腰を下ろした。「例の件ですが……あの日の当直は、辻元署長の親戚でした。いくら問いただしても、『寝ていて気づかなかった』の一点張りでして……それから、室内の監視カメラも点検中という記録が残っていて、監視室の職員も、単なる修理作業だと思い込んでいたようです。被疑者たちは全員、身柄が拘束されている状態だから、特に問題は起きないと高をくくっていたらしく……結局、あんなことに……」誠の声がどんどん小さくなっていく。自分たちの怠慢が原因で被疑者が重傷を負った。その責任が上に知られれば、自分の立場は危うい。それが痛いほどわかっていた。祐一はネクタイをゆるめ、低く吐息をついた。「当直が寝ていて、監視も点検中?そんな都合のいい話があると思う?それに、留置室の監視カメラが壊れたとしても、通常なら誰かが常時モニターしているはずだろう?」祐一の目が一瞬、誠を射抜くように細められた。「高橋さん。こんな分かりやすい抜け穴、まだ原因が見つからないのか?」誠の額にじわりと汗が浮かぶ。祐一の口調は淡々としていたが、その威圧感は、誠が上層部と対峙する時とまったく同じだった。「……辻元署長、か」祐一はぼそりとその名を繰り返した。「誰のことだ?」「税務署の辻元署長です」「なるほど」祐一は視線を窓の外に向ける。「じゃあ、その辻元署長の身辺を調べろ」誠の背中を冷たい汗が伝う。シャツが肌に張りつき、エアコンの冷風がそれをさらに冷やした。「……ですが、辻元署長には中道家がついていまして……」「中道家を恐れるほど、俺は落ちこぼれていない」誠は短く息を呑み、深く頭を下げた。「……承知しました」翌日。浩輔の容態を見守ろうと、由奈は再び中央病院へ向かった。だが、出勤早々、彼女を待っていたのは停職の懲戒処分通知書だった。理由は――医師の私生活に関する不適切な報道が、病院の評判を損なったため。異動までの一ヶ月間をきちんと務め上げるつもりだったが、世の中は思い通りにいかないものだ。由奈は自席に戻り、机の上の書類を整え始めた。書類と私物をダンボールに詰め、医局を出る。廊下の向こうから、数人の看護師のひそひそ声が聞こえてきた。「池上先生、辞めるんだって?」「辞
「由奈、俺を怒らせるのが、そんなに楽しいのか?」祐一の手が、由奈の手首をきつく掴んだ。瞬間、焼けるような痛みが走り、由奈は息を呑む。その痛みでようやく我に返ると、彼を真っすぐに睨みつけた。「滝沢社長って、本当に自意識過剰ね。どうして私が、あなたを怒らせるような真似をしなきゃいけないの?」祐一は答えなかった。ただ、感情を見せぬまま、彼女をじっと見つめていた。その目は、彼女の心の奥まで覗こうとするように冷たい。「離して。痛い!」骨が軋むような痛みに耐えきれず、由奈の目には涙がにじんだ。祐一はその涙を見て、ようやく無意識に手を緩めた。自由を取り戻した由奈は、手首を押さえながら声を震わせた。「祐一、いったい何がしたいの?」彼女にはわからなかった。あんなにも冷たく突き放していたくせに、今さらどうして、こんなふうに執着するのか。「言っただろう。影山とあまり親しくするなと」「あなたと長門先生のことには一言も口を出してないのに。どうして私だけ、制限されなきゃいけないの?」祐一の表情は読めなかった。「それとこれとは違う」握り締めた指先が白くなり、心も悲しみに満ちていく中、由奈は乾いた笑いを漏らす。「違う?ええ、確かに違うわ。彼女はあなたの初恋だもの。誰も彼女には勝てない。だからあなたは彼女と一緒にいても許されるし、昔の想いを蘇らせて、あわよくば不倫まで……そういうこと?」彼女は挑発するように言ったが、祐一は怒るでも否定するでもなく、ただ静かに言った。「俺は不倫なんかしていない」由奈は一瞬、息を呑んだあと、冷ややかに笑った。「してないですって?じゃあ、どこまでしたら不倫になるの?私があなたたちが抱き合ってる現場でも押さえたら、やっと認めるわけ?」「由奈」祐一の声が低く響いた。その目は氷のように冷たく、奥底に怒りと毒を秘めている。「勝手に俺と彼女の関係を決めつけるな。前にも言ったはずだ――彼女を俺たちの問題に巻き込むなと」由奈はわずかに息を吐き、挑むように言い返した。「なら、あなたも勝手に私と彰さんの関係を決めつけないで。私たちの問題に、彼を巻き込まないで」言い切ると同時に、由奈は祐一を一瞥すらせず車に乗り込む。エンジン音が静寂を切り裂き、そのまま走り去った。すぐに歩実と奈々美が慌てて建物から出てくる。歩実は祐一
由奈は笑みをすっと消し、奈々美をまっすぐに見据えた。「顔向けできるかどうかと言えば――祐一のほうこそ、私に顔向けできないでしょうね」奈々美は鼻で笑い、軽蔑を隠そうともしなかった。「自分を正当化するのは勝手だけどさ、あなたが祐一さんと一緒にいた理由なんて、誰よりあなた自身が一番わかってるでしょ?今さら被害者ぶって同情を誘うつもり?結局、最初からしがみついてきたのはそっちでしょう?祐一さんがあなたを愛さなかっただけで、そんなに傷ついたわけ?笑わせないでよ。男を漁るなら勝手にすれば?でもせめて祐一さんと別れてからにしなよ。外でよその男と遊んで、病気でももらって帰ってきたら――」その言葉を最後まで言わせる前に、由奈の手が勢いよく動いた。乾いた音が店内に響く。奈々美の顔が横に跳ね、数秒間、時が止まった。やがて、頬を押さえた彼女が震える声を漏らす。「今……私を殴ったの?」祖母の和恵以外、誰も彼女に手を上げたことなどなかった。由奈は冷ややかに言い放つ。「ええ、殴ったよ。あなたの暴言を我慢する義理なんてないからね。いい?私のことを何と言っても構わない。でも、私の友人を侮辱するのは許さない。この世界はあなたを中心に回ってるわけじゃないの。滝沢家でどう言おうがどう暴れようが勝手だけど、外では口の利き方に気をつけて」「何を言って……!」奈々美は言葉を詰まらせる。由奈はさらに付け加えた。「それと……私が滝沢社長を裏切ったとしても、それは彼への仕返しだから」そのまま由奈は彰の手首を取り、奈々美をすり抜けて歩き出した――が、次の瞬間、足が止まる。エレベーターの前に、祐一と歩実が立っていた。無表情な祐一の眼差しが、氷のように冷たく由奈を射抜く。どうやら今の会話をすべて聞いていたらしい。「祐一さん、歩実さん!待ってたんだよ!」奈々美は涙を滲ませながら駆け寄り、頬を押さえて訴える。「祐一さん、今の見たでしょ?あの女、浮気相手を庇って私を殴ったんだよ!」歩実の瞳がわずかに輝く。奈々美にご飯を誘われたと思えば、こんな面白い展開に出くわすとは。「奈々美ちゃん、きっと誤解よ。影山さんと池上先生、そんな関係じゃないと思うわ」歩実はわざとらしく穏やかに笑い、祐一の腕にそっと自分の手を絡ませる。奈々美は鼻で笑い、さらに挑発的な声を重ねた。「誤解な
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