徒に過ごした六年間――去り際に君の愛を知る

徒に過ごした六年間――去り際に君の愛を知る

By:  シガちゃんUpdated just now
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離婚を決意する三ヶ月前、池上由奈(いけがみ ゆな)は職場に異動願を提出した。 一ヶ月前、滝沢祐一(たきざわ ゆういち)宛てに離婚届を送った。 そして、最後の三日前――彼女は自分の荷物をすべてまとめ、二人の家を後にした。 結婚生活は六年も続いた。 だが祐一は、初恋の相手である長門歩実(ながと あゆみ)と健斗(けんと)を連れて堂々と由奈の前に現れ、幼い子に「パパ」と呼ばせた瞬間、由奈はすべてを悟った。 ――ああ、この人にとって大切なのはあの親子なんだ。 彼女たちのために、祐一は何度も由奈を犠牲にし、譲歩するよう迫った。まるで由奈こそが邪魔者で、存在を知られてはいけない愛人のようだった。 ならば、もう終わらせよう。この婚姻を断ち切り、彼が本当に好きな人と共にいられるように。 そう覚悟して由奈は去った。 けれど、彼女が本当に姿を消した時――祐一は正気を失った。 由奈は、祐一が望みどおり歩実と結ばれると思っていた。だが、権勢を誇るあの男は、真っ赤に充血した目でメディアの前に立ち、惨めなほどの言葉を吐いた。 「俺は浮気なんてしていない。隠し子もいない。俺には妻の由奈しかいないんだ。だが……彼女はもう俺を必要としたりしない。俺は、彼女に会いたいんだ!」

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Chapter 1

第1話

「池上先生、江川病院への異動……本当に決めたのか?」

斉藤勉(さいとう つとむ)院長は、池上由奈(いけがみ ゆな)の異動願を手にして目を丸くした。

由奈はわずかにまつげを震わせ、苦みを含んだ笑みを浮かべる。「はい、もう決めました」

その瞳に揺るがぬ決意を見て、勉は深いため息をつき、静かに署名した。

院長室を出て廊下を歩いたとき、由奈は白衣を着た長門歩実(ながと あゆみ)と、その隣にいる滝沢祐一(たきざわ ゆういち)、そして小さな男の子に出くわした。

一瞬、足が止まる。

まるで幸せな家族のような光景が、目に飛び込んできたのだ。

二人の間を歩く男の子が、左右の手をそれぞれ歩実と祐一にぎゅっと握られ、無邪気な笑顔を浮かべている。

由奈の胸に鋭い痛みが走った。

祐一が歩実と子どもに向ける柔らかな眼差し、穏やかで優しい仕草――それは、由奈が一度も与えられたことのないものだった。

彼は自分を憎んでいるのだと、由奈はよく知っている。

祐一の初恋の相手は歩実だった。だが、由奈が祐一の祖母・和恵(かずえ)と取引をして彼と結婚したとき、すでに二人は別れていた。とはいえ、その事実を知ったのは結婚後のことだった。

結局祐一にとって由奈は、隙を突き、卑怯な手で妻の座を奪った女でしかないのだ。

けれど――彼は知らない。

本当は、由奈の方が先に祐一と出会っていたのだ。だが彼は、その記憶をとっくに忘れていた。

結婚すれば思い出してくれる。冷え切った心も、寄り添えば少しずつ温まっていく。由奈はそう信じていた。

けれど、それは思い上がりにすぎなかった。

祐一は彼女を憎んでいる。愛してくれることなど、決してないのだ。

その証拠に、六年間の結婚生活のあいだ、彼は周囲に「独身だ」と言い続け、妻である由奈をまるで存在しない人間のように扱った。

「池上先生?」歩実が気づいて声をかける。

祐一は眉を寄せ、じっと由奈を見つめる。その視線には、まるで「余計なことを口にするな」と言いたげな緊張があった。

その距離感が、刹那に由奈の胸を締めつける。けれど彼女はすぐに表情を整え、頭を下げた。

「長門先生、滝沢社長、お疲れ様です」

祐一は最近、中央病院の出資者となり、病院経営に名を連ねている。もちろん、それは由奈のためではなく、歩実のためだった。

歩実が帰国してすぐ、祐一が彼女を中央病院に入れ、外科部長として推薦したのだ。院内では誰もが「歩実の後ろ盾が滝沢社長」と噂し、さらには二人が恋人関係だという話まで広がっていたが、祐一は何一つ否定しなかった。

歩実は祐一の腕を自然に取り、にこやかに言う。

「そんなにかしこまらなくていいのよ。私なんてまだ入ったばかりだし、これからいろいろ教えてもらわないと」

そのとき、男の子が祐一にしがみついた。「パパ、疲れた。抱っこして?」

由奈の顔色がさっと変わる。

――パパ?

歩実は慌ててしかめ顔をつくる。

「健斗、だめでしょ。そんな呼び方したら」そう言いながら祐一へ申し訳なさそうに視線を向けた。

「ごめんなさい、祐一。子どもがわかってなくて」

祐一はちらりと由奈を見たが、怒ることもなくただ穏やかに子どもを抱き上げた。

「いいんだ」

「僕、祐一パパが大好き!本当に僕のパパになってくれたらいいのに!」

健斗(けんと)は祐一の首に腕を回し、甘えるように声を弾ませた。

「もう、しょうがない子ね」歩実は苦笑しながら彼の頭を撫でた。

由奈は拳を固く握りしめる――こんなに優しい祐一を、彼女は見たことがない。

……もう諦めた。

どんなに頑張っても、冷たい心を温めることはできなかった。なら、終わりにするしかない。

重い気持ちを押し込み、由奈は三人を追い抜いてエレベーターに乗り込んだ。

……

異動の件は誰にも知らせていない、もちろん祐一にも。

知らせる必要がないと思ったし、彼が知りたがるはずもないのだから。

車を走らせ、由奈は滝沢家の本邸へ向かう。門前でチャイムを押すと、しばらくして使用人の森田(もりた)が出てきた。

「奥さま、お帰りなさいませ」

「おばあさまはいらっしゃる?」

「はい、中でお待ちです。どうぞ」

滝沢家の重鎮である和恵。祐一の祖父が亡くなって以来、家の一切を取り仕切ってきた女性だ。

彼女は南の町の商家の出で、若いころから手腕を発揮してきた。姑から疎まれても、表立って彼女を逆らう者はいなかった。

森田に案内され、由奈は静かな和室へ入る。そこでは和恵が座布団に正座し、数珠を手に念仏を唱えていた。

「奥さまがお見えです」

和恵はゆるやかに目を開き、横顔のまま「こちらへ」と告げる。

森田が下がると、由奈も正座して仏前に手を合わせた。

和恵は熱心な仏教徒で、よく寺に参拝し、香をあげていた。出かけると、戻るまでに半月ほどかかることもあった。

しばし沈黙が続いたのち、由奈は小さな声で切り出した。

「おばあさま……私、祐一さんと離婚したいと思っています」
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第1話
「池上先生、江川病院への異動……本当に決めたのか?」斉藤勉(さいとう つとむ)院長は、池上由奈(いけがみ ゆな)の異動願を手にして目を丸くした。由奈はわずかにまつげを震わせ、苦みを含んだ笑みを浮かべる。「はい、もう決めました」その瞳に揺るがぬ決意を見て、勉は深いため息をつき、静かに署名した。院長室を出て廊下を歩いたとき、由奈は白衣を着た長門歩実(ながと あゆみ)と、その隣にいる滝沢祐一(たきざわ ゆういち)、そして小さな男の子に出くわした。一瞬、足が止まる。まるで幸せな家族のような光景が、目に飛び込んできたのだ。二人の間を歩く男の子が、左右の手をそれぞれ歩実と祐一にぎゅっと握られ、無邪気な笑顔を浮かべている。由奈の胸に鋭い痛みが走った。祐一が歩実と子どもに向ける柔らかな眼差し、穏やかで優しい仕草――それは、由奈が一度も与えられたことのないものだった。彼は自分を憎んでいるのだと、由奈はよく知っている。祐一の初恋の相手は歩実だった。だが、由奈が祐一の祖母・和恵(かずえ)と取引をして彼と結婚したとき、すでに二人は別れていた。とはいえ、その事実を知ったのは結婚後のことだった。結局祐一にとって由奈は、隙を突き、卑怯な手で妻の座を奪った女でしかないのだ。けれど――彼は知らない。本当は、由奈の方が先に祐一と出会っていたのだ。だが彼は、その記憶をとっくに忘れていた。結婚すれば思い出してくれる。冷え切った心も、寄り添えば少しずつ温まっていく。由奈はそう信じていた。けれど、それは思い上がりにすぎなかった。祐一は彼女を憎んでいる。愛してくれることなど、決してないのだ。その証拠に、六年間の結婚生活のあいだ、彼は周囲に「独身だ」と言い続け、妻である由奈をまるで存在しない人間のように扱った。「池上先生?」歩実が気づいて声をかける。祐一は眉を寄せ、じっと由奈を見つめる。その視線には、まるで「余計なことを口にするな」と言いたげな緊張があった。その距離感が、刹那に由奈の胸を締めつける。けれど彼女はすぐに表情を整え、頭を下げた。「長門先生、滝沢社長、お疲れ様です」祐一は最近、中央病院の出資者となり、病院経営に名を連ねている。もちろん、それは由奈のためではなく、歩実のためだった。歩実が帰国してすぐ、祐一が彼女
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第2話
和恵はしばらく沈黙し、由奈の視線を真正面から受け止めた。「……由奈。私と取り引きをしたときのこと、覚えているわね?今になって後悔しているの?」――そうだ、後悔している。由奈は瞳ににじむ苦しさを隠すように視線を落とし、静かに答えた。「……ご期待に添えず、申し訳ありません」和恵は深く目を閉じ、長く息を吐いた。「……いいでしょう。あんたの意思を尊重するわ。機会はもう与えた。祐一を振り向かせられなかったのは、あんた自身の力不足。滝沢家も、これ以上あんたに借りはない」胸の奥が重く沈んでいく。それでも由奈は笑みを作り、かすれた声で言った。「……ありがとうございます」……パシフィスガーデンに戻ると、ちょうど駐車場で祐一と長門親子の姿を目にした。あの二人が祐一の車に乗っていたことに気づき、由奈は思わず立ち尽くした。歩実が目を丸くする。「池上先生?あなたもここに住んでるの?」由奈は反射的に祐一へ視線を送る。だが彼は、まるで何もなかったかのように無表情を貫いていた。その平然とした態度が、かえって胸を刺す。パシフィスガーデンは海都市一番町にそびえる高級マンション群で、滝沢グループ不動産部門が手がける物件のひとつだった。由奈が今暮らしている部屋は、かつて祐一が「埋め合わせ」として与えたもの。病院に近いという理由で受け入れただけだったが、まさか今になって歩実と健斗まで住まわせるとは。――そんなに急いで、彼女とやり直したいのね。「……偶然ですね」心のざわめきを押し殺し、由奈は軽く会釈してその場を離れようとした。だが背後から歩実の声が響く。「池上先生、ご結婚されてるって聞いたけど……ご主人はどちらに?」由奈の足が止まった。――旦那?視線を祐一に向けると、その顔にかすかな影が落ちていた。由奈の胸に冷笑が浮かぶ――歩実に真実を知られるのが、そんなに怖いの?「夫はいません」由奈は淡々と答えた。一瞬、祐一の眼差しが揺れる。「いない?」歩実は穏やかな笑みを崩さぬまま問い返した。「でも、プロフィールには既婚と……」確かに、病院に提出したプロフィールにはそう記入した。だが、彼女の夫を実際に会った者は誰一人いない。由奈は作り笑いを浮かべる。「ただ記入欄を埋めただけです。夫なんていませんよ」言い
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第3話
祐一は、由奈が「離婚」を口にするとは思っていなかったのか、表情が一気に陰り、低く言い放った。「断る」由奈は一瞬、息を呑んだ。離婚を断る、ということは――もしかしてまた自分に未練を……?だが祐一の言葉は続いた。「おばあさまも承知しないはずだ」直後、ドアが閉まる音が響いた。その場に取り残された由奈の胸は、湿った綿を詰め込まれたように重く沈んでいった。自分の期待が、どれほど愚かだったか思い知らされる。彼が離婚を拒むのは、和恵の気持ちを考えてのことにすぎない。けれど――祐一は知らない。和恵はすでに、由奈の決断を受け入れていることを。結局その夜は言い合いのまま終わり、二人は別々の部屋で眠った。翌朝、家政婦が出勤したときには、すでに祐一の姿はなかった。由奈は平然を装い、一人で朝食を口にする。家政婦が部屋を片付けて戻ると、不思議そうに声をかけてきた。「奥さま、家の物は……ずいぶん減ってませんか?」由奈の手が一瞬止まる。家政婦にさえ気づかれるほど、家の中が変わっていた。けれど祐一は一言も尋ねてこなかった。それが何より雄弁に、彼の心を示していた。由奈は無理に笑みを作り、「古い物ばかりだったし、大事なものでもないから処分したの」と言い繕った。家政婦はそれ以上追及しなかった。正午すぎ、院長の勉から緊急の電話が入る。工事現場で重大事故が起きて、患者が危篤とのこと。だが脳外科のスペシャリストが全員出張中で、執刀できるのは由奈しかいなく、手術をお願いしたいと。由奈は病院に駆けつけ、手術着に着替えて救急室へ。そこにはすでに主治医たちが集まっていた。その中に歩実の姿もある。部屋いっぱいに、血の匂いが充満していた。歩実は他の医師と違い、患者に近づこうともせず、ただ青ざめた顔で必死に吐き気をこらえていた。「池上先生!待ってました!」麻酔科医が駆け寄る。「患者は現場から搬送されたばかりで昏睡状態です。工事現場から落下したらしくて……」由奈は患者を見るなり、息を呑んだ。二十センチの長さもある鉄筋が、患者の眼窩から頭蓋を貫通している。それでもまだ心拍はある――まさに奇跡だ。歩実が唇を震わせた。「池上先生、このオペ……本当にできるの?少しでもミスをすれば、患者は即死よ」「……じゃあ、代わりにやってくださるのです
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第4話
由奈の身体はこわばり、呆れた思いで祐一を見つめた。「長門先生にきつく当たったって?」――彼がわざわざここに来たのは、歩実のためだったのか。「彼女は君の上司だ。どんな事情があっただろうと、みんなの前で彼女の立場を潰すような真似はするべきじゃない」祐一の声音は冷え切っていて、そこに夫婦の情など微塵もなかった。由奈は胸の奥の痛みを押し殺し、ふっと笑った。「勘違いしないでほしいけど、執刀医は私よ。現場で判断する権利くらい、私にはあるでしょう?」「君こそ勘違いするな」祐一は唇の端をわずかに上げ、皮肉を含んだ声で返す。「執刀医を交代させる権利は、俺にあるんだぞ」その一言に、由奈の心臓は鈍器で打ち据えられたように震えた。……けれどもう関係ない。すでに異動届は出してある。彼が誰を執刀医に据えようと、もうどうでもいいことだ。「だからこれからは――」「滝沢社長が執刀医を変えたいなら、どうぞご自由に」由奈は祐一の話を遮った。彼の表情が凍りつき、目の奥がさらに暗くなる。これまで人前でこそ「滝沢社長」や「滝沢さん」と呼んではいたが、二人きりのときに距離を置くような呼び方をしたことはなかった。「……今、なんて呼んだ?」「滝沢社長」由奈は静かに答え、問い返す。「あなたの望んだ呼び方じゃなかった?」祐一は眉間に深いしわを刻み、何か言おうとした――その瞬間。「池上先生!」一人の看護師が駆け込んできた。「大変です!患者さんのご家族が、長門先生と口論になってます!」由奈が返事をする前に、祐一はすでに背を向け、足早に去っていった。――歩実のこととなれば、迷いもせず駆けつけるんだ。その姿に由奈の口元は自然と歪んだ。彼が自分にあんなふうに駆け寄ってきたことは、一度もなかったのに。病室の外では、患者家族と歩実の間で激しい言い争いが起きていた。由奈が駆けつけたとき、人だかりの向こうから、歩実の悲鳴が聞こえた。人混みをかき分けた由奈が目にしたのは――祐一が歩実を庇って、振り上げられた患者家族の腕をつかんで止めている姿だった。歩実は祐一の胸にすがり、怯えた顔をしている。患者家族は祐一の迫力に押され、思わず後ずさる。「あ、あんた誰だ!」祐一は淡々と腕を払いのけた。「言い分があるなら口で言ってください。暴力は筋違いです」「
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第5話
祐一の表情がわずかに険しくなり、歩実を離そうとしたその時――「祐一、まだ気分が悪いの。薬を取りに一緒に来てくれない?」歩実が袖をつかんで引き止めた。祐一は一瞬、消えていった由奈の背中を見やり、やがて小さく息を吐いた。「……ああ」薬を受け取った帰り道、祐一がどこか上の空でいると、歩実は彼を見上げ、笑みを浮かべる。「祐一、健斗を海都市の私立幼稚園に入れたいけど、保護者もに市内に住んでなきゃだめらしいの。私、事情があって住民票を地方の実家から移せないから、一時的に健斗を祐一の養子にできないかしら?」断られるのを懸念してるのか、彼女は言葉を急ぐように重ねた。「ほんの少しの間だけ。絶対にバレないようにするから」祐一が彼女を見据える。歩実はその視線から逃げないよう我慢し、手を固く握りしめた。「だめ……なの?」「そうだな、子供のためにもそれはやめたほうがいい」祐一の声音は冷静だった。「だが、母に養子として迎えさせることはできる」歩実は黙り込んだ。滝沢家の養子。つまり、健斗は祐一の「弟」になる。では、健斗の母親である自分は気まずい立場になるのでは?祐一の眼差しが鋭くなる。「気が進まないか?」歩実は慌てて首を振り、本音を隠す。「……ううん。祐一に任せるわ」祐一は短く「わかった」とだけ答え、それ以上は口を開かなかった。歩実は指先をぎゅっと丸める。心の奥には悔しさが渦巻いていた。だが、焦ってはいけない。――息子が滝沢家に入り、家の人間に気に入られさえすれば、自分の立場はいずれ変わる。……その夜、祐一は帰ってこなかった。以前なら、由奈は遅くまで灯りをつけ、彼を待ち続けていた。けれど今はもう違う。帰るかどうかさえ、もうどうでもよくなったのだ。翌朝、出勤のためにマンションを出たところで、由奈は歩実と健斗と鉢合わせた。避けて通ろうとした矢先、歩実の声が飛んできた。「池上先生」由奈は足を止め、振り返る。「……何か?」「先生は私のことが……嫌い?」歩実はじっと由奈を見つめる。「そんなことありませんよ」嫌うも何も――そもそも好きになる理由はないし、彼女はどんな人間かは知らない。歩実は健斗の手を引き寄せ、さらに近づく。「それならよかった。同じ病院で働いてるんだもの、変な誤解は嫌だから。あ、先生
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第6話
「大人が子ども相手に、なに本気になってるんだ」由奈は思わず息を呑んだ。祐一が自分を信じてないことくらい、とっくにわかっていた。けれど、こうまであからさまに歩実と健斗をかばう姿勢を見せられると、胸の奥が鋭く痛んだ。滲む涙を必死で抑え、低い声で言い返す。「私、あの子を推してなんかいません!」祐一は冷笑を浮かべた。「じゃあ、君の言い分だと――まだ幼い子どもが、自分で転んで君を陥れたってことか?」胸が震え、呼吸さえ乱れる。どうせ彼は信じない。もうわかっているのに、なぜまだ必死に弁解しようとしてしまうのか。由奈は伏せた視線を上げず、絞り出すように言った。「……もういいです。今日は私がついてなかったってことで」背を向け、一歩を踏み出そうとした瞬間――「待て」足が止まる。が、由奈は振り返らない。「健斗はまだ子どもだ。大人がそこまで意地を張る必要はない」祐一の声は少し柔らいでいた。「謝ってやれ」「祐一、もういいよ、謝ってもらわなくても……」歩実が口を挟む。だが祐一の眼差しは冷たかった。「間違ったなら素直に認め、謝るべきときは謝らなきゃならないんだ」由奈の手は固く握り締められ、爪が掌に食い込んでいた。痛みなど、もう感じなかった。彼女はゆっくりと顔を上げ、祐一をまっすぐに見据えながら、近くの防犯カメラを指さす。「滝沢社長、ここはパシフィスガーデン。防犯カメラが至るところにあります。ヒーロー気取りで正義感を振りかざす前に、まず映像を確認したらどうですか?もし私が間違っていたら謝ります。でも、やってもいないことで謝るつもりはありません!」そのまま振り返らず、足早に去っていった。祐一の胸の奥が、不意に重く締めつけられる。表情は陰り、言葉を失った。「防犯カメラ」というワードに歩実の心臓が跳ねた。もし祐一が本当に確認したらと思い、慌てて祐一の袖を掴む。「祐一、もういいよ。健斗も怪我はしてないし、池上先生がわざとじゃないって信じてるから」何としてでも映像の話を掘り下げさせてはならない。彼女はすぐに話題を切り替えた。「祐一、健斗が遅れちゃうから、もう行きましょ?」祐一は短く息を吐き、掴まれた腕をそっと引っ込める。「園長先生にはもう連絡してある。健斗を連れて行ってくれ、向こうで段取りしてくれる。俺はまだ会議
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第7話
病院で、由奈は例の患者の容体を確認した。患者の家族は彼女が執刀医だと知るや、感極まって膝を折りそうになった。慌ててそばにいた看護師と一緒に支え起こし、由奈は穏やかに言った。「そんなことをなさらないでください。命を救うのは私たちの務めですから」「先生がいなかったら、うちの子はもう生きてなかったんです。本当に……本当にありがとうございます」年配の母親は泣き崩れ、恐怖から解き放たれた安堵と喜びが入り混じった涙を流した。医者という職業は生死の境に立ち会うことが日常だ。それでも、死神の手から命を取り戻せる瞬間は、この上ない喜びが満ちていた。幸い手術は成功し、後遺症も見られない。不幸中の幸いとはまさにこのことだ。由奈は患者の母親の手を取り、いくつか言葉をかけてから、看護師たちとともに病室を後にした。医局に戻ったところで、父の文昭(ふみあき)からの電話が入る。一瞬ためらったものの、通話ボタンを押した。「由奈、今日祐一と一緒に帰ってこれないか?」嫌な予感が走り、由奈の表情が固くなる。「……用があるなら教えて」「おいおい、そんな言い方はないだろう。たまに顔を出したっていいじゃないか。午後には必ず帰ってこい」それだけ言うと、返事を聞く前に電話は切られた。……その頃、祐一は会社で会議の最中だった。歩実からメッセージが届く。【祐一、健斗を幼稚園に送り届けたわ。この幼稚園に入れたのは祐一のおかげよ、本当にありがとう】画面を見て、祐一は短く【気にするな】とだけ返信する。そして何気なくSNSを開き、ふと由奈とのトーク画面で指が止まった。最後に彼女から届いたメッセージは先月の八日で、週末は来るかと尋ねるものだった。既読すらつけず、返事をしなかった。それきり、由奈も一度もメッセージを送ってこなかった。――随分、我慢強い女だ。……午後。由奈は実家の玄関先で、長いあいだ足を止めていた。意を決して中へ入ると、母の久美子(くみこ)が笑顔で迎えた。「由奈、おかえり」そしてすぐに玄関の外を見やる。その視線に、落胆の色が混じるのを由奈は見逃さなかった。「見なくていいよ、私だけだから」淡々と告げると、母の笑顔がかすかに凍りついた。ちょうど階段を降りてきた父が、祐一の姿がないことに気づき、露骨に顔を曇らせる。「祐一
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第8話
頬を打たれた衝撃に、由奈はしばらく呆然とした。あまりに突然すぎて、反応することすらできなかった。隣の母も思わず息を呑む。文昭は由奈を指さし、怒声をあげた。「祐一と離婚?絶対に許さん!滝沢家に嫁げたのはお前の運だ。誰にでも巡ってくる幸せじゃないんだぞ。ありがたく思え!」――運?確かにそうかもしれない。だが、それは彼女が昔、あの暗い日々を祐一とともに過ごし、命懸けで彼を助けた報いに過ぎない。滝沢家が借りを作ったからこそ繋がった縁だった。由奈は思わず笑い、赤く染まった目で父を見返す。「父さん、私もあなたの子どもでしょう?なのに、どうして浩輔ばかり可愛がるの?今日私を呼び戻したのも、結局浩輔のためだよね?食事なんてただの口実でしょ?だったらそう言えばいいじゃない、祐一から金をもらってこいって!どうせ浩輔のことが大事で、私はどうでもいいんでしょ?」文昭は言葉を詰まらせ、視線を逸らす。「お前は長女で、浩輔はお前の弟だ。姉が弟を助けるのは当たり前じゃないか」由奈はこみ上げる涙を押しとどめ、低く返した。「弟を育てるのはあなたたち責任よ、なんでも私に押し付けないで」「このっ……!」文昭が再び手を上げようとした瞬間、由奈は一歩踏み出し、顔を差し出した。「殴りたいなら思いっきり殴ってよ!ほら!」文昭の手は震えたが、結局振り下ろせなかった。「あなた、もうやめなさい!」久美子が慌てて間に入り、由奈の前に立つ。「由奈、お父さんと喧嘩しないで。今回ばかりは本当に浩輔が大変なの。今、警察に勾留されてるのよ。祐一さんに頼めば、なんとか助けてくれるかもしれないと思って」言葉の途中で、由奈の心は完全に冷え切った――やはり弟のことだ。自分の苦しみなんてまったく察してくれない。「……そんなこと、頼めないわ」「由奈、浩輔は血を分けた弟なのよ?」母が縋るように叫ぶ。由奈の感情は限界に達した。「祐一は浮気して、もう子どもまでいるの!私は追い出されようとしてるのに、まだ頭を下げろって?どんな顔で頼みに行けばいいっていうの?」文昭と久美子はその場で凍りついた。由奈は返事を待たず、扉を乱暴に閉めて家を飛び出した。……夕方。祐一は仕事を終え、病院へ車を走らせた。由奈がいつもいる医局を通り過ぎたとき、彼は足を止めた。こうしてわざわざ彼女に会
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第9話
謝る――その言葉に、由奈は思わず苦笑いしてしまった。離婚届をぎゅっと握りしめ、できるだけ冷静を保つ。「……今夜は帰ってくる?」その瞬間、電話口から女の甘えた声がはっきりと聞こえた。「祐一、誰から?」――歩実の声だ。「会社からだ」祐一は何事もなかったように答え、通話が繋がったままだというのに気にも留めない。「仕事は何時に終わる?一緒に健斗を迎えに行こう」歩実は嬉しそうに笑う。「今日は忙しくないから、六時には上がれるわ」気づいたときには、もう通話は切れていた。由奈はしばらく呆然とし、静かに視線を落とす。目の前にあるのは、既に署名を終えた離婚届。本当は彼に戻ってきてもらい、署名してもらうつもりだった。けれど、彼は最後まで耳を傾けようとすらしなかった。――本当、笑っちゃう。あの時、彼の約束を信じた自分が愚かだった。……祐一と歩実が幼稚園に着くと、園長に手を引かれて健斗が姿を現した。祐一を見つけた途端、園長の手を振りほどき、勢いよく駆け寄ってくる。「パパ!」その声に周囲の視線が一斉に集まる。健斗は祐一の足にしがみつき、満面の笑みを浮かべた。「パパ、ママと一緒に迎えに来てくれたの?」園長がにこやかに歩み寄り、声をかける。「滝沢社長、奥様。今日は健斗くん、よく頑張っていましたよ。はなまるのシールももらったんです」「……奥様?」その一言で祐一の表情が硬直する。園長は一瞬きょとんとした――あれ?隣にいる女性はてっきり滝沢社長の奥様だと思っていたが、違うのか……?歩実が慌てて祐一の腕を取った。「祐一、誤解だから、気にしないで。園長も悪気があって言ったんじゃないわ」そして園長に向き直り、静かに釘を刺す。「人前でその呼び方は控えてください」園長は目を白黒させる。つい先日、この女性は健斗が祐一の息子だと仄めかしていたはず。ではもし妻ではないのなら……健斗は誰の子で、この三人はどういう関係なのか?――やはり名家の事情は複雑だ、と園長は内心ため息をついた。祐一の表情を見た健斗が、不安そうに顔を上げる。「パパ……僕、何か悪いことしちゃった?」祐一はしばし黙って彼を見下ろす。事情を知らない子どもに本気で怒る気などない。大きな手で健斗の頭を撫で、少しだけ声をやわらげた。「健斗は悪くない。ただな…
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第10話
由奈は唇をきゅっと噛みしめた。もし記憶が確かなら、祐一は彼女と池上家との確執を知っているはずだ。いつだったか、和恵の誕生日祝いに両親も顔を出した。父の文昭は酒に酔って、場にふさわしくない言葉を吐き、滝沢家の人々の顔が一瞬で曇ったのを、今でも鮮明に覚えている。必死に父をなだめようとした自分は、逆に突き飛ばされ、転んだ拍子にグラスを割り、掌を鋭い破片で切った。そのとき、酔っていた父を責める気にはならなかった。けれど、そばで冷ややかに見ていただけの祐一に対しては、心の奥に深い棘が残った。――その祐一が、今さら自分を心配してるのか?由奈の瞳から熱が失われていく。「聞くまでもないでしょう」祐一は鼻先で笑った。「情けないな」由奈は指先をぎゅっと握り締め、顔色が青ざめる。祐一が続けた。「なんて言おうと君は俺の妻だ。なのに殴られるとは、情けない以外、何になる?」祐一はグラスを傾け、残りを一気にあおった。さっき言葉は受け止め方次第で、「君は俺の妻なんだから、そんな卑屈な思いをする必要はない」と言っているようで――しかし、彼女が抱えてきた痛みの多くは、他ならぬ彼自身から与えられたものだと、彼には気づかなかった。祐一はゆったりと立ち上がり、由奈の前に歩み出る。「で、俺を待っていた理由は?」由奈は一瞬言葉を失った。――やはり、夕方頃の電話が気になって早く戻ってきたのだろうか。込み上げる感情を押し殺し、静かに切り出した。「浩輔が勾留されてる。弁護士を探してもらえない?」祐一は評判を大切にする人間だ。だからこそ「釈放されるように助けてほしい」とは言わず、あくまで対策をするために、弁護士を探してほしいと言った。その程度の頼みなら、過分ではないと思ったのだ。祐一の視線が彼女を射抜く。「俺に頼み事?」「ええ」由奈は彼が躊躇するのを恐れて、さらに言葉を重ねた。「お願いするのはこれで最後。代わりにどんな条件でも飲む、離婚も含めて」祐一の目が、かすかに暗く揺れる。口を開こうとした瞬間、無情にも電話の着信音が割り込んだ。ちらりと見えた画面――「歩実」の名が表示されている。祐一は隠そうともせず、堂々と電話に出た。「どうした?」声色が、由奈に向けるものとはまるで別人のように柔らかい。「祐一、健斗の具合が悪くて
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