「っ! あっ、ま、待って……っ暮科!」
河原の声が上擦り、肌が一段と淡く染まる。
それが怒っているからなのか、戸惑いからなのか、あるいは単に羞恥心からくるのもなのか、俺には正直判断できない。 もしかしたらその全部が原因かもしれないが、全力で俺を拒絶しようと言う気があるようには見えないからよけいにわからなくなる。河原の片手は、俺の肩を掴んでいる。だがその割りに力が入っていないように思えるのは、飲み過ぎた酒のせいなのか。
他方の手はいまだに俺が掴んだままで、自由にはさせていない。「えっ……え、嘘、ちょっ……くれし、暮科っ」
震える声に煽られる。俺はぺろりと自分の唇を舐めた。
意外だったのは、直に触れた河原のそれが、思いの外
……このまま、……。
ちらりと河原の顔を見上げる。
その目元は熱を帯びたように紅潮し、揺蕩うみたいに揺れている。酔いのせいか、生理的な涙に滲むその双眸が物言いたげに俺を見ていた。俺はかち合った視線を振り切って、次には腰へと目を遣った。その刹那、一気にスウェットと下着を下方へと引き下ろし――。
「……!」
河原は息を呑み、俺の肩を掴んでいた手で目元を覆った。
他方からも手を放せば、両手を交差してしっかりと顔を隠す。 腹部を隠そうとしないのは、それを俺が許さないと気付いているからだろうか。「も、やめ……」
吐息と共に、声にならない声が落ちてくる。
やめろと言いつつ、やはり身体では強く拒絶しない。 それが何故だかわからないまま、わかろうとしないまま、俺は再び平板に言葉を重ねた。「じゃあ、うんって言えよ」
「……そ、れはっ……」 「関わらないって言えよ」 「だ……、だって、大切な人なんだ……っ俺にとって、将人、さんは……!」…
*** ……なんでいるんだよ。 結局、河原とはろくに話すこともないまま忙しい時間帯に入ってしまった。 別に隙を見て問い詰めようとかそんなつもりはなかったが、これでは彼の様子を窺うことすらろくにできず、気持ちの整理がまるでつかない。 直前の客足の少ない時間帯は河原が休憩に入っていたし、繁忙時を過ぎれば今度は俺が休憩に入る番だ。 ……まぁ、仮に話せるような機会があったとして、今の俺ではなにも聞けないだろうけれど。「ホットコーヒーお願いするよ」 「……今日は土曜じゃありませんけど」 しかもそんな中、気がつけば喫煙席の一角に座っていたのはあの男で、当然のように呼び止められた俺は、不機嫌さを隠すこともなく平板に返した。「今週から他にも来られそうな日ができてね。火曜日の夜とか……」 火曜日……。 火曜日は河原の出勤日だ。しかもはっきり夜だと言った。 俺と違って河原は定休だから、なにもなければその日は遅番で店に出ている。 ……見城はもうそこまで知っているのだろうか。河原と二人きりで会った時に、そう言った話も聞き出したのかもしれない。「……そうですか」 俺は目を合わせることもなくそれだけ言うと、オーダーを繰り返すこともなくその場をあとにした。 水面下で募っていた苛立ちが嵩んで、堪えきれず俺は厨房に戻るなりまっすぐ河原の元へと向かった。 河原は少々手の掛かるデザートプレートの盛り付け作業をしているところだった。手元から視線を一切上げることなく、しっかりと集中しているように見える。いつもなら終わるまでそっとしておくところだ。 けれども、その時の俺にはそれができなかった。 俺は構わず距離を詰め、その耳元に顔を寄せた。「お前、今日仕事終わったあと、なんか約束あんの?」 河原は驚いたように手を止め、ややして小さく答えた。幸い、盛り付けへの支障は出ていなかった。「な、にもないけど……なんで?」
普段はどちらかと言うと俺の方が先に店に着いていることが多かった。 仕事に入る前に、できればゆっくり一服しておきたかったからだ。 なのにその日に限って、更衣室のドアを開けるとそこには既に河原の姿があり、「あ、おはよう」 そのくせ彼の態度には取り立てて変化は見られなかった。 俺が河原と飲んだのは一昨日のことだ。昨日は木崎と少し飲み、その間河原は見城と会っていた。 そして今日は俺も河原も遅番だ。 まさか、覚えてねぇとか……? いや、河原は酔って記憶をなくすようなことはなかったはずだ。 けれどもそう疑ってしまうほど、河原の様子はきわめて普段通りで、笑顔も穏やかに感じられた。 ……見城になにか言われたのか。 それで機嫌がいいのか? あからさまに避けられるようなことがなくほっとしたのも本音だが、かと言っていくら天然なところがある河原でも、あの夜のこと全てを冗談で片付けてしまえたとは思えない。 先に支度を済ませた河原は、窓際に立ってのんびり空を見上げていた。 もしかして、なかったことにするつもりか……。 俺は彼から視線を逸らし、手早く自分も着替えを済ませた。それから河原の死角となるソファに腰を下ろし、煙草に火を点ける。 他のスタッフはまだ来ていなかった。 今までなら嬉しいだけだった二人だけの空間が、今は酷く重苦しく感じられる。 俺はざわつくばかりの胸中を誤魔化すように、ソファの背凭れに頭を乗せ、細く紫煙を吐き出した。 視界の端で、河原はただぼんやりと窓外を眺めたままだ。その様子から、なにを考えているのかは全く読めない。 もう……あいつのことで頭がいっぱいなのか。 考えれば考えるほど胸が締め付けられる。 と同時に自嘲めいた笑みが滲んで、誤魔化すように煙草をくわえた。 ぼやけた視界に映る見慣れた天井へと、細く頼りない紫煙が立ち上っていく。 ……河原がなにを考えているのか分からない。 こんなにも河原を遠く感じたこ
「見城さんがなにをやってる人なのかは、調べれば確かに分かったけどさぁ……」 テーブルの上の灰皿に穂先を押し付け、新たなビールを出すためにキッチンに向かおうとすると、バルコニーの窓を後ろ手に閉めながら、部屋へと戻った木崎が再び声をかけてきた。「そんな見城さんが、河原のことを気にするって……いったいなんなんだろうね?」 平静を装って踏み出したはずの足が、思わず一瞬止まってしまう。 しまったと思ってもあとの祭りだ。「いつ切り出そうかと思っていたけど――俺がここに来るのに河原を誘わなかったのは、元彼の話がしたかったからってのももちろんあったけど……本当は知りたかったからだからね」「……」 「暮科、なんか隠してるよね」 木崎は元いた場所に腰を下ろすと、グラスに残っていたワインを揺らしながら、当然のようにそう言い切った。 *** 木崎が帰ったあとも、俺は暫くソファに座ってビールを飲んでいた。 空になった缶を軽く振ってからゆっくり立ち上がると、食べ物をあまり口にしていなかったからか、さすがに飲み過ぎたのか、少しばかり足元がふらついた。 軽く息を吐いて立て直し、テーブルの上に置いたままだった二つのワイングラスも手に取りキッチンへと向かう。「河原と見城さんって、どういう関係なの?」 あのあと、もう遠慮しないとばかりに単刀直入に聞かれた言葉を思い出し、俺は何度目かの溜息を重ねた。 俺がなにも答えなければ、きっと近い将来、木崎は本人に直接聞いてしまうだろう。河原か見城、そのどちらかに面と向かって率直に。それくらいならと俺は河原が見城と幼なじみであることに限り軽く白状したのだ。 ……まぁ、そこから木崎は、容易にピアノの発表会の、というところまで導き出していたが。 そうして話が終わると、今度は河原を呼ぶかと提案された。 木崎は俺と河原の昨日のことを知らないし、見城の車から河原が降りてきたところも見ていない。だから本当にそこまでの他意はなく言ってきたの
「まぁ、もうどうでもいいけどね。別れた相手のことだし」 「別れたって……お前、付き合い始めたばっかだろ」 「だって俺、浮気されるのだけはホント許せないもん」 「お前はするくせにか?」 「俺は……。や、でも、最近はしてないよ」 「最近はかよ……」 木崎はぶつぶつと愚痴をこぼしながら、持参したワインを次々に喉奥へと流し込んでいる。俺は肩越しに「無茶な飲み方はすんなよ」と残し、際まで歩いて行くと手すりに頬杖を突いて、視界いっぱいに広がる夜空を見上げた。 思ったよりも空気が澄んでいるように感じるのは、冬と言う季節のせいだろうか。 今夜は特に望める星の数が多い気がした。 星空を見ているだけで、河原の姿が浮かんでしまう。 彼は気がつくとよくこうして空を眺めていた。どこか懐かしそうな、穏やかな笑みを浮かべて。 ……まさかそこにも見城との思い出が……とは思いたくはないけれど。 ……さすがに寒ぃな。 部屋着用のカーディガンだけでは長くは保たず、俺は思考を閉ざすようにも一度視線を落とし、部屋の中へと引き返そうとする。 するとそれを引き留めるようにどこからか低めのエンジン音が聞こえて来て、俺は無意識にそちらに目を遣った。「この音……」 呟きながら、手摺に指を添え、階下を覗き込む。 少し身を乗り出せば、マンション前の道路くらいは一望できる。俺は目を凝らし、視線を巡らせた。 エントランス前に、停車したばかりらしき車がある。 見たことのある車種だった。色は赤――。 ……見城。 あいつの愛車だ。 成り行きとはいえ、つい先日その助手席に乗ったばかりの車だ。 そうでなくともその辺を走っているだけで周囲の目を惹くような存在感があるのに、見間違えるはずもない。 ……なんの用だよ、こんな時間に。 まさか、俺がここに住んでるって誰かに聞いてきたのか? だとしたらもはや居留守を使おうとしか思えないが、それとは別に気になることがもう一つあった
***「あれ? 暮科……」 勝手に宣言された通り、早番の終業1時間後にはインターホンが鳴った。 普段より若干高めのテンションで「これ付き合ってよ」と木崎が持参したワインは、けれども、結局木崎しか飲んでいなかった。俺はと言うと、いつも通り缶ビールしか飲んでいない。「暮科って、ワイン嫌いだったっけ?」 そうして、既に何杯目か分からないグラスを一気に煽ってから、今更のように木崎は俺を見詰めてきょとんと首を傾げた。「飲めねぇわけじゃねぇけど……」「けど……?」 部屋に上がった木崎は、俺の許可も待たずに勝手にキッチンからグラスを二つ持ってきて、持参した道具で勝手に栓を抜き、当たり前のように双方にワインを注いだ。 そうして一方を俺の方へと差し出してくれたものの、それにいつまで経っても俺が手を付けなかったからだろう。木崎は改めて俺の持つ缶ビールとテーブルの上のグラスを交互に見遣ると、自分のグラスをゆるゆると揺らしながら、小さく瞬いた。「けどなに?」「……いいんだよ、俺はビールで。そっちもお前飲んでいいから」 どう言うべきか迷った末、俺は大した返答もせずにもう一方のグラスを目線で示した。 ……さすがに今ワインを飲む気にはなれない。 ワインはもともと見城が好んで飲んでいたもので、俺にその良さを教えたのも見城だった。それに俺はワインだと少々酔いやすい。 それもあって、今でもどちらかと言えば苦手意識が強かった。……味が好きか嫌いかというのは別として。「……ビールで十分」 俺はソファに座っており、木崎はラグの上に直接腰を下ろしていた。ローテーブルに頬杖を突いていた木崎は、「ふーん?」とわずかに口を尖らせながらも、それ以上は追及してこなかった。「&hel
見城が俺にしたことと、俺が河原にしたことのどこに差があるというのだろう。 河原はきっと俺を許してはくれない。 過日の俺がそうだったように。 そんなつもりはなかったと……そんなのはもう言い訳にもならない。「くそ……」 俺は自室の玄関に入るなり、扉に凭れて立ち尽くした。 どことない場所を呆然と見つめて、忌々しげに片手で額を押さえる。前髪を強く掴んで、奥歯を噛み締めた。 あまりの自己嫌悪に吐き気すら込み上げてくる。「……最低だ」 俺は河原の前で踵を返すと、一度も振り返ることもなく部屋をあとにした。 河原はなにも言わなかった。嗚咽を堪えるのに必死だったのかもしれない。 あるいはもう、俺にかける言葉なんてなかったか。 ……そう思われても当然だ。 それくらい酷いやり方で俺は河原を傷つけてしまった。 理不尽な嫉妬に任せて、きわめて自分本位なやり方で、……河原の言葉なんて、なに一つ聞かずに。 確かに俺は、心のどこかでずっと彼に触れたいと思っていた。 だけど、こんな形で触れたいなんて思ったことは一度もなかった。 元々、どんなに恋焦がれても、河原に手を伸ばすつもりなんてなかったんだ。 その一線を越えてしまえば、今まで築き上げてきた関係が全て壊れてしまうのは明白だった。一度踏み込んでしまえば、なかったことにはできないと分かっていた。 だからこそ俺は、友人という立場を選んだはずだったのだ。結果傍にいられなくなるよりは、無条件にいつまでも隣にいられるようにと――。 ……それなのに。「……ばかか」 呟くと、不意におかしさが込み上げてくる。止まない自嘲に肩が揺れた。 俺はもたもたと靴を脱ぎ捨て、リビングを抜けると、そのまま寝室へと足を向けた。