LOGIN職員寮は、病院の裏手の坂の上にあった。
地図には徒歩7分と出ていたが、キャリーケースを引いて上るとなれば話は別だった。最後の階段の前で持ち手を離し、絵里は少し息を整えた。
入居案内には、エレベーターがないとは書いてなかった。
キャリーケースを1段ずつ引き上げた。これから6か月、出勤するたび、帰るたびに通る道だった。
301号室の扉を開けると、小さいが清潔な部屋が現れた。ベッドと机、クローゼット。玄関の内側には専用の浴室もある。窓の向こうに病院の建物の側面が見えた。
絵里はまず靴を脱いだ。
東京のワンルームでは、机に向かうとベッドの角がふくらはぎに当たった。ここなら椅子を後ろに引ける。それだけでも、第一印象は悪くなかった。
キャリーケースを横にした。服を何着か出して洗面用具を浴室に置き、持ってきた枕カバーに替えた。あとは起きてからでいい。
そう思った途端、お腹が鳴った。
サンドイッチを食べてから、もう何時間もたっていた。寝る前に少し何か食べたほうがいい。そう思って、もう一度扉を開けた。
廊下の端の共用キッチンには、冷蔵庫が2台と電子レンジ、小さな食卓があった。食器棚には、区画を分けるシールが貼られている。絵里は入居案内で、自分の部屋に割り当てられた収納を確かめた。
空っぽだった。
当たり前だ。昨日の夜ここへ来て荷物をほどく予定が、先に手術室へ行ったのだから。
バッグからパックご飯とカップ味噌汁を取り出した。ご飯をレンジに入れ、スタートボタンを押す。画面にロックの表示が出た。
もう一度押しても、反応はなかった。
「それは長押しです」
背後から聞こえた声に、絵里は振り返った。
一条怜司が、水のボトルを持って立っていた。病院で見たスクラブではなく、グレーのTシャツにゆったりしたパンツ。マスクも白衣もないのに、表情はあまり変わらない。
絵里の指が、ボタンの上で止まった。
「どうして、ここにいるんですか?」
「住んでます」
「この建物に?」
「302号室です」
絵里は自分が出てきたほうを見た。自分の扉の、すぐ隣だった。
「部屋の割り当ては、確認しなかったんですか?」
「自分の部屋は確認しました。隣に誰が住んでるかまでは聞いてません」
「じゃあ、今わかりましたね」
怜司は冷蔵庫からおかずの容器を取り出した。絵里は教えられたとおりボタンを長押しし、ご飯を温めた。
眠気が飛んだ気がした。
よりによって、あの人が隣。病院で会うだけでも、十分に緊張する相手だった。家に帰ってまで、判断の間違いを指摘される気はない。
怜司が食卓に容器を置きながら尋ねた。
「そこで立って食べるつもりですか?」
「椅子に座って食べます」
絵里が先に椅子を引いた。急いだせいで、椅子の脚が床をこすった。
怜司の視線が向いた。
「注意するんですか?」
「何を?」
「音がうるさいって」
「そこまで神経質じゃありません」
彼は小皿を1枚出し、絵里の前に置いた。冷蔵庫から出したおかずを、少しずつ盛り付ける。
絵里は皿を見た。
「私の分まで、いいんですけど」
「どのみち、取り分けるので」
怜司は自分の前にも同じ皿を置いた。容器を2人の真ん中に置くのではなく、それぞれの皿に分けるらしい。
「いただきます」
絵里がご飯の蓋を開けると、怜司がカトラリー立てを彼女のほうへ寄せた。
2人は数分、黙って食べた。病院で質問を交わしていたときには気づかなかったことが、気になった。おかずをのみ込んでから話し始めること。絵里が答えるときには、水のコップへ伸ばしかけた手を止めること。
余計な観察だと思いながら、絵里は味噌汁のカップを持った。
「初日から、いきなり手術に入るとは思いませんでした」
怜司が言った。
「私も初日から先生に会うとは思ってませんでした」
「青凪病院に勤務しているのは、知らなかったんですか?」
「研究会では、所属までよく見ていなかったので」
あの日は、最後に質問した人の名前を覚えるだけでも、十分に嫌な気分になった。
怜司が箸を置いた。
「あの日は、不快でしたか?」
絵里は味噌汁をのみ込んでから答えた。
「はい」
そんなふうに直接聞かれるとは思わなかったが、違うふりをする気もなかった。
「応援の人員がいなかったことを、言い訳だと思われているようで。あのとき呼べる人は、全員呼んだんです」
「その説明は、発表のあとに聞きました」
「質問されたときには、知らなかったんですね」
「だから聞きました」
絵里は彼を見た。
怜司はすぐに続けた。
「ただ、質問が藤崎先生個人だけに向いているように聞こえたかもしれませんね」
予想しやすい答えではなかった。彼は、自分が正しかったという説明だけを続けなかった。
「あの状況を個人に耐えさせ続ければ、また同じことが起きる。それを言いたかったんです」
「それなら、そちらも聞いてほしかったです」
自分の声が少し硬くなったのがわかった。
「どうして応援が来なかったのかも」
怜司がうなずいた。
「そのとおりです。応援が来なかった理由まで、聞くべきでした」
絵里は続きを言いかけた口を閉じた。彼が今認めたのは、発表の場では最後まで説明する機会のなかったことだった。
ご飯をもう一口食べた。認めてもらえたからといって、あの日の顔がすぐに消えるわけではない。それでも、面と向かって問い詰めたい言葉は減った。もう少し嫌わずにいてもいい人なのだろうか。むしろ、そちらが気になった。
怜司が話題を変えた。
「今日の午後も出るんですか?」
「4時からです。午前は久世先生のチームが担当してくださっています」
「なら、今寝ないと」
「ご飯を食べてからです」
「食べているのは見えます」
絵里は出そうになった笑いを、味噌汁と一緒にのみ込んだ。この人は、ときどきわざと言っているのか、本当にそれしか言う気がないのか、わからない。
食べ終わると、それぞれ使った食器を洗った。怜司が水気を拭いた皿を棚に戻す。絵里は自分の使った場所を布巾で拭きながら、手の甲が彼の脇に触れないよう、身を引いた。
キッチンは狭く、2人同時に動くには少しやりにくかった。
「先にどうぞ」
「藤崎先生から。私は終わりました」
怜司が大きくよけた。絵里はその隙間を通った。手術室では肩が触れそうな距離でも意識しなかったのに、ふと届いた石鹸の香りが残った。
おかずをもらったお礼だけを言い、部屋へ戻った。
扉を閉めると、すぐ隣でも鍵の音がした。
本当に、隣だった。
***
絵里はシャワーを浴びて、アラームをセットした。ベッドに横になっても、指先にはわずかな緊張が残っていた。枕元の携帯を点けて、また消した。
夜間に書いた記録を見ようかと思った。けれど、今、達夫を担当しているのは久世だ。必要なことがあれば、決めた連絡体制で知らせが来る。
携帯を伏せた。
眠りに落ちる直前、研究会の終わりが浮かんだ。帰りの廊下で同僚に、わざわざあの人とぶつかるなと言われた。
あのとき、怜司を好きになる理由なんてないと思った。
けれど今日浮かぶのは、発表会場での質問より、応援がなぜ来なかったかまで聞くべきだったと、うなずいた顔だった。
絵里はその顔を追い払おうとして、やめた。そのまま目を閉じた。
午後2時40分にアラームが鳴った。
絵里はしばらく天井を見た。ここは東京のワンルームではないと思い出すまで、数秒かかった。脚は重かったが、目の前がかすむほどの疲れは取れていた。
着替えてから、キャリーケースの残りの荷物を出した。専門書が1冊、書き込みのあるノート、くしゃくしゃの傘。最後に、本院の人事課から届いた封筒が出てきた。
派遣期間は6か月。8月1日から、翌年1月31日まで。
派遣を命じる理由は、診療支援だった。どこにも左遷とは書かれていなかった。
封筒を机の引き出しにしまった。異議申し立てに必要な資料は、もう出している。同じ文面を毎日眺めても、返事が早くなるわけではない。
共用キッチンには誰もいなかった。絵里は怜司が片づけていた棚からカップを取り出し、コーヒーをいれた。廊下には、ほかの部屋でアラームを止める音だけがした。
出勤前にコンビニに寄り、小さなおかずを買った。自分が食べるものを2つ。それから、朝もらった皿を思い出し、もう1つ選んだ。
レジに置いてから、少し迷った。
結局、3つとも買った。出勤すると容器の蓋に301号室と書き、医局の休憩室にある食品用冷蔵庫に入れておいた。
***
午後4時、外傷診療エリアに入ると、日勤を終えようとしていた久世がカルテを開いてくれた。
「田島さんは、大きな再出血の所見なく維持できています。午前の追加評価でも、今すぐ方針を変えるような損傷はありませんでした。ただ、肺挫傷は引き続き見ていく必要があります」
絵里は、夜間から午前の経過をつなげて読んだ。明日の午前に再手術という予定は変わっていなかった。今日の夕方の状態を見て、改めて確認することになっていた。
久世が別の患者を示した。
「それと、経過観察中の方が1人います。今朝、交通事故で来た方です。腹部をもう一度診てください」
相沢美咲、35歳。
絵里は新しい名前と、最初の検査時刻を確かめた。
ベッドに座った女性は、片方の耳に携帯を当て、もう片方の手でお腹を支えていた。声ははっきりしていた。
「そこの見出しだけ、文字を少し小さくしてください。いえ、私からファイルを送り直します」
絵里が近づくと、女性はいったん通話を止めた。
「先生、私、いつごろ帰れますか?」
絵里はまず椅子を引いて座った。
「先ほどと比べて、お腹がどう痛むのか。そこから聞かせてください」
「井上恵子さん、56歳です。朝から嘔吐と腹痛を訴えています。点滴をつなぎ、基本的な検査は提出しました」佐伯遥が患者のほうへ歩きながら言った。絵里はベッド脇に着く前に呼吸音を聞いた。速いだけの呼吸ではなかった。胸が大きく上下し、短い間隔を置いて、また深く息を吸い込んでいた。患者は膝を少し立てて横になっていた。唇は乾き、返事をするたびに息を継いだ。「外科の藤崎絵里です。お腹のどこがいちばん痛みますか?」恵子は手のひらで腹部の中央を覆った。「ここからこっちへ。吐いたせいだと思ったんですけど、ずっと……」彼女は青凪のバスターミナルで小さな売店を営んでいるという。隣に立つ夫の上着のポケットからは、店の鍵とレシートが一緒に出てきた。夫はレシートを丸めてしまい、代わりに最後に食べた時刻を伝えた。「昨夜、おかゆを何口か。今日は水だけ飲んだんですが、それも吐いてしまって」3日前から喉が痛く、咳も出て受診していた。食欲が落ちて、ほとんど食事を取れていなかった。腹痛が始まったのは今朝だった。患者はベッドから降り、待合の椅子に座りたいと言った。「人が多いでしょう。場所を取っているみたいで」「今はここで診察します。呼吸の状態も確認していますから」絵里は手を洗い、診察する場所を説明した。腹部中央に圧痛はあったが、1か所で明らかな筋性防御を示す様子はなかった。腹部がひどく膨らんでもいない。症状が始まってから排便があったか、血便や胸部の不快感はないか、過去の手術や服薬についても確認した。夫がバッグから血糖計を取り出した。
金曜日の午後、絵里がICUから出てくると、俊介は医局の小さなモニターの前に座っていた。西村浩二の初回手術の写真と、今日の再開腹の記録が並べて開かれていた。患者は腹部を閉じたあとICUへ戻り、治療を続けていた。帰室後の状態を見ながら、呼吸と循環の支援を調整する段階だった。「最後の資料を整えようと思って」俊介が空いている椅子を示した。絵里は隣に座り、共同検討に残す記録を開いた。初回手術で切除した腸と、再評価のために残した範囲が区別されていた。今日は追加切除をせず、1か所を吻合した。俊介が初回手術の写真の一部を拡大した。「最初に、ここをもう一度見ようと言ったのは藤崎先生でしたね」「反対側の面がきちんと見えていませんでした」「その先の区間は?」「CTで造影効果が低下していた範囲が、そちらまで続いていたので。表面に見える境界だけで終わらせてはいけないと思いました」俊介はその言葉を短く記録した。自分の名前の横にあった文章を移し、絵里の確認として記した。絵里はその画面を見て、少し手を止めた。誰かが自分の仕事を要約すると、抜けているところを探さなければならなかった日々がある。今回は先に、正しい位置を返してくれていた。「切除する境界は、先生のほうがよく見ていました」絵里が言った。「私は、残せる側から考え続けていた気がします」「私が切ることしか考えていなかったように聞こえますね」俊介が顔を上げた。絵里は戸惑ったが、彼の口元が動くのを見て笑った。「
金曜日の午前8時、絵里は西村浩二のベッドの前で、夜勤の外科医から引き継ぎを受けた。夜間に循環を支える薬を再び増やすような変化はなかった。尿量と酸塩基平衡も回復する方向に向かっていた。陰圧装置は密閉を保ち、排液にも急な変化はなかった。浩二は気管チューブを入れたままだった。絵里が名前を呼ぶと、まぶたが動いた。担当チームが現在の反応と鎮静の状態を説明し、絵里は腹部とチューブの状態を確認した。今度は、腹部の中を確かめる時間だった。沙耶は移動前に、少しだけ父親と面会した。前日に持ってきた図が、バッグの外に少しはみ出していた。彼女はポケットに手を入れかけて引っ込め、ベッドのそばに立った。「お父さん、外で待ってるからね」浩二の指が動いた。沙耶は看護師の案内に従って手を握り、移動の準備が始まると手を離した。絵里は予定どおり再開腹を行うと沙耶に伝えた。確認した状態に応じて、吻合するか、腹部を閉じるかを決める計画だった。沙耶は昨日のように、どうしてまた開けるのかとは尋ねなかった。「説明が終わったら呼んでください。遠くには行きません」俊介が手術室の前で合流した。彼は前日に印をつけた範囲をもう一度広げ、絵里は高瀬に夜間から朝までの経過を伝えた。麻酔は紗季が再び担当した。石井と確認した血流評価と、抗凝固療法の調整計画も一緒に確認した。午前10時、一時的閉腹装置を取り外し始めた。最初の手術を終えてから、41時間あまりが経過していた。保護層の下から腸管が現れた。絵里は、最初に「よくなった」とは言わなかった。初回手術の記録で印をつけた位置を探し、別の区間と取り違えていないか俊介と照合した
木曜日の午後2時、絵里は西村浩二の夜間記録を開いた。全身状態は回復する方向に向かっていた。けれど、いちばん知りたいこと――残しておいた腸が生き返ったかどうかは、記録のどこにも書かれているはずがなかった。水曜日の午後7時に引き継いだ経過のあとに、新しい記録が続いていた。尿量が減った時刻、担当チームが患者を再評価した内容、治療を調整したあとの変化。血圧が同じでも、それを支える薬の量は違っていた。浩二のベッドへ行くと、美穂が一時的閉腹装置の排液を見せてくれた。「午前中から、色や量が急に変わったことはありません。設定も密閉状態も維持できています」「新たに血性の排液が増えたことは?」「夜間の記録にもありません。ただ、明け方に尿量が減ったので、外科とICUの担当医が一緒に診ています」絵里はすでに読んだ時刻を指で追った。美穂は夜勤から引き継いだ内容に、朝から自分が確認した排液の変化を付け加えた。腹部を覆う装置の下にある、前日に残した腸の状態は見えなかった。絵里が腹部を診察する間、担当看護師は最近の循環と呼吸の変化を整理して伝えた。絵里は胃の減圧チューブの排液と固定状態も確認し、触れてはいけないチューブが患者の動きを妨げないよう位置を整えた。「これを見れば、腸が生き返ったかわかるんですか?」面会時間に来た沙耶が尋ねた。視線は父親の腹部ではなく、排液容器に向いていた。「新しい出血など、別の問題が起きていないかを見る助けにはなります。でも、残した腸そのものの状態は、これだけではわかりません」「血が減れば、よくなっているんだと思っていました」沙耶の視線が透明なチューブをたどった。
午後2時25分、西村浩二の手術が始まった。開腹すると、絵里は画像で見た範囲より広い変化を目にした。小腸は一色ではなかった。鮮紅色が残る部分の隣に灰色がかった腸管が続き、その中の短い区間はさらに暗い色をしていた。血流が減っている範囲の中でも、損傷の深さは均一ではなかった。高瀬が尋ねた。「まず何をする?」「血流を回復させるための視野を確保しながら、全体の範囲を確認します」血管外科の石井が向かい側についた。絵里と俊介は腫れた腸管を保護しながら、血管へ近づくための視野を開いた。麻酔を担当する紗季が、患者の循環状態と術前に投与した薬について伝えた。絵里は、少し前に救急外来で最後に触れた腹部を思い出した。最初より硬くなった部分があった。CTAでも、その部分の腸管壁には造影剤が十分に入っていなかった。血管内だけで治療する方法も検討したが、今は腸管を直接見る必要があった。「こちらの固定は私がします」俊介が補助器具を受け取った。同じ場所で2人の手が重ならないよう、まず立ち位置を分けた。絵里は空いたところから吸引器を入れた。腫れた腸管の下にたまっていた液体を取り除くと、血管につながる組織が見えてきた。石井が言った。「この視野を保ってください」彼が再開通の準備をする間、高瀬と絵里は残りの腸管をたどった。俊介は、どの区間をすでに確認したか短く読み上げた。先に見た腸管が混ざらないよう、手術用ドレープの上に置く向きも合わせた。境界が曖昧な部分は、予想より長かった。絵里は最も暗い部位で手を止めた。色が違うだけではない。腸管壁は正常な弾力を失い、周囲の血管の反応もほかの区間とは違っていた。「ここは回復を期待するのが難しいと思います」高瀬が直接確認した。「その前後は別々に見て。今、ひとまとめに決めないで」絵里は俊介と切除範囲を示す位置を合わせてから、手を移した。できるだけ腸を残したいという願いが、すでに壊死した部分を残す理由にはならない。だからといって、その隣の暗い腸管まで同じ結果だと決めつけることもできなかった。石井が塞栓を除去したと告げた。絵里はそちらへ顔を向けるだけにした。血管内の詰まりを取り除く段階が終わり、血流が実際に再び流れているかを確認していた。高瀬はその結果を待ちながら、腹部の視野を維持した。「血流が戻っています。末梢側の信号もあります」石
水曜日の午前10時、榊原俊介が案内された外科の業務スペースに入ってきた。画面越しに見たときより背が高かった。バッグは小さなものが1つだけで、青凪で使う入館証を手に持っていた。「藤崎先生ですか?」「藤崎絵里です」「榊原俊介です。昨日の資料、拝見しました」握手は短かった。絵里は挨拶のあと何を言えばいいか考えていたが、高瀬に呼ばれてそちらへ向かった。患者一覧はすでに広げられていた。診療支援の日程に合わせ、診療への参加手続きと引き継ぎは準備されていた。高瀬が今日一緒に診る患者と、他科への連絡体制を説明した。俊介は青凪で担当チームにつながる番号から、携帯電話に登録した。湊が最初の患者について説明し、検査結果を2度読み直した。俊介は待ってから尋ねた。「今日、その患者さんを診ましたか?」「はい。朝に」「検査表の話ではなく、そのときの話から聞かせてください」湊は、患者が夜眠れなかったという話から説明をやり直した。俊介は原因が痛みなのか、別の不快感なのかを尋ねた。絵里は担当看護師から受け取った夜間の記録を補足した。一緒に病室を回って戻ると、俊介が言った。「ここは病棟へ上がる道が短いですね」「道は短いんですが、途中で何度も呼び止められます」絵里が答えた。言い終わる前に高瀬の電話が鳴った。俊介は声を立てて笑うこともなく、自分の一覧の次の項目をめくった。昼食の直前、高瀬は予定患者の診療連携のため席を外した。絵里と俊介は急性腹症の教育に使う画像を見ていた。手術の進め方で意見が分かれ、俊介は椅子を引き寄せた。「そのアプローチから始めると、次の段階が難しくなるかもしれません」「でも、この状態なら先に確認しておきたいことがあります」絵里は画面の一部を指した。俊介が返事をしようとしたところで、救急外来から電話が入った。「67歳の男性です。突然始まった腹痛が、どんどん強くなっています。外科で評価をお願いします」時刻は午後0時40分だった。絵里は発症時刻とバイタルサイン、現在の診察所見を先に尋ねた。俊介は彼女が通話を終えるまで待ち、画像のウィンドウを閉じた。「一緒に行きましょう」***西村浩二はストレッチャーの上で横向きになっていた。目は開いていたが、絵里が自己紹介を終える前に腹部を指した。言葉より先に、短い息が漏れた。娘の沙耶は、父親の携帯電話と財







