جميع فصول : الفصل -الفصل 10

36 فصول

1話. 辞令より先に来た患者

「今、血圧はいくつだと言いました?」藤崎絵里は、キャリーケースの持ち手から手を離した。ナースステーションの前で受話器を握っていた男性が、人差し指でモニターを示した。転院搬送を知らせる画面に、患者の年齢と損傷部位が表示されている。田島達夫、52歳。港湾作業中の圧挫傷。右血胸。右の肺と胸壁の間に血がたまっている状態だった。「出発時は90を超えていたそうですが、今は70台だそうです」「胸腔ドレーンから出た量は?」「出発前に1リットルを少し超えて、その後も出続けていると」午後5時12分。初日の勤務を始めて、まだ40分もたっていなかった。外傷初療室のほうで呼び出し音が鳴った。男性は電話の向こうに到着時刻をもう一度尋ね、別の看護師が保温装置の電源を入れる。絵里は脱いであった白衣を椅子の背にかけた。「フェローの藤崎絵里です。今日からこちらで勤務します」「ああ、本院からいらした」相手の視線が、名札とキャリーケースの間を行き来した。本院からいらした。辞令を受け取ったときも、採用の書類を提出したときも聞いた言葉だった。そのあとに何が続くのか、絵里にはだいたいわかっている。上司に逆らった。事故の経緯報告書の提出を拒んだ。挙げ句、青凪にまで飛ばされた。署名欄を空けたまま報告書を返してから、2週間で派遣の辞令が出た。自分が確認してもいない事実の下に、名前を書くわけにはいかなかった。青凪に着いてみれば、噂のほうが先に来ていた。絵里はキャリーケースを見る男性の視線をやり過ごし、患者情報の画面に向き直った。「高瀬真紀先生には連絡しましたか?」「今からお電話します。患者さんが着いたら、外傷チームのコールもお願いします」「それはもうかけてあります」絵里は短くうなずき、高瀬の番号を押した。電話はすぐにつながった。「田島達夫さんの件で、私も初療室に向かいます」『救急科の佐伯遥先生が先に診てる。私も今、下りてるところ。藤崎先生は腹部の評価からお願い』「はい」『初日なんだから、器具の場所がわからなければすぐ聞いて。探して時間を使わないこと』通話を終え、絵里はスニーカーの紐を確かめた。キャリーケースをどこに置こうかと一瞬迷うと、看護師が奥を指した。「それは私が片づけておきます」「ありがとうございます」扉が開いた。ストレッチャーを押す救急隊員の袖口が濡
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2話. まず、私の判断を聞いてください

絵里は、超音波で見えた液体と、搬送後の血圧の変化を順に説明した。怜司は途中で遮らなかった。説明が終わってから、1つだけ尋ねた。「排液が急に減ったことは?」「搬送中にはありません。こちらに着いてからも出続けています」管が詰まり、外に出ていない血がさらにあるのではないか。そこを確かめる質問だった。彼は接続部と管の位置を点検し、佐伯から胸部の評価を聞いた。胸の中の出血を放っておくわけにはいかない。だからといって、そちらを解決すれば腹部の問題も消えるわけではなかった。高瀬が結論を出した。「同じ部屋で両方の準備をしよう。麻酔チームと順序を合わせて」「はい。腹部へのアプローチを妨げないように準備します」怜司が答えた。絵里は、意外だという顔を隠した。もっと長い質問を予想していたのに、もう方針が決まっていた。怜司が彼女に言った。「手術中、変化があればすぐに言ってください」「先生もお願いします」「そうします」喧嘩を売られたと思っていたのは、自分だけらしい。彼は手術室へ電話をかけながら向きを変えた。ベッドが動き始めた。絵里は廊下で、一瞬進む方向がわからなくなった。本院なら左だが、ここの手術室につながる扉は右だった。専攻医が手で示した。「こちらです」「お名前は?」「三浦湊です」「ありがとう、三浦先生」湊は手術室の前で患者情報を申し送り、必要な画像と検査結果を閲覧できるようにした。絵里は機器の配置を確かめ、高瀬の向かいに立った。麻酔科の水野紗季が、患者の頭側で手を上げた。「腹部と胸部、両方入るんですね。始める前に、予定する順序を合わせましょう」怜司が先に説明し、高瀬が腹部の方針を付け加えた。手術部位と患者の確認を終えると、それぞれのチームが位置についた。絵里は胸部側の視野を遮らないよう、補助器具の位置を変えた。「ここで大丈夫ですか?」「はい。そこなら大丈夫です」怜司の返事は短かった。気難しい人だという印象は変わらなかった。ただ、その厳しさが向くのは絵里だけではない。助手の手が術野を遮ればすぐ位置を直すよう求め、自分の腕が器具の移動を妨げると、先によけた。高瀬に呼ばれ、絵里はすぐに自分の側の術野に集中した。腹腔内にたまっていた血が現れた。吸引しても、視野はすぐまた赤く染まる。高瀬が確保した空間に沿い、絵里は圧迫を助けた。「肝臓です
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3話. 今日はここまで

次の手術にも一緒に入るよう言われ、絵里は答えた。「はい」返事をすると、圧迫を保っている手に再び力が入った。今日残しておく部分を、次の手術でも自分の目で見る。絵里は高瀬の側へ視野を開いた。高瀬は、今すぐ抑えなければならない出血をもう一度調べた。絵里は損傷部位が隠れないように補助した。ほかの損傷を見落とさないための確認も、必要な範囲で続いた。方針が決まってからの動きは、むしろいっそう厳密になった。腹腔内に残す圧迫用ガーゼの枚数が、声に出して確認された。6枚。手術中に使用して回収したものと、意図して残すものを分けて記録した。絵里が位置を整理して伝えると、外回りの看護師が復唱した。「6枚、間違いありません」臓器を保護し、一時的な閉鎖装置を接続する間も、高瀬は紗季と患者の反応を確かめ続けた。今日、腹部を完全には閉じない理由。次に確認すべき部分。集中治療室(ICU)で観察すること。それぞれが、1つずつ明確になっていった。絵里は、本院で学んだダメージコントロール手術という言葉を思い浮かべた。概念は知っていたし、実際にその手術にも参加したことがあった。だが、自分で止める時点を提案し、その先の治療まで説明する立場になると、重さが違った。胸部側を終えた怜司が、覆布から手を離した。「ドレーンは留置して、ICUでも経過を一緒に見ます」高瀬がうなずいた。「腹部の方針も共有するね」怜司は周囲の器具が片づけられるのを確かめ、先に手術台から下がった。絵里は、彼が手術中、一度も声を荒らげなかったことに遅れて気づいた。毒舌だという噂は聞いていた。同じ研究会に出た同僚は、彼を手術室の死神と呼んだ。発表者をとことん追い詰めるから、気をつけろとも言っていた。今日の怜司は患者の状態を尋ね、答えを聞けばすぐ次の仕事に移った。自分の側に変化があれば、絵里が聞くより先に知らせた。それを認めたからといって、研究会で味わった不快感まで消えるわけではなかった。「藤崎先生」高瀬の声で、考えが途切れた。「申し送りで落としてはいけないことから、整理して」「肝損傷部に圧迫用ガーゼを6枚残し、一時的閉腹の状態です。出血と排液の変化を確認する必要があって……」絵里が項目を続けると、高瀬は不十分なところだけを指摘した。現在の検査結果だけでなく、どちらへ変化しているのかも伝えるように、という
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4話. 手術室の外で流れる時間

絵里は当直表を確認し、小野寺に説明した。「今夜は高瀬先生と私が診ます。胸部のことは一条先生に連絡を。朝は久世直樹先生のチームに引き継ぎます」「同時に別の手術に入った場合は?」絵里はもう一度表を見た。小野寺は急かさなかった。「私が救急に下りていたら、こちらの判断が遅れるかもしれませんね。その場合は、当直の専門医へ直接つながるように確認します」「連絡の順番は、はっきりさせておかないと。この方は、折り返しを待てないかもしれませんから」愛想のいい言い方ではなかった。けれど、間違ってもいなかった。絵里は外傷チームの連絡体制を確かめ、自分の呼び出し端末と当直の連絡先が正しく登録されているか、実際に電話をかけてみた。本院で使っていた短縮番号を、うっかり押しかけた。病院が変われば、こんなことから覚え直さなければならない。田島達夫の体は、まだ冷たかった。保温と輸血を続け、繰り返す検査の結果を見ながら治療が進められた。人工呼吸器が息を送り、管を通して体の外へ出てくるものは、それぞれ別に記録された。絵里がカルテに数値を記そうとすると、小野寺が声をかけた。「その値は、直近の輸血の直後に測ったものです」「その前の記録は?」「こちらも一緒に見てください」彼女が直前の記録を指した。輸血や処置をした時刻も記されていた。今の血圧だけなら少しよく見える。けれど、どんな支えを受けて維持しているのかまで見なければならなかった。絵里は自分のメモの脇に、時刻を書き添えた。小野寺はそれ以上何も言わず、別のベッドへ向かった。午後11時が近づいたころ、尿量が十分に増えていないとの報告が入った。絵里はそれまでの経過と輸血の状況を確かめ直し、患者のもとへ行った。高瀬も一緒に状態を確認した。今すぐ何を追加で入れるかだけを決めればいいわけではなかった。出血が続いているのか。循環はどう維持されているのか。腹部の張り方はどうか。それぞれ見る必要があった。「腹部の排液は最初より減っています。胸腔ドレーンも、急に増えてはいません」夜勤の看護師が記録を見せた。小野寺は夕方からの勤務を終えるときに、観察した内容をこの看護師へ引き継いでいた。高瀬は患者を診察したあと、絵里に推移を整理させた。1回の結果でよくなったとも、すぐ悪くなったとも決めつけられない時間が続いた。検査を待つ間も患者を見た。
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5話. お隣です

職員寮は、病院の裏手の坂の上にあった。地図には徒歩7分と出ていたが、キャリーケースを引いて上るとなれば話は別だった。最後の階段の前で持ち手を離し、絵里は少し息を整えた。入居案内には、エレベーターがないとは書いてなかった。キャリーケースを1段ずつ引き上げた。これから6か月、出勤するたび、帰るたびに通る道だった。301号室の扉を開けると、小さいが清潔な部屋が現れた。ベッドと机、クローゼット。玄関の内側には専用の浴室もある。窓の向こうに病院の建物の側面が見えた。絵里はまず靴を脱いだ。東京のワンルームでは、机に向かうとベッドの角がふくらはぎに当たった。ここなら椅子を後ろに引ける。それだけでも、第一印象は悪くなかった。キャリーケースを横にした。服を何着か出して洗面用具を浴室に置き、持ってきた枕カバーに替えた。あとは起きてからでいい。そう思った途端、お腹が鳴った。サンドイッチを食べてから、もう何時間もたっていた。寝る前に少し何か食べたほうがいい。そう思って、もう一度扉を開けた。廊下の端の共用キッチンには、冷蔵庫が2台と電子レンジ、小さな食卓があった。食器棚には、区画を分けるシールが貼られている。絵里は入居案内で、自分の部屋に割り当てられた収納を確かめた。空っぽだった。当たり前だ。昨日の夜ここへ来て荷物をほどく予定が、先に手術室へ行ったのだから。バッグからパックご飯とカップ味噌汁を取り出した。ご飯をレンジに入れ、スタートボタンを押す。画面にロックの表示が出た。もう一度押しても、反応はなかった。「それは長押しです」背後から聞こえた声に、絵里は振り返った。一条怜司が、水のボトルを持って立っていた。病院で見たスクラブではなく、グレーのTシャツにゆったりしたパンツ。マスクも白衣もないのに、表情はあまり変わらない。絵里の指が、ボタンの上で止まった。「どうして、ここにいるんですか?」「住んでます」「この建物に?」「302号室です」絵里は自分が出てきたほうを見た。自分の扉の、すぐ隣だった。「部屋の割り当ては、確認しなかったんですか?」「自分の部屋は確認しました。隣に誰が住んでるかまでは聞いてません」「じゃあ、今わかりましたね」怜司は冷蔵庫からおかずの容器を取り出した。絵里は教えられたとおりボタンを長押しし、ご飯を温めた。眠気が飛んだ気が
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6話. いちばん平気そうな人

相沢美咲は通話を終え、携帯を伏せた。「最初は、ここだけが痛かったんです」シートベルトの跡が残る下腹部を指した。絵里は、まず話を聞いてから診察すると伝えた。「今はどうですか?」「ずっと同じところだと思ってたんですけど、横になってると脇も引っ張られる感じがします。あざって、そういうものですよね?」「あざで痛むこともあります。ほかの変化がないかも確認しますね」ベッドのカーテンを閉め、必要な分だけ毛布をめくった。絵里は痛む場所を避けたところから、ゆっくり診た。初回の評価は記録で読んでいるが、今、指先で感じる状態も別に覚えた。美咲の息が短くなった。「そこ、前より痛いです」「先ほどより?」「はい。さっきまでは、押されると痛いくらいだったんですけど」絵里は診察を終えて毛布を戻した。今すぐ手術室へ向かうほど明確な所見には、まだ至っていない。けれど、最初とは変わってきているという訴えも無視できなかった。カルテに記された最初のCTの時刻は、午前9時50分。今は午後4時を少し過ぎていた。画像上、主要な臓器には明らかな損傷はなかった。ただ、腸を支え、血管が通る腸間膜の周囲に軽度の変化と少量の液体があり、経過観察が必要との所見が残っていた。下腹部のシートベルト痕も、最初から記録されている。だから美咲は帰宅せず、ここに残っていた。「事故のときは、運転席にいたんですか?」「はい。前の車が急に止まって、私も止まったら、後ろから追突されました」作業場へ運ぶはずだった段ボール箱が、車内に散乱したという。自分で車から歩いて出て、救急隊員にも歩けると伝えたそうだ。「一緒に来たおじいさんは、すぐ処置室に入ったのに、私はこうして待っていられるから、大丈夫なんだと思ってました」絵里は椅子を近づけた。「最初の時点で、緊急に手術する根拠がなかったのは確かです。ただ、待つ間も改めて状態を確認する必要があるので、経過を見ていたんです」「じゃあ、まだわからないんですか?」「今、もう少し確認しなければいけないことがあります」美咲は伏せていた携帯を手に取った。画面にはいくつもメッセージが並んでいた。絵里が少し身を引くと、美咲は慌てて画面を消した。「すみません。小さな印刷店をやっていて、今日が納期のものがあって」「連絡はしていただいて大丈夫です。ただ、体の様子が変わったら、通
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7話. 朝とは違う画像

検査室へ向かう間、美咲は携帯を手にしていなかった。看護師が状態を確認しながら、ベッド脇について歩いた。絵里は出発直前にもう一度患者を診て、変化があればすぐ知らせてほしいと伝えた。今は血圧と意識が保たれており、再撮影を進められる状態だった。久世は検査室と直接連絡を取った。「藤崎先生は結果を見たら、すぐ相談してください。高瀬先生にも、ここまでのことは伝えてあります」「はい」久世はほかの患者の診療を終えに行った。絵里は美咲の初回診察の記録の横に、今痛がった範囲を書いた。脈拍が変化した時刻と鎮痛薬を投与した時刻も並べ、新しい画像が届く画面を開いておいた。湊がモニターの横に紙を置いた。「使った薬と反応をまとめました。痛みはいったん軽くなって、その後また強くなっています」「ありがとう」「最初から手術が必要だった、というわけではないんですよね?」湊は持ってきた記録に目を落とした。見落とした変化はなかったか、最初の診察からたどっていた。「最初の画像には、腸に穴が開いたとわかる所見や、大きな出血はありませんでした。診察の所見も今とは違います」「こういう場合は、いつまで経過を見るんですか?」「時間だけでは決められないでしょうね。だから、患者さんを診続けるんです」湊はうなずいたが、顔にはまだ不安が残っていた。絵里は少し言い方を変えた。「今みたいに、新しく変わったことを見つけたら教えてください。それを間に合うように伝えるだけでも、次の判断は変わります」湊がメモを読み返した。絵里はその紙を返さず、自分の記録の隣に置いた。午後4時40分、検査が終わったと連絡が入った。新しい画像が表示される間、絵里は放射線科へ再び電話をつないだ。応答した黒田修一教授も、2回分の検査を並べて開いていた。「午前より、腹腔内の液体が増えています」彼が先に言った。絵里は同じ位置まで画像を動かした。腸の間にある液体が、前よりはっきりしていた。「こちらの腸間膜も、変化が強くなっていますね」「はい。それから、この区間の腸壁を見てください」黒田が位置を示した。周囲の腸と違い、造影される様子がよくなかった。絵里は前の画像と交互に見た。「腸間膜損傷による血流障害を疑います。ただ、画像だけで生きている範囲までは断定できません」「活動性の出血については?」「今目立つのは、そちら
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8話. 残すべきもの

画面に映る腹腔内には、液体がたまっていた。美咲の血圧と呼吸が維持されているのを確認し、チームは小さな切開からカメラを入れる腹腔鏡で、まず中を調べた。絵里は高瀬とともに腸の状態を見た。画像で異常が疑われたあたりへ近づくと、周囲とは色の違う区間があった。腸を腹腔内で支えている腸間膜に、損傷があった。そこから血液を受け取る小腸の一部が、本来の色を失っていた。絵里は、すぐに切るべきだとは言わなかった。腸のどこまで影響が及んでいるか、周囲にほかの損傷がないか、確認が必要だった。高瀬が画面を見ながら尋ねた。「どこから見る?」「全体を確認しながら、まず損傷の範囲をつかみます」絵里はカメラの向きを調整した。湊が助手の位置で指示を待っている。初日の手術では自分がついていくだけで精いっぱいだった絵里が、今日はほかの人に、何が必要かを伝えなければならなかった。「三浦先生、そちらを少し」湊の手が止まった。どちらへ動かせばいいのか、わからないようだった。絵里はすぐに言い直した。「今より少し左へ動かしてください。見たいところが隠れています」「はい」視野が整った。高瀬はそのやり取りに口を挟まなかった。代わりに、絵里が見落としそうな部分を示した。2人は腸間膜の損傷周囲を評価し、必要な処置のため、切開を広げてアプローチすることにした。開腹へ切り替える理由をチームで共有すると、準備が変わった。方針が変わっても、手術室が慌てることはなかった。麻酔チームは患者の状態を伝え、器械担当のスタッフは次に必要なものを用意した。損傷部位を直接見ると、状態がいっそうはっきりした。絵里が疑っていた部分は、残せる状態ではなかった。損傷は思ったより深く、一部には腸壁が持ちこたえられずにできた小さな穴もあった。周囲の汚染を抑え、生きていない部分を処置しなければならなかった。絵里は、午前の画像では確定できなかった部分と、今見える損傷を頭の中で照らし合わせた。外からは、小さなあざしか見えなかった。美咲は自分の足で車から出て、数時間前まで店に送るファイルを探していた。その第一印象を今の損傷に重ねれば、判断が遅れかねなかった。「高瀬先生、この区間は切除が必要だと思います」「両端は?」問われて、絵里は改めて見た。悪い部分だけを取り除けば終わる手術ではなかった。残す腸が持ちこたえられるか、つ
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9話. 先に呼んだ名前

絵里が手術記録を仕上げる間、三浦湊は1行を消した。『初回CTでは特記すべき所見を認めなかったが』午前の読影レポートを開き直した。腸間膜周囲の変化と、少量の腹腔内液体が記されている。手術に至る前から、残されていた疑いだった。湊が文章を直した。「観察中に症状と画像所見が変化し、手術に至った経過として書きました」絵里は修正された文を読んだ。同じ手術でも、始まりをどう書くかによって、それまでの医療者が何も見ていなかったような記録になってしまう。「それが実際の経過に合っています。自分で気づいて直したんですね」自分の記録にも、日中の観察と他科の意見を入れた。最後に手術した人だけが残れば、患者が手術室に来るまでの判断が消えてしまう。高瀬が書類を確認し、必要なところを加えた。それから湊に尋ねた。「次に似た患者さんが来たら?」湊の姿勢が硬くなった。「初回の画像で大きな損傷がなくても、症状の変化を続けて確認します」「それから?」「変化があれば、待たずに報告します」高瀬はうなずいた。「時間がたってから痛いと言っているのに、鎮痛薬が効いたかだけで済ませないこと。患者さんも診て」湊はその言葉を書いた。緊張しながらでも、質問を避けずにいることが、絵里にはありがたかった。今日一度学んだからといって、明日からすべての判断が簡単になるわけではない。午後8時を少し過ぎ、美咲が回復室から病棟へ移った。絵里は病棟で、患者の状態と術後の方針が正しく伝わっているか確認した。佳織がベッドのそばに小さなバッグを置いて座っていた。美咲は目を開けていたが、長く話すには疲れているようだった。「お腹の具合はいかがですか?」「手術したところが痛いです。さっきみたいに、中がひどく痛いのとは少し違います」絵里は痛みやほかの不快感を確認し、担当看護師と治療計画をすり合わせた。熱はないか。痛みがどう変わるか。回復の過程で何を見るかを、短く説明した。美咲は今度は、携帯を探さなかった。代わりに姉に尋ねた。「長谷川さん、何て?」「無事に出せたって。最初からメールを見てって言ってくれたら、あんなに迷わなかったのにって」美咲の口元が少し動いた。「そんなこと、お姉ちゃんに言ったの?」「私が聞いたの。何からすればいいのって」立ち去りかけた絵里は、その短いやり取りを聞いた。店の仕事がどう
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10話. もう一度、入ります

水曜の朝、絵里はアラームが鳴る前に目を覚ました。携帯に新しい呼び出しはなかった。今日ガーゼを取り出す田島達夫の名前を思い浮かべ、ベッドを出た。昨夜より体は軽かったが、最初のガーゼを外す瞬間が、何度も先に浮かんだ。病院に着くと、まず美咲の経過を確認した。夜間に、手術の方針を改めて変えるような大きな変化はなかった。美咲は看護師に手伝ってもらいながら姿勢を変え、顔をしかめていた。「強く引っ張られますか?」「もう、動きたくないです」絵里は鎮痛の状況と現在の状態を確かめ、動くときは手を借りるように伝えた。佳織がベッドのそばで、必要なものを整えていた。美咲が携帯を指した。「今日は、姉が持ってます」「任せられてよかったですね」「ロックまでかけられました。私のなのに」絵里は小さく笑った。冗談を言えることがうれしかった。それだけで回復をすべて評価することはできないが、少なくとも昨日、手術室へ向かったときとは違う顔だった。必要なことを確かめ、ICUへ向かった。達夫はまだ人工呼吸器の補助を受けていた。胸腔ドレーンも、腹部の一時的な閉鎖装置もそのままだった。体温と検査結果、出血の推移を、夜間の担当チームと一緒に確認した。小野寺が午前の勤務に戻っていた。「今日、再手術ですね?」「はい。高瀬先生と最終確認をしています」小野寺は以前のメモと現在の記録を並べた。2日前からどんな変化があったかを、短く示してくれた。絵里は必要な部分を書き留め、手術室に伝える内容をまとめた。怜司も胸部を再評価した。今すぐ胸部を再手術すべき所見はなかった。高瀬と方針を合わせてから、絵里に言った。「胸部は引き続き経過を見ます。腹部の手術中に呼吸状態が変わったら、連絡してください」「わかりました」絵里は胸部の方針を申し送りの項目に加えた。それぞれが担当する範囲が明確になると、腹部の再手術の準備に集中できた。面会を許された短い時間、和枝が夫のそばに立った。靴のかかとは、昨夜よりきちんと履かれていた。ハンドバッグの代わりに、小さな布のバッグを持っていた。「あなた、私、ここにいるからね」夫の手の甲を一度なでた。医療者が搬送の準備を始めると、先によけた。「いってらっしゃい」患者に向けた言葉だったが、絵里も答えた。「いってきます」***午前9時、再手術を始めた。最初の手術を終
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