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6話. いちばん平気そうな人

Author: 6jay
last update publish date: 2026-10-21 19:38:45

相沢美咲は通話を終え、携帯を伏せた。

「最初は、ここだけが痛かったんです」

シートベルトの跡が残る下腹部を指した。絵里は、まず話を聞いてから診察すると伝えた。

「今はどうですか?」

「ずっと同じところだと思ってたんですけど、横になってると脇も引っ張られる感じがします。あざって、そういうものですよね?」

「あざで痛むこともあります。ほかの変化がないかも確認しますね」

ベッドのカーテンを閉め、必要な分だけ毛布をめくった。絵里は痛む場所を避けたところから、ゆっくり診た。初回の評価は記録で読んでいるが、今、指先で感じる状態も別に覚えた。

美咲の息が短くなった。

「そこ、前より痛いです」

「先ほどより?」

「はい。さっきまでは、押されると痛いくらいだったんですけど」

絵里は診察を終えて毛布を戻した。今すぐ手術室へ向かうほど明確な所見には、まだ至っていない。けれど、最初とは変わってきているという訴えも無視できなかった。

カルテに記された最初のCTの時刻は、午前9時50分。今は午後4時を少し過ぎていた。

画像上、主要な臓器には明らかな損傷はなかった。ただ、腸を支え、血管が通る腸間膜の周囲に軽度の変化と少量の液体があり、経過観察が必要との所見が残っていた。下腹部のシートベルト痕も、最初から記録されている。

だから美咲は帰宅せず、ここに残っていた。

「事故のときは、運転席にいたんですか?」

「はい。前の車が急に止まって、私も止まったら、後ろから追突されました」

作業場へ運ぶはずだった段ボール箱が、車内に散乱したという。自分で車から歩いて出て、救急隊員にも歩けると伝えたそうだ。

「一緒に来たおじいさんは、すぐ処置室に入ったのに、私はこうして待っていられるから、大丈夫なんだと思ってました」

絵里は椅子を近づけた。

「最初の時点で、緊急に手術する根拠がなかったのは確かです。ただ、待つ間も改めて状態を確認する必要があるので、経過を見ていたんです」

「じゃあ、まだわからないんですか?」

「今、もう少し確認しなければいけないことがあります」

美咲は伏せていた携帯を手に取った。画面にはいくつもメッセージが並んでいた。絵里が少し身を引くと、美咲は慌てて画面を消した。

「すみません。小さな印刷店をやっていて、今日が納期のものがあって」

「連絡はしていただいて大丈夫です。ただ、体の様子が変わったら、通話中でも教えてください」

「スタッフを1人、店に残してきたんです。こんな日に限って注文が重なって」

絵里はすぐに退院の予定を立てるのは難しいと説明し、確認が済むまでは飲食を控えるよう伝えた。痛みや吐き気も、医療者に知らせてほしいと話した。痛みを我慢しなければ、検査が正しくできないわけではない。

美咲は水のボトルを置いた。

「本当に、思ったほどひどいけがじゃないんですけど」

絵里は否定する代わりに、尋ねた。

「ひどくないと思うのは、歩けたからですか?」

「それもありますし、血も出てないし」

毛布の上に出た手には、小さな擦り傷しかなかった。

「でも、お腹の中のことは、外から全部は見えません。どう変わっているのか、もう少し見ていく必要があります」

美咲はしぶしぶうなずいた。絵里は時刻を記し、カーテンの外へ出た。

久世が待っていた。

「どうですか?」

「最初の記録より圧痛の範囲が広がっています。脈も朝より速くなっています。血圧は維持されています」

「鎮痛薬は?」

「投与時刻と、そのあとの反応まで確認します」

久世は日中の変化と、最後に診察したときの状態を説明した。一時的に痛みが軽く見えたときもあったが、帰宅させなかった理由があった。

絵里はその経過を、たった今確認した所見とつなげて読んだ。

「もう一度一緒に診て、再撮影するか決めましょう」

久世が言った。

2人が患者へ向かおうとしたところで、別のベッドから呼び出しがあった。手首の骨折患者について、他科の診察予定が決まったという連絡だった。三浦湊が2台の電話機の間で目を動かした。

「整形外科に確認してきます」

そう言った彼を、絵里が呼び止めた。

「三浦先生、相沢さんの初回の画像を開いておいてもらえますか?」

「はい。異常のなかった画像ですよね?」

絵里はカルテを指した。

「読影レポートを最後まで読んでください」

画面の下を示した。

「異常なしとは、書いてありません」

湊の視線が下がった。彼はレポートの残りを読んだ。

「大きな臓器損傷はないけど、腸間膜の周囲には変化がある、ということですね」

「それがあるから、経過を見ていたんです」

絵里は声を落とした。患者に聞こえる距離で、後輩を追い詰める気はなかった。

「異常なし、とまとめてしまうと、その後の変化も見えにくくなります。どんな疑いが残っていたのか、一緒に見てください」

「わかりました」

湊は画像を開き、最初の検査結果を隣に表示した。絵里は頼んだことをもう一度確認しかけて、やめた。必要な画面は、もう正しく並んでいた。

美咲は再び電話をしていた。

「封筒に入れる前なら大丈夫です。1枚目だけ、もう一度印刷してください」

医師たちが近づくと、少し待ってほしいと手で示した。久世はベッドのそばで待ちながら、美咲の顔を見ていた。通話が終わると、今の状態をもう一度診ると説明した。

診察のあと、2人は追加の評価が必要だと一致した。1つの検査ですべてが決まるわけではないが、時間がたって生じた変化を確かめる助けになる状況だった。

絵里が放射線科へ連絡した。初回画像と現在の所見を整理して伝えると、担当医は一緒に画像を見ると答えた。血管や組織をよりはっきり映す造影剤を使う検査に必要な確認も、改めて行った。

美咲の表情が変わった。

「朝やったのを、もう一度ですか?」

「はい。症状が変わっていますし、最初の検査でも、見ていくべき部分がありました」

「あのとき、見つけられなかったってことなら……」

美咲は言い切れなかった。質問になるより先に、不安が顔に出ていた。

絵里は再び椅子に座った。

「最初の検査では、その場で手術が必要な損傷ははっきりしていませんでした。ただ、それは時間がたっても変わらないという意味ではないので、経過を見ていたんです」

「私が動いたから、悪くなったんじゃないですよね?」

「今確認できていることからは、そう考える理由はありません」

美咲は脇に畳んであったバッグの持ち手をいじった。

「さっきスタッフに、紙だけ持ってきてほしいって言われて。少し出ようかなと思ったんです。行ってはいないんですけど」

「ここにいてくださったから、変化をすぐ確認できました」

今は外出や退院を考えるより、評価を終えることが先だと絵里は伝えた。美咲がバッグを枕元へ押しやった。

代わりに携帯で番号を選んだ。

「長谷川さん、今日は私、戻れそうにありません」

さっきより、声が低かった。

「最終ファイルはメールにあります。パスワードはもう一度送りますね」

絵里が少し離れて立つ間、美咲はスタッフに仕事を引き継いだ。何から処理するか。わからないことがあったら誰に連絡するか。順に説明していた。

電話が終わると、絵里は連絡のつく家族がいるか尋ねた。

「姉です。朝は、車がちょっと壊れただけって言いました」

「検査のあとで治療方針が変わる可能性もあるので、連絡しておいたほうがいいと思います。必要なら、私からも一緒に説明します」

美咲は姉の番号を探しかけて、メッセージ画面を開いた。数文字打っては消した。

「車より私のほうが、もう少し診てもらわないといけないみたいって、送りました」

携帯を置いた。絵里は必要なとき連絡できるよう番号を確認し、詳しい説明は美咲の同意を得て行うことにした。

メッセージを送ったあと、美咲は姉に電話をかけた。その間、絵里は検査の準備を進めながら待った。

朝、申し送りを終えても、自分が残ると言いかけたことを思い出した。

美咲が電話を終えた。

「もう大丈夫です」

携帯をバッグに入れようとして、動きが止まった。少し腕を伸ばしただけで、顔がゆがんだ。

絵里はすぐ近づいた。

「今、どんなふうに痛みました?」

「動いたら……」

美咲の手が、下腹部の真ん中から横へ移った。それまで保っていた姿勢も崩れ、背中を預けてゆっくり息をした。

絵里は改めて状態を見た。血圧は維持されている。だが、痛みの範囲は広がり、脈も速くなっていた。検査が終わるまで、そのままにしておける状況ではなかった。

呼び出しを受けた久世が戻った。絵里は変わった点だけを短く伝えた。

彼は患者を再確認して、うなずいた。

「すぐ検査を進めましょう。その間に手術の可能性にも備えて。移動中も状態を確認してください」

美咲が指先で、絵里の袖をつかんだ。

「先生」

「はい」

「私、さっきみたいに大丈夫じゃ、なくなった気がします」

絵里はその手が離れるまで、少しだけ動かずにいた。

「言ってくださってよかったです。私も、そう見ています」

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