和真の顔色が一瞬で真っ青になった。翔太は瞬時に取り乱し、前に出て娘を引っ張ろうとした。「お前、どこの子だよ!ちゃんと見たのか?勝手にママって呼ぶな!この人は僕のママだ!」娘はすぐに私の胸に飛び込み、首にしがみついて叫んだ。「ママ、この人たち誰なの?」私は慌てて翔太の手を払い、怯えている娘を優しくあやした。翔太はバランスを崩して、そのまま地面に尻もちをついてしまったが、そのことにはまったく気づかなかった。「大丈夫よ、怖くない。あの人たちはママの知り合いなの」私の言葉を聞いた娘は、幼い声で彼らに挨拶した。「こんにちは、おじさん、お兄ちゃん」翔太は呆然と地べたに座り込み、私が娘を優しくあやす姿を見て、怒りで顔を真っ赤にした。「ママが、他の子のために僕を突き飛ばした!?昔のママは、僕しか見てなかったのに!全部、こいつのせいだ!」彼は娘を指差して、体を震わせながら叫んだ。「この泥棒!僕のママを奪いやがって!」私は眉をひそめ、娘を抱きしめて翔太から守るように身構えた。「あなたが病気だってことはわかってる。でも、彼女はあなたの妹。私の娘なの」翔太の目から、堪えきれなかった涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。「嘘だ……ママは僕だけのママだったのに……」和真は、傍で打ちひしがれている翔太には目もくれず、私の手首をガシッと掴んだ。「結菜、君、俺たちを騙してるんだろ?俺は君の性格、よく知ってるんだ!俺のこと、あんなに愛してたのに、他の男と子どもなんて作るわけない!」私はその言葉に思わず嗤ってしまった。和真は無理に落ち着こうとして、震える手で娘の頬に触れようとした。「かわいいな……でも、全然君に似てない。やっぱりこの子、養子だろ?ごめんな、さっきのお兄ちゃん、ちょっと勘違いしてたんだ。君のママと一緒にうちに帰ろう、パパもちゃんと君を大事にしてあげるから」娘は嫌そうに顔をしかめ、礼儀正しく、でも距離をとってその手を避けた。「ママ、私はママの実の子だよね。このおじさん、変だよ。私にはちゃんとパパがいるのに、なんでこの人がパパになるの?」和真はふらりとよろけた。今まで見たことのないほど取り乱した姿だった。私は娘の頭を撫でながら聞いた。「パパはどこにいるの?」「さっき、パパと一緒にママを迎えに行った
私が考えを巡らせていると、和真が一歩踏み出し、私をぐいっと抱きしめた。「結菜、帰ってきてくれたんだな!やっぱり俺と翔太を見捨てられなかったんだな!帰ってきてくれてよかった、これでまた家族三人で……」彼の言葉が終わる前に、私は冷たく彼を突き放した。「藤田さん、勘違いしないでください。私は息子さんの担当になった心理カウンセラーです。私たちの関係は、医者と患者家族、それだけです」「息子さん……?」和真の瞳に、翔太と同じ絶望が浮かぶ。彼は崩れ落ちそうな表情で私を見つめ、目は真っ赤に染まっていた。「結菜、まさか翔太まで捨てるつもりか?俺、ずっと翔太に言ってたんだよ。君は落ち着いたらきっと戻ってくるって。戻ってきたら、全部元通りになるって……!」私は一瞬戸惑い、思わず翔太の方を見た。案の定、和真の登場と私たちの会話で、翔太の表情は目に見えて悪化していた。私は眉をひそめ、強引に和真を病室の外へ連れ出した。それでも和真の目には、かすかな希望の光が宿っていた。「ほら、やっぱり俺たちのこと、気にしてるんだろ?翔太を治したいって思ってるんだろ?まだ俺たちのこと、心のどこかで……」私は彼を見つめた。まるで通りすがりの他人を見るような冷ややかな目で。「治したいと思うのは、私が医者だからです。彼の状態は深刻ですし、過去の関係を踏まえると、私が担当するのは適切ではありません」私は名刺を差し出した。「これは私の師匠の連絡先です。もっと専門的な支援を受けたほうがいいと思います。息子さんの病状と向き合ってください」「嫌だ!誰にも頼らない!」彼は私の手を掴み、そのままドサッと膝をついて土下座した。「結菜、お願いだ……俺と一緒に帰ってくれ。愛してるんだ!翔太も、俺も……君がいなきゃ本当に生きていけない……怒らないでくれ、あの花音って女に騙されてただけなんだ!あいつ、病気ですらなかったんだよ!」私は一瞬、戸惑った。だが、すぐに心は静かさを取り戻した。私は彼を見下ろし、淡々とした口調で言った。「藤田さん、もう私たちの間には何の関係もありません。過去ではなく、今を見てください。そして、息子さんの病気とちゃんと向き合って。あなたが現実から逃げ続けるたびに、翔太に重圧がのしかかって、症状が悪化するだけです。きちんとした治
見知らぬ異国の地――私は今、そこで新たな人生を歩み始めていた。妊娠する前、私は教育心理学を学んでいた。家庭の事情で中断していたその学業を、新しい環境で再び手に取ることにした。キャンパスにいると、まるで五年前に戻ったかのような錯覚に陥る。あの頃の私は、まだマフィアのボス・和真とも出会っていなかった。翔太も、まだこの世に生まれていなかった。私が愛していたのは自分自身だけで、成績も優秀、やりたいことは何でもできると信じていた。自由で美しいこの新天地で、私は少しずつ過去を忘れ、現地で子ども心理学者として働くようになった。そして、愛してくれる夫と三歳の娘と共に、新しい家庭を築いた。もう過去とは完全に決別したつもりだった。まさか、五年後に再び藤田家の父子と再会することになるとは、夢にも思わなかった。ある日、同業者に頼まれて厄介な案件を引き受け、その仕事のために私はかつて最も馴染みのあった街へ戻ってきた。街並みは以前と変わらないようでいて、どこか違って見えた。私は寄り道もせず、まっすぐ依頼をくれた同業者の診療室へ向かった。そこにいるのは、話すことさえできないほど重度のうつ症状を抱える子どもだという。診療室の扉を開けた瞬間、私はその場に立ち尽くした。顔を上げて私と目を合わせたその子も、同じように固まったようだった。彼の目は、あの人――和真とそっくりな冷たい光を宿していたが、その目が一瞬で涙に満たされた。「……ママ?」十歳になった翔太が、震える体で、泣きそうな声を必死に堪えながら、何年も口を開かなかった彼が初めて発した言葉だった。私は思わず眉をひそめた。翔太が、あの重度のうつ病の子どもだったとは……言葉を失っただけでなく、極度に痩せ細り、声を出す力さえ残っていないほどだった。こんなにも深刻な症状の子どもには、私も初めて出会った。子どものうつの原因は、その多くが家庭環境にある。私は思わず和真の居場所を尋ねかけたが、すぐに我に返った。離婚届にサインし、海外へ渡ると決めたあの日から、私はもう彼ら親子とは無関係な存在なのだ。そのとき、診療室のドアの外から足音と怒鳴り声が聞こえてきた。私は様子を見に行こうと体を動かしかけた。しかし、その瞬間、椅子に座っていた翔太が急に立ち上がり、私の腕をぎゅ
しかし、まだ幼い翔太には今の状況が理解できなかった。私が彼を置いて出でいったと聞いた瞬間、「うわぁぁぁん!」と大声で泣き出し、恐怖に怯えたように叫んだ。「イヤだ!ママは!?ママに会いたい!」その泣き叫ぶ声は、ただでさえ落ち込んでいた和真をさらに混乱させ、どうしていいか分からなくさせた。普段、和真は子どもと遊ぶだけで、翔太の世話をまともにしたことなど一度もなかった。仕方なく、翔太をずっと抱きしめたまま、彼が泣き疲れて眠りに落ちるまで付き添った。だが、夜中になると突然翔太が目を覚まし、また母親を探して泣き叫び始めた。和真は翔太を胸元に抱き寄せて、背中を優しくポンポンと叩きながら慰めた。「大丈夫、大丈夫だよ。ママは戻ってくるよ。ママは俺たちのことが一番大事なんだから、きっと戻ってくるよ」しかし、翔太にはその言葉は何一つ届かなかった。涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、ひたすら泣き叫び続ける。「ママがいい!ママに会いたいよ!」いつもは賢くて聞き分けのいい息子が、全く言うことを聞かず、食事も取らず、眠ろうともしない小さなモンスターと化し、和真は完全にお手上げ状態だった。ついには、花音に助けを求めるしかなかった。電話を受けた花音は、これまでの病弱な様子を一変させ、あっという間に別荘へとやって来た。半分空になった家の中を見渡しながら、彼女の唇の端がわずかに吊り上がる。だが、それも一瞬で消え、あたかも悲しそうな顔を作りながら、泣き止まない翔太を抱きしめた。「翔太、いい子ね。泣かないで。ママがいなくなっても、花音ママがいるから」だが、その言葉はまるで逆効果で、翔太はさらに激しく泣き出した。「うぅ……ママ、もう翔太のこといらないの?」「大丈夫!花音ママがずっとそばにいるからね!たとえ、ママとパパが離婚しても……」その一言に、和真はまるでスイッチが入ったように激昂し、花音に怒鳴りつけた。「お前、何を勝手に言ってるんだ!結菜は戻ってくる!俺たちは離婚なんてしない!」その怒りに圧倒されたのか、花音はビクッと肩をすくめ、震える指でダイニングテーブルを指差した。「で、でも……あそこに置いてあるの、離婚届じゃないの?私、さっき家に入ってすぐ見えたんだけど……」和真の動きがピタリと止まった。そのとき初めて
和真は病院で花音のそばに一日中付き添い、夜になってようやく家に戻ってきた。最初のうちは、私がいないことに気づかなかった。玄関のドアを開けた彼は、ゲームに夢中になりながらアイスクリームを頬張っている翔太を見て、少し驚いた程度だった。普段の私なら、翔太のお腹のことを心配して、夕飯代わりにアイスを食べさせるなんて絶対に許さなかったからだ。「翔太、ママは?」「出かけたみたいだよ」翔太はゲーム画面から目を離さず、適当に答えた。ママが今日みたいにずっと構ってくれない方が、翔太にとってはむしろ都合が良かった。だって、パパも花音ママも、ママみたいに口うるさくないから。だけど、和真は眉をひそめた。「結菜が子どもを放っておくなんて、珍しいな……」そう小さく呟いて、「きっと、花音に付き添いすぎて、また嫉妬して怒ったんだろうな」と苦笑しながら、スマホを取り出そうとした。そのとき、視線がテーブルの上に置かれた黒いカードに止まった。それは、和真が私に渡した家族用のサブカードだった。妊娠してから仕事を辞め、私は家に残って和真と翔太のために尽くすことを選んだ。和真は毎月、生活費としてそのカードにきっちり振り込んでくれていた。私はいつもそのカードを肌身離さず持ち歩き、家を出るときでさえ忘れたことはなかった。和真の眉はさらに深く寄った。妙な胸騒ぎが彼を突き動かし、すぐにパソコンを開いてカードの残高を確認した。そして、表示された金額を見て、息を呑んだ。毎月の生活費より、十倍以上も多い金額がそこにあったのだ。「結菜が、こんな大金……どこから?」和真は知らなかった。私は出て行く前に、付き合っていた頃にもらったプレゼントを一つ残らず売り払って、そのお金をすべてこのカードに移していたことを。「今までも、こうやって花音に付き添ってきたけど……結菜、今回はそんなに怒ることなかったんじゃ……?」胸の奥に広がる不安と焦りに押され、和真は慌ててスマホを取り出し、私の番号に何度も電話をかけ始めた。だが、何度かけても通じない。その度に、焦燥と苛立ちが膨れ上がっていく。和真は再びリビングに戻った。ゲーム画面から目を離さずにいる翔太を見て、ついに怒りが爆発したように、彼のゲームを強制終了させた。「やめろ
翌朝、午前十時。いよいよ飛行機が出発する日だった。和真はいつも通り、病院の花音のそばで一晩を過ごし、帰ってこなかった。早朝、私は整理したスーツケースを引きながら家を出る準備をしていた。翔太の部屋の前を通りかかったとき、思わず足が止まった。翔太を産んだとき、私は予定よりも早く産んでしまった。そのせいか、彼は小さい頃から身体が弱く、病気がちだった。だから私は、翔太に最高の環境と愛情を与えるために、家政婦やベビーシッターには一切頼らず、彼の日常すべてを自分で手配し、面倒を見てきた。少しだけ悩んだあと、私はスーツケースを置き、出発前にもう一度だけ彼の顔を見ておこうと決めた。翔太は見た目だけでなく、その冷たい性格まで、まるで和真のコピーだった。私が部屋に入ると、机に向かっていた翔太は顔を上げて「ママ、おはよう」とだけ言い、またすぐに手元の絵に集中し始めた。その顔が、あまりにも和真に似ていて、私は小さく息をのんだ。「翔太、ママは行くね。自分のこと、ちゃんと大事にするんだよ」そう声をかけると、翔太は顔も上げずに「うん」と適当に返事をした。私はちらりと視線を動かし、彼が描いている絵を見た。そこに描かれていたのは、昨日、花音と和真に連れられて遊園地に行ったときの光景だった。胸の奥を、何かにぎゅっと掴まれたような気がした。以前、花音がインスタに動画を投稿していたのを思い出す。動画の中、花音の腕の中で綿菓子を食べながら翔太は嬉しそうに笑い、もごもごと話していた。「僕、やっぱり花音ママといるのが好き〜。食べたいもの食べられるし、テレビも朝まで見ていいし!ママはダメばっかり言うんだもん。早く寝ろとか、野菜食べろとか!」花音は満足そうに笑って、さらに聞いた。「じゃあ翔太は、ママと花音ママ、どっちが好き?」「もちろん花音ママ!ママが花音ママみたいに優しかったら、僕すっごく嬉しいのに!」厳しく接してきた私とは対照的に、まだ五歳の翔太は、自分を甘やかしてくれる花音のことが明らかに大好きだった。私は、翔太がもう病気がちではなくなったことに安堵していた。でも、それは同時に、彼との距離を遠ざける原因にもなっていたのだ。花音の姿を夢中で描いている翔太を見て、私は熱くなった目元を指先で押さえた。そして、