LOGIN私の婚約者・朝倉達哉(あさくら たつや)は、N都裏社会を背負うマフィアの跡取りで、私のことを誰よりも愛してくれていると信じていた。 けれど、結婚式を一か月後に控えたある日、達哉は「家の事情だから」と告げ、幼馴染との間に子どもを作る決意を話してきた。私がどれだけ反対しても、彼は毎日のようにその話を持ち出し、私の心をじわじわと追い詰めていった。 そして結婚式の二週間前、私のもとに届いたのは一通の妊娠診断書だった。そこには、彼女がすでに妊娠しているという現実が記されていた。 彼は最初から、私の気持ちなど考えていなかったのだ―― その瞬間、私の中で何かが音を立てて崩れた。長年信じてきた想いは、あまりにも脆く、滑稽だった。 私は結婚式を取りやめ、達哉が贈ってくれたすべてを炎にくべた。 そして結婚式当日、すべてを捨てて旅立った。 I国へ渡り、医療研修に没頭することで、彼との呪縛を断ち切った。 もう二度と、彼のいる世界には戻らないと心に誓ったのだ。
View More私は小さくうなずいた。その夜、達哉のもとへ結婚式の招待状と引き出物が届いた。彼は中から一粒の飴を取り出し、そっと口に含む。――まるで、長く忘れていた甘さを確かめるかのように。結婚式当日。会場は次々と訪れる来賓で賑わい、祝福の声が飛び交っていた。拓海は黒のスーツを身にまとい、その立ち振る舞いには自然と人を惹きつける存在感があった。私は隣に立つ彼を見つめながら、胸の奥にこれまでにない安らぎと幸福を感じていた。――拓海に出会って初めて、愛とは疑う必要のない、穏やかで純粋なものだと知った。式が始まり、私は父の腕に手を添え、ゆっくりとバージンロードを進む。父は厳かな顔で私の手を拓海に託し、静かに言った。「娘を、頼んだぞ」拓海は真摯な眼差しで父を見つめ返し、「安心してください。命をかけて彼女を守ります」と力強く答えた。誓いの言葉を交わし、指輪を交換し、そして口づけを交わした瞬間――会場は雷鳴のような拍手と歓声に包まれた。誰もが心から私たちの幸せを祝福してくれていた。その会場の片隅で、達哉は静かに拍手を送りながら、私から目を逸らさなかった。彼の胸に、二年前の叶わなかった結婚式の記憶が蘇る。あのときの私は、きっと期待に胸を膨らませながら、結婚式の準備に心を注いでいたのだろう。招待状にウェディングドレス、そして宴席の飾りつけまで――そのすべてを手放す決断をしたとき、どれほど苦しかっただろうか。彼の中に、私への引け目があるのだろう。でも私は、もう自分の幸せを見つけた。そして達哉もまた、そのことを受け入れて前に進むときなのだ。達哉は目を閉じ、ひとすじの涙が頬を伝った。結婚式が終わり、来賓の見送りを終え、ようやく一息つこうとしたとき。桜子が複雑な表情で一通の手紙を差し出してきた。「達哉がこれを渡してほしいって。『新婚おめでとう』とも伝えてくれって言ってたわ」そう言うと、彼女は私の肩を軽く叩き、静かに去っていった。ふと、達哉が結婚式に来ると言ったのを思い出すも、今日は姿を見かけなかったことに気づいた。私は手紙を開き、ゆっくりと読み始めた。【奈々、ごめん。実はまだ、完全には吹っ切れてないんだ。でも、もう俺たちに可能性がないこともわかっている。お前の言う通りだ。人生は前に進
予想していた鋭い痛みは、私の体には届かなかった。振り返ると、達哉が私の前に立っていた。片手で腹部を押さえ、指の隙間から血が滲み出ている。彼はよろめき、そのまま私の腕の中に崩れ落ちた。「達哉!」私はすぐに彼を支え、もう一方の手で救急に電話をかけた。頭の中は「早く止血を」という思いだけで、他のことは考えられなかった。「正気なの!?」傷口を押さえながら叫んだ私の指先が、熱い血に染まっていく。達哉は意識が朦朧としながらも、わずかに笑みを浮かべ、私を見つめていた。「刺されるって……こんなに痛いんだな……お前も、こんなに痛かったのか?」胸が締めつけられ、鼻の奥がツンとした。救急車のサイレンが近づいた瞬間、彼の意識は途切れた。手術は三時間続いた。医師によれば、要所は外していたが、出血が多く危険な状態だったという。私は安堵と疲労に包まれながら椅子に座り込み、眠る達哉を見つめていた。――まさか彼が私を庇って傷を負うなんて。達哉の家族が駆けつけ、彼の母親は昏睡する息子の姿を見て、私に詰め寄った。「一体どういうつもり!?この子があなたに何したっていうの?結婚式の日に消えておいて、今度は入院させるなんて……もういい加減にして!」私は何も言い返さず、ただ黙ってうつむいた。結婚式のことは説明しなかった。――今日、彼は確かに私を救ったのだから。さらに問い詰めようとする母親を遮るように、ベッドの上からかすれた声が響いた。「……奈々」家族が駆け寄るが、達哉の視線は私にだけ向けられていた。彼の母親はその意図を察し、そっと部屋を出て行き、病室は再び静けさに包まれた。「本当にそれでいいの?」私は小さな声で尋ねた。達哉はそっと頷いた、「いいんだよ。お前も、あのとき……痛かっただろ?」かすかに笑った彼の顔は、紙のように白かった。私は彼の冷たい手をそっと握った。「もう話さなくていいから、ゆっくり休んで」でも達哉は首を横に振り、かすれながらもはっきりとした声で言った。「昨日、お前が言ったことを……ずっと考えてた。全部、俺のせいだ。俺がわかってなかったんだよ」彼は一度目を閉じてから、かすかに笑った。「でも、あのチンピラがナイフを出した瞬間……思ったんだ。もう二度と、お前を傷つけさせ
私が何かを言う前に、達哉の表情が崩れ落ちた。「説明させてくれ……あのとき、俺は佐伯麻衣が命の恩人だと思い込んでいただけなんだ。その他の感情なんてない!」彼の声はかすれ、目は真っ赤に充血していた。「お前が去った後で知ったんだ……七年前の夜、俺を救ったのはお前だったんだと……ずっと勘違いしてたんだよ、奈々……」達哉の瞳には後悔が滲み、縋るような光がかすかに宿っていた。真実を告げれば私が許すとでも思っているのだろう。でも、それは違う。あの夜、私が彼を救ったのは事実だ。銃創を縫い、無菌灯の下で必死に止血した。でも、それを口にしたことは一度もなかった。お互いが意図的に避けていた過去だったから。達哉の一度の過ちが、一生の過ちになった。「……子どもは産ませてない。真実を知った今なら、もう一度やり直せるだろ?」と彼は小声で尋ねた。私は迷うことなく首を横に振った。「無理よ」その瞬間、達哉の顔色が血の気を失い、全身が固まった。二年間待ち続けても、望んだ結末は訪れなかったことを、彼は理解できていないのだ。「なぜだ……?」かすれる声が、途切れ途切れにこぼれる。「俺は……君を愛してるんだ」私は彼を見つめ、骨の髄まで冷たい声で返した。「それが本当に、愛だと言えるの?」「愛してるなら、なぜ五年間一度もプレゼントをくれなかったの?愛してるなら、なぜ私が旅行に誘っても、一度も応じなかったの?愛してるなら、なぜ結婚式を目前にして、他の女と子どもを作ったの?」私は一歩ずつ近づきながら、彼の顔が青ざめていくのを見つめた。「私の心は石じゃないのよ。ちゃんと痛むの。あなたの言う愛がそれなら……ごめんなさい。私には、受け取れないわ」達哉は言葉を失い、必死に最後の言い訳を探すように声を震わせる。「俺は……ただ、間違えただけだ……もし最初から真相を知っていたら……」「もういいわ!」私は声を張り上げて、彼の言葉を切り裂いた。「私たちの問題は、佐伯麻衣だけじゃないのよ。彼女がいなくても、別の誰かがいたはずよ。あなたが本当に手放せないのは私じゃなくて、自分のくだらないプライドよ。ただ、自分の負けを認めたくないだけよ。もう私の前に現れないで。……これで終わりよ」私は彼を玄関の外へ追い出した。翌
かつての私は、彼の機嫌を取ることに必死だった。でも彼はいつも素っ気なかった。佐伯麻衣が現れて、私はようやく気づいたのだ。彼が無情なのではなく、そもそも私を愛していなかったのだと。二年前、私は自ら婚約を破棄し、彼らのために身を引いた。それなのに今、まるで私を深く想っているかのような素振りを見せている。私は冷たく言い放った。「悪いけど、私の婚約者は拓海よ。今月の十八日に結婚するの。あと十日後よ」達哉の顔色が一瞬で蒼白になり、瞳が赤く充血していく。私がほかの男と結婚することを、受け入れられないのだろう。でも、これ以上彼と絡む気もなく、仲間たちを連れて場所を移した。達哉の前を通り過ぎるとき、彼は無意識に私の裾を掴んだ。私は迷わずその手を振り払い、拓海の手を取って歩き去った。達哉は硬直したまま、その場に立ち尽くしていた。車に乗ると、拓海は私の手をそっと離し、鼻を鳴らして腕を組むと、そのまま窓にもたれかかった。彼の拗ねた顔を見て、私は思わず笑ってしまった。達哉は、一度も嫉妬なんてしなかった。私がほかの異性にわざと近づいて、一緒に出入りしても、彼は一切興味を示さなかった。でも今、達哉が姿を現しただけで、拓海の嫉妬心を隠せずにいる。愛してるかどうかの差は、きっとこういうことなのだろう。私は拓海を抱き寄せ、優しく囁いた。「怒らないで。もうすぐ結婚するんだから、そんな顔しちゃカッコ悪いわよ?」拓海はわざと不満げに眉をひそめる。「僕がカッコ悪いってこと?」私はすぐに降参のポーズを取り、笑顔で返した。「違うわよ。世界一カッコいいわ」助手席の桜子が振り返って、「今の会話、録画しておけばよかったわ。絶対トレンド入りしたのに」と笑った。その夜、友人たちと思い切り笑い合い、時間を忘れて楽しんだ。解散後、拓海が私を家まで送ってくれた。階下で名残惜しそうに別れたあと、私は玄関の扉を開けた。すると、リビングのソファには、達哉が座っていた。その隣に、複雑な表情をした両親がいる。この二年間、私は医療研究のためだと言って家を離れ、両親は達哉と別れた真相を知らなかった。その間、達哉は私の実家に通い続け、ここ半年に至っては二日に一度の頻度で訪れていたらしい。彼は何も求めず、ただ静かに待ち
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