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未完成のウエディング

未完成のウエディング

By:  オレンジCompleted
Language: Japanese
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私の婚約者・朝倉達哉(あさくら たつや)は、N都裏社会を背負うマフィアの跡取りで、私のことを誰よりも愛してくれていると信じていた。 けれど、結婚式を一か月後に控えたある日、達哉は「家の事情だから」と告げ、幼馴染との間に子どもを作る決意を話してきた。私がどれだけ反対しても、彼は毎日のようにその話を持ち出し、私の心をじわじわと追い詰めていった。 そして結婚式の二週間前、私のもとに届いたのは一通の妊娠診断書だった。そこには、彼女がすでに妊娠しているという現実が記されていた。 彼は最初から、私の気持ちなど考えていなかったのだ―― その瞬間、私の中で何かが音を立てて崩れた。長年信じてきた想いは、あまりにも脆く、滑稽だった。 私は結婚式を取りやめ、達哉が贈ってくれたすべてを炎にくべた。 そして結婚式当日、すべてを捨てて旅立った。 I国へ渡り、医療研修に没頭することで、彼との呪縛を断ち切った。 もう二度と、彼のいる世界には戻らないと心に誓ったのだ。

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Chapter 1

第1話

結婚を目前に控えた一か月前、朝倉達哉(あさくら たつや)は幼馴染みの佐伯麻衣(さえき まい)と子どもを作ると告げてきた。

私は即座に反対した。けれど達哉は毎日のようにその話を持ち出し、絶対に成立させる取引のように私を追い詰めてきた。

結婚式の二週間前、私のもとに差出人不明の封筒が届いた。中には、私立クリニックからの妊娠検査の報告書が入っていた。

【佐伯麻衣 妊娠5週目】

その文字を見た瞬間、悟った。達哉は最初から私の意見など求めていなかったのだと。

すでに答えは出ていた。ただ「正式な婚約者」である私に、一言告げただけだったのだ。

私はマンションの窓辺に座り、煌めく街灯を眺めながら、体の奥がじわじわと冷えていくのを感じていた。

翌朝、式場の予約を取り消し、招待状を破り捨て、彼から贈られた指輪も、自筆の誓いの手紙も、すべて炎にくべた。

結婚式当日、私は会場へは向かわず、一人でI国行きの便に乗った。国際医療センターに所属し、医師としての新しい人生を歩み始めた。

その瞬間から、私は達哉とのすべてを断ち切ったのだ。

「何度も言っただろ?麻衣にはもう時間がない、白血病の末期なんだ」

達哉はいつもの優しい声で淡々と続けた。

「余命は一年だと医者に告げられた。麻衣の最後の願いは、家の血筋を絶やさないことなんだ。彼女は俺の命の恩人だ。これはただの借りじゃなく、両家の恩義の証だ」

その言葉の一つひとつが、私の胸を鋭く切り裂いた。

五年前、路地裏で抗争に巻き込まれ撃たれた達哉を、佐伯麻衣が庇って弾丸を受けた。あの日以来、彼女は達哉の中で「命の恩人」として特別な存在になったのだ。

でも私には理解できなかった。私を裏切ってまで、恩返しすることの意味が。

「ただの人工授精だよ」

達哉はそう言って私を説得し続けた。

「彼女とは何もない。ただ子どもを残すだけだ」

少し黙った後、達哉は複雑な目をして私を見つめた。

「奈々(なな)、俺のことを愛してるんだろ?だったら味方してくれよ」

私の中で何かが崩れ落ち、立ち上がった私は震える声で叫んだ。

「達哉、来月には結婚するのに……私に黙って、他の女に子どもを作らせるなんて……私って、一体何なのよ!」

達哉は黙り込んだ。目を伏せた彼の顔に、一瞬だけ迷いがよぎった。

それが後ろめたさなのか、いつもの計算なのか、私にはわからなかった。

だが次の瞬間には顔色を戻し、落ち着いた声で言った。

「奈々、これは俺と麻衣だけの問題じゃない。家同士の取り決めだ。これが決まれば、両家の十年来の確執を終わらせられる。俺には……家の決定を覆すことはできない」

彼を見つめながら、私はひどく遠い存在に思えた。

私たちは幼い頃からずっと一緒だった。荒れたスラム街の安アパートでも、華やかな街並みの医大でも、いつも彼の隣にいたのは私だった。

この想いは純粋で、二人だけのものだと信じていた。けれど現実は残酷だった。

達哉は私を家柄の見合う「都合のいい婚約者」として、ただ隣に置いていただけで、彼の心の中で特別なのは私ではない。

五歳の頃から一緒に水鉄砲で遊び、敵同士の家に生まれながら心の奥で大切にしてきた――佐伯麻衣なのだ。

達哉が私を愛していた瞬間も、どこかにあったのかもしれない。

でも家族や権力、恩義の前で佐伯麻衣が天秤の向こうに置かれたとき、犠牲になるのはいつだって私だった。

何かを言いかけた達哉の声を、スマホの着信音が遮った。

彼は足早にベランダへ向かい、電話を取り、低く優しい声で話していた。

私には相手の声は聞こえなかった。ただ、彼の口元に浮かんだ穏やかな笑みだけがはっきり見えた。

その笑顔を、私に向けてくれたのはいつだっただろうか。

思い出せないくらい、遠い昔のことだった。

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第1話
結婚を目前に控えた一か月前、朝倉達哉(あさくら たつや)は幼馴染みの佐伯麻衣(さえき まい)と子どもを作ると告げてきた。私は即座に反対した。けれど達哉は毎日のようにその話を持ち出し、絶対に成立させる取引のように私を追い詰めてきた。結婚式の二週間前、私のもとに差出人不明の封筒が届いた。中には、私立クリニックからの妊娠検査の報告書が入っていた。【佐伯麻衣 妊娠5週目】その文字を見た瞬間、悟った。達哉は最初から私の意見など求めていなかったのだと。すでに答えは出ていた。ただ「正式な婚約者」である私に、一言告げただけだったのだ。私はマンションの窓辺に座り、煌めく街灯を眺めながら、体の奥がじわじわと冷えていくのを感じていた。翌朝、式場の予約を取り消し、招待状を破り捨て、彼から贈られた指輪も、自筆の誓いの手紙も、すべて炎にくべた。結婚式当日、私は会場へは向かわず、一人でI国行きの便に乗った。国際医療センターに所属し、医師としての新しい人生を歩み始めた。その瞬間から、私は達哉とのすべてを断ち切ったのだ。「何度も言っただろ?麻衣にはもう時間がない、白血病の末期なんだ」達哉はいつもの優しい声で淡々と続けた。「余命は一年だと医者に告げられた。麻衣の最後の願いは、家の血筋を絶やさないことなんだ。彼女は俺の命の恩人だ。これはただの借りじゃなく、両家の恩義の証だ」その言葉の一つひとつが、私の胸を鋭く切り裂いた。五年前、路地裏で抗争に巻き込まれ撃たれた達哉を、佐伯麻衣が庇って弾丸を受けた。あの日以来、彼女は達哉の中で「命の恩人」として特別な存在になったのだ。でも私には理解できなかった。私を裏切ってまで、恩返しすることの意味が。「ただの人工授精だよ」達哉はそう言って私を説得し続けた。「彼女とは何もない。ただ子どもを残すだけだ」少し黙った後、達哉は複雑な目をして私を見つめた。「奈々(なな)、俺のことを愛してるんだろ?だったら味方してくれよ」私の中で何かが崩れ落ち、立ち上がった私は震える声で叫んだ。「達哉、来月には結婚するのに……私に黙って、他の女に子どもを作らせるなんて……私って、一体何なのよ!」達哉は黙り込んだ。目を伏せた彼の顔に、一瞬だけ迷いがよぎった。それが後ろめたさなのか、いつもの計算なのか、私に
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第2話
わかっていた。電話の相手は、佐伯麻衣だ。私は振り返り、テーブルの上の妊娠検査報告書を見つめた。日付は五週間前だと記されている。あの日、達哉は「港で密輸絡みのトラブルがある」と言って、一晩中帰ってこなかった。今思えば、あの夜、彼は佐伯麻衣と一緒にいたのだろう。あの二人にとって、私はただの部外者だったのだ。だから最初から私の了承など求めてはいなかった。私はずっと、結婚式の日を楽しみにしていた。達哉と手を取り合い、式場の扉を一緒にくぐる、その瞬間を。でも今、その期待は泡のように弾け、跡形もなく消えてしまった。そのとき、スマホが震え、私の思考を遮った。電話の向こうから、先輩の澄んだ声が聞こえた。「奈々、結婚するって聞いたけど……本当に、うちの病院に来る気はないの?先生もあなたのことを自慢の教え子だって言ってるのよ。チームに加わってくれるのを心待ちにしてる。結婚を控えてる事情もわかって、特例で二か月勤務したあと半月の休暇をあげるって言ってるわ」恩師はI国の病院で新しい研修プロジェクトを立ち上げていて、半年前から声をかけてくれていた。「チームに加わって、一緒に医療研究をしてほしい」と。でも一旦引き受けたら、私生活からは完全に切り離され、しばらく外の世界とは遮断されることになる。短くて一、二ヶ月。長ければ一年以上になることも。当時の私は、達哉と長く離れたくなくて、そのお誘いを断ったのだ。でも今、彼は私以外の女と新しい命を授かろうとしている。彼が私の気持ちも、この結婚も大事に思っていなかったのなら、こんな結婚式に意味なんてない。「先輩、決めました。病院で働かせてください。休暇は必要ありません。通常のプロジェクト進行でお願いします」電話の向こうで、先輩の声が驚きと喜びで弾んだ。「本当!?先生、絶対に喜ぶわ!いつから来られる?新婚旅行もあるだろうし、婚式の一週間後くらいがいいかしら?」「いえ。結婚式の日からで構いません」私は小さな声で答えた。視線をテーブルのカレンダーに落とすと、来月の十日に赤いマーカーで大きな丸がついていた。本来なら、結婚式までの準備のために書き込んだはずの日付だった。でも今では、この日付は達哉から離れるためのカウントダウンになった。十五日後、私は達哉と完全に縁を切
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第3話
その夜、達哉が帰ってこなくても、私は問いたださなかった。すでに佐伯麻衣のSNSで、その日の様子を知ってしまっていたからだ。二人は昼過ぎに病院を出て、そのまま佐伯麻衣の家へ行き、家族に妊娠を報告したらしい。写真には、佐伯麻衣の祖母が達哉の手を握り、何かを語りかけている姿が映っていた。達哉はもう片方の手で彼女のお腹を優しく撫で、信じられないほど穏やかな笑顔を浮かべていた。五年間一緒にいたのに、達哉が私の実家へ来たのは、婚約を受け入れてくれたときの一度きりだった。車で三十分もかからない距離なのに、それまで自分から訪ねてきたことは一度もなかった。「年上といると落ち着かない」と言い訳しながら、そのときもただ礼儀正しく振る舞っていただけで、佐伯麻衣の家族に向けるような温かさを、私の家族に見せたことはなかった。目を閉じ、胸の奥を突き刺すような苦さを飲み込み、スマホの電源を切った。翌日、私は友人たちに会い、結婚式を取りやめることを伝えた。達哉はもともと結婚式を渋っていたが、私がお願いし続けて、やっと親しい身内だけの小さな式を挙げることを許してくれたのだ。私がどれだけ達哉を想っていたか、誰もが知っていたからこそ、結婚をやめると言ったときの驚きは無理もなかった。「奈々、達哉さんのこと、ずっと好きだったのに……なんで急に別れるの?」言葉にできない苦さが、胸の奥で渦を巻く。二十年かけて積み重ねてきた想いを、きれいさっぱり捨てられるわけがない。でも、本当はわかっていた。最初からこの想いは、釣り合ってなんかいなかったのだ。いつだって私が、達哉の背中を追いかけていただけで、彼は一度も振り返ってはくれなかった。それでも、私は気づかないふりをしていた。結婚を承諾してくれたのだから、いつか彼の心も手に入ると信じていた。いつか、私だけを見てくれる日が来ると信じて、待ち続けることにしたのだ。だけど、半年前に「命の恩人」だという佐伯麻衣が現れてから、すべてが変わってしまった。そして、やっと気づいたのだ――達哉は誰にでも冷たいわけじゃないのだと。佐伯麻衣の前では、優しい表情を浮かべ、惜しみなく笑顔を見せる人だったのだと。私はいつだって脇役でしかなかった。そして、何より許せなかったのは、私の了承を得るふりをしながら、裏で
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第4話
「明日、ウエディングフォトの撮影は中止だ」テーブルのカレンダーに目をやると、明日の欄に赤い字で「ウエディングフォト」と書かれていた。達哉がなぜ急に、キャンセルを言い出したのかはわからなかった。でも、この結婚自体をやめるつもりだった私には、むしろ好都合だった。どうせ私から理由をつけて断るつもりだったのだから。彼が先に口にしてくれたことで、少しだけ肩の力が抜けた。私は小さくうなずき、穏やかな声で答えた。「わかったわ。カメラマンにキャンセルの連絡を入れるね」その瞬間、達哉は目を見開いた。あまりにもあっさりと答えた私に、戸惑ったのだろう。達哉は一瞬固まり、それから無理に平静を装った。「いや、キャンセルしなくていいんだ。麻衣がさ、一生結婚できないかもしれないからって……せめて一度くらい、ウエディングドレスを着て写真だけでも撮りたいって言うんだ。だから、明日は麻衣と一緒に撮らせてくれ。俺たちはまた改めて撮ればいいんだし」その口調はあまりにも平然としていて、まるで「今日の夕飯、何にする?」と言うような軽さだった。人工授精を決めた時と同じだ。相談するように見せかけて、実際は通告してるだけだ。でも達哉は知らない。私たちに「改めて」など、もう存在しないことを。「わかったわ」それだけ言って、私はくるりと背を向けて寝室へ戻った。どうせこの結婚式はもうしない。達哉が誰とウエディングフォトを撮ろうが、私にはもう関係のないことだ。達哉は私の背中を見つめ、胸の奥に言葉にならない不安が湧き上がった。私が問い詰めることも怒ることもなく、淡々と受け入れたからだ。彼が用意していた言い訳も、慰めの言葉も、すべて無駄になった。翌朝、目を覚ますと、達哉は出かける準備をしていた。靴を履きながら、達哉は言った。「撮影が終わったら、そのまま麻衣と旅行に行くよ。ずっと北海道に行きたがってたから、一緒に行ってくる。結婚式は質素でいいよ。準備に時間取れないし、お前が全部決めてくれ。いちいち確認しなくていいから」私は黙ってトーストをかじりながら、「うん」とだけ答えた。「質素でいい」――この結婚式には、ウエディングフォトも、招待客も、司会者もいらない。新婦だって、いなくていいのだ。達哉はトーストをかじる私
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第5話
翌週になっても、達哉は帰ってこなかった。でも、彼がどこで何をしているのかなんて、わかりきっていた。何でもすぐにSNSに上げる佐伯麻衣がいるのだから、知らずにいる方が無理な話だ。二人は温泉に浸かり、海を眺め、朝日を背に写真を撮っていた……そこには、私が一度も見たことのない達哉の表情が写っていた。普通の恋人同士のように、笑っていた。その間、私もひたすら忙しくしていた。部屋には物が溢れすぎていて、片づけるのに何日もかかった。合間を縫って実家にも顔を出し、I国の医療研究所へ行くこと、しばらく連絡が取りづらくなることを伝えた。父は目を丸くしながら言った。「もうすぐ結婚するんじゃなかったのか?達哉くんとは別居するつもりなのか?」母も不安そうに私の手を握りしめる。「奈々、もう一度よく考えて。せっかく結婚まで踏み込めたのに……医療研究所へ行くなんて言ったら、彼だって反対するんじゃない?結婚式も取りやめて、別れ話にだってなるかもよ……」両親の心配は痛いほどわかっていた。二人は私の長年の片想いを見守ってきて、達哉との微妙な距離感も、薄々感じ取っていた。かつて両親は遠回しに「考え直した方がいい」と助言してくれたこともあった。でも当時の私は、自信に満ちていて、彼を変えてみせると信じて疑わなかった。それ以上、両親は何も言わなかった。でも今、結婚式をやめると決めたのは、他の誰でもない、私自身だ。その決意を口にしたとき、両親はしばらく沈黙した。達哉が佐伯麻衣と子どもを授かったことは、言えなかった。あまりにも残酷すぎると思ったから。私はただ「医師として研究を続けたいから」とだけ告げた。父は大きくため息をつくと、私の肩をぽんと叩いた。「お前が後悔しないなら、それでいい」家に戻ると、親友の桜子(さくらこ)を呼び、荷造りを手伝ってもらった。ダンボールがリビングを埋め尽くし、部屋はあっという間に狭くなった。二人で何度も荷物を運び出し、最後の箱をゴミ捨て場へ放り込んだとき、部屋は驚くほど空っぽになった。桜子は部屋を見渡し、深くため息をついた。二か月前、達哉へのプロポーズが成功した夜、私が泣きながら笑って、朝まで騒いでいたことを、彼女は覚えている。そのわずか二か月後に、結婚式を取りやめることになるなんて
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第6話
出発まで、あと五日。私は病院に辞表を提出した。もともと、達哉と一緒にいるために進学の機会を捨て、彼の歩幅に合わせて生きてきた。M区の病院で主治医となり、この煌びやかな街に留まり続けてきたのも、彼がいたからだ。辞職を切り出した瞬間、同僚たちは驚きの声を上げた。「奈々、急にどうしたの?つい先日、結婚祝いの引き出物まで配ってたじゃない?まさか専業主婦にでもなるの?」冗談めかした笑い声に、私は小さく笑って首を振った。「ううん、結婚は……やめたの」帰宅すると、一週間ぶりに戻った達哉と佐伯麻衣がソファに並び、ひそひそと話をしていた。私が抱えていたファイルに達哉の目が向く。「それ、どうしたんだ?」私は何気なく答えた。「もういらなくなったから、整理しようと思って」達哉は頷きながら部屋を見回し、首をかしげた。「たった一週間で……何だかずいぶんと片付いてるな?」私はファイルを寝室に置き、「不用品を処分しただけよ」と淡々と答えた。達哉が何か言いかけたとき、佐伯麻衣が口を挟んだ。「奈々さん、この数日、達哉さんが旅行に付き合ってくれて本当に助かりました。それに、ウェディングフォトまで撮らせていただけて……長年の夢が叶いました」その声には、どこか誇らしげな響きが混じっていた。「お礼に、今夜は私がご馳走させてください。しばらくお世話になると思いますし……奈々さんに嫌われていなければいいんですけど……」もう、彼女と無駄な言葉を交わすつもりはなかった。五日後、私は達哉のもとを去るのだから。今はすべてを整え、静かに出ていく準備をするだけだ。私が黙っていると、佐伯麻衣の目にうっすらと涙が浮かんだ。「達哉さん……奈々さん、怒ってるんじゃない?二人はもうすぐ結婚する予定だったのに……」その言葉を聞いた途端、達哉は不機嫌そうに私を睨んだ。「麻衣は感謝の気持ちで誘ってるだけだろ?なんだよ、その態度は。ただの食事だろうが、毒を盛るわけでもあるまいし」その一言で、私は「不機嫌な罪人」に仕立てられた。結局、達哉に連れられ、レストランへ行くことになった。レストランで、店員が注文を取りに来た。店員が注文を取りに来ると、私がメニューを開くより先に達哉が言った。「油っこいのと辛いのはなしで。パクチーも抜
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第7話
達哉が佐伯麻衣を車に乗せた、その瞬間だった。私の最後の言葉が、彼の耳に届いたのだろう。達哉が全てを知らないことに気づき、私は適当に理由をつけてその場を流した。「友達が……しばらくしたら海外に旅立つの」達哉は軽く頷き、それ以上は何も聞いてこなかった。──残り、四日。その日、達哉は佐伯麻衣とのウェディング写真を持ち帰ってきた。スマホで佐伯麻衣とビデオ通話を繋ぎながら、もう片方の手で額縁を抱え、まるで私に見せつけるように掲げる。その瞳は、優しさで満ちていた。「麻衣、ウェディングフォトがやっと仕上がったよ。スタッフも良く撮れてるってさ」私はちょうど、キッチンから水を汲みに出てきたところだった。達哉の目に、一瞬だけ戸惑いが走る。私に何か言いかけるような表情をしたが、私は写真を一瞥し、ぎこちなく笑った。「……確かに、いい写真ね」私が高額を払ってカメラマンを雇ったのは、本来達哉との幸せな瞬間を残すためだった。二人で笑い合う、至福の一枚を思い描いていた。スーツを着こなした達哉は端正で、かつて私が心から愛した人そのものだった。ただひとつ違ったのは──写真の花嫁が私ではないということだけ。達哉は呆然としていた。彼は気づいたのだろう。私が長い間、彼に一度も連絡をしてこなかったことに。佐伯麻衣と旅行へ行った一週間でさえ、一通のメッセージも送らなかったことに。その違和感が、彼の胸に刺さっていた。スマホ越しの佐伯麻衣は無邪気に話し続けていたが、達哉の視線は私に向けられ、不安を隠そうとしているのがわかった。──残り、二日。病院へ薬を取りに行った帰り、私は偶然、産婦人科の検診を終えたばかりの達哉と佐伯麻衣に出くわした。珍しく達哉の目に焦りが走り、何か言いかけた瞬間、先に佐伯麻衣が口を開いた。私の前に立ち、涙を浮かべながら手を取ってくる。「奈々さん……子供のこと、反対してるのはわかってます。でも、私にはもう時間が残されていないんです。医者に余命を宣告されていて……どうしても自分の子の顔が見たいんです。子供が生まれたら、すぐに達哉さんから離れます。あなた達の邪魔はしませんから……」私が返事をする前に、達哉が彼女の腕を心配そうに引いた。「無理するなよ、体調悪いのに……」そして私へ、複雑な目
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第8話
達哉の頭ごなしの言葉に、私は思わず笑ってしまった。「謝るのはどっち?監視カメラを調べれば、白黒はっきりするわよ!」達哉の眉間に深い皺が刻まれる。「麻衣は患者だぞ。それも妊婦だ。自分の身を危険に晒すような真似をするわけないだろ!」佐伯麻衣は一瞬、はっとした顔をしたが、すぐにか細い声を絞り出した。「いいの、達哉さん……奈々さんが怒るのも無理ないから。もう帰りましょう」本当に監視カメラを調べては困るからだろう。彼女はお腹を押さえ、わざとらしく被害者の顔をした。案の定、達哉の表情は変わり、佐伯麻衣を支えながらその場を去っていった。その晩、達哉は帰ってこなかった。どうせ、佐伯麻衣のもとで夜を明かしたのだろう。翌朝、私は最低限の荷物だけをスーツケースに詰め、残りはすべて宅配便で医科大学の寮へ送った。その晩、ようやく帰ってきた達哉は、不機嫌そうに声を荒らげた。「麻衣はまだ病院にいるんだぞ。わざとじゃなかったにしても、大人気ないだろ。いい加減にしろよ!」私は笑うしかなかった。婚約者を彼女に譲り、ウェディングフォトまで撮らせてやった。これ以上、何を譲れと言うのだろう。達哉はカレンダーに赤く囲まれた日付を見つめ、ほんの少しだけ声を和らげた。「もういい。明日は結婚式だ。無駄な喧嘩はやめよう。式が終わったら謝りに行ってくれればいい。終わったらハネムーンに行こう。……ところで、ハネムーンの準備はできてるのか?」私は何も答えなかった。もし達哉に少しでも思いやりがあったなら、この部屋に花の一輪さえ置かれていないことに気づいたはずだ。ここは、どこから見ても明日結婚式が行われる家の雰囲気ではなかった。「あのさ……」ようやく言葉をかけようとしたそのとき、達哉のスマホが鳴った。佐伯麻衣からだった。「待ってろ、すぐ行く」電話を切ると、達哉は靴を履きながら言った。「麻衣の具合が良くないらしい。病院に行ってくる。明日、遅れるなよ」玄関の扉が閉まった瞬間、私は小さく呟いた。「達哉、別れましょう。結婚式もなしよ」その声は誰にも届かず、時計の針の音にかき消されていった。その夜、私は一睡もせず、ソファで夜明けを待った。スマートフォンが小さく震え、搭乗まで二時間切ったことを知らせてきた。私
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第9話
達哉は一歩、後ずさった。鋭利な刃で切り裂かれたような視線で、信じられないものを抱えながらホテルの入口を見つめていた。結婚式は、キャンセルされていた。「藤井様がキャンセルされました」と、スタッフが小声で付け加える。達哉の母親はその言葉を聞いた瞬間、顔色を失い、慌てて達哉の腕を掴んだ。「どういうこと?今日は結婚式よね?彼女はどこにいるの?もうとっくに決まってたはずでしょ?」達哉は喉が詰まり、しばらくしてようやく声を絞り出した。「……俺にもわからない」震える手でスマホを握りしめ、すぐに奈々へ電話をかけた。だが、奈々の携帯は電源が切られていた。心が奈落の底へと沈んでいくのを感じながら、達哉は気が狂ったようにアパートへ駆け戻った。しかし、そこにはもう、誰もいなかった。ソファはまるで誰も座ったことがないかのように整えられ、クローゼットの半分は空になり、食卓の上にあった二人の写真も消えていた。達哉は、その場で呆然と立ち尽くした。彼女はこの家から、彼の世界から、跡形もなく消え去ったのだ。そして、目に入ったのはカレンダーに残された文字だった。【達哉、別れましょう】頭の中で轟音が鳴り響くように何かが弾け、達哉はソファに崩れ落ちた。耳の奥で、鈍く低い響きがずっと鳴り続けている。あれほど結婚式を心待ちにしていた奈々が、なぜ別れを告げたのか、達哉には理解できなかった。だが、彼女はずっと前から去る覚悟を決めていたのだ。達哉は再び電話をかけ、今度は繋がった。「……一体どういうつもりだ?」怒りを押し殺した声で、達哉は言った。「俺にこんな仕打ちをするのか?」二秒ほどの沈黙のあと、冷え切った彼女の声が響いた。「達哉、私たちは終わったのよ。恩返しのために、あの人と子どもを作っといて、私の気持ちを考えたことはあるの?結局、私のことをなんとも思ってないのよ」「お前は医者だろ?だったら麻衣を労わるべきだ!」「医者だからこそ分かるのよ」奈々の声は静かで、それでいて、痛いほどに鋭かった。「妊娠は誰かに恩返しするための手段じゃないし、愛する人を犠牲にする理由にもならないわ。それに、私がどれだけの覚悟であなたと一緒にいたか、わかってたはずよ。自分のキャリアを捨ててまで、マフィアと一緒にい
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第10話
数時間後、飛行機はI国の空港に着陸した。降機する前に、先輩から連絡が入り、土地勘のない私を気遣って迎えを手配をしてくれたという。人々が行き交う到着ロビーで何度も周囲を見回したが、名前を書いたプラカードを掲げる人は見当たらなかった。スマホを取り出し、電話をかけようとしたそのときだった。「先輩!」と背後から声が飛んできた。思わず振り返ると、清々しい笑顔を浮かべた青年が歩み寄ってきた。「すみません……あなたは?」私が戸惑って問いかけると、青年はきょとんとした顔で、それでも潤んだ瞳で答えた。「たった五年会ってないだけで、もう僕のこと忘れちゃったんですか?」五年前、徹夜でデータを見つめ、血走った目をしていたあの顔が、少しずつ記憶の中で蘇る。「……拓海(たくみ)くん?」思わずその名前を呼ぶと、彼は笑顔で頷き、素早く私の荷物を受け取った。「行きましょう、先生が病院で待ってますよ。ずっと楽しみにしてたんですよ」私は一瞬、息を呑んだ。五年前、私は恩師の引き留めを振り切り、達哉と共にM区へ旅立った。そして五年ぶりに戻ってきたのは、恩師の呼び戻しではなく、佐伯麻衣の妊娠がきっかけだった。病院の入口で立ち尽くす私を見て、拓海はその迷いを察したのか、突然大きな声で事務所へ向かって叫んだ。「先生、先輩が戻ってきましたよ!」私は慌てて、咄嗟に彼の口を手で塞いだ。暖かく柔らかな感触に、二人とも思わず息を止める。すぐに手を引くと、拓海は耳の先を赤く染め、気まずそうに視線を逸らした。そのとき、部屋の奥から恩師の低い声が響いた。「まだ入らないのか?」恩師は五年前よりも老け込み、こめかみに白髪が混じっていた。私を一瞥して、ただ一言だけ告げる。「今度こそ、もう出て行かないでくれ」私は俯き、深く頷いた。宿舎に戻り、ベッドに横になると、すぐに深い眠りへと落ちていった。しばらくすると、スマホの着信音が耳をつんざくように鳴り響く。ぼんやりと受話器を取ると、低く怒りを帯びた声が響いた。「奈々、どこにいるんだ!?」達哉だった。一気に目が覚め、時刻を見ると、眠りについてからまだ一時間も経っていなかった。私は疲れと苛立ちの混じる声で言い返した。「カレンダーに残したでしょ。私たちはもう終わっ
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