Masuk「もし、たった一、二年でこんな一族が簡単に潰れるなら、葛西グループなんてとっくに終わってるよ。トップ豪門なんて肩書きも、ただのハッタリになっちゃう。ドラマだって、そんな脚本は怖くて書けないでしょ」それは星にできない、というだけの話じゃない。仁志にだって無理だ。雲井家、川澄家、志村家、葛西家、司馬家――こういう家は、よほど自滅でもしない限り、当主が一人死んだくらいで崩れるようなものではない。しかも権力の中枢は複雑に分散している。そもそも、一人の判断ミスで一族や会社ごと沈まないように、誰か一人がすべてを決める構造にはなっていないのだ。星は静かにうなずいた。「だから、倒産させることを考えるより、市場の占有率を崩していくほうが早い。奪える資源はいくらでもあるし、葛西先生があの時、私に核になるリソースを渡してくれなかったら、葛西グループがほぼ独占してる市場の中で、私は一欠片も取れなかったと思う」少し間を置いて、続ける。「興すのも葛西家、亡ぼすのも葛西家。結局、私たちは葛西家の資源を足場に始めたんだ」その目は、もう先を見ていた。「今はまだ葛西家から完全には切り離せない。だから子ブランドを作る。メリットは、葛西グループの知名度を借りて立ち上がりを早くできること。規模も広げやすい。市場は奪い合うことになるけど、その一方で葛西先生の助けも得られる。葛西先生の立場も苦しくなりにくい」彩香が聞いた。「メリットは分かった。じゃあ、デメリットは?」星は小さく笑う。「一気に頂点までは行けないことかな。相手を破産させる、みたいな派手な結末にはならない。気分的には、ちょっと悔しいかも」彩香は思わず言い返した。「悔しいも何もないって。得してる側が文句言うのは違うでしょ。葛西先生が手を貸してくれるのは、昔の仲間への情があるからで、葛西家を潰すためじゃないんだから」朝陽がどれだけ陰険でも、葛西先生が星に厚情を持っているのは確かだった。過去のことはともかく、星が雲井家に戻ってからも、葛西先生は手元の重要な資源を彼女に渡している。だからこそ葛西家は嫉妬し、狂ったように星を狙った。それでも葛西先生が、自分の築いた家業を壊し、子や孫を路頭に迷わせる手助けまでするはずがない。星は、仮面舞踏会でざわめく人波を見ながら言った。「たぶん――葛西先生
星は、目の前で手を差し出してきた仮面の男を見つめた。なぜだろう。妙に見覚えがある気がする。思わず、何度か見直してしまう。この半年で、星もこうした宴にはかなり顔を出してきた。それでも、よほど断れない場面でもない限り、ダンスの誘いを受けることは少ない。その時、彩香が、星が相手をじっと見つめたままなのを見て、背中を押した。「星、踊ってきなよ。断ったところで、どうせまた誰かすぐ誘いに来るんだから」星は男を観察した。けれど、どこで会ったのかどうしても思い出せない。少し考えてから、手を伸ばし、その誘いを受けた。男は黒い手袋をしていた。星の左手を取る動きが、どこかぎこちない。顔には狼の仮面。大半の表情は隠れていて、見えているのは漆黒で奥行きのある瞳だけだった。――日本人だ。星はそう確信する。そして、自分は絶対にどこかでこの男を見ている、とも思った。男は寡黙だった。ここまでじろじろ見られても、一向に口を開こうとしない。結局、星のほうから先に声をかけた。「失礼ですけど……私たち、どこかでお会いしました?」男は数秒黙ってから、ようやく答えた。「……いいえ」わざと低くしているのか、少しかすれた声だった。輪郭も曖昧で、余計につかみどころがない。星は結局、思い出せなかった。こんな妙な空気をまとった男なら、普通なら記憶に残りそうなものなのに。考え事に意識を取られたせいか、一瞬だけ足がもつれた。その拍子に、うっかり男の足を踏んでしまう。星はすぐに謝った。「ごめんなさい」男は全く気にした様子もなく、短く返す。「大丈夫です」それきり、また黙り込んだ。曲が終わると、男はただひと言だけ言った。「失礼」そのまま振り返ることもなく、立ち去っていく。星は、その背中を見送りながら考え込んだ。踊り終わったあともまだ視線を向けている星を見て、彩香が冗談っぽく言う。「星、まさか……気に入っちゃった?」星はようやく視線を外した。「違うよ。ただ、どこかで見た気がするだけ」知っているような気がする。でも、顔を見ただけであの人だと言い切れるほどではない。そんな引っかかりだった。彩香は、にやっとしてからかう。「男にそこまで興味示すの、珍しいじゃん。拓海に連絡先でも聞かせようか?」星は首を振った
星は言った。「大人数にぞろぞろ付かれると、逆に目立つし、狙われやすくなる。私、周りに人が多いの慣れてないの。多くても二人まで。あなたを守る人が一人、私を守る人が一人で十分」星の言うことはもっともだった。彩香は名残惜しそうにしながらも、引き下がるしかない。侑吾は見た目だけなら、ひ弱で頼りなく見え、とても戦闘力が高そうには見えない。だが実際の実力は、体格のいい護衛たちにもまったく引けを取らない。むしろ上回ることさえある。理由は単純だ。あの見た目があまりにも無害で、相手の警戒をゆるめさせるからだ。一方の拓海は、体つきも雰囲気も、ひと目で鍛えている人間だと分かるタイプだった。二人とも、仁志ほどの美貌ではない。それでも護衛の中ではかなり目を引く部類で、彩香としては十分満足だった。対して星は――特に何も感じていない。ただ、ひどく疲れている時だけ、うっかり名前を呼び間違えて、侑吾を「仁志」と呼んでしまうことがあった。彩香は侑吾と拓海を入口で待機させ、自分は星のドレスの着替えを手伝う。着替えながら、彩香がふと思い出したように言った。「そういえば星。ランス家の当主って会ったことある?噂じゃ、当主は女の人で、しかもかなり若いらしいよ。経歴ちょっと調べたけど、相当やり手っぽかった」星は首を振る。「会ってない。ずっと窓口は責任者で、当主本人は出てきてない」彩香は不思議そうに首をかしげた。「この規模の案件で当主が出てこないって……そんなに信用してるのかな。外じゃ、星と当主が特別な関係だから契約が取れた、なんて噂まで出てるのに。本人、出てきて否定もしないんだね?」星はドレスの裾を整えながら、ぽつりと口にした。「彩香……正直、私もそう思ってる」彩香の手が止まる。「え?」星は静かに続けた。「この案件、最初から私にやらせるために用意されてた気がする。むしろ、私に指名で回ってきたみたいな感じ」少し目を伏せる。「そうじゃなきゃ、雲井家があんな大きい案件を、あんなにあっさり私に任せるはずがない」彩香は困ったような顔で星を見た。「星、ランス家の人と知り合いなの?」星は首を振る。「知り合いでもないのに、なんで星に?」星は静かに答えた。「分からない。でも、どうであれ私にとってはチャンスだよ。罠だとしても、飛び込んで確かめる
星はわずかに眉を動かし、尋ねた。「彩香。私たちが襲われたこと、誰にも言ってないよね?」彩香は慌てて首を振る。「言ってない、言ってない。ちゃんと情報は押さえ込んだよ」そして、星の表情から何を考えているのか察したのか、小声で付け足した。「……これ、仁志の仕業じゃないと思う」彩香は、今も仁志と連絡を取り続けていた。頻繁ではないにしても、たまのやり取りだけで分かる。仁志は、この件を知らない。それに――仁志へ情報を流していた翔太も、数か月前に雅臣が国へ送り返してしまっていた。通報の件を見つけたのも、雅臣本人だった。雅臣は、翔太が「身内より外を優先した」ように見える行動に、内傷を負うほど怒りかけたらしい。そして即決で、翔太を送り返した。星は目を伏せ、何かを考え込むように黙った。彩香は続ける。「ほんとにバイロンの仇かもしれないよ。あいつ、普段からろくでもないことばっかしてたらしいし。競争相手を暗殺して回ってた、なんて話もあるくらいだしさ。ようやく自分も痛い目見たんじゃない?」それから少し顔をしかめた。「でも……相手も相当えげつないよね。遺体すら残さないなんて。やり口、怜央並みっていうか。うん……悪い奴は、もっと悪い奴にやられるってやつだね」星はそこを深く追わなかった。「誰かが片づけてくれたなら、そのぶんこっちの手間は減るよ」そもそも星が彩香に調べさせたのは、相手へ報復するためだった。反撃の段取りまで整え、実行に移るつもりでいた。それなのに、相手は先に死んだ。ただ、この一件を経て、彩香はどうしても星に腕の立つ護衛をつけたくなった。星は押し切られる形で、最終的に了承する。自分が多少身を守れるとしても、彩香まで守れるに越したことはない。――ところが。彩香が厳選したボディガードたちを連れてきて、いざ星が面接する段になった時、星は言葉を失った。そんな半年の出来事を思い返していた、その時だった。控室の扉が軽くノックされる。続いて入ってきたのは、肌の白い王子様系の若い男だった。まだ二十歳そこそこ。細身で華奢で、どこか風に飛ばされそうな頼りなささえある。その後ろから、無表情で体格のいい、見るからに屈強な若い男が続いた。王子様風の男が口を開く。「彩香さん、星さん。俺と拓海さんで会場の
こういう大型提携は、たとえ最上位の名門にとっても喉から手が出るほど欲しいものだ。数えきれない家が目の色を変え、表でも裏でも手を尽くして、この案件を奪おうとしていた。ランス家が、最有力と見られていた数家の中から相手を選ぶだけなら、まだ分かる。だが実際にランス家が選んだのは――名も通っていない新人だった。その瞬間、星は一斉砲火の的になった。たとえ星が雲井家の令嬢でも、各地の頂点に立つ名門たちから見れば、彼女は目障りな存在でしかない。デマ、誹謗中傷、ありとあらゆる汚名。彩香は、それらを一つひとつ潰し、きれいに処理してきた。ところが連中は、さらに陰へ回った。取材に来た記者の中に紛れ込み、星を襲ったのだ。星は動じなかった。反応も速かった。仁志に叩き込まれた格闘術は、実戦でも十分通用した。星はかすり傷ひとつ負わず、相手との距離を安全圏まで一気に引き離す。――もう奇襲の機は潰した。相手もここで引くしかない。そう思った。だが犯人は、一撃を外した瞬間、標的を彩香へ切り替えた。彩香は普通の人間だ。武術の心得もなければ、護身術だってできない。凶器を持った相手に抗えるはずがなかった。その瞬間、星が身を投げ出した。刃を受け止め、その勢いのまま武器を奪い、危機を断ち切る。事が終わったあと、彩香は顔を真っ青にし、震えながら自分を責めた。「星……ごめん。やっぱり仁志を呼び戻そう。あいつら、やり方がえげつなさすぎる……私じゃ、あなたを守れない」星の腕には刃が入っていたが、傷は深くなかった。自分で消毒して包帯を巻けば、それで十分なくらいだった。星は落ち着いた声で言った。「彩香。このことは絶対に彼に言わないで。彼は溝口家の当主だよ。仕事が山ほどある。ずっと私のそばにいられるわけじゃない」そのまま、静かに続ける。「彼はもう十分すぎるくらい私を助けてくれた。こんな程度のことで頼ったら、私はただの役立たずだよ。それに影斗にも雅臣にも、この件は一切漏らさないで」星の声は、どこまでも冷静だった。「この立場にいる以上、怪我も、拉致も、襲撃も起きる前提で動かないといけない。影斗や雅臣に聞いてみて。傷ひとつ負ったことがない人なんている?」そして、淡々と現実を並べる。「明日香だって、拉致されて痛めつけられたことがある。それなの
調印式の会場――星は、集まった無数の視線を一身に浴びながら、ランス家の責任者と契約書を交わした。フラッシュが狂ったように明滅し、カシャ、カシャと乾いた音が絶え間なく響く。千億規模の巨大プロジェクト。そのパートナーが、これで正式に決まった。まさか――星がこの案件を勝ち取るとは、誰も思っていなかった。星や雲井家より条件のいい家柄など、いくらでもある。日系人の川澄家。それに海外の大一族も、雲井グループ以上に競争力を持っていた。星は確かに雲井グループを背負っている。だが、雲井家に戻ってまだ一年。それ以前はビジネスの世界に関わっていない。元はヴァイオリニストで、商売のことなど何も知らない――そう見られていた。おまけに、五年間専業主婦だったとか、外で働いた経験がなく社会と断絶していたとか。そんな話まで掘り起こされた。この巨大案件のせいで、星の経歴はほとんど丸裸にされたも同然だった。外へ出れば記者が張りつき、プライバシーなんてものはない。彩香の広報能力がいくら高くても、この規模の注目にはさすがに手が回りきらなかった。星が今立っている場所は、もう昔とはまるで違う。以前、相手にしていたいちばん毒のある人間といえば、清子や勇くらいのものだった。だが今は違う。星が向き合っているのは、金と権力を持つ者たちの世界だ。彼らはもっと強く、もっと冷たく、陰謀を巡らせるとなれば、さらに容赦がない。彩香は、怜央のような人間こそ滅多にいない極悪人だと思っていた。だが、星のそばに半年ついて、ようやく分かった。周囲に潜んでいる猛獣は、どれもこれも怜央級だ。彩香だって、駆け引きも裏切りも見てきた。それでも、ここまで生きるか死ぬかの争いは経験がない。正直、今の自分の力では荷が重い。そのことを、彩香は痛いほど分かっていた。つまり――星の秘書の席は、誰にでも務まるものじゃない。一歩間違えれば取り返しがつかない。最悪、命まで落とす。そんな状況をさばけるのは、仁志しかいない。しかも彼は、相手に致命傷を与えながら、その一方で星を押し上げることまでできる。さらに恐ろしいのは、今の星がすでに雲井グループ内で足場を固め、株主たちの支持まで得ていることだった。雲井グループに来たばかりで、ただの新人だった頃。彼女がどうやって生き延びてきたのか――想像す
「私は母のお腹から生まれた娘よ。それのどこに恥じるところがあるの?言いたいなら、どうぞ言えばいいわ。令嬢なんて虚名にすぎないもの。そんなつまらない称号のために、実の母を否定したりしないわ」怜央がこんな言葉を聞いたのは、生まれて初めてだった。そのとき、どう返すべきかすら分からなかった。彼は当然、明日香が名誉を最も重んじると思っていた。だが明日香は、それをまるで意に介していなかった。明日香は続けた。「さっき叔父さんと話していた内容、あなたも聞いていたでしょう。私の母は、父の命を救った人よ。父は記憶を失ったあと、母と恋に落ちたの。母は、父に家庭があ
星の瞳がわずかに縮んだ。「......司馬怜央?」怜央は薄く笑った。「星野さんに一度会おうと思っただけで、随分と骨が折れたよ。手間をかけさせられた」星は周囲を一瞥した。暗い倉庫でも地下室でもない。どこかの別荘のようだった。清潔で明るく、塵ひとつ落ちていない。黒ずくめの護衛が数名、周囲に控えている。そして少し離れた床には、意識を失ったままの彩香が倒れていた。星は冷静さを保ち、怜央へ視線を向けた。「司馬さん。私をここへ連れてきて、一体何の用?」怜央は淡々と言った。「星野さんは本当に芝居が上手だ。わかっていながら訊き返すとは」星は遠
影斗は一切迷わなかった。空港から出ることすらせず、その場で秘書に電話をかけた。「J市へ向かう最速のプライベートジェットを用意しろ。それから──J市に最も近い手駒を全員動かせ。あと一つ......」影斗の声が低く沈む。「航平の最近の行動を調べろ」電話を切ると、影斗は数秒だけ目を伏せ、すぐにまた航平へ電話をかけた。しかし、呼び出し音が鳴るばかりで、誰も出ない。影斗は、電話をかけ続けている時間すら惜しいと感じていた。彼はすぐに、手配した飛行機に乗り、J市へと飛び立った。J市とS市は距離が近い。移動はたった二時間。深夜、影斗はJ市へ到着した。移動
しかし、雅臣も電話に出なかった。今日は一体どうしたというのか。なぜ誰も電話に出ない?仁志が二度目の電話をかけたとき、ようやく応答があった。「もしもし、こちらは神谷の助手の高橋です。どちら様でしょうか。神谷に何かご用でしょうか?」仁志は言った。「仁志です。覚えていますか?」誠は記憶力が良い。ほとんど間を置かず思い出した。あの突出した容姿の男を忘れられるはずがない。「仁志さん、どうされましたか?」「雅臣さんと話がしたいんです。代わってもらえますか」誠は言い淀んでから答えた。「神谷は現在、重傷で入院しており......意識がなく、電