LOGIN「あの頃はね、星は毎日残業続きで、夜遅くまで働きっぱなしだったの。すっかり痩せちゃって……ひと回り小さくなったんじゃないかってくらい」提携というのは、ただ条件や金額をまとめれば成立するものではない。星は相手の要望に合わせて、細かい企画案まで作り込まなければならない。そして、その内容に相手が納得して初めて契約にこぎつけるのだ。だが、星が作ったプランは二度も差し戻された。そのたびに彩香は、夜遅くまで修正を続ける星の背中を見ながら、強い自責の念と申し訳なさを感じていた。仕事の面では、自分はどうやったって星には及ばない。できることは限られていて、結局は彼女一人に頼るしかないのだ。数人でしばらく談笑していると、オフィスのドアがノックされ、侑吾が書類を何部か抱えて入ってきた。彼が姿を見せた瞬間――その場にいた全員の視線が、一斉に彼へ向く。侑吾の笑顔がぴたりと固まった。頭皮がじわりと痺れるような感覚が走り、思わず小さく喉が鳴る。――なんだ?星さんも、彩香さんも、それに仁志さんまで……なんでそんな微妙な目で俺を見るんだ?「えっと……」侑吾は中に入りきれず、扉の前で立ち止まった。「し、資料を……星さんに届けに来ました……」その姿を見て、彩香は内心ひやりとする。――まさか仁志が戻ってくるなんて思ってなかったから、イケメンを……いや、違う。手配したのはイケメンじゃなくて、ボディーガードだ。とはいえ、見た目がいい方が気分がいいのも事実だ。それに、星にも侑吾にも余計な感情がないことはちゃんと確認していた。彩香はこれまでも星に恋愛を勧めたことはある。だが、今の彼女がそれを受け入れないことも分かっていた。――なのに。今この状況は、まるで親友に男をあてがっているところを現場で見つかったみたいな、なんとも言えない気まずさがあった。彩香はすぐに前へ出て、侑吾の手から書類を受け取る。「もういいわ、戻って」侑吾は何も言わず、そのままドアを閉め、逃げるように立ち去っていった。仁志はソファに腰掛けたまま、ゆっくりとテーブルの上のティーカップを手に取る。そして何気ない口調で尋ねた。「彼も今、雲井グループの邸宅に住んでいるのか?」さっきまでよく喋っていた彩香は、その一言で急に黙り込み、星へ視線を向けた。
そこまで言うと、彩香はいたずらっぽく笑った。「その中にね、D国の社長がいたんだけど、あの人、とにかく時間にルーズな人が大嫌いなの。だから私たち、翔をわざと遅刻させるように仕向けたのよ。それで向こうの案件を落とさせて、横からいただいたってわけ」星は、仁志に一から鍛えられてきた。翔を快く思っていないのは確かだが、ただ鬱憤を晴らしたいだけで動くような人間ではない。彼女はこう言っていた。「ただの憂さ晴らしなんて、子どものやることよ。動くなら、相手から何か奪わなきゃ損だわ。中途半端に刺激して警戒させたら、次に仕掛けるときこっちが不利になる。どうせ仕掛けるなら、気分も晴れて利益も取れる。それでこそ、動く意味があるの」星は忍耐強く、感情のコントロールも非常に安定していた。彼女たちはじっと機会を待ち続け――そしてついに、その瞬間を掴んだのだ。彩香の話を聞いて、仁志が口を開く。「事故を仕組んだのか?」その一言に、彩香はむっとして声を荒らげた。「絶対それ、翔が言ったんでしょ?あの器の小さい男、星に案件を取られたの根に持って、あちこちで悪口ばっか言ってるのよ」そして勢いのまま続ける。「私たちは何もしてないってば!もし本当に手を出してたら、雲井家が黙ってるわけないでしょ。とっくに難癖つけて、星に責任なすりつけてるはずよ。星だってそんな馬鹿じゃないわ。あんな弱み、自分から差し出すような真似するわけないでしょ」星はよく分かっている。水面下で争うのは構わない。だが、命に関わるようなことだけは絶対に越えてはならない一線だ。そこを越えれば、雲井家の中でも株主たちの前でも、正当性を失う。仁志はあえてそのまま話に乗るように尋ねた。「じゃあ、実際はどうだった?」彩香は肩をすくめる。「事故はあったわよ。でも、私たちがぶつけたわけじゃない。翔が追突したの」追突事故など、仕組むだけなら簡単だ。ちょっと急ブレーキを踏ませれば、それで済む。防ぎようもない。彩香はさらに続けた。「で、翔がぶつけたあと、こっちはチンピラを何人か待機させてたのよ。そいつらに絡ませて、絶対その場を離れられないようにしたの。少しでも立ち去ろうとしたら、逃げる気かって騒ぎ立てるし、その場で金を払おうとしてもダメ。『あとで恐喝されたって
そんなことは、株主たちが気にするような問題ではなかった。人付き合いのうまさも、世渡りの器用さも、そして運の強さもまた、実力のうちだ。そもそも最初、明日香が雲井グループに入ったときに支持を集めたのも、司馬家や葛西家がいくつものうまい案件を持ち込み、周囲に利益をもたらしたからだ。今や、星の勢いは誰にも止められない。先に忠を打ち破り、その後は葛西家のリソースの一部まで取り込んだ。将来性は計り知れない。それは、かつて葛西家が持ち込んだ数件の優遇案件などより、よほど人目を引く成果だった。正道派の株主の中にも、水面下ではすでに星側へ寝返り始めている者が少なくない。だが当然、それは正道や靖の警戒を招く。正道にとっては、まだいい。子どもたちがどう争おうと、最後に雲井家の人間が頂点に立つことに変わりはないからだ。だが――靖は、到底そうは思えないだろう。星は軽くうなずいた。「もう、覚悟はできてる」仁志は静かに言った。「靖が次の後継者に選ばれたのは、伊達じゃない。能力は本物だ。怜央や朝陽と同じくらい、厄介な相手だと思っておいた方がいい」そこで一度言葉を切り、続ける。「雲井グループ内でのあいつの人望は高い。短期間で取って代わるのは簡単じゃない。正道の後ろ盾もあるし、忠、翔、それに明日香もついてる」その黒い瞳が、まっすぐ星を見据えた。「星……この先の道は、決して楽じゃない」穏やかで整ったその顔立ちを見つめながら、星の胸の奥に、言葉にできない感情がじわりと込み上げた。こんな状況になってもなお――彼はまだ、自分のことを気にかけてくれている。昼食を終えると、仁志は提携の詳細を詰めるため、星とともに雲井グループへ戻った。その頃には、彩香も後始末を終え、星のオフィスで待っていた。仁志の姿を見た瞬間、彩香の目がぱっと輝く。「仁志!いつ戻ってきたの!?」彼が戻ることなど、これまで一度も聞かされていなかったのだ。仁志は微笑んだ。「今朝だ」その姿を見た途端、彩香はまるで救世主でも見つけたかのように、一気にまくしたてる。「仁志、星のアシスタントって、ほんと誰にでもできる仕事じゃないわ……ああ、戻ってきてくれて本当によかった。これでやっと少しはサボれる……」その言葉に、星がやんわり釘を刺した
その言葉に、星は一瞬きょとんとした。侑吾の容姿について、これまで意識したことがほとんどなかったのだ。まるで――知り合いなのに、顔がはっきり思い浮かばないような、そんな曖昧な感覚。仁志に指摘されて、ようやく考え始める。確かに侑吾は、見た目が悪いわけではない。彩香がボディーガードを探していたとき、「せっかくだし目の保養になるイケメンがいい」と言っていた気がする。仕事柄、彩香は美男美女が好きだ。見た目を重視していても、星は特に気にしていなかった。突然そんな話を振られ、数秒遅れて答える。「……まあ、悪くはないと思うけど」仁志は長いまつげをわずかに持ち上げ、影を帯びた視線で彼女を見た。「悪くない、ね」どうしてそこまで侑吾の見た目にこだわるのか分からず、星は問い返す。「逆に、良くないと思うの?」仁志は一瞬言葉に詰まり、数秒の沈黙が流れた。そして話題を変える。「この半年、どうしてた?」星はカップを持つ手に、わずかに力を込めた。「元気にしてたよ。仕事も……順調」無意識にカップを揺らしながら、何か言おうとする。礼の一つでも――だが、なぜか言葉にならない。気まずいわけではない。ただ――理由の分からない緊張があった。まるで、学生時代に先生に課題を見せるときのような感覚。仁志が口を開く。「溝口家の件はほぼ片付いた。しばらくはM国にいられる。ついでに、雲井グループとの提携も進めるつもりだ」星は彼を見つめる。「本当に、雲井グループと組むの?」仁志は彼女の考えを見透かしたように、淡々と続けた。「ここ数年、溝口家は事業が偏りすぎて、内向きに固まっていた。そろそろ外に出る時期だ。それに、今は評判もよくない。提携をためらう企業も多い。だから最初は、十分な利益を提示して動かすしかない。大きな優遇条件を出すのが一番現実的だ」理屈は理解できる。だが星は知っている。これほどの利益供与は、簡単に出せるものではない。たとえ雲井家が警戒していたとしても――断ることなどできないほど、魅力的な条件になる。「ただ――」仁志は言葉を切り、深く彼女を見据えた。「この案件が成立すれば、お前は靖にとって最大の脅威になる。星……覚悟はできてるか?」現在、星の雲井グループ内での支持率
プロのボディーガードである侑吾は、並外れて鋭い直感と、人並み以上の感受性を持っていた。だがこれまで何度か顔を合わせた怜央からは、あの男が危険人物だという気配を、一切感じ取ることができなかった。そして今――目の前の仁志を見て、侑吾が驚いたのは別の点だった。星の彼に対する態度が、どこか他の人間とは違って見えるのだ。ぱっと見では、特に変わった様子はない。だが言葉の選び方や立ち振る舞い、表情や視線の端々に、はっきりとした違いが滲んでいる。侑吾の姿を認めると、仁志はわずかに眉を上げた。そして視線を星へと移す。漆黒の瞳が彼女を射抜く。口元には笑みが浮かんでいるが、どこか無言の圧を感じさせる。「星野さん、そちらは……?」星は反射的に答えた。「彼は浅野侑吾。彩香が紹介してくれたボディーガードよ」星のボディーガードに選ばれる以上、侑吾は腕が立つだけでなく頭の回転も速い。すぐに柔らかい笑みを浮かべる。「仁志さん、浅野侑吾です。星さんと同じように、侑吾で構いません」その言葉に、仁志の瞳がわずかに揺れた。「……俺のことを知っているのか?」「ええ。星さんや彩香さんから、よくお話は聞いています」実際のところ、彩香はよく彼の話をしていたが、星自身が話題に出すことはほとんどなかった。仁志は一目で見抜く。侑吾が気を利かせて当たり障りのないことを言っているだけだと。だがそれを指摘することはなく、微笑んだまま続けた。「会ったことはないはずだろう?どうして俺だと分かった?」侑吾は照れくさそうに頭をかき、少しはにかむ。「いやぁ……仁志さんみたいな雰囲気の人、なかなかいませんから。一目で分かりました」仁志はしばらく彼を見つめ、それから口を開いた。「ちょうど星野さんと飯に行くところだ。一緒にどうだ?」ボディーガードとして、侑吾は当然、星の安全を確保する必要がある。返事をしようとした、その瞬間――「いいえ。侑吾は来ないわ」星が先に口を挟んだ。侑吾は一瞬で意図を察し、すぐに言い直す。「そうなんです。ちょっと用事がありまして。今回は遠慮しておきます」そう言って軽く頭を下げ、空気を読んでその場を離れた。侑吾が去ると、星はなぜかふっと肩の力を抜いた。二人の関係は、あくまで上司と部下。
明日香は言った。「だからこそ、あの人たちには潰し合ってもらう。そうすれば、私たちは漁夫の利を得られる」少し言葉を切り、肩をすくめる。「利用、か……」明日香は気にも留めないように笑った。「忠兄さんっていう突撃役がいなくなった今、あの人たちに残っている選択肢は一つだけ。私を押し上げて、星と張り合えるだけの資本を与えること。靖兄さんが私を支えて育てようとしてるのも、結局は、女の私なら大した波風は立てられないって思ってるから。将来、雲井グループで肩書きを与えておけば、私は喜んで靖兄さんのために働いて、価値を生み出す――そう踏んでる」そして淡々と言う。「でも今の私にとっても、その機会は必要だ。だから、まずは受け取る」雲井家が明日香を育ててきたのは、政略結婚の駒にするためだけではない。彼らは彼女の価値を一滴残らず搾り取るつもりだった。縁談は、その中でも一番利回りの低い手段に過ぎない。明日香の卓越した社交術は、確かに雲井家に「利益」を見せてきた。だからこそ雲井家は反対を押し切り、彼女を雲井グループに入社させたのだ。――家族愛?確かに、ゼロではない。だが多くもない。もちろん明日香も同じだ。利用されること自体は気にしない。自分が欲しいものさえ手に入るなら、それでいい。彼女にとって、仁志が戻るかどうかは、どちらに転んでも損にはならない。戻ってきて星を助け続ければ、星と雲井家の争いは激しくなる。彼女はそこで漁夫の利を得られる。戻ってこなければ、星の後ろ盾が弱まり、孤立する。水を濁してこそ、利益を拾える。ただ――明日香の目が、ふっと深く沈んだ。もし星が戻ってこなければ、彼女はこんなに苦労しなくて済んだはずだ。怜央と朝陽の助けを得て、雲井グループで一気に足場を固められただろう。怜央は片腕を失わず、立場も揺らがなかった。朝陽も、星と市場を奪い合うことに追われ、彼女に構う余裕を失うこともなかった。それまで明日香は、星を脅威だと思ったことなどなかった。だが今、はっきり分かってしまった。星が戻ったことで起きたバタフライ効果は、想像以上に恐ろしい。……オフィスに戻った星は、ようやく仮面を外した。椅子にもたれ、顎を少し上げて目を閉じる。そのとき、ドアが軽くノックされた。星は「どうぞ」と言う。すぐにドアが開き、聞き慣れた足音が入ってきた。
勇は、もはや以前のように星を挑発する勇気はなかった。下手に仕掛けて、彼女が乗らなければ困るからだ。だが、競売に参加すればするほど、積もり積もって大金になる。――さすがに影斗でも、いつまでも彼女に金を出し続けられるわけがない。そう信じて、勇は次々と入札を重ねた。結果、星は彼が札を入れた品を、ことごとく落札していく。最初のうち、勇は内心ほくそ笑んでいた。――今度こそ、星に大損をさせてやれる。だが、彼女が涼しい顔でカードを切り、品物を受け取る様子を見ていると、ふいに自分の方が妙に不安になってくる。彼女がここまでに使った金額は、すでに二十億を優に超えていた。勇の
この瞬間、ネット上での星に対する論調は大きく変わり、同時に雅臣への印象も天と地ほどにひっくり返った。ある推しカップルに夢中なファンはなおも食い下がる。【神谷雅臣が星野星に冷たかったのは、清子への深い愛情の証よ!誰にでも優しい八方美人みたいな男が好きなの?】【おいおい、勘違いしてないか?星野星は他人じゃない、正妻なんだぞ!神谷家に息子まで産んでる。その妻に優しくするのに、愛人の許可が必要なのか?頭大丈夫?】【私たちの女神・清子さんは愛人なんかじゃない!星野星こそ隙を突いて入り込んだ愛人よ!】【はいはい、そうね。あなた方の女神は愛人じゃなくて、既婚者と連
ところが――星は今回の競売に参加しなかった。勇は途端にどうしていいかわからなくなり、隣の雅臣に小声で尋ねた。「雅臣、星が入札してないんだ。俺も値を入れずに、あいつを揺さぶってやろうか?」雅臣は淡々と返す。「幼稚だな」「だって、星にひと泡吹かせてやりたいんだよ!なあ雅臣、ちょっとくらい助言してくれよ!」勇の頭では、星に敵うはずがない。普段なら、雅臣はこんな子供じみた戯れに耳を貸すことはなかった。だが彼はふと、先ほどの星の姿を思い出す。まばゆいほど自信に満ち、堂々としたあの表情。彼女は――自分を離れても、さほど困ってはいないように見えた。むしろ影
星は、ここ数日怜に会えていなかったせいか、無性に会いたくなっていた。時計を見て少し迷ったが、やはり幼稚園へ迎えに行くことにした。以前、園の門前で翔太や清子に何度か鉢合わせして以来、星が直接迎えに行くことは少なくなっていた。送り迎えはいつも運転手に任せ、怜もそれに不満を口にすることは一度もなかった。あまりに気を遣うその態度が、かえって星の胸を締めつける。かつて翔太に注いでいた愛情ほどではないが、気づけば、彼女はすでに怜を実の子のように慈しむようになっていた。自ら焼いた菓子を手に出かけようとしたその時、電話が鳴った。「榊怜くんの保護者の方ですか?園で少し問題がありま







