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第179話

作者: 浮島
二人は気づかなかったが、蒼空はすぐに手を下ろし、冷静な目でその背中を見つめていた。

彼女の視点からは、その男女がこっそり手を口元に当てて息を吹きかけ、自分の息が臭くないか確認している様子がはっきり見えた。

蒼空の唇に、皮肉な笑みが浮かぶ。

まったく、阿呆が二人。

しばらくして審査がまとまり、小百合が成績表を持って壇上に上がり、マイクを取った。

予選から準決勝への進出者は、一位から順に発表される。

この予選一位は、案の定、瑠々だった。

それは蒼空にとって想定内のことだった。

瑠々は前世で彼女の作曲を盗んだとはいえ、元々ある程度の実力はある。

ただ人の心を震わせるような曲を書く力量はないだけの話。

しかも今回はクラシックの定番曲を弾いていた。

瑠々が最も得意とするレパートリーだ。

失敗するはずがない。

一位の名が呼ばれた瞬間、観客席も審査員席も、途切れることのない拍手で埋め尽くされた。

白いロングドレスに包まれたその立ち姿は、より一層細く優雅に見え、その佇まいと微笑みは、まさに群れの中の一羽の鶴――

誰よりも目立つ。

人々の前で、彼女はそっと瑛司に視線を送り、微笑む。

そして裾を持ち上げ優雅に壇上へ。

小百合の手から、予選一位の賞状を受け取った。

さらに大きな拍手が沸き起こる。

蒼空はそれにはほとんど関心を示さなかった。

それよりも、自分の順位のほうがずっと重要だ。

瑠々が席に戻り、次々に他の入賞者が壇上へ呼ばれていく。

しかし、なかなか自分の名前が呼ばれない。

蒼空の眉間に、静かに皺が寄っていく。

今回のシーサイド・ピアノコンクールには百人以上の参加者がいた。

予選通過者は六十名余り。

六十位まで発表されたが――

まだ名前がない。

蒼空の手のひらに、じっとり汗がにじんだ。

64位が読み上げられた瞬間も――

違った。

さすがに表情が陰る。

64位とは、下から二番目。

つまり――

残る枠は一つだけ。

蒼空は顔を上げ、黒と白のくっきりした瞳で、壇上の小百合をじっと見つめた。

その眼差しには緊張の色は一切浮かんでいない。

けれど、それが虚勢だと分かっているのは本人だけ。

掌にはもうびっしり汗が滲み、指先もうまく力が入らない。

周囲の多くが振り返り、嘲笑を隠そうともしない。

「言ったろ?関水が準決
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