突然のキスは、まるで嵐のように私を襲った。慎一の舌先は信じられないほど巧みで強引に、私の口の中を隅々まで探ってくる。頭が真っ白になり、抵抗する暇もなく、全身の感覚が一気に溶けていく。ただ、鼻先をかすめる淡いタバコの香りだけが、私の脳を痺れさせる。彼は言葉もなく、ただキスだけで欲望をぶつけてくる。その熱に、私の血は頭に昇り、体中の神経が焼き尽くされそうになった。痛いくらいに、苦しくなるほどに。我に返った私は、手を伸ばして彼の胸を押し返そうとしたけれど、それすら彼に指ごと握られて、逃げ道を塞がれる。次の瞬間、手の甲が車窓に押し付けられ、熱い跡が残った。慎一は、まるで理性を失ってしまったみたいだった。私の体は、寸分の隙もなく彼に閉じ込められる。逃げ場なんて与えてくれない。冷たかったはずの唇と舌も、激しい絡みに熱を帯びていく。言葉を発しようとした瞬間、彼はさらに深く舌を差し込んできて、私の抵抗も嗚咽も、すべて飲み込まれていった……どれくらい経っただろう。やっと一瞬、息をつける隙間ができた。その瞬間、私は彼の舌先に思いきり噛みついた。血の味が口の中に広がる。彼は痛みに顔を歪めて離れた。慎一が、血の滲んだ舌先で唇を舐めながら、真っ赤な目で私を見つめる。その目には責めるような色が浮かんでいた。「まだ、俺のことが迷惑だって思ってるのか?」嗜虐的なその姿に、私は言葉が出なかった。唇が震える。私は高く腕を振り上げて、彼の図々しい顔を思い切り打った。パァン!大きな音が車内に響き、彼の顔が横を向く。彼は避けようともせず、私の一撃をまともに受け止め、頬には赤い跡が浮かんできた。「私たち、離婚するのよ!」私は震える声で叫んだ。「知ってるさ」彼は顔を戻し、親指で頬をさすりながら、冷笑を浮かべる。「だったら、徹底的に迷惑してくれよ。離婚してからも俺に絡まれるとか、マジで勘弁だし」「これは、もう犯罪よ!」「ふん、お前、俺に何ができるっていうんだ?」そう言うなり、私に思考の隙間すら与えず、片手でうなじを掴み、また私を引き寄せてきた……私は、彼の言葉に手足を縛られたみたいに、どうしようもなかった。沈むような苦しさが胸を締めつける。彼は、雲香と同じことを言ったのだ。きっと、慎一が彼女を保釈した時も、あの誇り高い態度で、この
私はもう、もがくのをやめた。慎一が、まるで私が拒むのを恐れているかのように口を開いた。「普段、そういうもの……どこにしまってるのか俺は知らない」結婚したばかりの頃、慎一は私に次第に冷たくなっていった。家に一人でいる時、私はよく、あれを手に取って眺めていた。書類の中身を読むと、本当に彼と結婚したんだって実感が湧いた。まるで宝物のように、それを大切にしていた。特注の、綺麗なケースまで買って。高かったけど、後悔はしてない。ケースにはダイヤモンドがあしらわれている。それは、ダイヤモンドが永遠の愛を象徴するからだった。でも、人生って本当に予想がつかない。私は無理に笑ってみせた。「寝室の……」彼は私の言葉を遮り、私を車に押し込んだ。「言わなくていい。自分で探せ」まるで御曹司が命令するような、誰の指図も受け付けない横柄さ。どこまでも淡々としていて、何も気にしていない、聞く気もないし、覚えるつもりもない。私は口を開きかけたが、胸の中の感情は彼の一言で氷水を浴びせられたように冷めてしまった。もう一言でも余計なことを言えば、きっと私の方が失礼になる。彼は、すぐに他人行儀な態度に切り替わった。私と彼の関係は「霍田社長」と「安井さん」――他人同士の間には境界線が必要だと、頭では分かっている。私は自分に言い聞かせた。書類さえ見つければ、あとは何も言わずに立ち去れる。彼と同じ車内にいるだけで、息苦しくなる。この車も、昔、彼が私ともっと距離を縮めたくて買い替えたものだった。あの時はわざわざ迎えに来てくれて、今でもあの時の震えるような気持ち、彼の胸元を伝う汗の熱さまで、思い出せる。彼と愛し合ったあの時間に、後悔はない。ただ、あの美しい記憶があったからこそ、今また彼とこの狭い空間に閉じ込められているのが、自分で自分を苦しめているようで、心底つらかった。私は唇を噛んで視線をそらし、必死に他のことを考えようとした。けれど、どうしても体が熱くなってしまい、呼吸までもが火照って感じた。慎一は私を冷ややかに一瞥し、ズボンの裾を直して右足を左足に乗せた。「ついでに、家の荷物も全部まとめて持ってってくれ」私は彼を睨んだ。彼の顔は外の夜よりも暗かった。いったい、私の荷物をどこに持っていけと言うの?「明日、業者に頼んで……」「だめだ。
私は顔に平然を装った笑みを浮かべ、あっさりと頷いた。「それじゃあ、霍田社長にお子さんが早く授かりますように」なんだか胸が痛んだ。こんなにもあっさり終わるなんて思わなかった。きっと、霍田当主が約束してくれた財産を手に入れ損ねたから、私はこんなに悲しいんだろう……私は足をもう一度踏み出し、背を向けて、この揉め事の現場から早く立ち去ろうとした。その時、彼の大きな手が私の肩をがっちりと掴んだ。まるで真っ赤に焼けた炭が、私の皮膚に無理やり押し当てられたみたいに、心の奥にズキンと大きな傷ができた。その傷は、どうやってもくっつくことがなかった。私は無理に笑顔を作って、「霍田社長、まだ何か?」「霍田社長?」彼はかすれた声で繰り返し、口元にかすかな嘲笑を浮かべた。「安井さん」その「安井さん」という呼び方に、私は思わず涙がこぼれそうになった。昔、まだ何も分からない青春の頃、ひたむきな想いであの人に近づいて、やっとのことで「安井さん」と呼んでもらえた。あの時、彼は立ち上がって、紳士的に私の椅子を引いてくれた。あれが彼と初めてお見合いした時の光景だった。彼は端的に言った。「俺、そろそろ結婚を考えてるんだ。今日は、そのつもりで来た。安井さんの気持ちを、教えてほしい」その時の私は、彼の声がとても心地よく、ストレートに想いを伝えてくれる男性がとてもかっこよく見えて、「この人と結婚したい」と心から思った。それから何年も経って、また彼に「安井さん」と呼ばれた。そして、「安井さん、明日、役所に行って離婚しよう」と言われた。彼は上機嫌そうに微笑んだ。その美しさに、私は目を離せなかった。ただ、その唇の曲線はすぐに真っすぐになり、冷たさが戻った。私はなぜか目が熱くなって、慌てて視線をそらし、静かに返事をした。私と彼の結婚生活も、ついにこの日を迎えたのだ。慎一の優しさも、紳士的なところも、愛情も、強引さも、冷たさも、全部味わった。もう、思い残すことはない。私は彼の手を振り払って、ついに一歩を踏み出した。早足で歩き出し、やっと彼をこの冷たい廊下に置いていけると思った、その瞬間。背後で風が巻き起こった。私は段差の上でふわりと宙に浮き、気づけば彼の腕の中に落ちていた。強く、力強く抱きしめられて。「ちょっと、何してるの!放してよ!」
慎一と顔を合わせなくなって、もう一週間が過ぎた。彼からの連絡も一切ない。前に彼からあんな冷たい言葉を浴びせられて、まるで心臓が氷水に沈められたみたいに一週間を過ごしたけれど、それっきり彼は姿を消した。私と彼の人生は、もう交わらない。ずっとそうだったけど、私が必死に追いかけなければ、彼には二度と会えないんだと痛感する。それでも、私の大切な人たちに彼が手を出さなかったことだけは、心底ほっとしている。別れた人間は、二度と会うことのない覚悟が必要なんだ。けれど、ここで私と出くわすことに、彼は少しも驚いた様子はなかった。私を見つけた瞬間の彼の顔色は悪い。まあ、私も今この瞬間、決していい顔はしていないはずだけど。お互いに、誰も会いたくない相手との最悪な再会。そう確信できる空気が、しんと流れていた。無視して通り過ぎようと決めた私は、彼に挨拶する気もなく足を速める。慎一の大きな体が、天井の明かりをすっぽりと遮って、私の前に大きな影を落とす。私は、あえて気づかないふりでその影を踏み抜く。けれど、影に足を踏み入れた瞬間、体中の熱が一気に吸い取られるようで、思わず身震いしてしまう。そのまま早足で通り抜けようとしたが、その時、手首を彼にぐいっと掴まれた!強い力で、間違いなく手首は真っ赤になったはずだ。背中を壁に押しつけられ、彼の体も覆いかぶさってくる。彼の息遣いと、独特の香りが一気に迫ってきた。それはお茶の香りじゃなくて、かすかな煙草の匂い。彼が顔を近づける。その匂いがもっとはっきりして、ああ、今日も彼は煙草を吸ったんだと分かった。「慎一!」私はとっさにお腹をかばうように手を伸ばし、さりげなく彼との間に距離を作ろうとした。煙草の匂いも、体の圧迫感も、今の私にとっては危険なものだった。彼の呼吸は重く沈んでいる。私は彼を睨みつけ、無言の抗議を込めて力を込める。「親父と賭けをしたんだ」沈黙が続くかと思いきや、彼は突然そう呟いた。私は一瞬きょとんとして、父子の賭けなんて私に何の関係があるのか分からず、不機嫌な声で「放してよ」と言った。彼の息が止まり、私の無茶を飲み込んだかのように自分のペースで話し始める。「お前、気にならないのか?」ひんやりとした指先が私の顎をそっと持ち上げ、絡みつくような空気の中で彼の視線
霍田当主はふっと笑みを浮かべた。「君は、男が何かを手に入れたいときの執念を甘く見ている。家族が欲しいと思えば、どんな手段でも手に入れようとするものさ」胸の奥が少しだけ沈んだ。確かに、ちょっと悔しい気がした。だって、私は慎一にとってどうしても欲しいと思わせる妻じゃなかった。でも、彼は私がどれだけ努力して近づいても決して手に入らない存在だった。霍田当主は酸素マスクを手に取り、深く何度も吸い込んだ。その仕草はまるで昔の時代劇で煙管をふかす老人のようで、目を細めてかすれた声で言った。「でも心配しなくていい。君にはきちんと償うつもりだよ。どれだけ贅沢しても一生困らないだけの保証をする。それが、亡くなった君のご両親に対してもせめてもの誠意ってもんだ」家族も、愛も、責任も、彼の口から出ると、まるで値札のついた商品みたいだった。やっぱり金持ちの世界ってこうなんだろう。何でも金で解決できると信じてる。人の心だって、所詮は金で動かせるって。今目の前にいるのは、余命わずかな父親だ。人生の終わりに、息子のために最後の手を打とうとしている。彼は道徳という仮面をかぶって、私に慎一との離婚を求めている。どんな手を使ってでも、たとえ私が慎一に憎まれるような役回りをしてでも。もし私が応じれば、私と慎一のこれからは、他人の思惑に操られるだけのものになる。もし断れば、やつれた老人が静かに私を責める――言葉もなく。まるで、何十年も掃除されてない部屋に足を踏み入れたみたいだった。埃が喉にも胸にも詰まって、息ができない。「君はあいつを愛してるのか?」霍田当主は鼻で笑った。「本当に愛してるなら、なおさらあいつのことを考えるべきじゃないか」私は少し黙って、目を伏せた。「もう、愛していない」その言葉を口にした瞬間、不思議と心が軽くなった気がした。まるで、よくドラマで見る「姑がヒロインに大金を積んで息子と別れさせる」って展開そのままだ。ただ違うのは、相手が舅で、しかも高圧的でもなんでもない。これが現実ってものなんだろう。名家ってのは、普通はこういう時も取り乱さない。何代も続いた家ってのは、どんな時でも冷静でいられるものだ。霍田当主が今にも命尽きそうでも、やっぱり涼しい顔を崩さなかった。金を受け取って家を出るのも悪くない。慎一が自分で掴み取る婚姻を選ぶ
霍田当主のその言葉には、深く沈んだ痛みがにじんでいた。彼の枯れたような瞳から、ぽろりと涙が二粒、静かに零れ落ちる。「佳奈、君のこと、今でも好きなんだ。本当にすまないと思ってる」「だけど、君は……子どもができないだろう……」無意識に、私は手のひらを下腹部にあてていた。自分の中にあるものが何なのか、私にも分からない。誰にも望まれなかった命が、静かに、知らぬ間にこの世にやって来ていた。この瞬間、私は、この子だけは何としてでも産みたい、そんな願いが頂点に達していた。たとえ世界中の誰も君の存在を知らなくても、ママは君を愛しているよ、と。さっき病院で検査を受けたとき、先生が言った言葉を思い出す。「体自体は悪くないですが、黄体ホルモンの数値が低いです」薬も処方された。私は心に誓う。もしこの子が無事にこの世に生まれてきてくれたなら、私は誰よりも盛大な花火を上げて、この子の誕生を祝うから。「普通なら、まだ若いんだからしっかり治療すれば、子どもも望めるはずだ。でも、俺の体が……」霍田当主はぎこちなく腕を動かし、虚ろな目で私を見つめる。「もう、待てないんだ……」本当は、今日は自分が傷つくつもりなんてなかったはずなのに、気付けば二度も打ちのめされていた。ひとつは、ここ数日連絡も取っていなかった雲香のこと。もうひとつは、霍田当主の、あまりにも丁寧で、時に卑屈にさえ感じられる語り口……怒る隙さえ与えられず、ただただ積み重なるのは、息苦しくなるほどの重苦しい気持ちだけだった。息が詰まりそうだった。こんな霍田当主を前にしたら、もう大声で言い返す気力すら湧かない。悪い感情はぐるりと体内を巡り、口から出たときには、もう随分と落ち着いていた。「このこと、私に言う必要なんてないよ。慎一が真思と体外受精をしたいなら、私が止める権利もないし、止めるつもりもない」「自分の息子のことくらい、分かってるでしょ?」私は力なく笑った。「この件で謝るべき人間は、お義父さんじゃない」私の夫は、今まで一度も、ちゃんと私を選んでくれたことがなかった。その事実がある限り、他人の謝罪で償えるわけがないし、そんな謝罪を受け入れるつもりもなかった。「はは、それがな……俺、あいつのこと、よく知ってるんだ。今回、俺の体のことを気にして、真思との体外受精に表