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第439話

Author: 三佐咲美
会議室の中、慎一は片手をポケットに突っ込んだまま窓辺に立っていた。長身の彼は足を優雅に組み替え、その佇まいはまるでこの場所が自分のものであるかのように、微塵も気後れなど感じさせなかった。

ただ静かにそこに立っているだけ。背中しか見えていなくても、そこにあるのは明らかに支配者の威圧感だった。

もし彼の過去を知らなければ、誰が数日前、絶望の淵でビルの屋上に立っていた男と、この完璧な男とを結びつけることができただろうか。

あの時の光景を思い出すだけで、私は心の中がぐちゃぐちゃになり、つい苦笑いを浮かべてしまう。

私が崩れそうになるのは、彼を追い詰めた最後の一押しが自分だったせいなのか、それとも彼に同情してしまった自分自身が情けなくてなのか、自分でも分からない。

会議室のドアがガチャリと開き、卓也が入ってきた。その瞬間、慎一が振り返り、ちょうど私の皮肉な微笑みと目が合った。

彼はちらりと会議机の前に座る雲香を見やる。その瞳は一瞬陰りを帯びたが、私に声をかけてくることはなかった。

むしろ雲香の方が、私を見つけた瞬間から得意げな表情を隠せずにいた。「佳奈、お兄ちゃんは仕事の話だって言ってたけど、私どうしても心配で付いてきちゃったの。迷惑じゃないよね?」

私は淡々と「ええ」とだけ返し、椅子に腰掛けた。しかし見えないところで、手にした資料をぎゅっと握りしめていた。

慎一は奥歯を噛み締め、痩せた横顔に力が入っている。その目は赤く、向かいの私の顔から何か感情の起伏を探そうとして……しかし、何も見つけられなかった。

もう自信なんてないのだろう。

彼ははっきり分かったのだ、この女はもう自分のことなんて考えていないと。たとえこの数日会わなかったとしても、もう二度と会えないかもしれなかったとしても。

昔の彼なら、どんな手を使ってでも彼女の目に自分を映させようとしただろう。でも、今の彼にそんな資格があるのか。

彼は伏し目がちに机を見つめ、冷たい声で言った。「さっさと済ませろ」

私はふっと笑い、つい場違いなことを口にした。「大丈夫?ここに座ってるの、辛くない?」

その言葉に、慎一の目が一瞬だけ潤む。途端に、どうしようもない無力感に襲われた。彼女が本当に彼のことを気にしているなら、あの日、彼を見捨てて帰ったりしなかったはずだ。

今さら何が起きても、あの日ほどの出来事は
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シマエナガlove
義妹を徹底的に潰す まじで刑務所いれて 死ぬまで出てこれないように 義妹は殺人犯なんだよ 真一の意見聞く必要ない また佳奈が狙われるだけ
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