LOGIN経理パートの槻木理央は、八十万円の横領犯に仕立てられ、会社も信用も居場所も失った。 「パート一人、辞めてもらうだけの話だよ」 そう笑った社長・三崎を前に、理央は何も返せなかった。 再就職先にも拒まれ、追い詰められた彼女が辿り着いたのは、若頭・黒瀬が仕切る夜の店。 接客では値がつかない。けれど伝票の違和感を見抜いた理央に、黒瀬は金庫の仕事を預ける。 「この店で、俺が勘定を預けた女に、勝手に声をかけるな」 そして店の奥の個室に現れたのは、理央を横領犯にして捨てた三崎だった。 奪われた名前、消された信用、踏みにじられた七年。 安く切られた女は、若頭の金庫を握り、元社長の嘘を一枚ずつ暴いていく。
View More半年後。私は、若頭の店で、自分を横領犯に仕立てて捨てた会社へ続く、最初の確かな線を握っていた。数字で、あの会社を追い詰める側へ――ようやく、回り始めていた。隣には、表の世界には絶対に出てこない男がいて、低い声で私にこう言う。
「その席、誰にも譲るな」
――でも、この夜の私は、まだ何も知らない。
一枚の伝票が、私の人生を焼き払おうとしていることも。その火を、いつか私が同じ数字で消し止めることも。
横領犯。八十万円を盗んだ女。そう書かれた紙一枚で、私は仕事も、信用も、明日も、いっぺんに失った。盗んでなんか、いない。一円も。それを胸を張って言える場所にたどり着くまで、半年かかった。
始まりは、八十万円だった。
経理の月末は、空気が薄い。電卓の音、誰かのため息、コピー機の
画面の一行で、指が止まった。
外注費。八十万円。支払先「リベルタ企画」。見覚えのない名義。
請求書はある。でも備考が曖昧だった。「コンサルティング業務一式」。日付も、いつもの締めから一日だけずれている。
大きすぎれば監査に引っかかる。
小さすぎれば手間に合わない。
八十万円は、紛れ込ませるのにちょうどいい額だ。
直感がそう言った。
私はこの会社で七年、数字の手触りだけで居場所を作ってきた。
健全な金は季節のように流れる。
給与の山、仕入れの谷、家賃の定点。
この八十万円は、その流れに混じった異物だった。
「畑中さん」経理課長を呼んだ。畑中は顔も上げない。
「この外注費、内容が確認できないんですが」
「社長決裁だよ」
「請求書の中身が、ちょっと」
「請求書があるなら通して」声に、面倒の色が混じった。「パートさんが踏み込むとこじゃないから」
私は引き下がった。表向きは。畑中がちらりと私を見た。値踏みする目だった。お前の言葉に重さはない。そういう目。知っている。同じことを正社員が言えば検討事項になり、パートが言えば余計な詮索になる。
それでも、引っかかったものは消えない。私は手帳に短く書いた。請求書番号。支払日。口座の下四桁。父が死んでから、ずっとこうやって生きてきた。覚えておくこと。残しておくこと。後ろ盾のない人間の、唯一の武器だ。
請求書の現物を、もう一度引っ張り出した。社判の朱が、いつもより薄い。コピーを重ね取りした紙特有の、わずかな
夕方、社長室の前で三崎清隆とすれ違った。
「いつも助かってるよ、
柔らかい笑み。人当たりのいい声。なのに、背筋が冷えた。社長が、パートの私の名前を知っている。それも、苗字を。普段、この人が私みたいな人間に目を留めることはない。
すれ違いざま、社長室へ運ばれていく封筒が見えた。経理の伝票が入るような厚みじゃない。もっと私的な、別の紙の束。封の端に印刷された宛名が、一瞬だけ目に入った。
頭の文字が、さっきの八十万円の支払先と、同じだった。
席に戻って、システムを開いた。当該データの履歴を見ようとして、指が止まる。
「閲覧権限がありません」
昨日まで開けた。確かに見られた。一日で、たった一つのデータだけ、見えなくなっている。権限の変更には承認がいる。誰かが申請して、誰かが通した。私が八十万円に触れた、その翌日に。
背中が、じわりと冷たくなった。良すぎる偶然の裏には、たいてい誰かの意図がある。
帰り際、ふと振り返った。経理部のモニターが一台、まだ灯っている。私の席じゃない。誰かが、何かを確認している。画面に並んでいたのは、見覚えのある列だった。
閲覧履歴。利用者名の欄に、「ツキギ リオ」と並んでいる。
私が、いつ、どのデータを開いたか。それを、誰かが一行ずつ追っていた。
私は気づいた。そして、気づいたことを、もう相手に気づかれていた。
それは、誰かの受け売りだった。「感情で動くな。記録しろ」。あの男の言葉が、もう私の中に住み着いている。 黒瀬の口元が、ほんのわずかに動いた。笑った、とは言えない。けれど、何かが緩んだ。「明日、もう一度、最初から見ろ」 事実上の、実務参加命令だった。 九条さんが、驚いた顔をした。新人同然の女に店の売上を触らせる。異例だ。会計担当のスタッフは露骨に不満そうな顔をしていた。それでも黒瀬は撤回しなかった。 去り際、黒瀬は私に背を向けたまま、低く言った。「傷を見つける目は、悪くない」 それだけだった。 褒め言葉ではない。評価だ。商品に値段をつける男が、私の能力に初めて値段をつけた。胸の奥が、少しだけ熱くなった。それを気づかれたくなくて、私は資料に目を落とした。 九条さんが、私を見て苦笑した。「君、たぶん明日から、何人かに嫌われるよ」「慣れてます」「でも」 九条さんは、少しだけ真面目な顔になった。「黒瀬さんに『悪くない』って言わせたの、私の知る限り、二人目だよ」「一人目は」「言わない方がいい。気が重くなるから」 その夜、私はメモに書いた。「店の売上に、継続的な抜き。犯人はたぶん身内。黒瀬から、売上確認の参加を命じられた」 最後に、もう一行。「会社では、傷を見つけた私が切られた。ここでは、傷を見つけた私が、使
その夜、店の売上にズレが出た。 数万円。大きな額じゃない。会計担当のスタッフは「入力ミスかも」と軽く流そうとした。閉店後の事務室は疲れた空気で、誰もが早く帰りたがっていた。 私は横で見ていた。そして引っかかった。 金額のズレより、ズレ方が気になった。整いすぎている。 偶然のミスなら誤差は散らばるはずだ。 ここが多くて、あそこが少なくて。 けれど、このズレは違った。 ある席とある処理だけにきれいに偏っている。 偶然は、こんなに行儀よくない。 整いすぎたものは、必ず人の手が入っている。 これも、会社で覚えたことだった。 口を出すべきか迷った。私はまだ新人同然だ。店のルールも、ろくに知らない。出しゃばれば嫌われる。会社で覚えた処世術が、そう囁いた。黙っていれば、波風は立たない。 でも、会社で黙らなかった私は、切られた。黙った私も、結局は切られた。だったら、どっちでも同じだ。 でも、見過ごせなかった。 私は九条さんにだけ、小さく伝えた。「このズレ、たぶんミスじゃないです」 九条さんは、最初は半信半疑だった。「根拠は」 私は、ボトル記録と送り表、伝票の控えを並べた。それから、修正処理の入った時間を指でなぞった。「同じ席で、同じくらいの額が毎回少しずつ抜かれてます。派手な額じゃない。気づかれにくい額です。それに
営業後、九条さんに呼ばれた。「黒瀬さんが、話があるって」 事務室の空気は、取り調べに近い緊張があった。黒瀬は椅子に浅く腰かけ、私を見ていた。机の上には、何も置かれていない。それが逆に怖かった。 前置きはなかった。「さっきの客、知り合いか」 即答できなかった。けれど、この男に中途半端な誤魔化しは危険だと、本能でわかった。さっき、私のことを全部見ていた目だ。「前の勤務先の社長です」「辞めた理由は」 私は、屈辱を飲み込んだ。「横領の濡れ衣を着せられました。八十万円の外注費を、私が抜いたことにされて。承認権限なんてないのに。気づいて確認しようとしたら、逆に犯人にされたんです」 黒瀬は黙って聞いていた。同情も、慰めもない。「そうか」 たった一言で、話は終わった。私は、かえって腹が立った。ひどい話を打ち明けたのに、眉一つ動かさない。哀れみすら、向けてくれないのか。 けれど、黒瀬の次の言葉は、予想を完全に裏切った。「その男、今日の支払いで、何に気づいた」 慰めでも、説教でもない。観察結果を、聞かれている。頭が、勝手に切り替わった。「法人カードと現金の併用です。一番偉いのは三崎ですが、金は出していない。出してたのは取引先の方。借りを作らせる側と、作る側が、はっきりしてました」「他には」「領収の切り方です。会社名を、はっきり書かせたがらない。一枚だけ別に切らせていました。あれは、後で別の名目に付け替える切り方です」 そこまで言っ
だったら、消えない。 私は、もう一度モニターを見た。三崎の笑顔を、目に焼きつける。今度は、私が観察する側だ。 そのとき、視界の端で、空気が動いた。 奥の通路に、黒瀬が立っていた。 いつからそこにいたのか、わからない。けれど、見られていた。私の白くなった顔も、三崎を見る目も、震える指で控えに書きつける動きも。全部。 黒瀬は何も言わなかった。 ただ私を見ていた。値踏みの目だ。けれど初めて会ったときとは少し違う。何かを測り直しているような目。怯えて崩れる女なのか。それとも、崩れずに数える女なのか。たぶん、それを見ていた。 私は目を逸らさなかった。逸らしたら、また安く見られる気がした。 三崎の卓が片付き、笑い声が遠ざかっていく。あの男は、私がここにいることを知らない。同じ建物の中で、同じ夜に、自分が潰した女が、自分の支払いを記録していることを。 知らないまま、笑って帰っていった。 店を出る前、三崎は若い女の腰に手を回した。 会社では絶対に見せない仕草。 ここでは気が緩むのだろう。 誰も自分を裁けないと信じている男の、無防備な背中。 その油断こそ、私が探していたものだった。 会議室であの男が私に勝てたのは、私が油断していたからだ。 今度は逆になる。 その背中に、私は心の中で告げた。 あなたが消した私を、私はこれから、数えていきます。&nb