光陽は、少し驚いたようだった。この数年、彼は様々な紗江を見てきた。素直で純真な紗江。従順で聞き分けのいい紗江。そして、取り乱して泣きながらすがりついた紗江。紗江は彼の前で、無邪気にもなったし、艶やかにもなったし、泣いたことも笑ったことも喚いたこともある。だが、今のように、これほど静かで、これほど冷ややかな紗江を、彼は一度たりとも見たことがなかった。彼は彩葉を押しのけて、無表情のまま紗江の前に立った。「紗江、最後に言っておく。彩葉に謝れ」紗江は彼をまっすぐに見つめたまま、ふと笑った。決別の笑み、そして破れかぶれの笑みだった。「光陽......私は謝らない。死んでも、謝らない」その瞬間、鋭く、乾いたビンタの音が廊下に響いた。鋭く、冷たく、鮮やかに。その平手打ちに、光陽まで一瞬呆然としたようだった。彩葉さえ、信じられないという顔で目を見開いていた。ただ一人、紗江は、ゆっくりと痛む頬に手を当て、少しずつ、瞳を赤く染めていった。「紗江......」光陽は無意識のうちに一歩近づいた。だが、紗江は反射的に一歩退いた。彼が伸ばそうとした手は、空中で止まりってから、すぐに冷たい表情で下ろされた。「紗江、これは自業自得だ。お前が素直に謝っていれば、俺も手を出さなかった」彼の声は低く、かすれがちだった。「俺は......女に手を挙げたことなんて、これまで一度もない。これだけ長く一緒にいても、一度だってお前に乱暴したことはなかった。でも、今日はお前が彩葉に手を出した。それがだめだ。彩葉を好きになったのは俺だ。彼女は悪くない。紗江、もうやめろ。せめて、自分の尊厳くらいは守れ」口数の少ない彼が、これほど多くを語ることはなかった。だが紗江は、その一言一句すら、耳に入らなかった。瞳は真っ赤に染まり、どうしても抑えきれない涙があふれてきた。泣きたくなかった。しかし、涙は止まることができなかった。光陽は、いつの間にか拳を強く握りしめていた。その眉間にも、深い皺が刻まれていた。彩葉がそっと彼のそばに寄り添って言った。「光陽、もういいわ。行きましょう」彼は彼女の手を握り返した。だが視線は、なお紗江の顔に向けられたままだった。「紗江。彩葉にもう近づくな。これから先、
その日の帰宅後、紗江のもとには多くのメッセージや電話が届いていた。その大半は、彩葉のSNS投稿のスクリーンショットで、中でひときわ目立っていたのは、彼女が載せた婚約指輪の写真だった。紗江は無言のままアプリを閉じ、誰にも返信しなかった。電話も一切取らなかった。顔はまだ腫れていたため、氷で冷やすことにした。そして戻ってくると、スマホの画面には、新たな入金通知が表示されていた。何気なく開いてみると、その桁数の多さに思わず目を見開いた。数えきる前に、着信音が鳴り響いた。ディスプレイに浮かんだ「財前深志」という文字だった。それは彼女自分で登録した名前だった。婚約が決まって以来、深志からの初めての電話だった。心臓の鼓動が速くなるのを感じ、深呼吸を数回してから、通話ボタンを押した。「元松さん、お金は受け取ったか?」「はい、受け取りました......でも財前さん、結納金はすでにお支払いいただいたはずでは......」紗江は控えめにそう伝えながら、誰かが間違えて送金したのではないかと考えた。「結納金は元松家に送ったものだ。今回の金は、君個人に贈ったものだ」その言葉に、紗江はスマホを握りしめたまま、しばらく黙り込んだ。やがて低く、かすれた声で答えた。「財前さん、そんなことをしていただかなくても大丈夫です。私......以前に婚約していたこともありますし、評判も......」「構わない」深志の声は、静かでありながら、どこか人の心を落ち着かせる響きを持っていた。噂で語られる彼は、冷酷で容赦なく、気まぐれで暴力的とまで言われる男だった。だが今、受話口から聞こえてくる声には、そんな人物像は微塵も感じられなかった。「君も言っただろう、『以前』の話だ。過去は過去、今はもう別の話だ。気にするな。もうすぐ遠く港市に嫁ぐことになるから、欲しいものがあれば、持っていくといい」紗江は、思わず目に涙をためながらも、微笑んで感謝の言葉を口にした。「ありがとうございます、財前さん」港市への嫁入りの話は、一切外部に漏れていなかった。それは、深志の意向だった。財前家からの迎えの者たちは、すでに東都市に到着していた。彼らの存在ゆえに、元松家の人間は静かに従っていた。そのため、紗江が遠く港市へと嫁ぐ
紗江は、財前家から迎えに来た人々に付き添って、静かに東都市を離れた。そして二日後――彼女は初めて、未来の夫と対面することになった。彼の名は財前深志、財前家の跡取りだ。よく仕立てられた黒のスーツをまとって、その姿は高貴で端正だった。車椅子に座り、膝には薄い毛布が掛けられていたが、背筋はまっすぐに伸び、広い肩は力強く、見る者に障害を意識させない堂々とした佇まいだった。「紗江」低く、静かな声で彼は名を呼んだ。紗江は深く息を吸い、足早に近づくと、静かに膝をついてしゃがみ込んだ。彼の目線と自分の目線がぴたりと重なった。その瞬間、彼女は自分がどれほど緊張し、そして恥じらっていたかを悟った。彼の深く漆黒の瞳の奥に、自分の姿が映り込んでいた。震えるまつ毛までも、そこに映っていた。そっと息を呑んで、勇気を振り絞って手を伸ばした。毛布の上に置かれていた彼の手を、そっと包み込むように握った。「初めまして、財前さん。元松紗江と申します」その痩せた手を握った瞬間、周囲から小さな驚きの息が漏れるのが聞こえた。だが、緊張で胸がいっぱいの彼女には、それを気にする余裕などなかった。むしろ、その手をぎゅっと、無意識に強く握りしめた。深志は彼女の手を振り払うことなく、じっと受け止めていた。彼の指は長く、関節は力強く、彼女の手ではとても包みきれなかった。呼吸が詰まりそうになるほど緊張したその刹那――彼の手が動いた。深志は、氷のように冷たい彼女の指を、静かに、しかし確かに握り返したのだ。大きな手が、彼女の手をすっぽりと包み込んだ。温もりを与えるように、しっかりと。「紗江、部屋まで俺を押してくれ」彼の言葉に、紗江は慌てて立ち上がろうとするが、急に身体がふらついて、よろけかけた。すると、深志はすぐに手を伸ばして、彼女の腰をしっかりと支えた。「気をつけて」その手はすぐに離されたが、彼女の頬にはじんわりと熱がこもったままだった。小さく「うん......」と頷いて、使用人から車椅子のハンドルを受け取って、部屋へと押していった。ドアが閉まり、暖かな照明が灯された室内。財前深志は彼女を一瞥すると、自身の脚を指差した。その唇の端が、わずかに弧を描いたようにも見えたが、きっと見間違いだろう。「脚が不自由
光陽は披露宴の前に、仲間内でひと席設けた。だが、その場に姿を見せなかったのは、肝心の婚約者・小嶋彩葉だった。集まったのは、彼の身の回りにいる放蕩な友人たちばかり。酒が回るにつれ、誰もが次第に気が緩み、口も滑らかになっていった。ふと、誰かがふざけ半分で「紗江」という名を口にした。「光陽さん、今まで何人とも付き合ってきたけど、やっぱり紗江さんが一番美人だったよな」「それは確かだ。全員一致だろ」「光陽さんが本気で拒まなかったら、マジで俺、口説きにいってたかも」「お前の出る幕かよ、後ろに並べって」くだけた笑いと共に、言葉はどんどん下品に、悪乗りしていった。その時、いつの間にか光陽はグラスを置いていた。ソファにもたれ、無言で彼らをじっと見つめている。気づいた仲間たちは、徐々に口をつぐみ始めた。「......光陽さん、いや、その......冗談だってば」「酔ってたんだよ、ちょっと悪乗りが過ぎただけで......真に受けないでくれよ」光陽は、ふっと笑った。「お前らがそう言うと、逆に紗江って女を思い出したな。でも、あいつ......死んだのか?今まで音沙汰ないなんてさ」その口調は冷ややかで、どこか投げやりにさえ聞こえた。まるで本当に、今ようやく思い出したかのように。まるで、彼女が本当に死んでいたとしても、それが取るに足らぬ出来事であるかのように。その場の空気が一瞬で凍りついた。慌てて笑いながら口を開いたのは、側近の彰だった。「周藤さん、申し訳ありません。お伝えしそびれてしまいました。実は数日前、元松さんから荷物を託されまして......とても大切なものだと。たぶん、復縁でも望んでたんでしょう。だから私、少し釘を刺したんです。周藤さんの前で騒がれたら困りますし......」その言葉に、光陽は薄く笑いながら、彰を静かに見据えた。「......杉本、お前、だんだんといい度胸してきたな」彰は顔色を変えて、すぐさま立ち上がった。「周、周藤さん......」「俺のことを、いつからお前が勝手に判断していいってことになった?」「す、すみません......越権でした」何度も頭を下げ、冷や汗をかいた。光陽は目を伏せ、中指にはめた指輪を無意識にひねった。そして、淡々と命
彰から電話がかかってきたのは、紗江がちょうど深志の膝の上から降りた直後だった。深志は窓辺にもたれ、腫れた唇を見て、皮肉げに微笑していた。耳の後ろまで熱くなりながら、紗江はスマホを手に取り、窓辺に歩み寄って応答した。「杉本さん......」息が少し乱れていた。「何の用?」受話器の向こうで、彰の声が焦っていた。「元松さん、周藤さんからのご伝言です。三十分以内にいつもの場所へ来てください。さもないと、本当に小嶋さんと婚約されるそうです」その言葉に、紗江は思わずうつむいて、くすりと笑った。夜は静寂に包まれていた。おそらく、深志の耳にもそのやり取りは届いていたのだろう。彼はベッドサイドに水の入ったグラスを置いた。少し大きめの音を立てて。電話越しの彰も、その物音に気づいたらしい。すぐさま問いかけた。「元松さん、こんな時間に、誰かそばにいらっしゃるんですか?」かつての彼女なら、光陽にはどこまでも従順で、呼び出されればすぐに駆けつけていた。そして、側近の彰に対しても、常に丁寧に接していた。だが、もう、あの頃の彼女ではなかった。「杉本さん、これは私の私事で、あなたに関係ないでしょう?」穏やかに、しかしはっきりと告げた。「それに、私と周藤光陽はすでに婚約を解消した。彼が誰と婚約しようと、私には一切関係ない」彰は慌てた様子で、すぐさま言い返した。「元松さん、どうか一時の感情で判断しないでください。後悔するかもしれません。明日が周藤さんと小嶋さんの正式な婚約の日です。今夜が最後のチャンスなんです」「その『チャンス』など、私には必要ない」紗江の声音は静かで、冷ややかだった。「それより、以前渡したもの、ちゃんと光陽に渡したか?」彰はしばし黙り込んだ。あの紙箱は、数日前に彩葉によって持ち去られていた。彼は彩葉の立場を考慮し、何も言えなかったのだ。紗江はもう一度、静かに言った。「杉本さん、はっきり言っておく。あのものは、必ずご本人に『あなたの手で』渡してください」彰の声色が変わって、今度は極めて丁寧だった。「元松さん......そのものは、やはりご自身で周藤さんに......」「私は何度も言ったはずだ。私たちはもう終わったんだ。もう、会うことはない」そこで言葉を切って、彼
通話を終えた紗江は、スマホを手にベッドへ戻った。深志はそのスマホを取り上げて、何のためらいもなく隣のソファに放り投げた。彼は彼女の腰を抱き寄せて、温かな吐息が頬や首筋をくすぐった。長くしなやかな指先が彼女の腰の柔らかな部分をなぞって、ぞくりとした感覚をもたらした。逃げようとする彼女の動きを、彼はさらに強く抱き締めて阻んだ。「紗江、知ってるか?キスの最中に、どうでもいい電話を取りに行くのは──かなり礼儀知らず行為なんだよ」ここ数日、紗江はずっと深志の傍にいた。彼は言った。「まもなく結婚し、本当の夫婦になるのだから、今から夫婦としての親密さに慣れておくべきだ」と。それゆえ、毎晩眠る前には、抱擁とキスを交わして、そして「おやすみ」と言って眠りにつくのが日課となっていた。この屋敷での生活は、彼女が想像していたものとはまるで異なり、穏やかで心地よいものであった。深志は世間の評判とは違って、暴力的でも冷酷でもない。むしろ、彼は彼女にも周囲の人々にも思いやり深く、優しく接していた。ふたりの関係は、急速に親密さを増していた。さらに紗江は、遠く海外にいる弟妹たちとも連絡が取れていた。彼らは無事に暮らしていて、学業にも生活にも支障はなかった。そして、彼と正式に婚姻を結べば、彼の保護のもと、弟妹たちは元松文宏や継母の干渉を受けることなく、自由に生きられる──深志はそう約束してくれたのだ。その日が訪れることを、紗江は心の底から待ち望んでいた。恩には誠意を以て報いるべきだ。彼女の心はすでに決まっていた。深志を、心からの意味で「夫」として受け入れていた。その想いを胸に、紗江はそっと腕を彼の首に回し、顔を上げて、自ら唇を重ねた。「深志、これで......償いになったでしょうか?」「キス一つだけで?紗江」羞恥をこらえて、彼女は再び彼の頬に唇を寄せた。それから顎、喉仏へと......喉元に触れた瞬間、深志の身体がぴくりと反応して、喉仏が上下に大きく動いた。「いい子だ、紗江......けど、まだ足りないな」そう言いながら、深志は紗江の顎を軽く掴み、唇を重ねた。それは今までにないほど深く、熱のこもったキスだった。まるで、彼女という存在すべてを飲み込みたいかのように。紗江もまた、彼の身体
そう言われた後、光陽は表情ひとつ変えなかったが、手にしたワイングラスは強く握りしめられ、その指は白くなっていた。彰は気づけば額に冷や汗を浮かべていた。「周藤さん......元松さんはただ、怒っておられるだけかと......」「怒ってるだけ?」光陽は嘲るように口元を歪めた。彰はすぐに頭を垂れて、息を殺すように黙り込んだ。次の瞬間、光陽は突然目の前のテーブルを蹴り倒した。ワイングラスが割れて床に飛び散り、部屋の空気が一変した。周囲の人々も驚いて一斉にこちらを見た。静まり返った部屋に、彼の冷笑が響いた。「まったく、なかなかの度胸だ。俺にこんな駆け引きをするとはな。いいさ、見せてもらおうじゃないか、どこまで突っぱねられるか」そのまま鋭い目つきで彰を見据えた。「で、その箱は?」彰はさらに頭を下げ、声を小さくした。「......ちょうどあの日、小嶋さんがその箱を見つけて、勝手に持ち出して捨ててしまいました。小嶋さんと周藤さんがもうすぐ婚約されると思い、特に止めませんでした......」光陽は彼をじっと見据えて、声を押し殺したように言った。「......杉本、お前もなかなかだな」彰は膝を折りそうになりながら慌てて言い訳を口にした。「周藤さん、本当に申し訳ありません!二度と勝手な真似はいたしません!」その場にいた誰かがすかさず場を和ませようとした。「まあまあ、アシスタントにそこまで怒らなくても。むしろ小嶋さんが紗江さんの荷物を処分してくれたおかげで、面倒が減ったじゃないか」「そうそう、あれを受け取ってたら、あの女、絶対それを口実にまた縋ってきたに決まってる」「受け取っても受け取らなくても、どうせ縋ってくるさ。周藤さんにここまで執着してる女だぜ。あいつ、あんたがいなきゃ生きていけないんだ」「今だって、きっと欲擒姑縦のつもりで、注意を引こうとしてるだけだろ」その場にいた誰もが、これらの言葉に違和感を覚えることはなかった。この五年間、紗江のそんな行動は散々見てきたからだ。光陽は無表情のまま彰を見た。「出ていけ」彼は昔から、周りの人の勝手な判断を最も嫌っていた。彰はこれ以上何も言えず、すぐに頭を下げて部屋を出た。周囲の者たちも、彼の機嫌の悪さを察して次々に散っていった
これは、五年前に光陽が紗江を追いかけていた頃、彼女に贈った宝石箱に入っていたアクセサリーだった。その箱に納められていた一つ一つのジュエリーを、紗江は大切にしていたはずだ。それがどうして、いま彩葉の身に着けられているのか。光陽は彩葉の手首をつかんだ指に、ぐっと力を込めた。「痛い、光陽......痛いよ......」彩葉の目に涙がにじんだ。「話せ!」光陽の目は、怒りの光で燃えていた。彩葉は恐怖に声を震わせた。「杉本さんが受け取った箱......紗江が渡したやつ......そこから取ったの......すごく綺麗だったから、捨てるのはもったいなくて......勝手に、取ってしまったの......」彼女はただの普通の大学生で、贅沢なものには縁がなかった。光陽がこれまでに贈ってくれた高価なアクセサリーでさえ、あの宝石箱に入っていた物とは比べ物にならない。女の子なら誰だって綺麗なものが好きだ。つい、貪欲が出てしまった......だが、まさか光陽がここまで激怒するとは思わなかった。彩葉は深く後悔していた。光陽は、かつてこれほどまでに怒ったことはなかった。彼が想像もしていなかったのは、紗江が返してきたのが、その宝石箱だったということだった。その箱が何を意味するのか、二人ともよく分かっていた。あの頃、彼がその箱を贈ったとき、彼女はこう言っていた。「結婚するときは、この宝石箱を持参品として持っていく。一生、手元に置いておくわ」それなのに――彼女は、今、それを何の未練もなく手放した。光陽の胸には、怒りが炎となって荒れ狂い、出口を求めて暴れまわっていた。彩葉の耳ぶらに下がっているイヤリングは、見るに堪えないほど目障りだった。彼は手を伸ばし、荒々しくそれを引きちぎった。そして、冷たい声で言い放った。「宝石箱の中身を、一つ残らず全部持ってこい。一つでも足りなければ、お前の命はないと思え」それきり、耳に血を流れれている彩葉を一瞥もせず、祝福に包まれた宴席を後にした。黒のロールスロイスが激しくエンジンを鳴らして走り出した。光陽は無表情のまま、スマホを取り出し、紗江の番号を押した。「おかけになった電話は電源が入っていないか、電波の届かない場所にあるため、かかりません......
また一年が過ぎて、紗江の母親の命日がやってきた。紗江は深志と共に飛行機で東都市を訪れて、亡き母を偲ぶため、墓前へと向かった。写真の中の母親は、生前と変わらぬ優しい笑みを浮かべていた。紗江は供花と供物をそっと墓前に置き、ここ数ヶ月の出来事をひとつひとつ語りかけた。夕陽が山の端に落ちかかるまで、彼女は名残惜しそうに語り続けた。帰路につこうと山を下っていると、ふいに周藤光陽の姿が目に入った。やつれ切った顔、整っていた身なりも見る影もなく、すっかり落ちぶれた様子だった。今や周藤家も、彼を完全に見放したという話だった。お酒とギャンブルに溺れた放蕩者は、もはや家族の重荷でしかなかったのだ。「紗江......」呆然とした様子で彼女を見つめて、数歩近づいてきたかと思えば、ふと何かを思い出したように立ち止まった。紗江は冷ややかなまなざしで彼を見つめながらも、心の奥底では一抹の感慨を拭えなかった。かつての彼は、若き俊英だった。常に人々の注目を一身に集めていた。だが今や、彼の背後に人影はなく、かつての仲間たちもすでに四散していた。この結末は、誰のせいでもない。すべて自業自得だった。光陽はしばらく紗江を見つめた後、彼女の隣に立つ深志に視線を向けた。深志は彼女の腰に腕を回し、毅然とした姿で寄り添っていた。堂々たる体躯に、凛とした顔立ち。誰が見ても非の打ち所のない男だ。やがて光陽の顔に滲み出たのは、深い苦悩だった。「少しだけ、紗江と二人きりで話せないかな?場所を変えなくてもいい、財前さんに少し席を外してもらえれば......」「彼は私の夫だ。隠すことなど何もない」紗江は深志の手をぎゅっと握りしめて、きっぱりと答えた。「話があるなら、ここでどうぞ」その言葉に、光陽は寂しげに笑った。「紗江......俺は謝って、過去の過ちを償うと誓えば、君は戻ってきてくれると思っていた。ずっと信じてた......この世で最後まで自分のそばにいてくれるのは、君だけだって」その表情に浮かぶのは、確かに真実の後悔と、許しを乞う気持ちだった。だが、それもすべて遅すぎた。もう何も意味はなかった。「光陽、いつまでも、同じ場所で待ってる人なんて、いないわ。前に進んで。もう、振り返らないで。」その言葉を
紗江静かに聞いていた。何も言わずに、ただ深志の傷口に薬を塗る手は止まらなかった。「紗江?」深志は何度も彼女を呼んだが、ようやく彼女は顔を上げた。紗江の瞳の中に、彼女自身の反射とともに、赤く腫れた目元が映っているのが見えた。深志は手を伸ばして、優しく愛おしそうに紗江の頬を撫でた。紗江は深志を押しのけて、手が震えながら言った。「あなたは自分を危険にさらして、もし彼らの手に落ちたら、最初に殺されることを考えなかったの?」深志はもう一度紗江を強く抱きしめた。彼女の顔に軽いキスを何度も落として、低い声で囁いた「ごめん、考えが足りなかった。君を危険にさらしてしまって、後悔してる。これからは、もう絶対にこんなことはしない。どんなことでも、事前に君と相談するから、いい?」紗江の鼻がますますつらくなり、堪えていた涙が一気にあふれ出した。まるで糸が切れた珠のように、涙が次々と落ちていった。深志の声がますます優しくなるほど、紗江はさらに激しく泣いた。まるでこの一生の涙を全部流し尽くしてしまうかのように。紗江は深志の胸に飛び込むと、彼のシャツを強く握りしめながら泣き続けた。「深志」「ここにいるよ」「深志!」「ここにいるよ」紗江は何度も彼の名前を呼び、彼も何度も飽きることなく答えた。泣き疲れた紗江は、深志の胸で眠りに落ちた。目を覚ました時、ベッドの横に温かな灯りがともり、深志がベッドのそばに座っていた「紗江、目が覚めたか?」紗江はすぐに彼の胸に飛び込んだ。「お腹すいたか?ご飯を持ってこようか?」紗江は答えず、ただ仰向けになって彼を見上げた。「深志」「うん?」「廊下の先の部屋の写真、見たよ」紗江は顔を上げて深志のあごに軽くキスをして、ほんのり赤くなった目の奥に深い笑みを浮かべた。「あなた、ずっと私のことが好きだったんでしょ?」危険な状況に直面したとき、人は無意識に本音が出るものだ。深志も、そして紗江も。それ以前から、紗江は深志の好きだという気持ちをどこかで感じていたし、写真からも彼の深い愛情を覗き見ていた。ただ前の恋愛で傷つきすぎて、無意識に逃げていた。今日、危険な目にあって、もし自分の気持ちを彼に伝えられなかったら、どれほど後悔するだろうかと気づいた。深
およそ十分後、外で騒がしくなった。紗江は手に持っていた木の棒を握りしめて、無意識に深志を自分の後ろにかばうようにし、表情をさらに緊張させた。扉の鍵が開き、五人の男たちが入ってきた。そのうちの一人は大きな刃物を手にしていて、残りの四人はすべて野球バットを持っていた。彼らはすぐに、隅に隠れていた紗江と深志を見つけた。扉が開くと、深志は背中を壁に預け、斜めに紗江に寄りかかっていた。紗江は深志がわざと隙を見せて、相手を油断させようとしていることを理解し、協力的に振る舞った。案の定、あの連中はすぐに嘲笑し始めた。「こいつは役立たずだな、見ろ、立つこともできないくせに、女に守られなきゃならないなんて」「本当にクズだな」リーダーの男は紗江をじっと見つめて、刀を隣の部下に渡して言った。「こんな障害者がこんな美しい妻を持ってるなんて、普段は見るしかできないだろう?ならば俺がいただこう」言いながら、男は紗江の腕を引こうと手を伸ばした。その瞬間、深志は一歩前に出て、男の顔に一発を浴びせた。その動きは非常に速く、紗江は男の鼻骨が折れる音を聞いた。次に、深志はその男を足で蹴飛ばし、地面に倒れさせた。他の数人が前に進もうとしたその時、警察とボディガードが間に合って到着した。混乱の中で、紗江は倒れた男をずっと見ていた。さっき彼が近づいてきた時、腰に銃を隠し持っているのをぼんやりと見た。やっぱり、彼はいつの間にか銃を抜tいて、深志に向けて発砲した。紗江は考える暇もなく、頭が真っ白になった。ただ本能的に、深志の身に飛び込んで、致命的な一発を彼のために防ごうとした。銃声とともに、紗江は自分の心臓の音が聞こえた。ドクンドクンと激しく鳴っていた。でも、予想していた痛みは襲ってこなかった。紗江は呆然と深志を見つめて、言葉が出なかった。「紗江、紗江......」深志は、突然彼女を強く抱きしめて、その体をしっかりと腕の中に押さえつけた。震えるような声には明らかな恐怖の余韻が滲んでいた。「紗江......無事でよかった。もし何かあったら、一生自分を許せなかった」紗江は深志の顔に手を伸ばして、シャツににじんだ血を指先で感じた瞬間、抑えていた涙が一気にあふれ出した。「深志......怪我した?」「ち
深志に起こされた時、紗江はかろうじて意識を取り戻したが、頭は依然としてぼんやりと痛んでいた。「紗江、今は少し楽になったか?」彼は心配そうに尋ねて、紗江は無意識に答えた。「あなたはどう?怪我してない?」彼が動けないことを思い出し、さらに焦りが募った。すぐに彼の姿を上から下まで確認した。彼のスーツはどこかに消えていて、シャツは乱れ、ボタンがいくつか取れていた。腕時計も見当たらず、いつも完璧だった髪も少し乱れている。「俺は大丈夫、怪我してないよ。安心して、俺の体には位置情報の装置をつけてあるから、最長でも一時間以内には誰かが助けに来る。怖がらないで、俺がいるから」こんな状況でも、深志は冷静さを失わなかった。そのおかげで、紗江の心の中の不安も少し和らいだ。紗江は無理やり体を起こして、周りの環境を確認した。そこは廃工場で、周囲は空いていて老朽化していて、地面には錆びた小さな部品や木材の廃材が散乱していた。工場の外からはかすかな声が聞こえてきたが、声が小さすぎて何を言っているのかは分からなかった。紗江は力を振り絞って立ち上がって、大きな扉に近づいてみた。扉の外側には鍵がかかっており、内側からは開けられなかった。窓は高くて、手を伸ばしても届かない。工場内には何もそれを補うものがない。困っていると、突然、力強い腕にしっかりと抱き上げられた。驚きの声が喉に詰まって出なかった。それは深志だ。でも、彼は歩けないはずなのに......彼女は疑問と驚きを強く押し込めながら、窓の隙間から外の景色を見て、その様子を彼に伝えた。深志はすぐに位置を特定した。彼は彼女を降ろして、声を低くして言った。「あと十五分で誰かがここに来る。安心して」紗江は頷いて、深志の足に視線を向けた。新婚初夜、紗江はすでに彼の足に萎縮の兆しがないことに気づいていた。その時はただ丁寧に看護されているだと思い、深くは考えなかった。深志の気持ちを傷つけたくないため、足のことについて尋ねることはなかった。今となっては、深志の足に何も問題がないことがわかった。そして、深志がその間ずっと冷静だったことから、紗江もだいたいの予想がついた。「このことは帰った後にゆっくり説明する。今は、安全を確保して、救助を待と
もう一度文宏の消息を聞いたのは、すでに一ヶ月後だった。半月前、彼の崩れかけていた会社がついに倒産した。その直後、文宏は継母が裏で他の男性と関係を持っていたことに気づいた。文宏はそのことに激怒して、最終的に脳卒中を起こしてしまった。その後半生はベッドの上で延命し続けることしかできないだろう。今の彼と元松家は、ようやく紗江にとって脅威ではなく、気持ち悪さも感じさせることはなかった。この知らせを聞いた紗江は、ただ軽くなった気分でいた。ちょうどその時、深志が帰宅し、紗江を夕食に誘った。しかし、車が途中まで進んだところで、何かがおかしいと感じ始めた。車内には奇妙な匂いが漂っており、それが彼女を不快にさせた。紗江は眉をひそめて、深志の方を見た。深志もまた彼女を見ていた。視線が交わって、お互いにその意味を理解した。紗江は息を呑んだ、車窓のボタンを押した。案の定、車窓はロックされており、開けることができなかった。紗江は運転手の方を見た。深志がよく使う二人の運転手のうち、一人は急用で欠勤し、もう一人は昨日食事で体調を崩していたため、今日は代わりの運転手が来ていた。深志の顔色が変わった。「誰の命令だ」運転手は何も答えず、車の速度はますます速くなった。後ろの車はボディガードが乗っていて、急加速して車を止めようとした。異常に気づいた深志は、すぐにボディガードに連絡していた。運転手は急いでアクセルを踏み、前方の分岐点で別の下山道に進んだ。二台の車は互いに追いかけっこをしており、どちらも優位に立てなかった。しかし、車内の空気が紗江の脳を次第にぼんやりさせ、紗江は無意識のうちに深志の手をしっかりと握った。「怖がらないで、紗江。俺がいるから」深志は紗江の手を強く握り返した。その言葉が終わると、車は前方の大きな岩に激しく衝突した。意識が薄れかける中で、紗江は深志がしっかりと彼女を抱きかかえて、自分を守っているのを感じた。
この三ヶ月間はあっという間に過ぎて、弟と妹の休暇ももうすぐ終わろうとしていた。港市で過ごした間、深志は二人に今後の計画を尋ねて、それに合わせて名門の講師を招いて、彼らのカリキュラムをぎっしりと詰め込んだ。忙しかったが、得られたものも多かった。出発の前、二人は深志に感謝の気持ちを表して、それぞれにプレゼントを渡した。弟妹を飛行機に送った後、紗江は深志を車椅子で駐車場に案内していたが、そこで光陽を見かけた。光陽は柱の後ろに立っていて、帽子をかぶっていた。以前より少し痩せて、かつての自信に満ちた姿が消えていた。プロジェクトを巡る争いの結果、深志は手が空くとすぐに報復を行い、周藤家の会社は大きな損失を受け、光陽も職を失った。光陽の両親は次第に彼に冷たくなり、次男に関心を移していった。だが、これらすべては光陽自身が招いたことだ。紗江は、彼に対して一切の同情はなかった。光陽は紗江に気づくと近づこうとしたが、再びボディーガードに止められた。紗江は深志を車に乗せて、運転手に出発を指示した。帰宅してからわずか1時間後、光陽は再び財前家の前に現れた。彼女は会うことなく、周藤家の両親に連絡して彼を迎えに行かせた。周藤家の両親は電話で何度も謝罪して、二度と光陽が彼女の前に現れることはないと約束した。1ヶ月後、親友から光陽と小嶋彩葉の最新情報が届いた。彩葉が付き合っていた中年男性は非常に抜け目のない人物で、妻に不正な関係が発覚すると彼女を即座に見捨て、妻の報復を許したという。数日前、彩葉は彼の妻にショッピングモールの入り口で暴力を振るわれて、地元のトップニュースに載り、顔を潰してしまった。数日後、彩葉は裁判所から訴状を受け取った。彼女は結婚中に夫から受け取ったすべての送金を返還しなければならなくなった。彩葉は行き詰まり、再び同じ手口を使って、離婚歴のある年配の男性と付き合い始めた。その男性は非常に遊び人で、病気にもかかっていたらしい。周囲の人々は皆それを知っていたが、彩葉には誰も教えなかった。彼女の未来が悲劇であることは明らかだった。一方、光陽は会社を失い、職を解かれ、大きな打撃を受けていた。彼は次第に落ち込んで、アルコールに依存するようになった。これらの情報は紗江がなんとなく耳にしたもので、す
忙しさの一区切りがついたころ、旅行の計画が持ち上がった。その後、紗江は深志とともに、心ゆくまで半月の旅を楽しんだ。だが、旅行から戻って間もなく、あの会社の古参幹部が突然財前家に現れ、深志に対して「冷酷無情で容赦がない」と激しく非難してきた。家族の若者たちに宥められてすぐに帰っていったものの、紗江の胸には不安が残った。とりわけ、去り際に向けられたあの憎しみに満ちた眼差しが、脳裏に焼きついて離れなかった。「彼、仕返ししてこないかなぁ......」そう尋ねると、深志は穏やかに微笑んだ。「心配ないよ。すべて把握してるから」その顔には、焦りや不安の色は微塵も見られず、紗江はようやく安心することができた。紗江の生母の命日に、彼は紗江と弟妹を連れて、一緒に東都市に戻った。そこで二、三日ほど滞在して、再び港市へと戻った。ちょうどその頃、財前家の両親も長旅から戻り、しばらく港市に滞在することになった。紗江は義母の財前清江のことがとても好きで、日常でもとても良い関係を築いていた。ある日の雑談の中で、清江は深志の幼い頃の話をし始めて、彼の子供時代の写真や賞状を見せるために、三階の廊下の端の部屋に彼女を連れていった。「この引き出しも見てみて。中は彼の宝物ばかりよ。母親の私でも触っちゃダメって言うのに、一度だけうっかり中を見ちゃったことがあるのよ」清江はそう言いながら鍵を取り出し、引き出しの中の木箱を開けて、紗江に手渡した。「お義母さん、これは深志の私物ですし、勝手に見るのはよくないのでは......」彼女がためらうと、清江はあっさりと手を振った。「何がいけないのよ。あなたは彼の妻でしょ?夫婦は一心同体、隠し事なんて必要ないわ」そう言って、清江は木箱の蓋を開けた。「見てごらんなさい。きっと喜ぶわよ」紗江が箱の中を覗き込むと、そこには見覚えのある写真が何枚か入っていた。これは......清江はにこやかに笑いながら言った。「ゆっくり見ててね。ちょっと用事を思い出したから、先に行くわ」彼女が去ったあと、紗江は木箱の中の写真を一枚ずつ取り出して確認した。それは、自分が幼いころからの絵画コンテストの表彰式の写真だった。すべての写真の裏には、日付が書き込まれている。その中の一枚──彼女が十八歳
その日、親友から電話がかかってきた。彼女によると、光陽が財前家のプロジェクトの一つを奪ったことで、財前家の会社は最近少々の問題を抱えているらしい。紗江は、ここしばらく続いている深志の異常な残業を思い出して、思わず疑念を抱いた。光陽と深志は、どちらも同世代の中では頭一つ抜けた存在ではあるが、その実力は比べものにならない。ましてや、財前家の蓄積と底力は、周藤家とは天と地ほどの差がある。彼女には、光陽が深志を脅かすなど、到底信じられなかった。だが──親友のその後の話を聞いて、紗江の心には不安の影が差し始めた。噂によれば、光陽は財前家の経営における弱点を見つけて、世論を巧みに操作して会社の株価に影響を与えたと。さらに、社内の古参幹部の一人が深志と折り合いが悪く、この機に乗じて彼を蹴落とそうとしたらしい。通話を終えた紗江の胸には、重い石が落ちたような感覚が広がっていた。痛みはない。ただ、息が詰まるような苦しさがそこにあった。こんな大事なことを、自分は親友から聞いて知ったとは。深志はきっと、自分を心配させまいとして、何もかも完璧に隠していたのだろう。その夜、彼が帰宅した。紗江は、真相を尋ねようとしたが、彼は家に着くなり書斎へ直行して、深夜まで部屋にこもっていた。寝室に戻る物音で目を覚ました彼女は、すぐさま起き上がった。「もう終わったの?」「そう」深志の顔にははっきりと疲労の色が見えた。「明日から数日間、出張に出る」彼女はそっと彼のこめかみを押さえて、マッサージを始めた。「じゃあ、あとで出張の荷物を用意するね」彼は目を閉じたまま、低く応えた。部屋には静けさが戻った。マッサージを終えると、紗江は彼の手を握って、声を潜めて口を開いた。「最近、ちょっとした噂を耳にしたの。......本当かどうか、教えてほしい。会社が忙しいのって、周藤光陽が原因の一つだった?」深志は視線を落として、彼女を見つめた。頭上から降り注ぐ暖かな光が、彼の額に小さな影を落としていた。その瞳は黒く深く、まるで人の心の奥まで見通してしまうかのようだった。「全部がそうってわけじゃない」彼は答えた。「たしかに最近、少し問題はあった。でもそれは周藤のせいじゃない。彼の小細工なんて、会社にダメー
だが、その夜、深夜の十二時を過ぎても、深志は帰ってこなかった。紗江は彼にメッセージを送り、様子を尋ねた。まもなく電話がかかってきて、会社に用事があるため今夜は戻れないと告げられた。彼女は胸の奥に広がる失望を抑えて、体に気をつけて無理をしないようにと優しく声をかけた。通話を終えた後、紗江はふと視線を移し、昼間に持ち帰った陶器の人形を見つめた。ここ数ヶ月、深志はほとんどの業務を自宅でこなしていて、出社しても必ず夜八時には帰宅していた。彼が傍にいる日常がすっかり当たり前になっていたため、突然彼のいない夜が訪れたことに、紗江は戸惑いを覚えた。広々としたベッドの上で寝返りを打ち続けても眠れず、彼女は思い切ってベッドを抜け出して、アトリエへと向かった。絵を描いて気を紛らわせようと思った。キャンバスの前にしばらく座って、描くべきものが頭に浮かんだ瞬間、彼女は一気に筆を走らせた。気がつけば、窓の外は白み始めていた。筆を置くと、ようやく強い眠気が襲ってきた。彼女はその絵を一枚だけ別に仕舞い、寝室へ戻ってベッドに身を投げた。──そして、深志のキスで目を覚ました。ぼんやりと目を開けると、深志がベッドの縁に座り、紗江の額にそっと口づけていた。紗江が目を開いたのを見ると、もう一度眉間にキスを落とし、柔らかく問いかけた。「起きた?」「うん」紗江は、半分寝ぼけた声で返事をして、腕を伸ばして彼の首に抱きつくと、深志の唇にも軽くキスを返した。「いつ帰ってきたの?」「さっき戻ったばかり。書類を一つ取りに来ただけで、また会社に行かないと」深志は紗江の髪を撫でながら言った。「執事の話じゃ、今日一日何も食べてないらしいけど、どこか具合でも悪いのか?」「具合は悪くないよ。昨日、なかなか眠れなくて、寝たのが遅かっただけ」「それなら、何か食べてからもう一度寝なさい」そう言って、彼は「一緒に食べよう」と食卓に誘った。朝食の席で、紗江は彼の顔に浮かぶ疲労の色に気づいて、そっと尋ねた。「昨夜、遅くまで仕事だったの?」「うん、かなり遅くまでね」彼はこめかみを押さえながら答えた。「三時間も寝てないかも」「会社で何か問題が起きたの?それとも他に原因が?」彼女の問いに、深志は小さく笑った。「そんな