LOGIN十八歳のとき、草場哲弘(くさば てつひろ)は私を、児童売買が行われている福祉施設から救い出してくれた。 それ以来、私は彼の別荘に住むことになったが、決して救われた幸運な存在とは言えなかった。 彼は私に、別の少女の古い服を着せ、彼女の好むピアノ曲を無理やり覚えさせ、話し方までもまねさせた。 そして、私がまったく別の人間になるその日に、彼は一人の女を連れてきた。 彼女は美しい白いドレスをまとい、笑うと目が細くなり、眉骨のあたりに小さなほくろがある。私とまったく同じだ。 「菊地星那(きくち せな)、こっちに来なさい」 「青沢星来(あおざわ せいら)が戻ってきた。もうお前は必要ない。これまで付き合ってくれたことを考えて、草場家でメイドをしてもいい」 それ以来、星来という名の女は、哲弘のすべての愛情を受けてきた。 彼女が料理の味が薄いと言うと、哲弘は私にひざまずかせ、何度も作り直させた。 彼女が不注意でつまずくと、哲弘は「お前が手を抜いた」と責め立て、戒尺で私の全身を打ちつけ、青紫に腫れ上がらせた。 私は黙って、すべてを受け入れた。 ――あの年、彼がそう言ったから。 「俺に恩を返したいのか? なら、星来の身代わりとして、百回、俺と寝ろ」 私はうつむきながら、残っているコンドームの数を数えた。 あと一回だけ。 あと一回で、私は身代わりという影から、ついに逃れられる――
View More尚人が湯気の立つ茶漬けを手にアトリエへ入ってきたとき、私はちょうど調査報告書を閉じたところだった。青沢家の両親は拉致事件の罪で懲役十年の刑を受け、共犯者も全員逮捕されたという。けれど、その知らせを聞いても、心の中には波ひとつ立たなかった。哲弘と星来があの火の海に消えた日――私の過去はすでに全て終わっていたのだ。あの出来事も、あの人たちも、もう遠く、遠く離れた場所にある。「……もう、全部過ぎたことだよ」尚人はそう言って、私の髪を優しく撫でた。その指先には、鍋のぬくもりがまだ残っている。私は微笑みながら頷き、スプーンで茶漬けをすくった。だしの甘みが舌に広がり、ふと母・千尋の言葉を思い出した。「星那は茶漬けを食べるといつも笑うね。これからもずっと笑っていられますように」――千尋の願いどおり、今の私は本当に笑って生きている。年の暮れに、私は尚人と婚約した。父・勝は郊外に小さな庭付きの洋館を買ってくれた。庭いっぱいに私の大好きなデイジーを植えてくれて、春には一面が花の海になるという。兄・流星は、その庭の一角にガラス張りのアトリエを建ててくれた。昼は陽だまりの中で絵を描き、夜は天井越しに星を眺められるように。千尋は古い絹を取り出し、老眼鏡をかけて結婚用の着物を縫った。襟元にはデイジー、袖口には星の刺繍。ひと針ひと針に、千尋の愛情が込められている。長い年月のすれ違いは、不思議と心の距離を少しも生まなかった。むしろその分だけ、私たちは互いを深く想い合い、惜しみなく愛を伝え合うようになった。婚約披露の日、児童福祉施設の前施設長・美津子が、三時間もかけて会場まで来てくれた。髪には白いものが増えていたが、背筋はまっすぐで、昔と変わらぬ穏やかさと元気さを保っている。手には布の包みがある。その中には、私が子どもの頃に施設で描いた絵が入っている。歪んだ太陽と粗末な家。おさげ髪の女の子がデイジーの花を掲げて笑っている。そして、クレヨンで塗りつぶされた五色のデイジー。「あなたね、施設にいた頃、いつも隅っこでこんな絵を描いてたのよ。家ができたら、世界中のお花を描くんだって」美津子は私の手をぎゅっと握り、目尻をしわくちゃにして笑った。「よかったわねぇ。家族もできて、お花も咲いて。星那、本当に頑張ったね」私は彼女の肩にそ
アトリエを開いてから一年が経った。ガラス窓には、淡い金色の【一周年記念】というステッカーが今も貼られている。陽の光がガラス越しに差し込み、私の新作「春の野桜」にやわらかく広がる。絵の具の温かい香りが、テーブルの上のウーロン茶の湯気と混ざり合い、世界そのものが甘い蜜のようにとろけている。私は新しい絵の額にリボンを巻いている。そのとき、スマホが小さく震えた。尚人の助手からのメッセージが届いた。そこには一枚のニュースのスクリーンショットが添付されている。【草場家別荘で火災】黒々とした太字の見出しが目に突き刺さる。写真には、濃い煙に包まれた別荘と、画面の隅で赤くぎらつく消防車のライトが写っている。指先が【二体の焼死体】という文字をなぞったとき、私はちょうど焼きたてのクランベリークッキーを手にしている。甘い香りが口の中に広がっても、胸の奥はまったく波風ひとつ立たなかった。私は淡々とスマホを伏せ、クッキーを白磁の皿に戻した。――あの人たちは、私を地獄に突き落とし、希望を踏みにじった報いを、ようやく受け取ったのだ。メッセージの続きには、報道には書かれていない狂気が潜んでいる。あの日、哲弘は流星にアトリエから叩き出された後、階段の前で犬のようにうずくまり、腕の中に私の日記を抱きしめていたという。警備員が来るまでの間、彼はまるで理性を失ったかのように車へ駆け込み、猛スピードで走り去った。赤信号を無視し、逆走し、ハンドルに額を打ちつけて血を流しても、まったく気づくことはなかった。――そして別荘に戻ると、最初にしたことは、星来を地下室へ引きずり込むことだ。星来は、かつて私が着ていた色あせたドレスを着せられ、髪は乱れ、頬には真っ赤な手形が残っていた。哲弘は太い麻縄で彼女を、かつて私が苦しめられたあの稲わらの山に縛りつけ、血走った目で言い放った。「お前、身代わりになるのが好きなんだろ?なら、今日は思う存分代わってみろよ」彼は、私が昔弾いていた古いピアノを引っ張り出した。鍵盤には、今もかすかな血の跡が残っていた。そして、星来の手を無理やり鍵盤に押しつけた。「『月の光』を弾け。俺の前で。一音でも間違えたら――この戒尺で叩くぞ」星来が指先をそっと鍵盤に触れた瞬間、パシンッという音が響いた。戒尺が手の甲を打ちつけ、赤く腫れ上
半年後――町の南部にある路地裏に、小さな絵画教室「アトリエ・星の芽」がオープンした。私は、子どもの頃からずっと夢見ていた自分の姿を実現している。私はオフホワイトのエプロンをつけ、ピンクのワンピースを着た小さな女の子に、デイジーの花びらの描き方を教えている。窓から差し込む陽の光が、ものまねメイクをしていない私の頬を優しく照らした。――誰かを真似しなくても、生きていける日々は、こんなにも軽やかで温かいものなんだ。尚人が温かいミルクを手に運んできた。カップの縁から彼の指先の温もりが伝わってきた。彼は優しく言った。「あの隅に座ってるご婦人が、もう一時間もこちらを見てるが、何を描きたいのか、一言も話さないんだ……」彼の視線の先を見ると、薄い青緑色の着物を着た婦人が、真珠のヘアピンで髪をまとめ、ついこっちをちらりと見てしまう。その目はぼんやりと霞んでいるようだ。私は微笑みながら、女の子の絵筆にそっと絵の具を足して言った。「いいのよ。ここはただ絵を描くだけの場所じゃないもの。人が心を休めに来る場所だから」やがて閉店のベルが鳴る頃、老婦人はようやくこちらへ歩み寄った。けれど彼女の視線は壁に掛けられた完成作品ではなく、私の描きかけのスケッチに引き寄せられている。私はいつも木の絵を描くとき、無意識のうちに鳥の巣を加えてしまう。それがすっかり習慣になっている。かすかに覚えている。昔、家の裏庭にあった古い桜の木は、その枝の間に小さく編まれた草の鳥の巣があった。老婦人はその絵を見つめ、突然息を詰まらせた。震える声で呟いた。「この絵……どうして、あなたがこれを?」私は手に持った筆を止めた。「小さい頃、家の裏庭にこんな木があって、その下でよく鳥の巣を編んで遊んでた」「裏庭……?」老婦人が私の腕を掴んだ。彼女の指先は、私の腕の内側にある火傷の痕を何度もなぞっている。それは、あの夜、哲弘を助けたときについたタバコの火の跡だった。老婦人の目から一気に涙がこぼれ落ちた。それが私の手の甲に落ち、熱く伝わってきた。「あなた……小さい頃、デイジーを鳥の巣に挿して遊ぶのが好きか?そして、いつもこう言ってたか?『星が輝いているときは、鳥は怖くないの』って」――私は凍りついたように、その場に立ち尽くした。それは、私が六歳の頃、家の裏
哲弘は、私の日記を抱えたまま、私が暮らしていた部屋で夜明けまで座り込んでいた。朝の光がカーテンを貫いたとき、彼は両手でテーブルを叩きつけ、掠れた声で血を吐くように叫んだ。「調べろ……すぐにだ!星那がいた福祉施設の記録を全て調べろ!あの時、俺を助けたのが誰だったのか、今すぐ確かめろ!」執事はその表情に言葉を失い、すぐさま動き出した。夕方、前施設長・武上美津子(たけがみ みつこ)の証言を携えて戻ってきた。電話越しに聞こえる年配の声が、胸を抉るように響いた。「ええ、覚えてますよ。星那は確かに、昔一人の男の子を助けました。あれは彼女が十歳の頃だったと思います。拉致された子どもを見つけて逃がしたときに、腕を火で焼かれてしまって――その痕が腕の内側に残ってるんです」哲弘は弾かれたかのように、袖をまくり上げた。自分の腕の内側――そこには、幼い頃に拉致事件で負った小さな火傷の痕が確かに残っている。そして、星那の腕にも、同じ位置に同じ形の火傷があった。彼はずっと、彼女が働くことで傷つけられたと思っていた。だが、今ようやく気づいた――それは、彼を救った証だったのだ。「……あああああっ!」哲弘は絶叫し、テーブルの上にあったフォトフレームを叩き割った。そして、狂気じみた勢いで星来の部屋へ駆け込んだ。星来は鏡の前で口紅を引いている。哲弘の血走った目を見て、彼女の手はぶるりと震え、口紅の線が大きく歪んだ。「哲弘……な、なにを……?」「俺を救ったのは――星那だ!どうしてお前が彼女の名を騙った!」哲弘は力強く星来の首を掴み、押し殺したような怒声を吐いた。「お前が彼女を陥れた!お前がでっち上げて、彼女を身代わりにした……彼女があんなに苦しんでるのを見て、お前は得意になってたのか!」星来の顔は青紫に染まっているが、それでも必死に言い返した。「ち、違う……あの女が嘘をついたの……!」「嘘だと?」哲弘は力強く彼女を床に叩きつけた。星来の額がテーブルの角にぶつかった瞬間、赤い血が流れ出した。哲弘は背を向けて部屋を出ていった。戻ってきたときには、手に古びた紙袋を持っている。それは――私の古い服だ。「着ろ」その一言と共に、服を星来の足元に投げつけた。その目には狂気の光が宿っている。「お前は身代わりをやるのが得意だろう?な
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