All Chapters of 幾たびの歳月、いかほど深く: Chapter 1 - Chapter 10

30 Chapters

第1話

周藤光陽(すとう こうよう)が突然「結婚したい」と言い出したあの日。元松紗江(もとまつ さえ)はもう三ヶ月も彼に会っていなかった。最後に会ったとき、彼が友人たちに「彼女にはもう飽きた」と言っているのを、偶然耳にした。その場にいた人々は、みな笑っていた。五年間も光陽について回り、彼に合わせるために名声を汚した。結局彼に捨てられたのだ。 この三ヶ月間、実家の元松家での暮らしは辛いものだった。数日前に父・元松文宏(もとまつ ふみひろ)が酔って、彼に殴られた。その時の傷が今も背中に鈍く痛んでいる。だからこそ、今日突然光陽から電話がかかってきて、来てほしいと言われたとき、紗江の心にはまた一縷の希望が灯った。婚約のときに贈られた翡翠の腕輪をわざわざ身に着けて、急いで彼の元へ向かった。 別荘に着いたとき、光陽はすでに酔っていた。目を閉じて、若い女の子の膝にもたれかかるようにしていた。その子はまだ学生のようで、純粋そうな雰囲気を纏っていた。紗江が部屋に入ると、彼の頭をマッサージしていた少女は慌てて立ち上がろうとした。だが、彼女の手首は光陽に握られたままだった。 「そのままでいい」彼は目も開けず、ただ少しだけ力を込めて手を引いた。少女の体は彼に引き寄せられた。素直に顔を伏せ、彼に唇を奪われるままになった。彼は手を離すと、今度は彼女の顎を指でつまんだ。深く、音を立ててキスをした。 紗江は入口でクラッチバッグを握りしめたまま、しばらく立ち尽くしていた。やっと気持ちを整え、何事もないように窓の外を見ながら言った。「先に庭を見てくるわ。あとでまた来るから」 その言葉が終わるか終わらないかのうちに、光陽がふっと鼻で笑った。彼の隣にいた少女はすぐに気を利かせて立ち上がった。「じゃあ、私が先に外に出ます。元松さんは用事がありそうですね」と、遠慮がちに言った。 今度は光陽も彼女を引き止めることはしなかった。ただ、彼女の手をしばらく弄んでから、名残惜しそうに手を放して、「外は寒いから、風邪ひくなよ」と優しく言った。 少女は口元に微笑みを浮かべて頷いた。長く黒い髪がほとんど顔を覆い、赤らんだ頬を隠していた。紗江のそばを通るとき、丁寧に「元松さん」と挨拶してくれた。紗江は軽く会
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第2話

五年前、紗江は大学に入学したばかりだった。光陽は当時、紗江のことを「天使のような無垢さだった」と言っていた。あの頃の彼は、本当に紗江を愛してくれていた。そして、過剰なほどに甘やかしてくれた。まるで、一番大事な宝物を扱うように大切にしていた。紗江は彼にとって、最も長く付き合った恋人だった。大学を卒業する前に婚約までした。 ただ、そこまでだった。今の紗江は、もはやかつての面影すらなく、名誉も地に落ちた。東都市中の人が知っている。この玉の輿を何がなんでも掴むために、紗江はどれほど恥知らずなことをしてきたかを。 彼が「お前の純粋さには飽きた」と言ったとき、紗江は彼に合わせるため、無理に自分を変えた。彼の汚れた交友関係に身を投じ、彼の変態な趣味に迎合しようとした。彼が欲しがったのは、色っぽく、情熱的で、大胆な女。紗江は恥ずかしさを堪えて、すべてを受け入れた。 けれど、そんな努力の果てに返ってきたのは、彼の侮蔑の言葉だけだった。 「紗江、お前って本当に下品だな。娼婦でも、お前ほどベッドで乱れねぇよ。今のお前、どこに名家の令嬢らしさが残ってるんだ?」 彼は紗江に別れを告げた。そのとき父の文宏は、年端もいかない弟と妹を人質のようにして紗江を脅した。紗江は光陽を引き止めるために、手首を切ったり、薬を飲んだりした。できる限りのことは、全部した。 そして今、光陽は昔の面影の消えた紗江に、こう言った。 「俺は彩葉のことが本気で好きなんだ。五年前のお前に似てる」 紗江は笑おうとしたが、笑えなかった。 「本気で好きだから、きちんと身分を与えたい。彼女はお前と違って臆病で、すごく純粋なんだ。俺が守ってやらなきゃ」 紗江は、何か言おうとしたけれど、結局、一言も声が出せなかった。 しばらくして、ようやく微笑みを浮かべて絞り出した。 「そう......わかったわ」「元松家には、俺から少し話しておく」 「いや、自分で何とかするよ」 「じゃあ好きにしろ」 彼はよろめきながら立ち上がり、ポケットから何かを取り出した。それを音を立ててテーブルに放り投げた。紗江は目を見開いた。 それは二人が婚約を交わした時に交換した誓いの品だった。
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第3話

紗江が光陽に婚約を破棄されたという噂は、すぐに広まった。予想していたような、あの激しい暴力はなかった。ただ、再び海外にいる弟と妹との連絡が途絶えた。紗江は知っている。それは父親が怒りをぶつけるときに、よく使う手段だということを。 彼と継母は、東都市を駆け回って、紗江の結婚相手を探し始めた。元松家の贅沢な生活を保つために、紗江を嫁がせようとしていた。けれど、外では次第に耳をふさぎたくなるような噂が立ち始めた。紗江がこの数年、光陽の心を得るために、どんな下劣なことでも平気でやってきただの、 すでに多くの男に弄ばれて、もはや子どもを産む能力すらないだのと。 「東都には、あんな女を娶ろうとする男はいない」そんな言葉まで、堂々と囁かれるようになった。 父親の機嫌はますます悪くなり、紗江の暮らしも日に日に苦しくなっていった。 光陽と婚約を解消してから、二か月後。光陽にまつわる、またもや世間を騒がせるような噂が流れた。今度は、彩葉との婚約が決まったという話だった。 光陽は、両親の反対を押し切ってまで彼女を娶ろうとしていた。 火に油を注ぐ人が、わざわざ紗江の耳にその話を届けてきた。彼らが見たかったのは、紗江の反応だった。退屈な日々に飽き、また紗江の惨めな姿を恋しく思ったのだろう。 「紗江さん、光陽さんって、実は今でもあんたのこと好きなんじゃない?」「今つらいんでしょ? 一回お願いしてみたら?」「光陽さんって情に弱いしさ、泣いてすがれば、最悪死ぬって騒げば、戻ってくるかもよ?」「小嶋なんかより、紗江さんの方がずっと綺麗だしさ」 そんなメッセージを見ても、紗江は一切返事をしなかった。その代わり、ただひたすらに嫁ぐ準備を始めた。 ちょうど一週間前。紗江は一晩中、父親の前で跪き続けた。 そしてようやく、成年したばかりの妹の代わりに、紗江が嫁ぐことを許された。 行き先は、港市。 相手は、財前家の長男——財前深志(ざいぜん ふかし)。 彼は手段が冷酷で、絶大な権力を誇り、港市の「影ノ王」と呼ばれている。ただし、脚に障害があるため、性格は極めて暴虐との噂だった。 それでも、紗江は少しも怖くなかった。 元松家から逃げ出せること。弟妹を自由にでき
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第4話

嫁ぐ前に、紗江は親友と食事の約束をした。途中で洗手所に立ったとき、偶然、彩葉と出くわした。彼女は以前とはまるで別人のようだった。丁寧に化粧を施していて、ディオールの一番人気な黒のドレスを身にまとい、その体つきはしなやかで艶めかしい。鮮やかな唇には、細いレディスシガーが咥えられていた。「元松さん、もう聞いたでしょう?」彩葉は紗江を見て、挑発的に笑った。「光陽が私と婚約するの」紗江は彼女を見つめた。ふと、初めて会ったときの、あの純粋で恥じらいのある姿が頭に浮かんだ。なぜか胸の奥に、言いようのない物悲しさが広がったのだろう。「うん、聞いたわ」彩葉の瞳には、さらに深い笑みが宿った。「元松さん、嫉妬してるのかしら?あなたが彼のために三人も子どもを失くしたって聞いたわ。この数年、彼の心を繋ぎ止めたくて、結婚したくて、どれだけ下劣な真似をしたかって」彼女は窓際にもたれかかり、その笑みには見下すような軽蔑が混じっていた。紗江は淡々と彼女を一瞥した。「小嶋さん、それは『聞いた』話であって、事実じゃないでしょう?私たち、同じ女として、そんな下品な噂を撒き散らす必要、あるかしら?」彩葉は鼻で笑った。「東都市のみんなが知ってるのよ?それをただの噂だなんて笑えるわ」紗江はこれ以上、彼女に言葉を費やす気になれず、振り返って立ち去ろうとした。すると彼女は、急に皮肉めいた声で言った。「元松さん、女でもいろいろなのよ。女は自分のことを大事するって、あなたのお母さん、生前に何も教えてくれなかったの?」紗江はその言葉に、足を止めた。「お母さん」の言葉をが耳に入った瞬間、熱い血が頭に駆け上った。思考する暇も、冷静になる余地もなかった。紗江はくるりと振り返って、手を振り上げて、平手打ちを叩き込んだ。「元松さん......」彩葉は一瞬呆然としたが、すぐに顔を押さえ、涙を浮かべた。「私と光陽が婚約するってことで、あなたが傷ついたのは分かる。でも、私を殴るなんて......あなたが怒ってるのも理解できるけど、恋愛は無理やりにできるものじゃないでしょ?光陽は、あなたみたいに淫らな女は嫌いなの。私のせいじゃないよ......」彼女の泣き声は哀れで可哀想に聞こえた。だがその言葉
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第5話

光陽は、少し驚いたようだった。この数年、彼は様々な紗江を見てきた。素直で純真な紗江。従順で聞き分けのいい紗江。そして、取り乱して泣きながらすがりついた紗江。紗江は彼の前で、無邪気にもなったし、艶やかにもなったし、泣いたことも笑ったことも喚いたこともある。だが、今のように、これほど静かで、これほど冷ややかな紗江を、彼は一度たりとも見たことがなかった。彼は彩葉を押しのけて、無表情のまま紗江の前に立った。「紗江、最後に言っておく。彩葉に謝れ」紗江は彼をまっすぐに見つめたまま、ふと笑った。決別の笑み、そして破れかぶれの笑みだった。「光陽......私は謝らない。死んでも、謝らない」その瞬間、鋭く、乾いたビンタの音が廊下に響いた。鋭く、冷たく、鮮やかに。その平手打ちに、光陽まで一瞬呆然としたようだった。彩葉さえ、信じられないという顔で目を見開いていた。ただ一人、紗江は、ゆっくりと痛む頬に手を当て、少しずつ、瞳を赤く染めていった。「紗江......」光陽は無意識のうちに一歩近づいた。だが、紗江は反射的に一歩退いた。彼が伸ばそうとした手は、空中で止まりってから、すぐに冷たい表情で下ろされた。「紗江、これは自業自得だ。お前が素直に謝っていれば、俺も手を出さなかった」彼の声は低く、かすれがちだった。「俺は......女に手を挙げたことなんて、これまで一度もない。これだけ長く一緒にいても、一度だってお前に乱暴したことはなかった。でも、今日はお前が彩葉に手を出した。それがだめだ。彩葉を好きになったのは俺だ。彼女は悪くない。紗江、もうやめろ。せめて、自分の尊厳くらいは守れ」口数の少ない彼が、これほど多くを語ることはなかった。だが紗江は、その一言一句すら、耳に入らなかった。瞳は真っ赤に染まり、どうしても抑えきれない涙があふれてきた。泣きたくなかった。しかし、涙は止まることができなかった。光陽は、いつの間にか拳を強く握りしめていた。その眉間にも、深い皺が刻まれていた。彩葉がそっと彼のそばに寄り添って言った。「光陽、もういいわ。行きましょう」彼は彼女の手を握り返した。だが視線は、なお紗江の顔に向けられたままだった。「紗江。彩葉にもう近づくな。これから先、
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第6話

その日の帰宅後、紗江のもとには多くのメッセージや電話が届いていた。その大半は、彩葉のSNS投稿のスクリーンショットで、中でひときわ目立っていたのは、彼女が載せた婚約指輪の写真だった。紗江は無言のままアプリを閉じ、誰にも返信しなかった。電話も一切取らなかった。顔はまだ腫れていたため、氷で冷やすことにした。そして戻ってくると、スマホの画面には、新たな入金通知が表示されていた。何気なく開いてみると、その桁数の多さに思わず目を見開いた。数えきる前に、着信音が鳴り響いた。ディスプレイに浮かんだ「財前深志」という文字だった。それは彼女自分で登録した名前だった。婚約が決まって以来、深志からの初めての電話だった。心臓の鼓動が速くなるのを感じ、深呼吸を数回してから、通話ボタンを押した。「元松さん、お金は受け取ったか?」「はい、受け取りました......でも財前さん、結納金はすでにお支払いいただいたはずでは......」紗江は控えめにそう伝えながら、誰かが間違えて送金したのではないかと考えた。「結納金は元松家に送ったものだ。今回の金は、君個人に贈ったものだ」その言葉に、紗江はスマホを握りしめたまま、しばらく黙り込んだ。やがて低く、かすれた声で答えた。「財前さん、そんなことをしていただかなくても大丈夫です。私......以前に婚約していたこともありますし、評判も......」「構わない」深志の声は、静かでありながら、どこか人の心を落ち着かせる響きを持っていた。噂で語られる彼は、冷酷で容赦なく、気まぐれで暴力的とまで言われる男だった。だが今、受話口から聞こえてくる声には、そんな人物像は微塵も感じられなかった。「君も言っただろう、『以前』の話だ。過去は過去、今はもう別の話だ。気にするな。もうすぐ遠く港市に嫁ぐことになるから、欲しいものがあれば、持っていくといい」紗江は、思わず目に涙をためながらも、微笑んで感謝の言葉を口にした。「ありがとうございます、財前さん」港市への嫁入りの話は、一切外部に漏れていなかった。それは、深志の意向だった。財前家からの迎えの者たちは、すでに東都市に到着していた。彼らの存在ゆえに、元松家の人間は静かに従っていた。そのため、紗江が遠く港市へと嫁ぐ
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第7話

紗江は、財前家から迎えに来た人々に付き添って、静かに東都市を離れた。そして二日後――彼女は初めて、未来の夫と対面することになった。彼の名は財前深志、財前家の跡取りだ。よく仕立てられた黒のスーツをまとって、その姿は高貴で端正だった。車椅子に座り、膝には薄い毛布が掛けられていたが、背筋はまっすぐに伸び、広い肩は力強く、見る者に障害を意識させない堂々とした佇まいだった。「紗江」低く、静かな声で彼は名を呼んだ。紗江は深く息を吸い、足早に近づくと、静かに膝をついてしゃがみ込んだ。彼の目線と自分の目線がぴたりと重なった。その瞬間、彼女は自分がどれほど緊張し、そして恥じらっていたかを悟った。彼の深く漆黒の瞳の奥に、自分の姿が映り込んでいた。震えるまつ毛までも、そこに映っていた。そっと息を呑んで、勇気を振り絞って手を伸ばした。毛布の上に置かれていた彼の手を、そっと包み込むように握った。「初めまして、財前さん。元松紗江と申します」その痩せた手を握った瞬間、周囲から小さな驚きの息が漏れるのが聞こえた。だが、緊張で胸がいっぱいの彼女には、それを気にする余裕などなかった。むしろ、その手をぎゅっと、無意識に強く握りしめた。深志は彼女の手を振り払うことなく、じっと受け止めていた。彼の指は長く、関節は力強く、彼女の手ではとても包みきれなかった。呼吸が詰まりそうになるほど緊張したその刹那――彼の手が動いた。深志は、氷のように冷たい彼女の指を、静かに、しかし確かに握り返したのだ。大きな手が、彼女の手をすっぽりと包み込んだ。温もりを与えるように、しっかりと。「紗江、部屋まで俺を押してくれ」彼の言葉に、紗江は慌てて立ち上がろうとするが、急に身体がふらついて、よろけかけた。すると、深志はすぐに手を伸ばして、彼女の腰をしっかりと支えた。「気をつけて」その手はすぐに離されたが、彼女の頬にはじんわりと熱がこもったままだった。小さく「うん......」と頷いて、使用人から車椅子のハンドルを受け取って、部屋へと押していった。ドアが閉まり、暖かな照明が灯された室内。財前深志は彼女を一瞥すると、自身の脚を指差した。その唇の端が、わずかに弧を描いたようにも見えたが、きっと見間違いだろう。「脚が不自由
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第8話

光陽は披露宴の前に、仲間内でひと席設けた。だが、その場に姿を見せなかったのは、肝心の婚約者・小嶋彩葉だった。集まったのは、彼の身の回りにいる放蕩な友人たちばかり。酒が回るにつれ、誰もが次第に気が緩み、口も滑らかになっていった。ふと、誰かがふざけ半分で「紗江」という名を口にした。「光陽さん、今まで何人とも付き合ってきたけど、やっぱり紗江さんが一番美人だったよな」「それは確かだ。全員一致だろ」「光陽さんが本気で拒まなかったら、マジで俺、口説きにいってたかも」「お前の出る幕かよ、後ろに並べって」くだけた笑いと共に、言葉はどんどん下品に、悪乗りしていった。その時、いつの間にか光陽はグラスを置いていた。ソファにもたれ、無言で彼らをじっと見つめている。気づいた仲間たちは、徐々に口をつぐみ始めた。「......光陽さん、いや、その......冗談だってば」「酔ってたんだよ、ちょっと悪乗りが過ぎただけで......真に受けないでくれよ」光陽は、ふっと笑った。「お前らがそう言うと、逆に紗江って女を思い出したな。でも、あいつ......死んだのか?今まで音沙汰ないなんてさ」その口調は冷ややかで、どこか投げやりにさえ聞こえた。まるで本当に、今ようやく思い出したかのように。まるで、彼女が本当に死んでいたとしても、それが取るに足らぬ出来事であるかのように。その場の空気が一瞬で凍りついた。慌てて笑いながら口を開いたのは、側近の彰だった。「周藤さん、申し訳ありません。お伝えしそびれてしまいました。実は数日前、元松さんから荷物を託されまして......とても大切なものだと。たぶん、復縁でも望んでたんでしょう。だから私、少し釘を刺したんです。周藤さんの前で騒がれたら困りますし......」その言葉に、光陽は薄く笑いながら、彰を静かに見据えた。「......杉本、お前、だんだんといい度胸してきたな」彰は顔色を変えて、すぐさま立ち上がった。「周、周藤さん......」「俺のことを、いつからお前が勝手に判断していいってことになった?」「す、すみません......越権でした」何度も頭を下げ、冷や汗をかいた。光陽は目を伏せ、中指にはめた指輪を無意識にひねった。そして、淡々と命
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第9話

彰から電話がかかってきたのは、紗江がちょうど深志の膝の上から降りた直後だった。深志は窓辺にもたれ、腫れた唇を見て、皮肉げに微笑していた。耳の後ろまで熱くなりながら、紗江はスマホを手に取り、窓辺に歩み寄って応答した。「杉本さん......」息が少し乱れていた。「何の用?」受話器の向こうで、彰の声が焦っていた。「元松さん、周藤さんからのご伝言です。三十分以内にいつもの場所へ来てください。さもないと、本当に小嶋さんと婚約されるそうです」その言葉に、紗江は思わずうつむいて、くすりと笑った。夜は静寂に包まれていた。おそらく、深志の耳にもそのやり取りは届いていたのだろう。彼はベッドサイドに水の入ったグラスを置いた。少し大きめの音を立てて。電話越しの彰も、その物音に気づいたらしい。すぐさま問いかけた。「元松さん、こんな時間に、誰かそばにいらっしゃるんですか?」かつての彼女なら、光陽にはどこまでも従順で、呼び出されればすぐに駆けつけていた。そして、側近の彰に対しても、常に丁寧に接していた。だが、もう、あの頃の彼女ではなかった。「杉本さん、これは私の私事で、あなたに関係ないでしょう?」穏やかに、しかしはっきりと告げた。「それに、私と周藤光陽はすでに婚約を解消した。彼が誰と婚約しようと、私には一切関係ない」彰は慌てた様子で、すぐさま言い返した。「元松さん、どうか一時の感情で判断しないでください。後悔するかもしれません。明日が周藤さんと小嶋さんの正式な婚約の日です。今夜が最後のチャンスなんです」「その『チャンス』など、私には必要ない」紗江の声音は静かで、冷ややかだった。「それより、以前渡したもの、ちゃんと光陽に渡したか?」彰はしばし黙り込んだ。あの紙箱は、数日前に彩葉によって持ち去られていた。彼は彩葉の立場を考慮し、何も言えなかったのだ。紗江はもう一度、静かに言った。「杉本さん、はっきり言っておく。あのものは、必ずご本人に『あなたの手で』渡してください」彰の声色が変わって、今度は極めて丁寧だった。「元松さん......そのものは、やはりご自身で周藤さんに......」「私は何度も言ったはずだ。私たちはもう終わったんだ。もう、会うことはない」そこで言葉を切って、彼
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第10話

通話を終えた紗江は、スマホを手にベッドへ戻った。深志はそのスマホを取り上げて、何のためらいもなく隣のソファに放り投げた。彼は彼女の腰を抱き寄せて、温かな吐息が頬や首筋をくすぐった。長くしなやかな指先が彼女の腰の柔らかな部分をなぞって、ぞくりとした感覚をもたらした。逃げようとする彼女の動きを、彼はさらに強く抱き締めて阻んだ。「紗江、知ってるか?キスの最中に、どうでもいい電話を取りに行くのは──かなり礼儀知らず行為なんだよ」ここ数日、紗江はずっと深志の傍にいた。彼は言った。「まもなく結婚し、本当の夫婦になるのだから、今から夫婦としての親密さに慣れておくべきだ」と。それゆえ、毎晩眠る前には、抱擁とキスを交わして、そして「おやすみ」と言って眠りにつくのが日課となっていた。この屋敷での生活は、彼女が想像していたものとはまるで異なり、穏やかで心地よいものであった。深志は世間の評判とは違って、暴力的でも冷酷でもない。むしろ、彼は彼女にも周囲の人々にも思いやり深く、優しく接していた。ふたりの関係は、急速に親密さを増していた。さらに紗江は、遠く海外にいる弟妹たちとも連絡が取れていた。彼らは無事に暮らしていて、学業にも生活にも支障はなかった。そして、彼と正式に婚姻を結べば、彼の保護のもと、弟妹たちは元松文宏や継母の干渉を受けることなく、自由に生きられる──深志はそう約束してくれたのだ。その日が訪れることを、紗江は心の底から待ち望んでいた。恩には誠意を以て報いるべきだ。彼女の心はすでに決まっていた。深志を、心からの意味で「夫」として受け入れていた。その想いを胸に、紗江はそっと腕を彼の首に回し、顔を上げて、自ら唇を重ねた。「深志、これで......償いになったでしょうか?」「キス一つだけで?紗江」羞恥をこらえて、彼女は再び彼の頬に唇を寄せた。それから顎、喉仏へと......喉元に触れた瞬間、深志の身体がぴくりと反応して、喉仏が上下に大きく動いた。「いい子だ、紗江......けど、まだ足りないな」そう言いながら、深志は紗江の顎を軽く掴み、唇を重ねた。それは今までにないほど深く、熱のこもったキスだった。まるで、彼女という存在すべてを飲み込みたいかのように。紗江もまた、彼の身体
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