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幾たびの歳月、いかほど深く

幾たびの歳月、いかほど深く

By:  霜降Completed
Language: Japanese
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周藤光陽と婚約を解消したとき、誰もが口を揃えて言った。 元松紗江の人生はもう終わりだ、と。 彼に五年間尽くし、彼の期待に応えるために、自身の評判すら投げ捨てた。 そんな彼女を引き受けようとする男など、もうどこにもいないと誰もが思っていた。 やがて、光陽に新たな恋人ができたという噂が社交界に広がると、周囲の人々は当然のように、紗江が未練たらしく彼に縋りつくのを待っていた。 だが、誰も知らなかった。 紗江は自ら望んで、年若い妹の代わりに港市との政略結婚を引き受けたのだと。 嫁入り前、紗江は光陽から贈られた宝石箱をきちんと返却した。 少年の頃、彼が手作りで贈った空白の願い事カードさえも。 未練も、しがらみも、すべて綺麗に断ち切って旅立った。 それからずいぶんと時が経ったある日、光陽はふと紗江の名を口にした。 「ずっと音沙汰もない......紗江は、もう死んだのか?」 同時に、新婚の夫の熱い口づけで目を覚まされながら、紗江は甘く囁かれた。 「紗江、いい子だね。四回って約束したよね?一回も、減らしちゃだめだよ......」

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Chapter 1

第1話

四月の初めに大雨が降った。

病院の出口。

痩せた夏目紗枝の細い手に、妊娠検査報告書が握られていた。検査結果は見なくても分かった。報告書にははっきりと二文字が書かれていた――『未妊』!

「結婚して3年、まだ妊娠してないの?」

「役立たずめ!どうして子供を作れないの?このままだと、黒木家に追い出されるよ。そんな時、夏目家はどうする?」

夏目美希は派手な服をしていた。ハイヒールで地面を叩きながら、紗枝を指さして、がっかりした顔を見せていた。

紗枝の眼差しは空しくなった。心に詰まった言葉が山ほどあったが、一言しか口に出せなかった。

「ごめんなさい!」

「ごめんなどいらない。黒木啓司の子供を産んでほしい。わかったか?」

紗枝は喉が詰まって、どう答えるか分からなくなった。

結婚して3年、啓司に触られたこと一度もなかった。

子供なんか作れるはずはなかった。

弱気で意気地なしの紗枝が自分と一寸も似てないと夏目美希は痛感していた。

「どうしても無理があるなら、啓司君に女を見つけてやって、あなたのいい所、一つだけでも覚えてもらったらどうだろう!」

冷たい言葉を残して、夏目美希は帰った。

その言葉を信じられなくて紗枝は一瞬呆れて、お母さんの後ろ姿を見送った。

実の母親が娘に、婿の愛人を探せというのか

冷たい風に当たって、心の底まで冷え込んだ。

......

帰宅の車に乗った。

不意にお母さんの最後の言葉が頭に浮かんできて、紗枝の耳はごろごろ鳴り始めた

自分の病気が更に悪化したと彼女はわかっていた。

その時、携帯電話にショートメールが届いた。

啓司からだった。「今夜は帰らない」三年以来、毎日に同じ言葉を繰り返されていた。

ここ3年、啓司が家に泊まったことは一度もなかった。

紗枝に触れたこともなかった。

3年前の新婚の夜、彼に言われた言葉、今でも覚えていた。

「お宅は騙して結婚するなんて、いい度胸だね!孤独死を覚悟しろよ!」

孤独死......

3年前、両家はビジネス婚を決めた。

双方の利益について、すでに商談済みだった

しかし結婚当日、夏目家は突然約束を破り、200億円の結納金を含め、全ての資産を移転した。

ここまで思うと、紗枝は気が重くなり、いつも通りに「分かりました」と彼に返信した。

手にした妊娠検査報告書はいつの間にかしわだらけに握りつぶされた。

家に着いた後、報告書をゴミ箱に捨てた。

毎月のこの時、彼女は特に疲れを感じた。

夕飯の支度をせず、ソファーに靠れて、半醒半睡になった。

彼女の耳はゴロゴロと鳴り始めた。

これも啓司に嫌われたことだ。聴覚障害があって、大家族では体の不自由と同等に扱いされていた。

この様子で、啓司は彼女に子供を持たせるわけがないだろう。

壁に飾られたヨーロッパ式釣鐘からの音は重苦しかった。

午前5時。

1時間後に、啓司は帰ってくるはずだった。

目覚めたら、ソファーで一晩眠っていた。

ソファーから起き上がって、啓司の朝食の支度をし始めた。1秒も遅れないように心掛けていた。

彼は真面目な人で、時間に対して猶更厳しかった。紗枝はお父さんの葬式で時間通りに帰れなくて、朝食の準備を忘れたことがあった。

その後、1ヶ月間、ショートメールも、口数も一つもなかった。

6時、時間通りに帰ってきた。

彼はパリッとしたイタリア製のスーツ、細長い体、控えめの気質、眉目秀麗で男らしい人だった。

ただし、紗枝の目の中の彼は、冷たくて親しくなかった。

啓司は紗枝に目もくれず、まっすぐにテーブルに向かい、椅子を引きずり出して腰かけた。「今後、俺の朝食を用意しなくていい」

紗枝は呆気にとられた。

本能かどうか分からないが、口から出た言葉は、彼女の自意識をはるかに超えて、卑しかった

「私が何か過ちをしたのでしょうか?」

啓司は頭を上げて、紗枝の3年間で変わらなかった無表情の顔を眺め、薄い唇を軽く開いた。

「俺が欲しいのは妻だ。家政婦じゃない」

三年間、紗枝はいつもライトグレーの服を着ていて、ショートメールの返事さえも、「わかりました」と同じ言葉だった。

正直に言うと、ビジネス婚でなかったら、夏目家に騙されなかったら、こんな女と結婚するはずがなかった!

紗枝が自分に釣り合わないと啓司は思ったのだ。

「俺が欲しいのは妻だ。家政婦じゃない!」

耳の中にごろごろの音がさらに大きくなった。

喉が詰まって泣きそうな声で、彼が一番嫌い言葉を口に出した。

「わかりました」

啓司は急に気分が重苦しくなり、食卓に並べられた大好きな朝食も美味しくなくなってきた。

彼は椅子から立ち上がり、いらいらして出かけようとした。

紗枝は突然に彼の手をつかんだ。どうしてそんなことができたか自分にはわからなかった。

「啓司君、好きな人ができたのでしょうか?」

突然の一言で、啓司の顔色が一変した。「どういう意味?」

紗枝は目前の人を顔を上げて見つめた。

彼は結婚3年の夫だけでなく、12年間ずっと好きだった男だった。

でも今は......

唇を嚙んで悲しみの気持ちを抑えて、お母さんの言葉を考えながら、ゆっくりと口を開いた。

「啓司君、好きな人がいたら、彼女と一緒に......」

彼女の話はまだ終わってないが、啓司に遮られた。

「馬鹿」

......

人生は結局、手放しの繰り返しだ。

啓司を見送って、紗枝はベランダの椅子に座り、外の冷たい雨をぼんやりと眺めていた。

12年間ずっと好きだったが、今でも彼の心を分からなかった。

雨が途切れ途切れに降り続いた。

1ヶ月前、お医者さんに言われた。

「夏目さん、検査の結果、聴覚神経と聴覚中枢に異変が起こり、更なる聴力の低下を引き起こしました」

「治す方法はないのですか」

お医者さんは頭を横に振った。「長期的な聴覚神経の劣化による聴力の低下は、薬での効果が明らかになっていません。アドバイスとして、補聴器を付け続けて、聴力回復を図りましょう」

もう治す方法はないと、お医者さんの言葉の意味、紗枝は分かっていた。

補聴器を取り外した。

紗枝の世界は、静かになった。

彼女はこんな静かな世界に落ち着かなかった。リビングに足を運び、テレビをつけた。

リモコンで音声マックスにして、ごくわずかな音が伝わってきた。

ごく偶然なことに、帰国した国際的甘系の歌姫、柳沢葵のインタビューが放送されていた。

リモコン握った手が一瞬震えた。

他でもなく、葵は啓司の初恋だったのだ。

数年ぶりだったが、葵は相変わらずきれいだった。

カメラの前で、とても平気だった。夏目家に助けを求め、恥ずかしがり屋で自信がないシンデレラのような彼女は一切見えなかった。

記者に帰国の理由を聞かれた時、彼女の声は自信満々で大胆だった。

「今度帰国した目的は、初恋を取り戻すためだ!」

手にしたリモコンが床にガチャンと落ちた。

リモコンと共に紗枝の心も沈んだ。

外の雨はまた激しく降っていた。

言うまでもなく、紗枝は心配していた。葵に啓司を奪われるだろうと思うと心が痛み始めた。

彼女は夏目家のお嬢様だったころ、何の背景もない葵にも叶わなかった。

今、葵は国際的甘系歌姫になり、自信満々で明るくて、猶更勝てないと思った。

慌ててテレビを消して、紗枝は作ったままの朝食を片付け始めた。

台所に向かった時、啓司のスマホに気づいた。彼はスマホを忘れた。

スマホを手に取り、不意に画面を弄ったら、未読のショートメールが目に入った。

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第1話
周藤光陽(すとう こうよう)が突然「結婚したい」と言い出したあの日。元松紗江(もとまつ さえ)はもう三ヶ月も彼に会っていなかった。最後に会ったとき、彼が友人たちに「彼女にはもう飽きた」と言っているのを、偶然耳にした。その場にいた人々は、みな笑っていた。五年間も光陽について回り、彼に合わせるために名声を汚した。結局彼に捨てられたのだ。 この三ヶ月間、実家の元松家での暮らしは辛いものだった。数日前に父・元松文宏(もとまつ ふみひろ)が酔って、彼に殴られた。その時の傷が今も背中に鈍く痛んでいる。だからこそ、今日突然光陽から電話がかかってきて、来てほしいと言われたとき、紗江の心にはまた一縷の希望が灯った。婚約のときに贈られた翡翠の腕輪をわざわざ身に着けて、急いで彼の元へ向かった。 別荘に着いたとき、光陽はすでに酔っていた。目を閉じて、若い女の子の膝にもたれかかるようにしていた。その子はまだ学生のようで、純粋そうな雰囲気を纏っていた。紗江が部屋に入ると、彼の頭をマッサージしていた少女は慌てて立ち上がろうとした。だが、彼女の手首は光陽に握られたままだった。 「そのままでいい」彼は目も開けず、ただ少しだけ力を込めて手を引いた。少女の体は彼に引き寄せられた。素直に顔を伏せ、彼に唇を奪われるままになった。彼は手を離すと、今度は彼女の顎を指でつまんだ。深く、音を立ててキスをした。 紗江は入口でクラッチバッグを握りしめたまま、しばらく立ち尽くしていた。やっと気持ちを整え、何事もないように窓の外を見ながら言った。「先に庭を見てくるわ。あとでまた来るから」 その言葉が終わるか終わらないかのうちに、光陽がふっと鼻で笑った。彼の隣にいた少女はすぐに気を利かせて立ち上がった。「じゃあ、私が先に外に出ます。元松さんは用事がありそうですね」と、遠慮がちに言った。 今度は光陽も彼女を引き止めることはしなかった。ただ、彼女の手をしばらく弄んでから、名残惜しそうに手を放して、「外は寒いから、風邪ひくなよ」と優しく言った。 少女は口元に微笑みを浮かべて頷いた。長く黒い髪がほとんど顔を覆い、赤らんだ頬を隠していた。紗江のそばを通るとき、丁寧に「元松さん」と挨拶してくれた。紗江は軽く会
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第2話
五年前、紗江は大学に入学したばかりだった。光陽は当時、紗江のことを「天使のような無垢さだった」と言っていた。あの頃の彼は、本当に紗江を愛してくれていた。そして、過剰なほどに甘やかしてくれた。まるで、一番大事な宝物を扱うように大切にしていた。紗江は彼にとって、最も長く付き合った恋人だった。大学を卒業する前に婚約までした。 ただ、そこまでだった。今の紗江は、もはやかつての面影すらなく、名誉も地に落ちた。東都市中の人が知っている。この玉の輿を何がなんでも掴むために、紗江はどれほど恥知らずなことをしてきたかを。 彼が「お前の純粋さには飽きた」と言ったとき、紗江は彼に合わせるため、無理に自分を変えた。彼の汚れた交友関係に身を投じ、彼の変態な趣味に迎合しようとした。彼が欲しがったのは、色っぽく、情熱的で、大胆な女。紗江は恥ずかしさを堪えて、すべてを受け入れた。 けれど、そんな努力の果てに返ってきたのは、彼の侮蔑の言葉だけだった。 「紗江、お前って本当に下品だな。娼婦でも、お前ほどベッドで乱れねぇよ。今のお前、どこに名家の令嬢らしさが残ってるんだ?」 彼は紗江に別れを告げた。そのとき父の文宏は、年端もいかない弟と妹を人質のようにして紗江を脅した。紗江は光陽を引き止めるために、手首を切ったり、薬を飲んだりした。できる限りのことは、全部した。 そして今、光陽は昔の面影の消えた紗江に、こう言った。 「俺は彩葉のことが本気で好きなんだ。五年前のお前に似てる」 紗江は笑おうとしたが、笑えなかった。 「本気で好きだから、きちんと身分を与えたい。彼女はお前と違って臆病で、すごく純粋なんだ。俺が守ってやらなきゃ」 紗江は、何か言おうとしたけれど、結局、一言も声が出せなかった。 しばらくして、ようやく微笑みを浮かべて絞り出した。 「そう......わかったわ」「元松家には、俺から少し話しておく」 「いや、自分で何とかするよ」 「じゃあ好きにしろ」 彼はよろめきながら立ち上がり、ポケットから何かを取り出した。それを音を立ててテーブルに放り投げた。紗江は目を見開いた。 それは二人が婚約を交わした時に交換した誓いの品だった。
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第3話
紗江が光陽に婚約を破棄されたという噂は、すぐに広まった。予想していたような、あの激しい暴力はなかった。ただ、再び海外にいる弟と妹との連絡が途絶えた。紗江は知っている。それは父親が怒りをぶつけるときに、よく使う手段だということを。 彼と継母は、東都市を駆け回って、紗江の結婚相手を探し始めた。元松家の贅沢な生活を保つために、紗江を嫁がせようとしていた。けれど、外では次第に耳をふさぎたくなるような噂が立ち始めた。紗江がこの数年、光陽の心を得るために、どんな下劣なことでも平気でやってきただの、 すでに多くの男に弄ばれて、もはや子どもを産む能力すらないだのと。 「東都には、あんな女を娶ろうとする男はいない」そんな言葉まで、堂々と囁かれるようになった。 父親の機嫌はますます悪くなり、紗江の暮らしも日に日に苦しくなっていった。 光陽と婚約を解消してから、二か月後。光陽にまつわる、またもや世間を騒がせるような噂が流れた。今度は、彩葉との婚約が決まったという話だった。 光陽は、両親の反対を押し切ってまで彼女を娶ろうとしていた。 火に油を注ぐ人が、わざわざ紗江の耳にその話を届けてきた。彼らが見たかったのは、紗江の反応だった。退屈な日々に飽き、また紗江の惨めな姿を恋しく思ったのだろう。 「紗江さん、光陽さんって、実は今でもあんたのこと好きなんじゃない?」「今つらいんでしょ? 一回お願いしてみたら?」「光陽さんって情に弱いしさ、泣いてすがれば、最悪死ぬって騒げば、戻ってくるかもよ?」「小嶋なんかより、紗江さんの方がずっと綺麗だしさ」 そんなメッセージを見ても、紗江は一切返事をしなかった。その代わり、ただひたすらに嫁ぐ準備を始めた。 ちょうど一週間前。紗江は一晩中、父親の前で跪き続けた。 そしてようやく、成年したばかりの妹の代わりに、紗江が嫁ぐことを許された。 行き先は、港市。 相手は、財前家の長男——財前深志(ざいぜん ふかし)。 彼は手段が冷酷で、絶大な権力を誇り、港市の「影ノ王」と呼ばれている。ただし、脚に障害があるため、性格は極めて暴虐との噂だった。 それでも、紗江は少しも怖くなかった。 元松家から逃げ出せること。弟妹を自由にでき
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第4話
嫁ぐ前に、紗江は親友と食事の約束をした。途中で洗手所に立ったとき、偶然、彩葉と出くわした。彼女は以前とはまるで別人のようだった。丁寧に化粧を施していて、ディオールの一番人気な黒のドレスを身にまとい、その体つきはしなやかで艶めかしい。鮮やかな唇には、細いレディスシガーが咥えられていた。「元松さん、もう聞いたでしょう?」彩葉は紗江を見て、挑発的に笑った。「光陽が私と婚約するの」紗江は彼女を見つめた。ふと、初めて会ったときの、あの純粋で恥じらいのある姿が頭に浮かんだ。なぜか胸の奥に、言いようのない物悲しさが広がったのだろう。「うん、聞いたわ」彩葉の瞳には、さらに深い笑みが宿った。「元松さん、嫉妬してるのかしら?あなたが彼のために三人も子どもを失くしたって聞いたわ。この数年、彼の心を繋ぎ止めたくて、結婚したくて、どれだけ下劣な真似をしたかって」彼女は窓際にもたれかかり、その笑みには見下すような軽蔑が混じっていた。紗江は淡々と彼女を一瞥した。「小嶋さん、それは『聞いた』話であって、事実じゃないでしょう?私たち、同じ女として、そんな下品な噂を撒き散らす必要、あるかしら?」彩葉は鼻で笑った。「東都市のみんなが知ってるのよ?それをただの噂だなんて笑えるわ」紗江はこれ以上、彼女に言葉を費やす気になれず、振り返って立ち去ろうとした。すると彼女は、急に皮肉めいた声で言った。「元松さん、女でもいろいろなのよ。女は自分のことを大事するって、あなたのお母さん、生前に何も教えてくれなかったの?」紗江はその言葉に、足を止めた。「お母さん」の言葉をが耳に入った瞬間、熱い血が頭に駆け上った。思考する暇も、冷静になる余地もなかった。紗江はくるりと振り返って、手を振り上げて、平手打ちを叩き込んだ。「元松さん......」彩葉は一瞬呆然としたが、すぐに顔を押さえ、涙を浮かべた。「私と光陽が婚約するってことで、あなたが傷ついたのは分かる。でも、私を殴るなんて......あなたが怒ってるのも理解できるけど、恋愛は無理やりにできるものじゃないでしょ?光陽は、あなたみたいに淫らな女は嫌いなの。私のせいじゃないよ......」彼女の泣き声は哀れで可哀想に聞こえた。だがその言葉
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第5話
光陽は、少し驚いたようだった。この数年、彼は様々な紗江を見てきた。素直で純真な紗江。従順で聞き分けのいい紗江。そして、取り乱して泣きながらすがりついた紗江。紗江は彼の前で、無邪気にもなったし、艶やかにもなったし、泣いたことも笑ったことも喚いたこともある。だが、今のように、これほど静かで、これほど冷ややかな紗江を、彼は一度たりとも見たことがなかった。彼は彩葉を押しのけて、無表情のまま紗江の前に立った。「紗江、最後に言っておく。彩葉に謝れ」紗江は彼をまっすぐに見つめたまま、ふと笑った。決別の笑み、そして破れかぶれの笑みだった。「光陽......私は謝らない。死んでも、謝らない」その瞬間、鋭く、乾いたビンタの音が廊下に響いた。鋭く、冷たく、鮮やかに。その平手打ちに、光陽まで一瞬呆然としたようだった。彩葉さえ、信じられないという顔で目を見開いていた。ただ一人、紗江は、ゆっくりと痛む頬に手を当て、少しずつ、瞳を赤く染めていった。「紗江......」光陽は無意識のうちに一歩近づいた。だが、紗江は反射的に一歩退いた。彼が伸ばそうとした手は、空中で止まりってから、すぐに冷たい表情で下ろされた。「紗江、これは自業自得だ。お前が素直に謝っていれば、俺も手を出さなかった」彼の声は低く、かすれがちだった。「俺は......女に手を挙げたことなんて、これまで一度もない。これだけ長く一緒にいても、一度だってお前に乱暴したことはなかった。でも、今日はお前が彩葉に手を出した。それがだめだ。彩葉を好きになったのは俺だ。彼女は悪くない。紗江、もうやめろ。せめて、自分の尊厳くらいは守れ」口数の少ない彼が、これほど多くを語ることはなかった。だが紗江は、その一言一句すら、耳に入らなかった。瞳は真っ赤に染まり、どうしても抑えきれない涙があふれてきた。泣きたくなかった。しかし、涙は止まることができなかった。光陽は、いつの間にか拳を強く握りしめていた。その眉間にも、深い皺が刻まれていた。彩葉がそっと彼のそばに寄り添って言った。「光陽、もういいわ。行きましょう」彼は彼女の手を握り返した。だが視線は、なお紗江の顔に向けられたままだった。「紗江。彩葉にもう近づくな。これから先、
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第6話
その日の帰宅後、紗江のもとには多くのメッセージや電話が届いていた。その大半は、彩葉のSNS投稿のスクリーンショットで、中でひときわ目立っていたのは、彼女が載せた婚約指輪の写真だった。紗江は無言のままアプリを閉じ、誰にも返信しなかった。電話も一切取らなかった。顔はまだ腫れていたため、氷で冷やすことにした。そして戻ってくると、スマホの画面には、新たな入金通知が表示されていた。何気なく開いてみると、その桁数の多さに思わず目を見開いた。数えきる前に、着信音が鳴り響いた。ディスプレイに浮かんだ「財前深志」という文字だった。それは彼女自分で登録した名前だった。婚約が決まって以来、深志からの初めての電話だった。心臓の鼓動が速くなるのを感じ、深呼吸を数回してから、通話ボタンを押した。「元松さん、お金は受け取ったか?」「はい、受け取りました......でも財前さん、結納金はすでにお支払いいただいたはずでは......」紗江は控えめにそう伝えながら、誰かが間違えて送金したのではないかと考えた。「結納金は元松家に送ったものだ。今回の金は、君個人に贈ったものだ」その言葉に、紗江はスマホを握りしめたまま、しばらく黙り込んだ。やがて低く、かすれた声で答えた。「財前さん、そんなことをしていただかなくても大丈夫です。私......以前に婚約していたこともありますし、評判も......」「構わない」深志の声は、静かでありながら、どこか人の心を落ち着かせる響きを持っていた。噂で語られる彼は、冷酷で容赦なく、気まぐれで暴力的とまで言われる男だった。だが今、受話口から聞こえてくる声には、そんな人物像は微塵も感じられなかった。「君も言っただろう、『以前』の話だ。過去は過去、今はもう別の話だ。気にするな。もうすぐ遠く港市に嫁ぐことになるから、欲しいものがあれば、持っていくといい」紗江は、思わず目に涙をためながらも、微笑んで感謝の言葉を口にした。「ありがとうございます、財前さん」港市への嫁入りの話は、一切外部に漏れていなかった。それは、深志の意向だった。財前家からの迎えの者たちは、すでに東都市に到着していた。彼らの存在ゆえに、元松家の人間は静かに従っていた。そのため、紗江が遠く港市へと嫁ぐ
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第7話
紗江は、財前家から迎えに来た人々に付き添って、静かに東都市を離れた。そして二日後――彼女は初めて、未来の夫と対面することになった。彼の名は財前深志、財前家の跡取りだ。よく仕立てられた黒のスーツをまとって、その姿は高貴で端正だった。車椅子に座り、膝には薄い毛布が掛けられていたが、背筋はまっすぐに伸び、広い肩は力強く、見る者に障害を意識させない堂々とした佇まいだった。「紗江」低く、静かな声で彼は名を呼んだ。紗江は深く息を吸い、足早に近づくと、静かに膝をついてしゃがみ込んだ。彼の目線と自分の目線がぴたりと重なった。その瞬間、彼女は自分がどれほど緊張し、そして恥じらっていたかを悟った。彼の深く漆黒の瞳の奥に、自分の姿が映り込んでいた。震えるまつ毛までも、そこに映っていた。そっと息を呑んで、勇気を振り絞って手を伸ばした。毛布の上に置かれていた彼の手を、そっと包み込むように握った。「初めまして、財前さん。元松紗江と申します」その痩せた手を握った瞬間、周囲から小さな驚きの息が漏れるのが聞こえた。だが、緊張で胸がいっぱいの彼女には、それを気にする余裕などなかった。むしろ、その手をぎゅっと、無意識に強く握りしめた。深志は彼女の手を振り払うことなく、じっと受け止めていた。彼の指は長く、関節は力強く、彼女の手ではとても包みきれなかった。呼吸が詰まりそうになるほど緊張したその刹那――彼の手が動いた。深志は、氷のように冷たい彼女の指を、静かに、しかし確かに握り返したのだ。大きな手が、彼女の手をすっぽりと包み込んだ。温もりを与えるように、しっかりと。「紗江、部屋まで俺を押してくれ」彼の言葉に、紗江は慌てて立ち上がろうとするが、急に身体がふらついて、よろけかけた。すると、深志はすぐに手を伸ばして、彼女の腰をしっかりと支えた。「気をつけて」その手はすぐに離されたが、彼女の頬にはじんわりと熱がこもったままだった。小さく「うん......」と頷いて、使用人から車椅子のハンドルを受け取って、部屋へと押していった。ドアが閉まり、暖かな照明が灯された室内。財前深志は彼女を一瞥すると、自身の脚を指差した。その唇の端が、わずかに弧を描いたようにも見えたが、きっと見間違いだろう。「脚が不自由
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第8話
光陽は披露宴の前に、仲間内でひと席設けた。だが、その場に姿を見せなかったのは、肝心の婚約者・小嶋彩葉だった。集まったのは、彼の身の回りにいる放蕩な友人たちばかり。酒が回るにつれ、誰もが次第に気が緩み、口も滑らかになっていった。ふと、誰かがふざけ半分で「紗江」という名を口にした。「光陽さん、今まで何人とも付き合ってきたけど、やっぱり紗江さんが一番美人だったよな」「それは確かだ。全員一致だろ」「光陽さんが本気で拒まなかったら、マジで俺、口説きにいってたかも」「お前の出る幕かよ、後ろに並べって」くだけた笑いと共に、言葉はどんどん下品に、悪乗りしていった。その時、いつの間にか光陽はグラスを置いていた。ソファにもたれ、無言で彼らをじっと見つめている。気づいた仲間たちは、徐々に口をつぐみ始めた。「......光陽さん、いや、その......冗談だってば」「酔ってたんだよ、ちょっと悪乗りが過ぎただけで......真に受けないでくれよ」光陽は、ふっと笑った。「お前らがそう言うと、逆に紗江って女を思い出したな。でも、あいつ......死んだのか?今まで音沙汰ないなんてさ」その口調は冷ややかで、どこか投げやりにさえ聞こえた。まるで本当に、今ようやく思い出したかのように。まるで、彼女が本当に死んでいたとしても、それが取るに足らぬ出来事であるかのように。その場の空気が一瞬で凍りついた。慌てて笑いながら口を開いたのは、側近の彰だった。「周藤さん、申し訳ありません。お伝えしそびれてしまいました。実は数日前、元松さんから荷物を託されまして......とても大切なものだと。たぶん、復縁でも望んでたんでしょう。だから私、少し釘を刺したんです。周藤さんの前で騒がれたら困りますし......」その言葉に、光陽は薄く笑いながら、彰を静かに見据えた。「......杉本、お前、だんだんといい度胸してきたな」彰は顔色を変えて、すぐさま立ち上がった。「周、周藤さん......」「俺のことを、いつからお前が勝手に判断していいってことになった?」「す、すみません......越権でした」何度も頭を下げ、冷や汗をかいた。光陽は目を伏せ、中指にはめた指輪を無意識にひねった。そして、淡々と命
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第9話
彰から電話がかかってきたのは、紗江がちょうど深志の膝の上から降りた直後だった。深志は窓辺にもたれ、腫れた唇を見て、皮肉げに微笑していた。耳の後ろまで熱くなりながら、紗江はスマホを手に取り、窓辺に歩み寄って応答した。「杉本さん......」息が少し乱れていた。「何の用?」受話器の向こうで、彰の声が焦っていた。「元松さん、周藤さんからのご伝言です。三十分以内にいつもの場所へ来てください。さもないと、本当に小嶋さんと婚約されるそうです」その言葉に、紗江は思わずうつむいて、くすりと笑った。夜は静寂に包まれていた。おそらく、深志の耳にもそのやり取りは届いていたのだろう。彼はベッドサイドに水の入ったグラスを置いた。少し大きめの音を立てて。電話越しの彰も、その物音に気づいたらしい。すぐさま問いかけた。「元松さん、こんな時間に、誰かそばにいらっしゃるんですか?」かつての彼女なら、光陽にはどこまでも従順で、呼び出されればすぐに駆けつけていた。そして、側近の彰に対しても、常に丁寧に接していた。だが、もう、あの頃の彼女ではなかった。「杉本さん、これは私の私事で、あなたに関係ないでしょう?」穏やかに、しかしはっきりと告げた。「それに、私と周藤光陽はすでに婚約を解消した。彼が誰と婚約しようと、私には一切関係ない」彰は慌てた様子で、すぐさま言い返した。「元松さん、どうか一時の感情で判断しないでください。後悔するかもしれません。明日が周藤さんと小嶋さんの正式な婚約の日です。今夜が最後のチャンスなんです」「その『チャンス』など、私には必要ない」紗江の声音は静かで、冷ややかだった。「それより、以前渡したもの、ちゃんと光陽に渡したか?」彰はしばし黙り込んだ。あの紙箱は、数日前に彩葉によって持ち去られていた。彼は彩葉の立場を考慮し、何も言えなかったのだ。紗江はもう一度、静かに言った。「杉本さん、はっきり言っておく。あのものは、必ずご本人に『あなたの手で』渡してください」彰の声色が変わって、今度は極めて丁寧だった。「元松さん......そのものは、やはりご自身で周藤さんに......」「私は何度も言ったはずだ。私たちはもう終わったんだ。もう、会うことはない」そこで言葉を切って、彼
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第10話
通話を終えた紗江は、スマホを手にベッドへ戻った。深志はそのスマホを取り上げて、何のためらいもなく隣のソファに放り投げた。彼は彼女の腰を抱き寄せて、温かな吐息が頬や首筋をくすぐった。長くしなやかな指先が彼女の腰の柔らかな部分をなぞって、ぞくりとした感覚をもたらした。逃げようとする彼女の動きを、彼はさらに強く抱き締めて阻んだ。「紗江、知ってるか?キスの最中に、どうでもいい電話を取りに行くのは──かなり礼儀知らず行為なんだよ」ここ数日、紗江はずっと深志の傍にいた。彼は言った。「まもなく結婚し、本当の夫婦になるのだから、今から夫婦としての親密さに慣れておくべきだ」と。それゆえ、毎晩眠る前には、抱擁とキスを交わして、そして「おやすみ」と言って眠りにつくのが日課となっていた。この屋敷での生活は、彼女が想像していたものとはまるで異なり、穏やかで心地よいものであった。深志は世間の評判とは違って、暴力的でも冷酷でもない。むしろ、彼は彼女にも周囲の人々にも思いやり深く、優しく接していた。ふたりの関係は、急速に親密さを増していた。さらに紗江は、遠く海外にいる弟妹たちとも連絡が取れていた。彼らは無事に暮らしていて、学業にも生活にも支障はなかった。そして、彼と正式に婚姻を結べば、彼の保護のもと、弟妹たちは元松文宏や継母の干渉を受けることなく、自由に生きられる──深志はそう約束してくれたのだ。その日が訪れることを、紗江は心の底から待ち望んでいた。恩には誠意を以て報いるべきだ。彼女の心はすでに決まっていた。深志を、心からの意味で「夫」として受け入れていた。その想いを胸に、紗江はそっと腕を彼の首に回し、顔を上げて、自ら唇を重ねた。「深志、これで......償いになったでしょうか?」「キス一つだけで?紗江」羞恥をこらえて、彼女は再び彼の頬に唇を寄せた。それから顎、喉仏へと......喉元に触れた瞬間、深志の身体がぴくりと反応して、喉仏が上下に大きく動いた。「いい子だ、紗江......けど、まだ足りないな」そう言いながら、深志は紗江の顎を軽く掴み、唇を重ねた。それは今までにないほど深く、熱のこもったキスだった。まるで、彼女という存在すべてを飲み込みたいかのように。紗江もまた、彼の身体
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