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第4話

Author: 米菓子11
それから、私たちは夫婦でありながら、ほとんど口をきかなくなった。

出張は6日間の予定だったが、仕事は思いのほか早く片づいた。

5日目、取れる中で一番早い新幹線に乗って帰路についた。

玄関のドアを開けた。

見慣れないハイヒールが一足、置かれていた。

静音のものだと、すぐにわかった。

ローテーブルには、彼女の雑誌が広げっぱなしになっている。

ソファにはフリルのついたルームウェアが放られ、キッチンのコンロには、まだ湯気の立つ鍋が置かれていた。

そのまま、まっすぐ主寝室へ向かった。

シーツが、また替えられていた。

ドレッサーの前で足が止まった。

戻しておいたはずのスキンケア用品は、透明な収納ケースに押し込まれて、床に置かれていた。

ボトルや小瓶がぎゅうぎゅうに詰め込まれ、あちこちに傾いている。

代わりにドレッサーの上には、静音の化粧品が整然と並んでいた。

どのボトルにも、静音の名前入りのラベルが貼られている。

クローゼットの扉は半分開いていた。

私の服は端へ押しやられ、空いた場所には静音の服が掛けられていた。

下着用の引き出しを開けると、一番上に彼女のレースの下着が置かれていた。

ベッドサイドのテーブルには、白い薬袋があった。

袋には【梁瀬静音様 就寝前に1錠】と印字されている。

その横に、1枚の写真があった。

少し黄ばんだ写真の中で、静音は悠彦の肩にもたれ、目を細めて笑っている。

裏返すと、手書きの文字が1行。

【悠彦くんとずっと一緒】

日付を見ると、15年前の写真だった。

そのころ、私はまだ悠彦を知らなかった。

私たちが出会ったのは、大学の新歓コンパだった。

床に落としたペンを、悠彦が拾ってくれた。

顔を上げて礼を言うと、彼は少し笑った。

それが、私たちの始まりだと思っていた。

ずっと、自分が悠彦の初恋なのだと思っていた。

けれど、違った。

私はただ、静音のあとに現れた人間でしかなかった。

ベッドのそばに立ち尽くしていると、浴室のドアが開いた。

腰にバスタオルを巻いただけの悠彦が出てきた。

髪は濡れたままで、水滴が首筋を伝っていた。

私の姿を見た瞬間、悠彦の動きが止まった。

「なんで帰ってきたんだよ。6日間の予定じゃなかったのか」

「早く終わったの」

悠彦が何か言うより先に、浴室のほうから声がした。

「悠彦くん、私のルームウェア、どこ置いたか知らない?」

静音がドアの隙間から顔をのぞかせた。

白いバスローブを羽織り、髪も濡れている。

私に気づいた瞬間、彼女の笑みが一瞬だけこわばった。

けれどすぐに、何も知らないふりをして微笑んだ。

「依織さん……?お帰りなさい。すみません、今日戻られるなんて思ってなくて。悠彦くん、1週間は出張だって……」

「静音は先に戻ってろ」

悠彦が遮るように言った。

静音は唇を噛み、浴室へ戻ってドアを閉めた。

すりガラス越しに明かりが漏れていた。

かすかな咳払いが聞こえた。

「依織、聞いてくれ」

「静音に帰ってもらって。今すぐ。そうしたら、私はこの家に残る」

悠彦の眉間にしわが寄った。

「その言い方はやめろ。静音は体調が悪いんだ。こんな時間に、どこへ行けって言うんだよ」

「ここは私たちの家でしょう。ここは、私たちの寝室でしょう。どうして出ていくのが静音じゃなくて、私なの?」

「数日泊まっているだけだろ。そこまで言うことか?」

「言うわよ」

悠彦の顔が険しくなった。

「いい加減にしてくれ。静音が今どんな状態か、お前だって分かってるだろ。そんなに俺を追い詰めたいのか?」

胸の奥が、ちくりと痛んだ。

彼を見つめる。

「私が、あなたを追い詰めてるの?静音に浴室を使わせて、主寝室まで明け渡したのはあなたでしょう。それでも、悪いのは私なの?」

悠彦が深く息を吐いた。

声には苛立ちが混じっていた。

「少しは状況を考えろよ。相手は病人なんだぞ。こんな時間に追い出して、何かあったらどうするんだ」

「命の恩人なら、何をしても許されるの?このベッドで寝ることも、この家に入り込むことも、私の居場所を奪うことも。じゃあ、私は何なの?」

「お前、自分だけが被害者だとでも思ってるのか!静音は今、不安定なんだよ。医者にも、しばらく目を離すなって言われてる。お前も少しは大人になれよ」

すりガラスのドアが細く開いた。

中から、静音の涙声が聞こえてくる。

「悠彦くん……やっぱり私、出ていくね。ホテルなら自分で探すから。依織さんに、これ以上迷惑かけたくないし……」

悠彦はすぐに遮った。

「気にしなくていい。明日の朝、俺が泊まるところを探す。それまではここにいろ。だから――」

奥歯を噛みしめた。

もう、それ以上聞いていられなかった。

ドレッサーの上に並んでいた彼女の化粧品を、まとめて床へ払い落とした。

ボトルや小瓶が硬い音を立てて床に散らばった。

「今すぐ出ていって」

浴室の中から、小さなすすり泣きが聞こえた。

「やめて……分かった、出ていく。今すぐ出ていくから……」

ドアが開き、静音が白いバスローブのまま出てきた。

「いい加減にしろ!」

悠彦が一歩前に出て、静音を背中にかばった。

その勢いで、私は押しのけられるようによろめいた。

腰をデスクの角にぶつけ、鈍い痛みが走る。

「依織、お前はそこまでして静音を傷つけたいのか?少しは頭を冷やせ。静音は病人なんだぞ!」

悠彦は私を見なかった。

そのまま静音の手を引き、寝室を出ていった。

しばらく、その場にうずくまっていた。

痛みが少し引いてから、立ち上がった。

そして、荷物をまとめ始めた。

部屋を出て書斎の前を通り過ぎるとき、悠彦が静音を低い声でなだめているのが聞こえた。

タクシーがマンションの敷地を出た。

車窓越しに振り返ると、2階の主寝室の窓が見えた。

ピンク色のカーテンが、まだ揺れている。

タクシーはそのまま、夜の街へ走り出した。

下腹部に手を当てる。

そこには、まだ悠彦に伝えていない事実があった。

妊娠が分かったのは、出張に出る前日のことだった。

今夜、彼に伝えるつもりだった。

けれどもう、その必要はない。

……

静音がようやく泣き止んだころには、夜もかなり更けていた。

ふと、家の中が妙に静かなことに気づいた。

悠彦はそのとき初めて、私の姿が見えないことに気づいた。

寝室のドアを開けた瞬間、足が止まった。

目の前の光景に、息をのんだ。

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