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第2話

Author: 鮎川澪
目を覚ますと、私はすでに病院のベッドに横たわっていた。

ベッドの周囲にはカーテンが引かれ、その向こうに人影が見える。

徹だ。

「ああ、大したことはない。ただ気を失っただけだ。俺に電話してきた奴、ほんと大げさだな。

いや、今すぐ行く。あれはもう廃盤のレーシングカーだ。逃したら悔やんでも悔やみきれない……

それに、あいつの記憶力の悪さは知ってるだろ。どうせすぐ忘れる。慰める必要なんかないさ」

電話を切ると、彼はカーテンを開けようとした。私はとっさに目を閉じ、まだ意識が戻っていないふりをした。

やがて足音が遠ざかっていき、恐る恐る瞼を開けると、半ば開いたカーテンの隙間から、何のためらいもなく去っていく彼の背中が見えた。

鼻の奥が熱くなり、涙が込み上げた。

手元のスマートフォンを取ると、誰かが充電してくれていたらしい。

私は慣れた手つきで日記アプリを開いた。

そこには七年間にわたって綴られた日記が並んでいる。

七年前、私は交通事故に遭い、奇跡的に命は助かったが、脳に深刻な損傷を負った。

記憶は壊れ、ついさっきのことも、すぐに忘れてしまう。

だから私は、日記をつける習慣を持つようになった。

ページをめくると、ほとんどが徹のことばかりだ。

無理もない。七年間、彼を想い続け、彼を追い続け、忘れてしまうことを恐れて、何度も何度もその気持ちを刻み込んできたのだから。

だが今ようやく気づいた。この七年、私は徹頭徹尾の馬鹿だったのだ。

新しい日記を作成した。

【12月18日 私はもう二度と徹を好きにならない】

荷物をまとめ、退院の準備をして病室の扉を開けた瞬間、誰かと正面からぶつかった。

鼻先に清涼感のあるミントの香りが広がっている。

私を助けてくれた人だ。

顔を上げると、そこにはどこか派手な印象の少年が立っていた。

彼は電話を切り、眉をひそめながら私を上から下まで見回した。

「もう大丈夫か?」

妙に親しげな口調に、私は思わずうなずいた。

私は生理の初日の激痛さえ乗り越えれば、あとはただ力が出ないだけで、特に不調は残らない体質だ。

「助けてくれてありがとう」

唇を噛み、他に言葉が見つからなかった。

すると彼はふいに手を伸ばし、親指で私の目尻を押さえて、そこに残る湿り気をなぞった。

「泣いたのか?辛かった?」

私は一瞬、呆然とした。

そして我に返った途端、大きく後ずさった。

彼はそんな反応を予想していなかったらしく、口を開きかけたが、電話の向こうの怒鳴り声に遮られた。

「今井朝彦(いまい ともひこ)!お前、来るのか来ないのか!これは廃盤のレーシングカー展示会なんだぞ!」

今井朝彦……

彼の名前を、初めて知った。

電話口を押さえながら、彼は私に視線を向けた。

「分かった、もう一席確保しておいてくれ」

そう言うと、私の手を引いて歩き出した。

あまりに唐突で、私は戸惑いながら言った。

「あ、あの……今井……今井朝彦さん、どこへ連れて行くつもりなの?」

もし記憶が正しければ、彼と会うのは初めてのはず。なのに、こんなにも馴れ馴れしいなんて。

私が彼の名を呼ぶと、彼は少し驚いたようにこちらを見つめた。

「覚えてたのか?」

私は困惑し、首を振った。

「さっき、友達がそう呼んでるのを聞いただけ……」

つまり、知らない人だ。

彼はどこか寂しげに目を伏せ、独り言のように何かを呟いた。

私と彼は、知り合いなのだろうか。

私は自分の記憶の不確かさを思い出し、慌てて日記を開いた。

そこには、これまで出会った人々の写真と名前が、一人ひとり対応して記録されている。

だが、車が会場に到着するまで何度見返しても、「今井朝彦」という名も顔も見つからなかった。

私はやはり、彼を知らない。

けれどもどうしてだろう。彼は、まるで私と親しい旧友であるかのように振る舞っていた。

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