LOGIN工藤晴香(くどう はるか)はホテルのスイートルームの前に立っていた。中から漏れてくる息づかいが、彼女の耳に容赦なく届く。 「美優。こっちが大変になったときはさっさと消えたくせに、今さらどの面さげて戻ってきたんだ?」そして、中から聞こえる松浦誠(まつうら まこと)の声には、刺々しい怒りがこもっていた。 「お願い、父を助けて……そのためなら、私、何でもするから」それに答える、池田美優(いけだ みゆ)の声は、涙で震えていた。 衣類が床に落ちる音に混じって、誠の笑い声が聞こえてくる。「じゃあ、ここで俺と寝ろって言ったらお前は寝るのか?」 その場を動けずにいた晴香だったが、ベッドがきしむ音が聞こえてくると、ふらつく足取りでホテルを後にしたのだった。 その日の夜、探偵から美優の父親・池田健吾(いけだ けんご)のカルテが送られてきた。 病名は、悪性リンパ腫。骨髄移植が必要で、完治率は80%とのことらしい。 その時ドアが開いた。知らない香水の香りをまとわせた誠が気まずそうな顔で入ってくる。「晴香。恵ちゃんの骨髄のことなんだけど、待ってもらわなくちゃいけなくなったんだ。ドナーの気が急に変わっちゃって……」 晴香は、カルテを彼の顔に叩きつけた。「私の妹の命と引き換えに、あの女と寝たってわけ?本当、最低!」
View More誠の両親が駆けつけたとき、彼は床に力なく横たわり、まるで抜け殻のようになって、全身から酒臭さを漂わせていた。茜は、怒りと心配で居ても立ってもいられず、思わず声を荒らげた。「たかが女ひとりのことでしょ!代わりなんていくらでもいるのに、どうしてそこまでこだわるの!」誠はゆっくりと顔を上げると、ふいに寂しそうに笑った。「お母さん、もう晴香は戻ってこない。彼女は結婚して、俺のことなんていらなくなったんだ」彼は茜をじっと見つめて言った。「ずっと晴香が気に入らなかったんだろ?これで満足した?」茜はカッとなった。「もともとあの子が悪かったんでしょ!いなくなってせいせいしたわ。それなのに、まさか私を責めるつもりなの?」しばらく一方的にまくしたてたが、誠がまったく反応しないので、彼女は急に不安になった。そっと手を伸ばして誠の体に触れてみると、燃えるように熱くなっていた。高熱のせいで、とっくに意識がもうろうとしていたのだ。医師によると、生きようとする気持ちがとても弱く、このままでは命の危険もあるとのことだった。これを聞いた誠の両親は慌てふためき、ベッドにすがりついて泣きながら言った。「誠、もうお母さんは反対しないから!あなたが元気になってくれるなら、晴香にお願いに行くわ。結婚して、二人で幸せになるって……」でも、晴香の気持ちがもう決して変わらないことを、二人は知らなかった。一方、誠の心は、まるで抜け殻のように空っぽになっていた。数日後、茜は翔を連れてK市へ向かい、横山家の門の前にひざまずいた。その手には、新しく買ったペンダントが握られていた。「晴香、お母さんが間違っていたわ!誠がもう長くないの。お願いだから、一緒に帰ってあの子に会ってあげてくれない?」晴香はペンダントを受け取らず、ただ冷たい目で彼女を見つめた。「おばさん、私はもう結婚した身ですから、姑に聞かれたら誤解されてしまいます」茜は声を振り絞って泣き叫んだ。「本当にもうどうしようもないの?誠と8年も一緒にいたのに、彼が死んでいくのをただ見てるつもりなの?」晴香はもう答えず、そばにいた執事に、「門を閉めて」とだけ言った。それからも茜と翔は横山家の門の前で待ち続けた。晴香が家を出るたびに駆け寄って泣きつき、ときには無理やり彼女を連れ去ろうとさえした。我慢の限界に
誠の約束にも、晴香の表情は少しも変わらない。いつものビジネススマイルを浮かべただけだ。「松浦社長、今日、仕事の話が向いてないなら、別の日にした方がいいんじゃない?仕事と関係ない話は、しても意味がない。お互いの時間の無駄だと思うよ」誠の必死だった顔つきが、一瞬で固まった。晴香に恨まれるのも、憎まれるのも覚悟していた。でも、こんなに冷たく突き放されるのは、どうしても耐えられなかった。まるで自分は、彼女にとってどうでもいい、ただの他人なんだと思い知らされた。言いたいことは山ほどあった。美優は罰を受け、晴香をいじめた連中も皆報いを受けたと伝えたかった。そして今度こそ、何があっても彼女を連れ帰ると。絶対に諦めないと、そう誓いたかったのだ。でも、晴香の澄みきった静かな目を見たら、なにも言えなくなってしまった。「晴香、俺たちはもう、本当にこれで終わりなのか?」声は震え、彼女の手に触れようと手をのばす。「頼むから、そんなふうにしないでくれ。俺を罵ってくれても、殴ってくれてもいい。殺したいならそれでもかまわない……」誠はさらに晴香の手をつかむと、自分のほおに押しあてた。「この顔を叩いてくれ。絶対にやり返さないから」でも、晴香は冷たく手をふりほどいた。指先が、ゆっくりと彼の手から離れていく。「松浦社長。他に用がなければ、これで失礼します。仕事が残ってるので」誠は思わず引き止めようとした。でも今回は、彼女の服のすそにさえ、指が届かなかった。その日の夜、晴香はめずらしく定時で会社を出た。涼太の車が、とっくに会社の入り口で待っていた。彼女が出てくるのを見ると、わざとむっとした顔で言ってくる。「すっかり忙しくなっちゃって。もう俺と会う時間もないわけ?」晴香は笑いながら車のドアを開けた。「今夜の時間は全部あなたのものですよ。それで埋め合わせではいけませんか?」涼太は車を出すと、彼女を海辺へ連れていった。ちょうど夕日が沈むころで、オレンジ色の光が海いちめんに広がっている。きらきら光る波は、まるで金色の砂が流れているみたいだった。道ばたの屋台からの呼び声と、子どもたちが水遊びをする楽しそうな声がまざりあって、あたりはにぎやかで温かい空気に満ちていた。晴香は砂浜に立って、しょっぱい潮の香りを胸いっぱいに吸いこんだ。「こ
晴香の言葉は、誠の胸にぐさりと刺さった。自分がどん底だった頃も離れずに、8年間も支えてくれた女が、こんなにも自分を怨むなんて、思ってもみなかったのだ。誠の記憶の中の晴香は、いつも物分かりがよかった。たとえ傷つくことがあっても、少し言葉をかければすぐに機嫌を直してくれたはずだ。やっと彼女に会えた喜びは、一瞬で不安に変わった。誠はうろたえ、慌てて言い訳した。「そんなことない!お前を見下したことなんて一度もない!ボディーガードの件は、本当に知らなかったんだ!信じてくれ!」彼は最後の望みにすがるように訴える。「もし知っていたら、お前にあんなひどい思いは絶対にさせなかった!」晴香は鼻で笑い、誠を問い詰めた。「私が暴力を受けたことは知らなかったと。じゃあ、入院したことは?熱いスープをかけられて、無理やり接待に引っ張り出された時は?この全部を、『知らなかった』の一言で済ませるつもり?」晴香はだんだん感情的になり、声が震え始めた。「本当に知らなかったというなら今教えてあげる。あなたが私にしてきたことは、全部心に刻んでる。一生忘れないから!あなたを許さない。むしろ憎んでる。だから、あなたとやり直すなんてありえないわ」晴香は誠の目をまっすぐ見て、きっぱりと言い放った。「私たち、これで終わりよ」誠はとっさに彼女の腕を掴もうとしたが、その手は空を切った。涼太が一歩前に出て、晴香を背後にかばう。そして、冷たい視線を誠に向けた。「松浦さん、でしたか?松浦さん、妻が言いたいことは、以上です。身の程をわきまえなさい」誠は目を真っ赤にして叫んだ。「晴香と俺は8年も一緒にいたんだ!お前に何がわかる!彼女は一時的な迷いでお前と一緒にいるだけだ。本当に愛しているのは俺なんだよ!どけ!さもないと容赦しないぞ!」誠が言い終わる前に、横山家のボディーガードたちが彼を取り囲み、その場で押さえつけた。涼太は前に進み出ると、集まっていたマスコミの前で、誠を殴りつけた。涼太はもともと我慢強い性格ではない。先ほどの言葉は最大限の警告だった。相手が聞き入れないのなら、人前で手荒なことをするのもいとわない。「もういいですよ」晴香は、涼太の腕をそっと引いた。「あんな人のことで怒る価値なんてありませんよ。横山家の評判にも関わってきますから」地面に押さえつ
騒動が収まった後、涼太は海外にいた梓を呼び戻した。この波乱万丈な一族の争いを経て、梓の晴香に対する見方はすっかり変わっていた。はじめは「取引相手」という気持ちだったが、今では彼女を心から嫁として認めていた。高価な宝石やオーダーメイドのドレスが、ひっきりなしに晴香の部屋に届けられた。横山家の誰もが、晴香を宝物のように大事にした。でも、晴香は黙って荷物をまとめると、涼太に別れを告げに行った。涼太は彼女のスーツケースに目をやると、黙って手を伸ばしてそれを部屋の隅に置いた。声には少し緊張がにじんでいる。「どうして?」晴香は彼の視線をそらしながら言った。「あなたと結婚したのは、あなたの計画のためですよ。もう全部終わったんですから、私と恵ちゃんは……行かなくてはいけません」涼太は少し眉をひそめた。「君は……前の婚約者のことが、まだ忘れられないのか?」「いいえ!」晴香はすぐに首を横に振った。「彼の大切な人が戻ってきたとき、私たちは終わっていたってわかりました」「そうか」涼太はそう言うと、そっと指を握りしめた。「じゃあ、俺のことは嫌い?」晴香は首を横に振った。「嫌いじゃないです。一緒に過ごすうちに、もう友達だと思ってました」突然、涼太が梓を呼んだ。二人は顔を見合わせ、互いにとても真剣な表情をしていた。「晴香、横山家はいい加減なことはしないのよ」先に口を開いたのは涼太だった。彼は今までにないほど真剣な目で、晴香の顔を見つめている。「はじめに君を家に迎えたのは、お互いの利害が一致したからだ。君も同意してくれたよね。俺たちはもう、法律の上では夫婦だ。それに、俺のことを嫌いじゃないんだろ。だったら……この関係を続けるチャンスをくれないか?」涼太は少し言葉を切った。耳の先がかすかに赤くなっていて、いつもの冷静な彼とは別人のようだ。「だって……君を嫌いじゃないどころか、好きなんだ」晴香は驚いて目を見開いた。「えっ、いつから……」言いかけて、すぐそばに梓がいることに気づき、彼女は慌てて口を閉じた。梓は二人の初々しいやりとりを見て、優しい笑みを浮かべた。「晴香、あなたたち若い人のことには口をはさまないわ。でも、覚えておいて。私はあなたのことを、本当の嫁だと思ってる。あなたがどんな決断をしても、私はそれを応援するわ」彼女