Semua Bab 彼を忘却の海に沈めて: Bab 1 - Bab 10

12 Bab

第1話

原川徹(はらかわ とおる)からの電話を受けたあと、私、吉戸美愛(よしと みあい)は心を焦がすようにして彼のレース会場がある山頂へと急いだ。冬の山道は凍りつき、滑りやすく、到着が10分以上も遅れてしまった。ようやくキャンプ地の近くに辿り着いたとき、彼の友人たちの声が耳に飛び込んでくる。「美愛はどうなってんだよ。まさか遅刻するなんて。今の賭け金は、俺にとっちゃ一か月の生活費なんだぞ」「徹さん、まさか美愛、お前が彼女を賭けに使ったのを知ってて、わざと遅れて来たんじゃないだろうな?」ちょうど駆け寄ろうとしていた私は、その言葉に足を止めた。賭け?いったい、どんな賭け?徹はレーシングカーのボンネットに腰掛け、無関心な笑みを浮かべて言った。「だからどうした?たとえ俺が彼女を賭けの道具にしたと知ったところで、どうせ尻尾を振って駆けつけてくるさ」仲間のひとりが眉をひそめて問った。「本当にそんな馬鹿がいるのか?他人の一言のために、冬の零下の寒さを三時間も歩いて山を登るなんて」すぐ横の男が彼の肩を叩きながら笑った。「いやいや、そう言うなって。美愛は本当に馬鹿なんだよ。子どもの頃、交通事故で頭をやっちまってさ」「は?じゃあ徹さんは、そんな馬鹿に何年も追いかけられて、気持ち悪くならないのか?」徹はタバコに火をつけ、煙を吐きながら逆に問い返した。「お前ならどうだ?馬鹿に追いすがられて、気持ち悪くないか?」「うわぁ……考えただけで鳥肌立つわ」大袈裟な仕草に、仲間たちは一斉に笑い声を上げた。私は必死にスマートフォンを握りしめた。そこには、三時間前に徹から送られてきたメッセージが表示されている。【怪我をした。秋明山(しゅうめいざん)の頂上。三時間以内に来い】その一言のために、私は病院のベッドから生理痛を我慢して這い出し、三時間かけて山道を歩き続けてきたのだ。だが、耳にしたのは、彼の心の底からの本音だった。募っていた心配は、瞬時に霧散した。下腹部を締めつける痛みも、胸を抉る痛みに比べれば取るに足らない。そのとき、誰かが私に気づいた。徹は眉を上げ、慌てる様子もなく私を見据え、ゆっくりと歩み寄ってきた。最初に口にしたのは、冷酷なひと言。「美愛、遅かったな」両手をポケットに突っ込んだまま、私の苦し
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第2話

目を覚ますと、私はすでに病院のベッドに横たわっていた。ベッドの周囲にはカーテンが引かれ、その向こうに人影が見える。徹だ。「ああ、大したことはない。ただ気を失っただけだ。俺に電話してきた奴、ほんと大げさだな。いや、今すぐ行く。あれはもう廃盤のレーシングカーだ。逃したら悔やんでも悔やみきれない……それに、あいつの記憶力の悪さは知ってるだろ。どうせすぐ忘れる。慰める必要なんかないさ」電話を切ると、彼はカーテンを開けようとした。私はとっさに目を閉じ、まだ意識が戻っていないふりをした。やがて足音が遠ざかっていき、恐る恐る瞼を開けると、半ば開いたカーテンの隙間から、何のためらいもなく去っていく彼の背中が見えた。鼻の奥が熱くなり、涙が込み上げた。手元のスマートフォンを取ると、誰かが充電してくれていたらしい。私は慣れた手つきで日記アプリを開いた。そこには七年間にわたって綴られた日記が並んでいる。七年前、私は交通事故に遭い、奇跡的に命は助かったが、脳に深刻な損傷を負った。記憶は壊れ、ついさっきのことも、すぐに忘れてしまう。だから私は、日記をつける習慣を持つようになった。ページをめくると、ほとんどが徹のことばかりだ。無理もない。七年間、彼を想い続け、彼を追い続け、忘れてしまうことを恐れて、何度も何度もその気持ちを刻み込んできたのだから。だが今ようやく気づいた。この七年、私は徹頭徹尾の馬鹿だったのだ。新しい日記を作成した。【12月18日 私はもう二度と徹を好きにならない】荷物をまとめ、退院の準備をして病室の扉を開けた瞬間、誰かと正面からぶつかった。鼻先に清涼感のあるミントの香りが広がっている。私を助けてくれた人だ。顔を上げると、そこにはどこか派手な印象の少年が立っていた。彼は電話を切り、眉をひそめながら私を上から下まで見回した。「もう大丈夫か?」妙に親しげな口調に、私は思わずうなずいた。私は生理の初日の激痛さえ乗り越えれば、あとはただ力が出ないだけで、特に不調は残らない体質だ。「助けてくれてありがとう」唇を噛み、他に言葉が見つからなかった。すると彼はふいに手を伸ばし、親指で私の目尻を押さえて、そこに残る湿り気をなぞった。「泣いたのか?辛かった?」私は一瞬、呆然と
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第3話

朝彦が私を連れて来たのは、大型のホールだった。扉をくぐった瞬間、耳をつんざくような歓声が押し寄せ、空気は熱気と高揚感に包まれていた。中央の円形サーキットでは、何台ものレーシングカーが互いに追い抜き、火花を散らしている。徹がレース好きだったから、私も多少は知識を持っていた。観客の興奮に引き込まれるように、先頭の車がゴールラインを駆け抜けた瞬間、思わず私も拍手し、笑顔で声を上げていた。笑いながらふと気づいた。燃えるような視線がずっと私を追っていることに。振り返ると、柵にもたれた朝彦が片手で頬を支え、眩しい笑顔を浮かべてこちらを見つめていた。私は慌てて手を下ろし、少し居心地が悪くなった。「気分、少しは晴れた?」彼がそう尋ねた。私は驚いた。まさか、そのために私をここへ連れてきたのだろうか。「どうして、私の気持ちなんて気にするの?だって……私たち、さっき会ったばかりでしょう?」朝彦は急に姿勢を正し、妙に複雑な表情をした。「誰が……そんなことを……」言葉の続きを遮ったのは、不意にかけられた声だった。「美愛?お前、こんなところで何してるんだ」振り返ると、そこには徹と、彼の仲間たちがいた。私は彼らが苦手だった。いつも私をからかい、「馬鹿だ」と罵る。私が忘れていると思っているのだろう。だが、全部日記に残してある。忘れるはずがない。本当に、大嫌いな人たち。思わず数歩後ずさりした。その気配を察したのか、朝彦がすっと私を庇うように前に立った。「お前には関係ないだろ」私は盾を見つけたように、彼の背中に隠れて小声でつぶやいた。「そうよ、そうよ……あなたに関係ない」徹は露骨に不機嫌になり、命じるように言った。「美愛、こっちへ来い。三つ数えるぞ」「三……」「三二一、一二三、一二三四五六七!」朝彦は一気に数えきり、にやりと笑った。「言ってくれればよかったのに。数の数え方、教えてやろうか」私が動かないのを見て、徹は苛立ちと嘲笑が混じったような表情を浮かべた。これは、私が初めて、彼の言うことを聞かなかった瞬間だった。彼の視線が朝彦へと移り、その目に不思議な敵意がにじんでいる。やがて私たちを見比べ、冷ややかに吐き捨てた。「お前、知ってるのか?こいつ……頭がおかしいんだぜ」
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第4話

私と徹は、あの交通事故の生き残りだった。同じ病室で過ごすことになり、そこで初めて知り合った。彼は、私の記憶力が人よりずっと悪いことを知ると、自作の日記アプリをプレゼントしてくれた。「美愛、これからは俺のことを日記に書いて。そうすれば、絶対に俺のことを忘れないだろ。もし誰かにいじめられたら俺に言えよ。必ずそいつをぶん殴ってやるから」高校三年の頃、私の後ろの席には、授業を聞かずに問題ばかり起こす男子がいた。彼は毎日のように私の椅子を蹴り、不快で仕方なかった。私は丁寧にやめてほしいと頼んだ。けれど彼は下品に笑った。「何を装ってるんだ。お前みたいな頭で、勉強しても覚えられるはずねえだろ?」その笑顔の奥に、私が必死に隠してきた秘密が暴かれているのを悟った。どうして彼が知っているのかは分からなかった。初めて、あからさまな悪意を向けられた瞬間だった。そのことを耳にした徹は、相手を呼び出して殴り合いになった。それ以来、その男子は私にちょっかいを出すことはなくなり、他の誰も手を出してこなかった。私は毎日同じことを繰り返して勉強した。他の人が一日で覚えられることを、私は十日、二十日かけて、身体に染み込ませるしかなかった。その結果、大学入試では、かろうじて地元の二流大学に合格できた。徹は、北国の名門大学へ進んでいった。その後、彼は私を友人たちに紹介してくれた。彼が一人一人名前を言うたびに、私は必死に覚えようとした。絶対に間違えたくなかった。けれど、振り返った瞬間には記憶が混濁し、誰一人正しく呼ぶことができなかった。彼の友人たちは互いに視線を交わし、気まずそうに話題を逸らした。そして、私たちの関係について尋ねた。徹はしばらく沈黙し、淡々と答えた。「ただの友達だ」私は否定しなかった。けれど心の奥で、どうしても失望を抑えられなかった。確かに、私たちは何年も一緒にいたけれど、関係をはっきりさせたことはなかった。友達、そう言われても間違いじゃない。だが、それ以来、彼の友人たちは私の記憶の弱さを知り、陰で「馬鹿」と呼ぶようになった。私は悔しくて、徹に訴えた。しかし彼は、軽く笑い飛ばした。「美愛、友達同士の冗談だろ?そんなに気にするなよ」冗談?どうして私には、少しも笑えなかったのだろう。
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第5話

七年間の記憶は、ほどなくして煙のように消えていくだろう。それだけではない。徹の友人たちの写真も、名前も、すべて削除した。削除を続けている最中、突然電話が鳴った。うっかりボタンを押してしまい、通話が繋がってしまった。表示された名前を見て、私は呆然とした。いつ、私は朝彦の番号を登録したのだろう?恐る恐る耳に当てると、慌ただしい声が飛び込んできた。「吉戸さんですか?朝彦が喧嘩して病院に運ばれました。すぐに来てください!」「喧嘩?」「そうです。相手は、たしか『原川徹』とかいう人で……」電話の向こうでは、断続的にうめき声が響いていた。胸騒ぎがした。まさか徹が逆上して、朝彦を半殺しにでもしたのだろうか。教えられた病院に急いで向かうと、病室で目にしたのは、首にカラーを嵌め、片脚を包帯でぐるぐると巻かれ、吊るされたままの朝彦だった。私はびっくりした。彼は私が入ってくるのを見ると、興奮してベッドから降りようとしたが、足の包帯に引っかかって、よろけそうになった。私は慌てふためいて駆け寄り、彼を支えながら鋭く息を呑む音を聞いた。焦燥感に駆られて声を上げた。「大丈夫?すぐに先生を呼んでくる!」行こうとする私の腕を、彼は弱々しく掴んだ。「……大丈夫だ。少し休めばいい」朝彦がそう言ったので、私は微動だにしなかった。うっかりまた彼の傷に触れてしまうんじゃないかと怖かった。彼がこんな目に遭ったのは、私のせいだ。徹とは何の因縁もなかったのに。罪悪感に胸が詰まり、私たちは同時に口を開いた。「私……」「俺……」「君からどうぞ」彼に促され、私は唇を噛んで言った。「この間だけ、私が看病する……」「本当か!?」思わずむせて咳き込み、顔を真っ赤にしてしまうほど、彼は動揺していた。私は黙って頷いた。だが、ふいに彼の表情が翳り、そっぽを向いた。「もし徹の代わりに謝るつもりなら、そんな必要はない」「確かに、そういう気持ちもあったけど」「もう一度言ってみろ!」朝彦は勢いよく振り返り、目を見開いた。その顔には、なぜか拗ねたような表情を浮かべている。私は慌てて首を振った。「違うの。私が言いたいのは……私のせいで、あなたがこんな怪我をしたってこと。それに、私と徹は、もう何の関
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第6話

エレベーターの中で、朝彦は私の手を取って、裏返したり表にしたり、何度も確かめた。それからほっと息をつき、言った。「よかった、怪我してなくて」私は彼を支えながら、石膏で固められた脚を見下ろし、思わず眉を寄せた。「脚、まだ治ってないのに……どうして歩き回るの」「君がなかなか戻ってこないからさ。心配で……何かあったんじゃないかって」子どもみたいに叱られても、弱々しく言い訳をするその姿に、胸の奥が少しだけ柔らかくなった。「さっきは助けてくれて、ありがとう。朝彦」「ふんっ」彼はどこか誇らしげに鼻を鳴らし、目を細めて笑った。「それじゃあ今日は……スープ、やめてもいい?」「だめよ」彼のまん丸な瞳が私を見上げてきて、ついその頭に手を伸ばし、撫でてしまった。「いい子にして。骨を強くするため。そうすれば早く治るから」「じゃあ、仕方ないな」不思議だ。まるで主人に撫でられて大人しくなった子犬みたいな彼を見て、思わず笑ってしまった。理由も分からず、彼も一緒になって笑った。けれど、笑っているうちに、胸の奥で何か大切なことを忘れているような気がしてならなかった。「美愛」背後から声がした。「この数日、どうして俺に会いに来なかった?」振り向くと、蒼白な顔の青年が車椅子に座っていた。その顔を見た瞬間、途切れ途切れの記憶が重なり合った。ああ、思い出した。徹だ。「俺のこと、忘れたのか?」初めて、彼の瞳の奥に恐れの色を見た。「忘れてないよ。あなたは……徹」そう口にしたけれど、頭の中の記憶はすでに霞がかかったように曖昧で、はっきりしない。きっと近いうちに、完全に消えてしまうのだろう。徹は深く息を吐いた。「美愛……あの日のことは俺が悪かった。言葉を選べずに、あんなことを言って……許してくれないか?」「どの日のこと?」私は彼の目を真っ直ぐに見つめている。「私を賭けの道具にしたあの日?それとも、あの車の展示会の日?……もう、どれがいつだったかすら分からないくらい、何度もあったの」あまりにもたくさんの、同じようなことがあった。一つ一つ、私は日記に書き留めていた。本当に具体的にどの日か言えって言われても、誰もはっきり言えない。徹は口を開いたが、言葉が出てこなかった。「そうだな。俺は罰を
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第7話

熱い吐息が頬にかかり、私は居心地が悪くて、彼を押し返そうとした。けれど、びくともしない。「わざと聞いてたくせに。次から盗み聞きするなら、前にガラスがあるかどうか確認しなさい。ぜんぶ丸見えだったんだから」その言葉に、朝彦は声をあげて笑った。隠す気のない、心からの笑顔。「それでいいんだ。あいつに見せつけてやりたい。もしまたくだらないことを言ったら……今度は肋骨、もう二本折ってやる」彼の笑顔を見て、胸の奥にざわめきが生まれた。「朝彦……私のために、そんなことしなくていい」「だって……あんなふうに言われたら、俺は――」「彼の言う通りだよ」私は不安げに指先をいじりながら、かぶせるように言った。「私の頭、本当におかしいんだ」彼は黙り込んだ。私は無理に笑みを浮かべ、続けた。「お医者さんにも言われたの。記憶障害があるって。もしかしたら……」言い終える前に、両頬をぎゅっとつままれた。「美愛……君、変わったな。前の君はそんなじゃなかった」前?頭が真っ白になり、彼の手を必死に叩いた。ため息をつき、朝彦はようやく手を放した。「悲しいよ。本当に俺のこと、忘れたんだな」彼の口から語られたのは――七年前の出来事だった。意外なことに、朝彦もあの交通事故の生存者だったのだ。しかも、私と同じ病室で暮らしていたという。「あの事故で、両親は即死した。俺一人だけ残されて……君がずっと励ましてくれたんだ。毎日、車椅子を押して病院の中を走り回ってさ。覚えてないの?あの頃、君は『俺の一番の友達になる』って言ってくれた。それから、叔母さんが全部片付いて、俺を海外に連れて行った。出発する前に、ちゃんと君に連絡先を渡したんだ。ずっと、君からの連絡を待ってたよ。でも……何年経っても、音沙汰がなかった。結局……忘れられてたんだな。この薄情者め」そう言いながら、彼は私の頬をつんつんと突いた。「そんな連絡先、もらってない。少なくとも、覚えてない」口にしてから、ふと考え込んだ。きっと、私がどこかにしまい込んで、そのまま忘れてしまったんだろう。彼はポケットから一枚の写真を取り出した。そこには、十六歳の私。眩しいほどの笑顔と、隣で無表情の彼。頭の奥にひとつの考えが浮かんだ。あの時、病院で私を
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第8話

病院で半月ほど過ごした後、朝彦はようやく退院した。彼の友人たちは快気祝いにパーティーを開き、どうしても私を連れて行きたいと言い張った。「私は行かないよ」気まずくて、変な失敗でもしたら彼に恥をかかせてしまう。そう思って、つい身を引いてしまう。すると、朝彦は一気に元気をなくし、ベッドに半分寝転びながら大げさにため息をついた。「やっぱりな。結局、君は俺のこと、友達だと思ってないんだ。過去の思いなんて、全部俺の一方通行だったわけか」そう言うと、見せかけて顔を覆って泣くふりをした。でも、彼の指の隙間をもう少し閉じていたら、彼がこっそり私をキョロキョロ観察している目が見えなかったのに……もっと本物らしかったのに。「そんなことない。ちゃんと友達だと思ってる」小声で反論する。ここ最近で、私は確かに彼を友人だと思うようになっていた。それでも、自分の記憶のことを考えると、不安は残っている。彼はすかさず畳みかけた。「じゃあ、行こうよ。ね?ね?」まあいい、こう言われると、私はどうしても断れない。結局、しぶしぶ頷いてしまった。その瞬間、彼は飛び起きて満面の笑顔になり、スマホをいじり始めた。指先が止まらない。個室の前に着いたとき、私はまだ落ち着かなかった。「ねえ、もしあなたの友達の顔、誰ひとり覚えられなかったらどうしよう」朝彦はくすりと笑った。「それなら……どれだけ印象を残せるか、彼らの腕の見せどころだ」「たんたんたーん!」ドアを開けた瞬間、目に飛び込んできたのはショーステージのようなきらびやかな照明。ステージには一列に並んだ友人たちがいて、それぞれモデルのようにランウェイを歩いてくる。いつの間にかマイクを手にした朝彦が、まるで司会者のように紹介を始めた。「では一番選手!まるこ!名前の通り、まんまるの顔にまんまるの体!福を呼ぶボールのようなお方!」「二番選手!黒川!彼のモットーは――黒は黒にあらず、人生の七色を秘めた黒!」「三番選手!明美!その名の通り、美しさは折り紙つき!」呆気にとられる。こんな独特な自己紹介、初めて見た。なるほど、だから彼の友人たちはこんなに打ち解けているのか。でも、確かにおかげで半分以上の顔と名前をしっかり覚えられた。食事も和気あいあいと進み、この空気は
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第9話

コップ一杯の蜂蜜水を、朝彦は二十分もかけてまだ飲み終えていなかった。「朝彦?」思わず声をかけた。その瞬間、彼は夢から覚めたようにハッとし、手からコップが滑り落ちた。中身はズボンにぶちまけられ、甘い匂いが立ち上った。「あっ、水こぼしちゃった」どこか愉快そうな響きが混じっている気がしたのは、私の気のせいだろうか。困ったような顔をしている彼を見て、私は観念したように浴室へ押し込み、清潔なバスローブを渡した。濡れたままでは気持ち悪いし、幸い乾燥機もあるからズボンはすぐ洗える。洗濯機の低い回転音が、夜の静けさをほんの少しだけ紛らわせる。それでも、落ち着かない気持ちは拭えなかった。ドン!浴室から大きな音が響いた。頭の中に、酔っ払いが浴室で倒れて怪我をするニュースが一気に流れる。ましてや彼の足はまだ完全には治っていないのに……気づけば、体が先に動いていた。「朝彦!」扉を押し開けた瞬間、頭の中が真っ白になった。浴室は蒸気で満ちていた。背を向けて立つ彼が、私の声にゆっくり振り返った。水滴が筋肉のラインを伝い、滑り落ちていく。視線を逸らそうとしても、自然と下へと引き寄せられた。「あ、足……結構、元気そうだね」自分の口から出た言葉に気づき、慌てて口を押さえた。「ち、違う!足のことを言いたかっただけで……その……」笑みが引きつった。これ以上言い訳しても墓穴を掘るだけだと悟り、後ずさろうとした瞬間――彼の瞳が危険に細められた。逃げるより早く、浴室へと引き寄せられた。蒸気に包まれ、息が詰まりそうになる。必死に押し返し、わずかな距離を作った。「酔ってるよ」低くかすれた声が返った。「酔ってなんかない。むしろ、はっきりしてる。美愛、君は酔ってるのか?」首を横に振る。今夜は一滴も飲んでいない。彼は満足げに笑い、再び顔を寄せてきた。熱気に混じる彼の呼吸に、心臓が破裂しそうになる。「出て……」かろうじて唇の隙間から押し出した言葉を、彼は別の意味に受け取った。次の瞬間、私は抱き上げられ、寝室へと運ばれた。その後の記憶は、波にさらわれる小舟のように、ただ翻弄されるばかりだった。遠くで電話が鳴っていたのにも気づかないほど。朝彦がふと手を伸ばし、画面を
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第10話

家を飛び出してから、ようやく気づいた。ここ、自分の家じゃないか。私は一体どこへ逃げようとしていたんだろう。階段の踊り場に腰を下ろし、しばらく耳を澄ました。外でドアが閉まる音、そのあとエレベーターの扉がゆっくり閉まる音。スマートフォンにメッセージが届いた。送り主は朝彦だった。【朝食を作っておいた。忘れずに食べて。】胸の奥がチクリと痛んだ。なんだか自分が、行為が終わった途端に知らん顔をする薄情な人間みたいじゃないか。でも、おかしい。昨夜は私、一滴もお酒を飲んでいないのに。どうしてあんなふうに流されてしまったんだろう。羞恥心に顔を覆いながら、日記に記録した。もちろん、細かい描写は書かずに。その後も、彼からは何通もメッセージが届いた。けれど、私は意図的に返事をしなかった。そしてようやく打ったのは、ただ一言。【あの夜は事故みたいなもの。忘れて。】返事はなかなか来なかった。ホッとする気持ちと、言いようのない虚しさが同時に押し寄せた。私にはそんな大きな魅力があるとは思えない。出会ってすぐ、誰かが夢中になるなんて。七年かけても、私の想いは一度も届かなかったのに。七年?どうしてそんな数字が、こんなにも自然に口をついて出るんだろう。七年間、誰を好きだったっていうの?記憶を辿ろうとする。だけど、思い出せない。日記を確認しようとスマホを手に取った、その時、玄関のチャイムが鳴った。ドアを開けると、見知らぬ男が立っていた。「美愛……」名前を呼ばれても、まるで覚えがない。私は申し訳なさそうに笑った。「ちょっと待ってくださいね。確認してみますから」スマホをめくった。けれど、どこにもこの男の記録はなかった。男は私の仕草に愕然としたように声を震わせた。「美愛、覚えてないのか?俺だよ、徹だ」私は首を振った。彼のことを本当に何も覚えていなかった。彼はまるで恐怖に襲われたかのように、声が震えていた「俺が悪かった……あんなこと言うんじゃなかった。もうあいつらとは絶交したんだ。だから、頼む、忘れないでくれ」「ごめんなさい。あなたのこと、本当に知らないんです」私はドアに足をかけ、はっきりと告げた。「それに、もし知り合いだったのなら……私のこと、わかるはずでしょ
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