交通事故で頭を打った私は、魚のように短い記憶しか持てなくなった。 けれども、原川徹(はらかわ とおる)を好きだったことだけは、七年もの間、決して忘れなかった。 その想いも、彼が賭けに負け、私、吉戸美愛(よしと みあい)をひとり山頂に置き去りにした時までだった。 彼は侮蔑を込めた笑みを浮かべ、言った。 「美愛、この出来事を日記に書いておけ。二度と忘れないように、いい薬になるだろう」 零下の冬の山で、私は死の淵を彷徨った。 その後、私は徹に関するすべてを焼き捨て、脳裏に残っていた彼の記憶さえも、風化するに任せた。 だがある晩、「原川徹」と名乗る男から電話がかかってきた。 嫉妬に駆られた恋人が私の腰を押さえつけ、低く問った。 「その人は誰だ」 私は朦朧としながら首を振り、答えた。 「知らない人」 私のその一言に、電話の向こうの男は完全に取り乱した。
View More初めて美愛を見たのは、病院だった。彼女もまた交通事故の生存者だった。けれど、あんなに明るい生存者を見たのは初めてで、自然と彼女に目が行った。気づけば、彼女は毎日のようにある男の子のそばにいて、車椅子を押して院内を走り回っていた。冗談を言い、励まし、慰めた。俺はいつも陰からこっそりと聞いていて、時には笑わされることさえあった。その少年の名は今井朝彦。彼の両親は事故で即死し、ひとり残されたと聞いた。不公平だ、と思った。同じように両親を亡くしたのに、なぜ自分は孤独で、彼には寄り添う人がいるのか。その感情の名前を、俺は知っていた。嫉妬だ。やがて俺は、医者と美愛の会話を偶然耳にし、彼女の脳に損傷があり、記憶障害を抱えていることを知った。その日の夜、こっそりと彼女の病室に忍び込み、枕元に残されていた朝彦のメモを手に取った。そこには、いくつもの連絡先が書かれていた。すると突然、彼女が目を覚ました。「あなたは?」俺は慌てずにそのメモを隠し、笑って答えた。「俺は原川徹。お前の隣の病室だよ」それがきっかけで、俺たちは友達になった。彼女は本当に記憶を失っていて、朝彦という存在を覚えていなかった。そして、あのメモはすぐに破り捨て、水に流した。再び朝彦に出会ったとき、正直、俺は彼だと気づかなかった。もし気づいていたら、絶対に彼を美愛に近づけなかっただろう。なぜなら俺は自信があった。美愛が俺を忘れるはずがない、と。七年という歳月は、そんなに簡単に消えるものではない。だが、その自信こそが、彼女を失わせた。俺は思っていた。あの日もきっと、いつも通り数日すれば彼女は忘れる。慰める必要も、言い訳をする必要もない。そうやって楽観していた。けれど、あの日だけは違った。ただ一度の、取り返しのつかない過ち。もし時を巻き戻せるのなら、あの賭けには乗らない。あんな本心にもない言葉を、絶対に吐かなかった。そうすれば、今でも美愛の隣にいるのは、この俺だった。他の誰でもなく。その後、彼女が海外へ行ったと耳にした。俺と彼女の世界は、完全に交わらなくなった。それでも、盗人のように、必死に彼女の生活を覗き見ようとした。俺は知っていた。美愛が日記を書く習慣を持っていることを。そして
朝彦の怪我は主に背中だった。取っ組み合いの最中、下駄箱に強くぶつかり、広い範囲が赤く腫れていた。医者に診てもらっている間、彼は一言も声をあげなかったのに、診察が終わった途端、私の肩にぐったりともたれかかり、わざとらしく「痛い痛い」と唸り始めた。その仕草に、私は突き放すこともできず、されるがまま。医者はその光景を見て、慣れた様子で笑った。「まったく、若いカップルは仲がいいね」私は顔を赤らめ、慌てて朝彦を連れて病院を出た。なのに、家に着いても彼はずっと私にくっついて離れない。「朝彦、ちょっと離れて!」思わず声を荒げた。彼は私の顔をじっと見つめたあと、不満げに「わかった」と呟き、ほんの指二本分だけ横にずれた。「もっと!」睨みつけると、ようやく手のひら一枚分離れ、口を尖らせて小声でぼそっと。「薄情……」聞こえないふりをしようとしたけど、距離が近すぎて全部聞こえた。「そうよ。もしかしたら、いつかあなたのことも忘れちゃうかもね」投げやりに言い返した。すると彼は身を乗り出し、真剣な目で問い詰めてきた。「忘れる?あの夜のことまで、忘れたって言うのか?本当に、何も?」思わず視線を逸らした。困ったことに、私は細部まで鮮明に覚えている。以前の私なら、きっと忘れていただろうに。「じゃあ、もう一度思い出させてやろうか?」彼の視線が私の唇に落ちた。ドキリとして立ち上がるが、すぐに追い詰められ、背中は壁。逃げ場がない。「それで……好きか、好きじゃないか、どっちなんだ?」胸に手を当て、必死に押し返した。「どうせ、数日後には忘れるんだから」その瞬間、彼の口元に笑みが広がった。「答えになってない。つまり、好きってことだな」「なっ……!」顔が一気に熱くなった。「でも、大丈夫さ。もし忘れちゃったら、俺が思い出させてあげる」「じゃあ、もし私があなたのことも忘れちゃったら?」朝彦が本当に私のこの状態を受け入れられるかどうか、確信が持てなかった。考えなくても分かる、これがどれほど大変か。毎日びくびくして、愛する人がいつか自分を忘れてしまうんじゃないかと恐れるなんて。朝彦はためらいもなく言った。「それなら、また君に俺のことを好きになってもらうまで」「もし何度も
家を飛び出してから、ようやく気づいた。ここ、自分の家じゃないか。私は一体どこへ逃げようとしていたんだろう。階段の踊り場に腰を下ろし、しばらく耳を澄ました。外でドアが閉まる音、そのあとエレベーターの扉がゆっくり閉まる音。スマートフォンにメッセージが届いた。送り主は朝彦だった。【朝食を作っておいた。忘れずに食べて。】胸の奥がチクリと痛んだ。なんだか自分が、行為が終わった途端に知らん顔をする薄情な人間みたいじゃないか。でも、おかしい。昨夜は私、一滴もお酒を飲んでいないのに。どうしてあんなふうに流されてしまったんだろう。羞恥心に顔を覆いながら、日記に記録した。もちろん、細かい描写は書かずに。その後も、彼からは何通もメッセージが届いた。けれど、私は意図的に返事をしなかった。そしてようやく打ったのは、ただ一言。【あの夜は事故みたいなもの。忘れて。】返事はなかなか来なかった。ホッとする気持ちと、言いようのない虚しさが同時に押し寄せた。私にはそんな大きな魅力があるとは思えない。出会ってすぐ、誰かが夢中になるなんて。七年かけても、私の想いは一度も届かなかったのに。七年?どうしてそんな数字が、こんなにも自然に口をついて出るんだろう。七年間、誰を好きだったっていうの?記憶を辿ろうとする。だけど、思い出せない。日記を確認しようとスマホを手に取った、その時、玄関のチャイムが鳴った。ドアを開けると、見知らぬ男が立っていた。「美愛……」名前を呼ばれても、まるで覚えがない。私は申し訳なさそうに笑った。「ちょっと待ってくださいね。確認してみますから」スマホをめくった。けれど、どこにもこの男の記録はなかった。男は私の仕草に愕然としたように声を震わせた。「美愛、覚えてないのか?俺だよ、徹だ」私は首を振った。彼のことを本当に何も覚えていなかった。彼はまるで恐怖に襲われたかのように、声が震えていた「俺が悪かった……あんなこと言うんじゃなかった。もうあいつらとは絶交したんだ。だから、頼む、忘れないでくれ」「ごめんなさい。あなたのこと、本当に知らないんです」私はドアに足をかけ、はっきりと告げた。「それに、もし知り合いだったのなら……私のこと、わかるはずでしょ
コップ一杯の蜂蜜水を、朝彦は二十分もかけてまだ飲み終えていなかった。「朝彦?」思わず声をかけた。その瞬間、彼は夢から覚めたようにハッとし、手からコップが滑り落ちた。中身はズボンにぶちまけられ、甘い匂いが立ち上った。「あっ、水こぼしちゃった」どこか愉快そうな響きが混じっている気がしたのは、私の気のせいだろうか。困ったような顔をしている彼を見て、私は観念したように浴室へ押し込み、清潔なバスローブを渡した。濡れたままでは気持ち悪いし、幸い乾燥機もあるからズボンはすぐ洗える。洗濯機の低い回転音が、夜の静けさをほんの少しだけ紛らわせる。それでも、落ち着かない気持ちは拭えなかった。ドン!浴室から大きな音が響いた。頭の中に、酔っ払いが浴室で倒れて怪我をするニュースが一気に流れる。ましてや彼の足はまだ完全には治っていないのに……気づけば、体が先に動いていた。「朝彦!」扉を押し開けた瞬間、頭の中が真っ白になった。浴室は蒸気で満ちていた。背を向けて立つ彼が、私の声にゆっくり振り返った。水滴が筋肉のラインを伝い、滑り落ちていく。視線を逸らそうとしても、自然と下へと引き寄せられた。「あ、足……結構、元気そうだね」自分の口から出た言葉に気づき、慌てて口を押さえた。「ち、違う!足のことを言いたかっただけで……その……」笑みが引きつった。これ以上言い訳しても墓穴を掘るだけだと悟り、後ずさろうとした瞬間――彼の瞳が危険に細められた。逃げるより早く、浴室へと引き寄せられた。蒸気に包まれ、息が詰まりそうになる。必死に押し返し、わずかな距離を作った。「酔ってるよ」低くかすれた声が返った。「酔ってなんかない。むしろ、はっきりしてる。美愛、君は酔ってるのか?」首を横に振る。今夜は一滴も飲んでいない。彼は満足げに笑い、再び顔を寄せてきた。熱気に混じる彼の呼吸に、心臓が破裂しそうになる。「出て……」かろうじて唇の隙間から押し出した言葉を、彼は別の意味に受け取った。次の瞬間、私は抱き上げられ、寝室へと運ばれた。その後の記憶は、波にさらわれる小舟のように、ただ翻弄されるばかりだった。遠くで電話が鳴っていたのにも気づかないほど。朝彦がふと手を伸ばし、画面を
病院で半月ほど過ごした後、朝彦はようやく退院した。彼の友人たちは快気祝いにパーティーを開き、どうしても私を連れて行きたいと言い張った。「私は行かないよ」気まずくて、変な失敗でもしたら彼に恥をかかせてしまう。そう思って、つい身を引いてしまう。すると、朝彦は一気に元気をなくし、ベッドに半分寝転びながら大げさにため息をついた。「やっぱりな。結局、君は俺のこと、友達だと思ってないんだ。過去の思いなんて、全部俺の一方通行だったわけか」そう言うと、見せかけて顔を覆って泣くふりをした。でも、彼の指の隙間をもう少し閉じていたら、彼がこっそり私をキョロキョロ観察している目が見えなかったのに……もっと本物らしかったのに。「そんなことない。ちゃんと友達だと思ってる」小声で反論する。ここ最近で、私は確かに彼を友人だと思うようになっていた。それでも、自分の記憶のことを考えると、不安は残っている。彼はすかさず畳みかけた。「じゃあ、行こうよ。ね?ね?」まあいい、こう言われると、私はどうしても断れない。結局、しぶしぶ頷いてしまった。その瞬間、彼は飛び起きて満面の笑顔になり、スマホをいじり始めた。指先が止まらない。個室の前に着いたとき、私はまだ落ち着かなかった。「ねえ、もしあなたの友達の顔、誰ひとり覚えられなかったらどうしよう」朝彦はくすりと笑った。「それなら……どれだけ印象を残せるか、彼らの腕の見せどころだ」「たんたんたーん!」ドアを開けた瞬間、目に飛び込んできたのはショーステージのようなきらびやかな照明。ステージには一列に並んだ友人たちがいて、それぞれモデルのようにランウェイを歩いてくる。いつの間にかマイクを手にした朝彦が、まるで司会者のように紹介を始めた。「では一番選手!まるこ!名前の通り、まんまるの顔にまんまるの体!福を呼ぶボールのようなお方!」「二番選手!黒川!彼のモットーは――黒は黒にあらず、人生の七色を秘めた黒!」「三番選手!明美!その名の通り、美しさは折り紙つき!」呆気にとられる。こんな独特な自己紹介、初めて見た。なるほど、だから彼の友人たちはこんなに打ち解けているのか。でも、確かにおかげで半分以上の顔と名前をしっかり覚えられた。食事も和気あいあいと進み、この空気は
熱い吐息が頬にかかり、私は居心地が悪くて、彼を押し返そうとした。けれど、びくともしない。「わざと聞いてたくせに。次から盗み聞きするなら、前にガラスがあるかどうか確認しなさい。ぜんぶ丸見えだったんだから」その言葉に、朝彦は声をあげて笑った。隠す気のない、心からの笑顔。「それでいいんだ。あいつに見せつけてやりたい。もしまたくだらないことを言ったら……今度は肋骨、もう二本折ってやる」彼の笑顔を見て、胸の奥にざわめきが生まれた。「朝彦……私のために、そんなことしなくていい」「だって……あんなふうに言われたら、俺は――」「彼の言う通りだよ」私は不安げに指先をいじりながら、かぶせるように言った。「私の頭、本当におかしいんだ」彼は黙り込んだ。私は無理に笑みを浮かべ、続けた。「お医者さんにも言われたの。記憶障害があるって。もしかしたら……」言い終える前に、両頬をぎゅっとつままれた。「美愛……君、変わったな。前の君はそんなじゃなかった」前?頭が真っ白になり、彼の手を必死に叩いた。ため息をつき、朝彦はようやく手を放した。「悲しいよ。本当に俺のこと、忘れたんだな」彼の口から語られたのは――七年前の出来事だった。意外なことに、朝彦もあの交通事故の生存者だったのだ。しかも、私と同じ病室で暮らしていたという。「あの事故で、両親は即死した。俺一人だけ残されて……君がずっと励ましてくれたんだ。毎日、車椅子を押して病院の中を走り回ってさ。覚えてないの?あの頃、君は『俺の一番の友達になる』って言ってくれた。それから、叔母さんが全部片付いて、俺を海外に連れて行った。出発する前に、ちゃんと君に連絡先を渡したんだ。ずっと、君からの連絡を待ってたよ。でも……何年経っても、音沙汰がなかった。結局……忘れられてたんだな。この薄情者め」そう言いながら、彼は私の頬をつんつんと突いた。「そんな連絡先、もらってない。少なくとも、覚えてない」口にしてから、ふと考え込んだ。きっと、私がどこかにしまい込んで、そのまま忘れてしまったんだろう。彼はポケットから一枚の写真を取り出した。そこには、十六歳の私。眩しいほどの笑顔と、隣で無表情の彼。頭の奥にひとつの考えが浮かんだ。あの時、病院で私を
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