LOGIN「いいの、いいの」彩花はすぐに手を振った。「そんなに高くないし、クーポンもあるの。ネットで買うとすっごく安いんだよ。だから、遠慮せず食べてね。もう一時だよ。遅いし、私たちもそろそろ寝ようか」そう言って、彩花は遥香の手を取って早足で星乃の寝室を出ていった。ドアを閉めると同時に、彩花は胸を押さえながらほっと息をついた。「危なかった、あたし機転が利いてほんとよかった。もう少しでバレるところだった」「もうバレてるよ」遥香があきれたように言う。「えっ?」彩花は目を丸くした。「さっきあなたが持ってったお菓子と果物、ネットにそんな店ないし、クーポンも割引もないやつだよ」「それにね……」遥香が顔を近づけて、すんっと鼻を鳴らした。「さっき律人さんにちょっと近づきすぎたでしょ?香水の匂い、しっかりついてる」「……」彩花は言葉を失った。「それともう一つ」遥香は続ける。「前にも星乃の前で律人さんの名前が出たことあったよね。ほんの数回だけど、聞いたことあるはず」「さっきのあんたの演技、ちょっとオーバーすぎたの」「……」彩花は唇を尖らせた。ドラマではいつもあんな感じだったのに。「じゃあ、どうすればいいの?」「星乃が何も言わないなら、知らないふりしておけばいい」遥香は肩をすくめた。これまでだって彼女はできるだけ口を開かず、慎重に動いてきた。なるべく自然に見えるように。でも最近になって、星乃がすでに何かを察しているんじゃないか、と思い始めていた。だって、普通のシェアハウスに住んでる人が、彩花みたいに二十万円以上のバッグを持ち歩いたり、毎日タクシー通勤して、三食きっちり栄養バランスの取れた食事なんてしない。星乃が疑うのも当然だった。彩花は毎回うまく言い訳をしてごまかしていたけど。最初はバレるのが怖かった。でも考えてみたら、律人が彩花を選んだ時点で、星乃に完全に隠すつもりなんてなかったのかもしれない。きっと、二人のちょっとした遊びなのだろう。どうせお金はもらってる。演技の続きに付き合うだけなら、それで十分。そんな遥香の落ち着いた様子につられて、彩花の心も次第に落ち着いていった。――もしかして、遥香が嘘をついてるのかも?星乃がそんな細かいところまで気づくはずない。もし本当にバレてるなら、とっくに指摘し
別荘の中で、星乃は布団にくるまったままベッドに座り、くしゅん、と大きなくしゃみをした。ちょうどその時、ドアの外で彩花と遥香がドアを開けて入ってきた。遥香の手には、湯気の立つスープの碗。「星乃、とりあえずこれ飲んで。飲んで汗をかけば、すぐ治るから」彩花もそばに来て、星乃の額に手を当てた。「うん、熱はないみたい。単なる風邪ね、よかった」そう言って、彼女は星乃の掛け布団をもう一度しっかりと包み直してあげた。星乃は胸の奥までじんわりと温かさが広がっていくのを感じた。体だけじゃなく、心の中まで。律人とクルーズから帰ってきた夜、冷たい風にあたったせいで風邪をひいてしまった。最初は我慢して、翌日に薬を買いに行こうと思っていた。けれど、遥香がすぐに顔色の悪さに気づき、風邪だとわかると夜中に薬を取りに降りてきてくれた。彩花は湯たんぽを用意して、お腹を温めてくれ、遥香はカイロを貼ってくれた。咳がひどくても、嫌な顔ひとつせず、むしろ生姜湯まで作ってくれた。久しぶりに感じる、誰かに世話を焼かれる温もり。こんなに優しくされるのは久しぶりだった。悠真は自分を気にかけることなどほとんどなかった。彼に迷惑をかけたくなくて、病気でも黙って我慢する。どうしても辛いとき、ようやく言葉をこぼしても、悠真はただ一瞥をくれるだけで、「病院へ行け」と冷たく言うだけだった。彼の冷たさを感じてからは、なるべく手を煩わせないようにしてきた。できることは自分で。病気も、自分で病院に行けばいい。昔は沙耶が気にかけてくれたけど、それももう遠い話。今では友達もいなくて、「友達」ってどんな存在だったのかすら思い出せない。星乃が動かないのを見て、遥香はためらっているのかと思い、声をかけた。「生姜湯、ちょっとピリッとするけどね。体が温まるから、早く治るよ」彩花も続けた。「飴を用意してるの。鼻つまんで一気に飲んで、すぐ飴食べたら苦くも辛くもないから。私もそうしてたんだ」そう言って、彩花はポケットから小さなソフトキャンディを取り出して渡した。星乃はふたりの優しい視線を見つめ、何も言わずにスープを口に運んだ。彩花がタイミングよく飴を彼女の口に入れる。「どう?甘いでしょ?」星乃は小さくうなずいた。「うん……甘い」彩花は満足そうに
誰もが今回の事故で、あの神崎家の御曹司・涼真がすっかり怯えてしまったのだと思っていた。けれど怜司は、ほとんど瞬時に悠真のことを思い浮かべた。少し驚きながらも、どうやってそれとなく悠真に探りを入れようかと考えていたところに、結衣から電話がかかってきた。「怜司、神崎家の件、もう知ってる?」向こうから、結衣の緊張した声が聞こえた。怜司は状況が飲み込めずに返す。「見たよ。どうしたの、結衣?」「悠真がやったの」結衣はためらわずに言った。事前に予想がついていたからか、怜司はそれほど驚かなかった。ただ理解できなかった。悠真がどうしてそこまで過激なことを?冬川家と神崎家の事業にはほとんど接点がないし、昔から互いに干渉しない関係だった。相手が星乃のことを少し悪く言ったくらいで、あんな大事にするだろうか?結衣に聞こうとしたそのとき、彼女の声が震え、ほとんど泣きそうに詰まった。「悠真は全く隠す気がなかったみたい。ちょっと調べれば、誰でも彼がやったって分かる。神崎家の人たちももう知ってるの。怜司、神崎家の力って、冬川家には及ばないけど決して弱くないのよ。今は静かにしてるけど、それが本気で怯えてるからとは限らない。裏で悠真に報復する準備をしてる可能性だってある。悠真が、どうしてそんな無茶を?」結衣の声には焦りがにじんでいた。怜司は慌ててなだめた。「結衣、落ち着いて。大丈夫だよ、きっと問題にはならない」「落ち着けるわけないでしょ!」そう言ってから、彼女は一度言葉を切った。電話の向こうで、少し探るような声音になる。「最近、星乃が登世おばあさまの見舞いを理由に、何度か冬川家に顔を出しててね。悠真とも何回か会ってるの……今回のこと、もしかして関係あると思う?」怜司の胸がドキリと鳴った。さっきから薄々感じていた。これは星乃に関係しているのではないか、と。結衣の口からそれを聞いた今、確信がほとんど固まった。やっぱり悠真は、星乃のことで頭に血が上ったのだ。だが怜司はその考えを口にせず、無理に笑って言った。「そんなわけないよ、結衣さ。もうすぐ悠真と結衣の婚約パーティーじゃないか。悠真の頭の中は結衣のことでいっぱいだよ。神崎家の件は、きっと別の理由だと思う。たぶん婚約の準備が思うように進まなくて、ストレスが溜まってたんじゃ
【なあ、お前ら、俺がさっき誰を見たと思う?】【星乃と、白石家の律人だよ!】そのすぐあとに、一枚の写真が送られてきた。悠真は、このグループにいつ入ったのかすら覚えていなかった。普段はほとんど見もしない。けれどそのとき、彼は星乃の名前を見つけ、無意識のままタップして開いた。写真は鮮明だった。よくある、ありふれたキス写真。それでも、悠真の心臓が一瞬跳ねた。二人は人目も気にせず抱き合い、唇を重ねている。星乃の瞳は笑みを含み、きらきらと輝いていた。まるで夜空の星をそのまま映したように、全身で愛情を伝えていた。その眼差しが、妙に懐かしくもあり、同時に遠いものにも感じた。かつて、彼は何度もその瞳を見てきた。けれど、いつからだっただろう。彼女の目が、痛みに、怒りに、絶望に染まるようになったのは。悠真の胸が、どくんと一拍止まり、息が乱れた。わけの分からない怒りと苦しさが、静かに心の奥を蝕んでいく。彼は深く息を吐き出した。どれくらい時間が経っただろう。気持ちをようやく落ち着け、グループを抜けようとした、そのとき。メッセージの通知がまた光った。【おかしいな。律人って遊び人で有名だろ?付き合った女は、どれも二週間ももたないって聞いたけど。星乃とはもう結構長く続いてるよな?】【まさか本気じゃないよな?】すぐに、別の誰かが反論した。【冗談だろ、ありえねえって。あの女、悠真に捨てられた中古だぞ。離婚してからまだ日も浅いのに、律人が本気になるわけない。遊ぶだけ遊んで捨てるに決まってる】悠真は、そのメッセージを見つめ、眉をひそめた。そのとき、怜司がコメントを送った。【やめろ。もうその話題はやめろよ】【悠真はもう彼女と離婚した。それに結婚だって、もともと仕方なくしたことだ】【今は何の関係もないんだから、話すなら勝手に話せばいいけど、悠真の名前は出すな】【それに悠真は、もうすぐ結衣と婚約する。過去のことはもう終わったんだ、蒸し返すな】怜司がそう書き込んで間もなく、悠真から個別メッセージが届いた。【さっきのやつは、誰だ?】まさか悠真がグループを見ていたとは思わず、怜司は少し驚きながらも、その人物の情報を送った。【瑞原市の神崎家の涼真だよ。前に一緒にレースやってた】【気にすんなよ。あいつ、口が
恵理は見ていられず、星乃を病院まで送った。そして、沙耶が海外で行方をくらましていたように見せかける偽の痕跡を作り、圭吾をうまく引き離した。ようやく星乃は、少し息をつくことができた。白石家に生まれ、圭吾のそばに立つことを選んだ律人は、そういう人をこれまで何人も見てきた。それどころか、彼が見てきた中にはもっと悲惨な末路を辿った者もいた。圭吾は狂人で、そして自分もまともではなかった。白石家では、残酷さがなければ生き残れないのだ。なのに今、律人は圭吾にも、過去の自分にも、吐き気がするほどの嫌悪を覚えていた。――こんなのは間違っている。星乃のような子は、本来なら眩しい未来を歩むはずだった。陽の光の下で笑いながら、まっすぐに生きていけるはずだった。そんな彼女の青春と未来が、誰かの私欲や復讐心のせいで壊されるなんて、あってはならない。約一時間後。星乃と恵理が個室から出てきた。何を話していたのかはわからないが、二人とも穏やかな笑みを浮かべ、空気は驚くほど柔らかかった。「じゃあ、いい取引ができるといいね」恵理が笑顔で手を差し出す。星乃もその手を握り返し、にっこりと笑った。「はい、よろしくお願いします」「じゃ、二人でゆっくり話して。私は邪魔しないから」そう言って恵理は、星乃と律人の間にちらりと視線を送り、意味ありげに微笑むと踵を返した。「で、何の話?」律人は星乃の笑顔を見ながら眉を上げて、少しおどけたように聞く。星乃はいたずらっぽく口元を緩めた。「秘密」律人はそれ以上追及せず、ふっと笑って彼女の頭を優しく撫でた。……その夜、病院。登世の容体が少し良くなり、ようやく意識が戻った。まだ起き上がることはできなかったが、かろうじて声を出せるようになっていた。ただ、体はまだとても弱っており、話せるのは短い言葉だけ。花音は知らせを受けて慌てて駆けつけてきた。祖母のベッドにすがりつき、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになりながら、「怖かったの」と泣きじゃくる。雅信と佳代もすぐに駆け寄り、登世の容体を心配そうに尋ねる。「おばあちゃん、まだ起きたばかりなんだから、そんなに話しかけないで」悠真が静かに言った。その言葉に、ようやく皆もはっとして黙り込む。登世は何も言わず、病室の中をゆっくりと見回した。「おば
星乃の目がぱっと明るくなり、驚いたように律人の方を見つめた。律人はそんな彼女の顔を見て、ふっと安堵の色を浮かべ、心の中で小さくため息をついた。彼は、彼女のこういう前向きで負けず嫌いなところが好きだった。でも同時に、少しだけ嫉妬もしてしまう。彼の目の前で、星乃が嬉しそうにしている時の多くは、たいていUMEの未来の話をしている時だった。本当は、彼女がUMEの未来を考えるとき、自分たちの未来のことも少しだけ思い浮かべてくれたらいいのに――そう思っていた。「律人、来てたのね」柔らかな女の声が隣から聞こえた。星乃が振り返ると、長い巻き髪にドレスをまとった女性が、ワイングラスを手にこちらへ歩いてくるところだった。胸元にはアンティーク調のブローチ。穏やかで上品な雰囲気の女性だ。星乃はその姿を見た瞬間、どこかで見たことがあるような気がした。律人?その呼ぶ声も、妙に親しげに聞こえる。星乃はちらりと律人を見た。二人の自然な視線の交わり方を見て、胸の奥で小さくつぶやく。――もしかして、律人の元カノ?「あなたが、星乃デザイナーね?」星乃が考え込んでいると、女性がにこやかに声をかけた。その言葉に、星乃は一瞬きょとんとした。ここ数年、周りからは「星乃さん」や「奥さま」、あるいは「星乃」と呼ばれることがほとんどで、「デザイナー」と呼ばれるのは本当に久しぶりだった。胸の奥に、少し複雑な感情が広がる。かつての彼女の夢は、優れたAIロボットのデザイナーになることだった。でも、結婚生活の中で、その夢をほとんど忘れかけていた。「デザイナー」と呼んでくれたこの人は、きっと初めてだ――そう思うと、自然と好感を抱いていた。「紹介するよ。僕のおばさんの、白石恵理」と律人が言った。星乃は目を丸くする。「おばさん?お若いですね」星乃は思わず驚いてしまう。どう見ても律人と同世代にしか見えない。白石家は子どもの数が多く、年齢が律人と近い叔母もいると聞いていた。ただ、星乃が会ったことのある人はもうずっと昔のことで、しかもそのときは特別な状況だった。顔はよく覚えていないが、声と、その人が最後に言った言葉だけは、今でも忘れられない。「前を向いて。もう振り返っちゃだめ」淡々とした声が響いた瞬間、星乃ははっとした。