Se connecter石原紗良(25) 甥っ子(4)を育てる一児の母。 滝本杏介(27) プール教室の売れっ子コーチ。 紗良の働くラーメン店の常連客である杏介は、紗良の甥っ子が習うプール教室の先生をしている。 「あっ!常連さん?」 「店員さん?」 ある時その事実にお互いが気づいて――。 いろいろな感情に悩みながらも幸せを目指すラブストーリーです。
Voir plus石原紗良の働くアルバイト先にはお気に入りの彼がいる。
いつも窓際のカウンター席に座って、店の名物であるチャーシュー麺を注文し、運ばれてくるまでのあいだ静かに文庫本を読む一人の男性。
くしゃっと乱れた髪はくせ毛なのだろうか、少しハネているけれど、それが逆にあか抜けていておしゃれ。背は高くて半袖のシャツから覗く腕はほどよく筋肉質できゅっとしまっている。
文庫本に落とした視線は伏せがちで、意外と睫毛が長い。男性なのに綺麗だなとついついそちらに視線をやってしまう紗良は、完全に彼のファンになっている。
土日の夜だけこの店でアルバイトする紗良にとって、土曜日の夜に来てくれる彼は目の潤いであり癒しだ。
(まあ、私が勝手に拝んで癒されているだけなのだけど。でも忙しい日々にそういう潤いは必要よね)
世の中にはかっこいい人が存在するのだなと、紗良は彼を見るたびに思った。
疲れた体に活力を与えてくれる彼はこの店の常連客だ。紗良が彼の座っていた席の片付けに入ったとき、一冊の文庫本が忘れられていることに気付いた。
「店長、お客様の忘れ物届けてきます」
彼はさっき店を出たばかり。
追いかければまだ駐車場にいるかもしれないと店を飛び出したわけなのだけど、彼の姿はどこにも見えず。
「あー、もう帰っちゃったかなぁ」
半ばあきらめ状態で念のため駐車場をぐるりと一周してみると、ラーメン店の隣にあるコンビニから出てくる彼を発見した。
少し遠目からでも分かるバランスの取れたシルエットは紗良の推しの彼に違いない。
「すみませーん!」
手を振りながらバタバタと駆け寄ると、彼は不思議そうな顔をして首を傾げた。
「ん? 俺?」
「そうです、お客様です。本、お忘れですよ」
紗良が本を掲げると、彼は「あっ!」と短い声を上げた。
クールに本を読んでいるか静かにチャーシュー麺を食べている顔しか知らない紗良は、初めて見る彼の表情に新鮮さを覚えて心臓がドキリと高鳴った。
「すみません、うっかりしていました」
声も初めて聞く。
少し低くて、でも優しい声。
彼の声が聞けるなんて今日はラッキーデーだ。
「いえいえ、間に合ってよかったです。では――」
「あのっ」
ペコリとお辞儀をして戻ろうとしたところを呼び止められ、今度は紗良が首を傾げる。
「はい?」
「あー、えっと、またラーメン食べに行きます」
「はいっ!ぜひまたいらしてください。お待ちしていますね」
ニコっと営業スマイルで返せば、彼もニッコリと微笑んだ。
月夜に照らされた彼の顔はとても綺麗で、『神様、イケメンとの触れ合いをありがとうございます』と思わず拝んでしまうほど。
(今日は何だか得した気分)
何でもないことなのだけど、推しメンと触れあえたことで明日からも頑張れる気がした。
カシャカシャカシャッその音に、紗良と杏介は振り向く。そこにはニヤニヤとした海斗と、これまたニヤニヤとしたカメラマンがしっかりカメラを構えていた。「やっぱりチューした。いつもラブラブなんだよ」「いいですねぇ。あっ、撮影は終了してますけど、これはオマケです。ふふっ」とたんに紗良は顔を赤くし、杏介はポーカーフェイスながら心の中でガッツポーズをする。ここはまだスタジオでまわりに人もいるってわかっていたのに、なぜ安易にキスをしてしまったのだろう。シンデレラみたいに魔法をかけられて、浮かれているのかもしれない。「そうそう、海斗くんからお二人にプレゼントがあるんですよ」「えっへっへー」なぜか得意気な顔をした海斗は、カメラマンから白い画用紙を受け取る。紗良と杏介の目の前まで来ると、バッと高く掲げた。「おとーさん、おかーさん、結婚おめでとー!」そこには紗良の顔と杏介の顔、そして『おとうさん』『おかあさん』と大きく描かれている。紗良は目を丸くし、驚きのあまり口元を押さえる。海斗とフォトウエディングを計画した杏介すら、このことはまったく知らず言葉を失った。しかも、『おとうさん』『おかあさん』と呼ばれた。それはじわりじわりと実感として体に浸透していく。「ふええ……海斗ぉ」「ありがとな、海斗」うち寄せる感動のあまり言葉が出てこなかったが、三人はぎゅううっと抱き合った。紗良の目からはポロリポロリと涙がこぼれる。杏介も瞳を潤ませ、海斗の頭を優しく撫でた。ようやく本当の家族になれた気がした。いや、今までだって本当の家族だと思っていた。けれどもっともっと奥の方、根幹とでも言うべきだろうか、心の奥底でほんのりと燻っていたものが紐解かれ、絆が深まったようでもあった。海斗に認められた。そんな気がしたのだ。カシャカシャカシャッシャッター音が軽快に響く。「いつまでも撮っていたい家族ですねぇ」「ええ、ええ、本当にね。この仕事しててよかったって思いました」カメラマンは和やかに、その様子をカメラに収める。他のスタッフも、感慨深げに三人の様子を見守った。空はまだ高い。残暑厳しいというのに、まるで春のような暖かさを感じるとてもとても穏やかな午後だった。【END】
その後はスタジオ内、屋外スタジオにも出てカメラマンの指示のもと何枚も写真を撮った。残暑の日差しがジリジリとしているけれど、空は青く時折吹く風が心地いい。汗を掻かないようにと木陰に入りながら、紗良はこの時間を夢のようだと思った。「杏介さん、連れてきてくれてありがとう」「思った通りよく似合うよ」「なんだか夢みたいで。ドレスを選んでくださいって言われて本当にびっくりしたんだよ」「フォトウエディングしようって言ったら反対すると思ってさ。海斗巻き込んだ壮大な計画」「ふふっ、まんまと騙されちゃった」紗良は肩をすくめる。騙されるのは好きじゃないけれど、こんな気持ちにさせてくれるならたまには騙されるのもいいかもしれない。「杏介さん、私、私ね……」体の底からわき上がる溢れそうな気持ち。そうだ、これは――。「杏介さんと結婚できてすっごく幸せ」「紗良……」杏介は目を細める。紗良の腰に手をやって、ぐっと持ち上げた。「わあっ」ふわっと体が浮き上がり杏介より目線が高くなる。すると満面の笑みの杏介の顔が目に飛び込んできた。「紗良、俺もだよ。俺も紗良と結婚できて最高に幸せだ」幸せで愛おしくて大切な君。お互いの心がとけて混ざり合うかのように、自然と唇を寄せた。
カシャッ「じー」小気味良いカメラのシャッター音と、海斗のおちゃらけた声が同時に聞こえて、紗良と杏介はハッと我に返る。「あー、いいですねぇ、その寄り添い方! あっ、旦那様、今度は奥様の腰に手を添えてくださーい」「あっ、はいっ」カシャッ「次は手を絡ませて~、あっ、海斗くんはちょっと待ってね。次一緒に撮ろうね~」カシャッカメラマンの指示されるがまま、いろいろな角度や態勢でどんどんと写真が撮られていく。もはや自分がどんな顔をしているのかわからなくなってくる。「ねえねえ、チューしないの?」突然海斗がとんでもないことを口走るので、紗良は焦る。いくら撮影だからといっても、そういうことは恥ずかしい。「海斗、バカなこと言ってないで――」と反論するも、カメラマンは大げさにポンと手を叩いた。「海斗くんそれいいアイデアです!」「でしょー」カメラマンと海斗が盛り上がる中、紗良はますます焦る。海斗の失言を恨めしく思った瞬間。「海斗くん真ん中でパパママにチューしてもらいましょう」その言葉にほっと胸をなで下ろした。なんだ、それなら……と思いつつ、不埒な考えをしてしまった自分が恥ずかしくてたまらない。「うーん、残念」杏介が呟いた声は聞かなかったことにした。
ウエディングドレス用の、少しヒールのある真っ白なパンプスに足を入れた。かかとが上がることで自然と背筋もシャキッとなるようだ。目線が少しだけいつもより高くなる。「さあ、旦那様とお子様がスタジオでお待ちですよ」裾を持ち上げ、踏んでしまわないようにとゆっくりと進む。ふわりふわりと波打つように、ドレスが繊細に揺れた。スタジオにはすでに杏介と海斗が待っていた。杏介は真っ白なタキシード。海斗は紺色のフォーマルスーツに蝶ネクタイ。紗良を見つけると「うわぁ」と声を上げる。「俺ね、もう写真撮ったんだー」紗良が着替えて準備をしている間、着替えの早い男性陣は海斗の入学記念写真を撮っていた。室内のスタジオだけでは飽き足らず、やはり屋外の噴水の前でも写真を撮ってもらいご満悦だ。海斗のテンションもいい感じに高くなって、おしゃべりが止まらない。「紗良」呼ばれて顔を上げる。真っ白なタキシードを着た杏介。そのバランスのいいシルエットに、思わず見とれてしまう。目が離せない。「とても綺麗だよ。このまま持って帰って食べてしまいたいくらい」「杏介さん……私……胸がいっぱいで……」紗良は言葉にならず胸が詰まる。瞳がキラリと弧を描くように潤んだ。
開園から遊び倒したので、お昼も過ぎてそこそこに帰り支度を始めた。 まだ遊びたいと渋る海斗だったが、車に辿り着く前に抱っこをせがみ、杏介の胸の中であっという間に船をこぎ出した。「杏介さんすみません、重いでしょう?」「紗良さんこそ荷物持たせてしまってすみません」「いいえ、海斗の重さに比べたら全然余裕ですよ」「海斗よだれ垂れてる」「えっ! すみません!」「いや、いいんです。子供らしくて可愛いなと思って」杏介は嫌がることもなく面白そうに笑う。 その笑顔につられて紗良もふふっと微笑んだ。すっかり爆睡状態の海斗を後部座席に乗せ、今度は紗良が助手席に座ることになった。 普段自分
「――まあ、ご親切にチケットをいただいて、車まで出してもらったの? まあ~」「とても楽しかったですよ。海斗くんは水が大好きで紗良さんに泳ぎを教えていました」「そうなのよー、この子ったら海ちゃんと違って昔から水が苦手でね。二十五年生きてきて学校以外のプールなんて初めて行ったんじゃないかしら? 水着だって持ってないから慌てて買いに行って――」「お母さん! もう、恥ずかしいからやめて!」「だからあんなに必死に浮き輪を持っていたんだね?」「きょ、杏介さんまでからかわないでください!」紗良は頬を染めながらぷんすか怒るが、そんな姿が杏介には大変いじらしく映り思わず目を細める。わいわいと騒ぎ
紗良は杏介と別れてから、再び目頭を拭った。 まさか涙が出るとは思わなかった。海斗が保護施設に入れられそうになっているとき、海斗はずっと泣いていた。 どうして泣いていたのかはわからない。 親がいなくて泣いていたのか、はたまたこの先の未来を感じ取って泣いていたのか、二歳の海斗からそれを導き出すことは困難だ。けれどその姿が、紗良の脳裏に今でも色濃く残っている。海斗を引き取ると決心してから、ただがむしゃらに必死に子育てをしてきた。 自分が母親になるという実感は全くわかない。 だけどやっていかなくてはならない。日々の生活をどう接していけばいいのかわからなくなるときもある
「読書好きなんですけど、大人になったらなかなか読む時間がなくて、ああいう隙間時間に読んでるんです」「わかります。大人になると本当に時間がないですよね」「海斗くんのお母さんは家事や子育てをされているから、余計に時間がないでしょう?」「そうですね。……そうかもしれないです。毎日仕事して海斗のことだけで手一杯になっています。本当にわからないことだらけで試行錯誤しています」「でもそうやって愛情をもって育てていらっしゃるから、海斗くんいつも楽しそうに笑っているんですね」本当に何気ない言葉だった。 いや、杏介にしてみたら特に意識などしていないただの感想のようなものだったのに、目の前の紗良の