コンビニでバイトをしながら小学校の先生を目指す女子大生の向井凜子(むかい りんこ)は、何かといえばすぐにからかってくる常連客の男――鳥飼奏芽(とりかい かなめ)が大嫌い。 彼の軽薄そうなところが、真面目な自分の考え方とは真逆で馴染めそうにないから極力関わらないようにしたいのに、何故か相手はそうではないようで。 小児科医のマイペースワガママ男 奏芽(33)と、真面目な女子大生 凜子(19)。 水と油のようなふたりの、ドタバタ年の差恋愛譚。
View More一体なにがどうなって、私はいま大嫌いだったはずの彼とともにベッド――こんなところ――にいるんだろう。
「なぁ凜子《りんこ》。――髪、ほどくぞ?」 ふたつ分けの三つ編み――いわゆる〝おさげ〟――は私のトレードマーク。 それをほどかせろ、と私に馬乗りになっている男が言った。 束ねられるくらい髪が伸びてから今まで、誰にもそれをほどいたところなんて見せたことない。 おろし髪を見せるのは、自分のなかの女をアピールしているみたいで……何だか恥ずかしいと思ってしまって。 子供の頃からずっと、私は人前に出るとなると慣れ親しんだ三つ編み姿しか披露したことがないのだ。 小学生の頃、クラスの男子に髪の毛を引っ張られて、髪留めを外されたことがある。 ほどけてほぐれたウェーブのかかった腰まで届く髪の毛に、私はすごく恥ずかしくてだらしない姿になった気持ちがしたの。 一生懸命自分で髪を束ねてみたけれど、不器用だった私がやったそれはとても汚くて。 帰宅後お母さんに「ボサボサでみっともない」って叱られて、すぐさま結びなおされた。 それ以来、人前でおさげをはずしてはイケナイと言う想いは一層強固になった。 「こっ、このままでも……! っていうか、出来ればど、どこにもっ……さわらないで……欲しいですっ」 そのことを思い出して、この期に及んで私はこういうことをするのはやはりやめておきませんか?と彼を必死で見上げたら、「却下。結んであったら引っ張りたくなるし、さすがにここまで来て手を出さないとか、そんな選択肢選ぶヤツがいたらアホだと思うわ」とにべもなく返された。 「なぁ凜子、いい加減覚悟を決めて、俺にすべて任せろって。痛くしないとは言わねぇけどさ。絶対俺は後悔しないし……凜子と気持ちよくなれる自信があるんだよ」 言われた瞬間、恥ずかしいことさらりと言わないで!って思った。 でも、それが彼――鳥飼《とりかい》奏芽《かなめ》という男なんだから仕方がない、とも思ったの。 「年上らしく、初めてのときぐらい優しくしてやるよ、とか言ってくれてもいいじゃないですかっ」 あんまりにも勝手な言い分に、段々腹が立ってきて、キッと睨みつけながらそう言ったらクスクスと笑われた。 「優しくして欲しいなら自分からそう言えよ。こういうときくらい俺、素直な凜子が見てみたいんだけどな?」 言って、いつもしているみたいに、私を引き寄せるようにギュッと髪の毛を引っ張てきて。 彼は髪を引っ張り上げたついでに、過去にたまたま一度だけ外れたことがあるのを除いて――決して意図的に外そうとはしてこなかった、髪ゴムを取ってしまった。 「ほら、おねだりしてみ?」 ほどかれてかき乱されて……顔にかかってきたゆるいウェーブのかかった髪に触れられて。ほどいていいなんてまだ言ってないのに!ってそわそわしたけれど。 考えてみたら、いつだって彼はやると決めたら強引にでもことを進める人だったと思い至った。 そう、初めて出会ったあの日から今日までずっと――。 だから私はこの人に今でも変わらず敵わないし、今でも変わらず振り回されっぱなしなの。切りながら、受話器側とは別の手で持ったスマホに片山さんの番号を打ち込んで、ワンコールだけして切る。 そのままもう一度例の追跡アプリを立ち上げて――。 やはり未だに凜子の位置を現す「泣きべそウサギ」がある一点から動かずにロスト表示のままなことを確認した俺は、スマホを握りしめる。 そうしながら白衣を脱ぎ捨てて椅子に放ると、第一診察室へ向かった。「院長、俺、ちょっと今日は診察できそうにないです」 いつもなら、身内という甘えもあって、もっと砕けた物言いになるところだが、今日は――いや、今だけは……そんな甘えで親父に接したくないと思った。「もうじき開院時刻だぞ。何を馬鹿なことを」 スタッフたちも親父と同じ意見らしく、冷ややかな視線が突き刺さる。「音芽が! あなたの娘が切迫した危機的状況にあるって言ったらどうしますか?」 こんな卑怯な手、使いたくなかったが仕方ない。 この親父が、娘を溺愛していることは周知の沙汰だ。 実際には音芽は何ともないんだが、俺にとって凜子は音芽と同じぐらい……いや下手したら音芽より大切なんだ。少しくらいの嘘、許して欲しい。「音芽に何かあったのか!?」 案の定食い気味に俺に詰め寄ってくる親父に、「音芽には旦那が付いてるから問題ないです」と告げてから、すぐに言葉を続ける。「けど! 俺にとって音芽と同じくらい……いや下手したらそれ以上に大事な女性のピンチかも知れないんです。だから――」 行かせてくれ。 そう言おうとしたら、皆まで言う前に「さっさと行け」と追い払うような仕草をされた。 いいのか?と言う言葉も出ないほどに、俺は親父からのその言葉を待ち望んでいたんだと思う。 正直な話、ダメだと言われても行く気満々だった。けど、やはり仕事に穴をあける以上、ちゃんと筋は通したかったから。「恩に着ます!」 言っ
いつもなら「大学に着きました」とメッセージが入ってもいい頃になっても、凜子からの連絡がない。 朝、「行ってきます」の連絡はいつも通りの時間にあったのに、だ。 朝礼の時刻――8時45分まであと5分。 スタッフみんな第一診察室に集まっている頃だと思う。 当然、俺も行かないといけないんだが。 妙な胸騒ぎに突き動かされて、俺はスマホを握りしめる。 とりあえず、と凜子の携帯に掛けてみたけれど、電源が落とされているのか、圏外に出てしまっているのか、繋がらなかった。 たまたまか? 普段公共の交通機関を利用する凜子は、それらに乗るときは、必ず携帯をマナーモードにしている。もっと言えば、大学構内にいるときもそう。 真面目な子だから、それは絶対だ。 でも、電源を切ったりはしていなかったはずだ。 前にGPSでお互いの居場所が分かるアプリを入れたけれど、あれにしたって相手先の電源が落とされていては使い物にならない。 一応確認のためにアプリを立ち上げてみたら、凜子を現す「泣きべそウサギ」のアイコンは数分前にある地点でロストした表示になっていた。「くそッ」 思わず舌打ちが漏れて――。 俺は携帯を握りしめたまましばし逡巡する。 *** 前に病院へ掛かってきた凜子の友人――片山さんの携帯番号は、登録こそしていないが記憶している。 基本的に一度見聞きしたものはそう簡単には忘れないんだが、それを今日ほどありがたく思ったことはない。 俺は少し考えて、片山さんに電話してみることにした。 知らない携帯番号からいきなり掛かってきたら、警戒されるかもしれねぇな。 そう思った俺は、病院の電話からかけることにした。 固定電話の番号なら、市外局番が通知されて市内だと分かるだろうし、市内からの着信なら出てくれる確率が格段に上がる気がしたからだ。 数コール目で「……もしもし?」と少し怪訝そうな声が応じてくれる。
気がついたら、私は怒りと嫌悪感をあらわにして「いい加減にしてっ!」と叫んで男の手を払いのけて突き飛ばしていたの。 男の、奏芽さんと私とのかけがえのない時間を否定するような物言いと、下卑た笑顔に触れるのが心底嫌で、逃げ場なんてないという現状も忘れてそのまま這うようにベッドの端っこに|膝行《しっこう》してうずくまる。***「……これからずっと一緒に暮らしていかなきゃいけないご主人様にその態度。しつけが必要だね、凜」 ややして見下ろすようにしてそう告げられて、スタンガンを見せ付けられた私は、恐怖にギュッと目をつぶった。 ひやりとした感触が、今度は首筋に当てられる――。 バチッという音がすぐにでも聞こえてくる気がして身構えたけれど、音も衝撃も一向に襲ってこなくて、私は恐る恐る目を開ける。 と、すぐ目の前に男の顔があって、「ねぇ、怖かった?」って笑いながら聞いてくるの。 私は涙目になりながらそんな男を見返すしかできなかった。「|凜《りん》、|スタンガン《これをされる》のはもう懲り懲り? ――だったら……。僕にどうしたらいいか、分かるよね?」 電撃を見舞われたくなければ謝罪を乞えと言外に告げられて、私は瞳に溜まった涙をこぼさないよう、瞬きをこらえて言葉をつむいだ。「ごめ……なさ、……」 なのに男は私の両頬を片手でギュッと強く掴むと、顔を近づけてきてささやくの。「違うよ、凜。|明真《あすま》さん、ごめんなさい、だ」 頬を|鷲掴《わしづか》みにされた衝撃で、絶対にこぼしたくなかった涙がポロリと両頬を伝って、私は悔しさに唇を噛む。 その間も手にしたスタンガンを散らつかされて、その痛みを知っている私は、どうしても恐怖に支配されてしまうの。「あ、すまさ……ごめ、んなさい」 私、悪いことなんて何もしていないのに。 どうして謝らなきゃいけないの? |奏芽《かなめ》さん、お願い。一刻も早く……助
私は耳を引き千切られてしまうのではないかという思いに、身体が動かせなくなった。 それをいいことに、男が私の耳に吐息を吹き込むように声のトーンを低めてささやいてくる。「もしそれが|真実《ほんとう》ならチャンスだって思ったんだ」 言われた言葉に私は絶望しか感じなくて、「あのっ、耳、|痛《いた》ぃ……ので……、離、して……くださ……。お願……」 って小さく抗議の声を上げるので精一杯。「あー、ごめん、痛かった?」 絶対痛くしているという自覚はあると思うのに、さも気付いていなかったのだという風に笑うこの人が、心の底から怖いって思った。「けど……もし本当にセックス自体が初めてだとしたら……僕との行為、こんなの比にならないぐらい、もっともっと痛いと思うよ?」 ――僕は優しくほぐしてあげるつもりなんて微塵もないし。「その方が僕との初めての記憶を刻み込めるでしょう?」 さらりと恐ろしいことを言う男に、ギュッと縮こまるようにして身体を守る。 こんなことなら|奏芽《かなめ》さんに|二十歳《はたち》を待たずに私を奏芽さんのものにして欲しいと……強く迫っておけばよかった。 そんなことまで思ってしまうほど、この男に〝初めて〟を奪われてしまうと思うと嫌で嫌でたまらない。 お門違いだと分かっていても、|奏芽《かなめ》さんが頑なに私の成人を待ってくださったことでさえも恨めしく思えてしまう。「それにしても。なんで|凜《りん》の彼氏気取りのあの金髪男はキミを抱かなかったんだろうね? こんな風に横から|掻《か》っ|攫《さら》われちゃうとか思わなかったんだとしたら、相当なお人好しだよ。そもそも凜の魅力に惑わされないで|二十歳《はたち》の誕生日まで待つとか、僕からしたらあり得ないんだけど! だってさ、凜の誕生日、4月半ばでしょ? マジ先すぎるだろ。ね、ぶっちゃけあの男、何ヶ月待ったの?」 そこまで一気にまくしたてられて、私は奏芽さんとのことを全否定されたみたいな気持ちになる。 奏芽さんは……私を大
「あ、|明、真《あす、ま》 ……さん、私、家に帰りたい……です」 ――ここには着替えも何もないですし。 窺うように彼を見つめて付け加えたら「あー、服」ってハッとした様につぶやいた。 その反応に、これで少しは現状が打開できるかもって思ったのに……。「気付かなくてごめんね? 後で僕好みの服、たくさん買ってきてあげる」 って言って私の頬を撫でるの。 その感触にゾクッと悪寒が走って、私は慌てて顔を背けた。 私が唯一その人の色に染められたいと願う|奏芽《かなめ》さんだって、私の服にいちいち口出ししたりしてこない。 そこは私の尊厳を踏みにじらないでいてくれる奏芽さんなりの優しさなんだと、私は今になって思い知らされた。 寒がりな私に、ってクリスマスにコートを買ってくれたときだって、「好きなの選べよ。俺、|凜子《りんこ》がどういうのが好きか知りてぇし、一緒に見て回りたい」ってお店に連れて行ってくれて、私の意見を聞きながら好みのものを選ばせてくれた。 今、着ているこれがそのときに奏芽さんにプレゼントしていただいたファー付きのモッズコートだと思い出した私は、少しだけそこから勇気をもらえた気がする。 奏芽さん、私、絶対あなたの元へ戻ります――。だから……無事再会出来たら、ギュッと抱きしめて? そう思って、コートの合わせ目をしっかり合わせる。***「あ、ごめん。僕の手、冷たかった? |凜《りん》は寒がりだもんね」 この人には私が彼のことを嫌がっているのだと言う感覚は微塵もないのかもしれない。 そう思ったら、ただただ気持ち悪かった。 その思いを顔に出さないようにうつむいて唇を噛み締めたら、「あー、部屋も寒いよね。気づかなくてごめんね。いま、暖房入れるから。――暖かくなったらさ、今着ている服、全部脱いでもらわないといけないし」 さらりと恐ろしいことを言われた気がして、思わず男の顔を見たら、「ん~? 何驚いてる
下ろして欲しいという言葉は膝裏に当たるのが例のスタンガンだと分かっているためか、喉元に引っかかって声にならない。「僕の名前はね、|金里《かねさと》|明真《あすま》。向井さんの下の名前は――“|凜子《りんこ》”、だよね?」 名前を言われた途端ゾクリと悪寒が走って身体を跳ねさせたら、「驚いた? 君のお友達がコンビニで他の店員と話してるのを聞いたんだ」ってククッと笑うの。 それから私を抱いたままリビングと思しき部屋を抜けると、その先にある部屋の扉を開けた。 部屋は真ん中にパイプベッドがポツンと1台あるきり。 壁面に一箇所だけある窓には鉄格子がはまっているみたいで、曇りガラスの向こうに縦線模様がすかし見えた。「業者にはね、認知症の祖母の徘徊を防止したいからって話して、窓は全て内側からは鍵なしには開けられないように施工してもらったんだ。だからね、そこの窓はキミには開けられないし、擦りガラスになってるから外の様子も見られない。薄っすら見えると思うけど、もし開けられたとしても鉄格子が嵌めてあるからそこから出るのも無理だからね。もちろん玄関扉も僕以外には開けられない仕様だよ」 そこで私をベッドの上に下ろしてふっと笑うと、「ごめんね。そういう諸々の手配に時間がかかっちゃって。なかなか凜子ちゃんに会いにいけなかったんだ」 言って、「淋しかった?」と耳元に唇を寄せられて、私は思わずベッドを這いずるようにして“金里”と名乗った男から距離をとった。「あ、そうそう。――用心のためにこれも付けさせてもらうね」 ベッドの上に半身起こした状態で、両足首をギュッと握られた私の身体は、その感触に恐怖をかき立てられてビクッと跳ねる。 なのにまだ痺れと恐れが残っている足は、その手を振りほどくことすら出来なかった。「あ、靴履いたままだったね」 言われて足先からスニーカーが脱がされるのを感じる。そのまま更にグイッと引き寄せられた左足首にひやりとした感触とともに何かが取り付けられて、カチャリと鍵をかけられたのが分かった。「え、あ、あの……」
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