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第8話

Author: 用事無し
明彦は私が外に出てくるのを見ると、一瞬だけ表情を曇らせた。

「百香」

やつれた顔だ。私の記憶にある、あの余裕に満ちた姿とはまったくの別人だ。

私は小さくため息をついた。どうせ逃れられないとわかっているからだ。

「……何の用?」

私はその場で足を止め、彼のほうへは一歩も近づかない。

彼は階段の下にいて、私は階段の上にいる。

彼は私を見上げている。

「俺たち……もうこんなに他人みたいにならなきゃいけないのか?」

「もう、必要ないでしょう」私は小さく笑った。

彼の目に痛みが浮かんだ。何か言いかけては飲み込み、また言いかけてはためらった。

やがて、すべてを諦めたかのように口を開いた。

「百香……もし俺が愛してるって言ったら、やり直せる?これからは大事にするから……ダメか?」

私は目を見開いた。

「明彦、私はもう結婚してるの」

私は手を差し伸べ、薬指のリングをはっきりと見せつけた。

「あなた、既婚者の愛人になるつもりなの?」

「……何が悪い?」

彼は真剣だ。一音一音を噛みしめるようにして言った。

「お前さえよければ」

私は心臓が何かに激しく殴られたかのように震え、息が詰まった。

思わず二歩ほど後ずさり、首を横に振った。

――こんなの、もう私の知っている明彦じゃない。

「私は嫌なの」

その瞬間、彼が私に近づこうとした足が止まった。彼は顔を上げ、信じられないという表情で私を見つめた。

「どうして……?」

彼はここまで必死にお願いしたのに……

私は彼の呆然とした顔を見つめながら、長年胸の奥に引っかかっていた疑問を投げかけた。

「明彦、あなたは本当に私のことが好きだったの?」

彼は一瞬言葉に詰まった。私が急にこんなことを聞くとは思っていなかったようだ。

しかし、彼はすぐに焦った様子で答えた。

「もちろんだ。じゃなきゃ、戻ってくるわけないぞ。

百香、俺は本当にお前のことが好きだ」

「明彦、私はそうは思わない」

私は静かに首を振った。

「あなたが私のもとに来たのは、失くした従順なおもちゃが恋しくなったからに過ぎないわ」

――どういう意味だ?

彼は理解できないという表情を浮かべた。

私はその顔を見ずに話を続けた。

「私が誰かを好きになったら、その人を大切に抱きしめ、傷つけないようにする。

心に別の誰かを住まわせ
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