تسجيل الدخول地震が起きた日、父はけがをした妹の葉山蘭(はやま らん)を背負い、6キロの山道を歩いて、ようやく臨時避難所にたどり着いた。 父は災害対策本部のテントの外に立っていた。腰を深く折り、ためらうように何度か足を運んでから、ようやくぎこちない笑みを浮かべ、恐る恐る口を開いた。 「原田隊長にお会いできませんか。私は彼の義父ですが、娘がけがをしています。どこかで手当してもらえないでしょうか」 入口にいた隊員は眉をひそめたが、すぐ中へ取り次ぎに入った。 しばらくして、夫の原田怜司(はらだ れいじ)がスマホを手にしたまま本部テントから出てきた。 怜司は父には目も向けず、入口に立っていた隊員へ淡々と言った。 「けが人は他にも大勢いる。誰だって手当を待ってるんだぞ。80歳のお年寄りも、3歳の子もいる。みんな大変な状況だ。救助隊には救助隊の規則がある。身内だからといって特別扱いはできない」 それは隊員への指示だったが、明らかに父に聞かせるための言葉だった。 父の顔に貼りついていた愛想の笑みが、ぎこちなく固まった。どうしていいかわからないように、腕の中で痛みに冷や汗を浮かべている妹へ目を落とす。喉仏が上下し、言いかけた言葉をのみ込んだ。 父は何度も頭を下げ、蘭を背負ったまま脇へ数歩下がった。 「はい……はい。規則なら、仕方ありません。隊長のおっしゃる通りです」 その光景を見た瞬間、私の胸の奥は細い針が刺さったようだった。声を上げようとした、そのときだった。 別の隊員が慌ただしく駆け寄ってきた。 「隊長、北側の避難所から連絡です。負傷者がさらに運び込まれるそうです」 怜司はすぐにそちらへ顔を向けると、手にしていたスマホを入口脇の折り畳み机に置き、その隊員に指示を出し始めた。 そのとき、何気なく机の上のスマホに目をやった。画面はまだ消えておらず、誰かとのやり取りが開かれたままになっていた。 【美咲、心配しないで。特別に救護テントを用意してある。美咲のご両親と叔父さん夫婦はそっちを使えばいい。水と温かい食事もあるし、医者もいる】 園田美咲(そのだ みさき)。彼が学生時代からずっと想い続けてきた人だった。 その瞬間、私は自分がひどく滑稽に思えた。 もう、あなたを自由にしてあげる。
عرض المزيد市内の病院へ搬送されたあと、怜司は傷口をきれいにする手術を受けた。傷口は何度も感染を起こし、半月以上、苦しむことになった。ようやく松葉杖で立てるようになったころ、上層部の調査チームがやって来た。震災の緊急救援のあいだ、怜司が職権を乱用し、一部の被災者を規則に反して優遇したこと、さらに救急医療体制を私的な目的で利用したことで通報されていた。証拠はそろっていた。救護テント内の特別に用意された温かい食事やお湯、医師の手配、美咲一家の優先的な受け入れ。そのすべてが、怜司が隊長という立場を利用して無理に実現したものだった。調査結果が出た日、怜司は病室のベッドに座り、スマホに届いた通知を見ていた。処分通知には、懲戒処分として、降格と現場職務の解除が記されていた。彼はその文字を長いあいだ見つめ、それからゆっくり画面を消し、スマホを枕元の台に置いた。そこには、美咲が人づてに届けてきたものも置かれていた。封筒が一つ。中には50,000円と、1枚のメモが入っていた。【怜司、ごめんなさい。両親も高齢で、これ以上無理はさせられません。どうか、しっかり療養してください。またご縁があれば、いつか】50,000円。片脚。10年分の歳月。怜司はその手紙と金を、まとめてゴミ箱へ投げ捨てた。……3か月後、市内の復旧作業はほぼ終わり、役所も通常業務を再開した。怜司は松葉杖をついて、役所の入口に立っていた。色あせた古いジャケットを着て、髪は短く刈られている。体はひと回り細くなり、頬骨が浮き、目の下は深く落ちくぼんでいた。午前10時ちょうど、私は役所へ着いた。怜司の前まで歩き、一度だけ彼を見た。視線は空っぽの右脚のズボンをかすめたが、そこで止まることはなかった。「行きましょう」怜司は口を開いた。声が詰まっている。「夕奈……」「葉山と呼んで」彼は言葉を詰まらせた。少し黙ったあと、松葉杖をついて私の後ろに続き、足を引きずりながら役所の中へ入った。私があらかじめ必要事項を記入して持ってきた離婚届に、怜司は自分の名前を書いた。必要な確認が終わると、手続きは拍子抜けするほど淡々と進んだ。まるで夢の中の出来事のようだった。「受理されました」職員の一言を聞くと、怜司は受理された書類を、指の関節が白くなるほど
その痛みは、断ち切られた神経を、傷口の奥からえぐられるような痛みだった。痛み止めの効果が切れると、全身に冷や汗が噴き出す。怜司は指の関節が白くなるほど、シーツを握りしめた。頭の中では、あの瞬間ばかりが何度もよみがえっていた。怜司は美咲を助けようと手を伸ばした。けれど美咲は、反射的に怜司を突き飛ばした。結果だけを見れば、怜司は美咲の代わりに片脚を失った。それなのに美咲は、家族を連れてあっさり去っていった。ごめんなさいの一言さえ残さずに。深夜、テントの中が静まり返ったころ、怜司はひとりベッドに横たわっていた。失った脚の傷がまた痛み出し、寝返りを打つことさえできない。枕は汗でぐっしょり濡れ、頬に張りついていた。怜司は枕元の台に置いたスマホへ手を伸ばした。画面が明るくなる。そこには、夕奈へ送ったメッセージがまだ残っていた。【どこにいる?】【夕奈、意地を張るな。明日には蘭を診てくれる医者を手配する】【返事しないつもりか?いい加減にしろ】一つずつ読み返していると、まるで別の人間を見ているようだった。あのときの自分は、どれほど当然のように振る舞っていたのだろう。夕奈はただ駄々をこねているだけだと思っていた。聞き分けがないのだと思っていた。自分に面倒をかけているのだと思っていた。けれど今はどうだ。自分の右脚は失われ、美咲は去った。枕元には水を差し出してくれる人さえいない。怜司はトーク画面を見つめた。親指は画面の上で長いあいだ止まっていた。やがて、短い文章を打ち込んで送信した。【夕奈、俺が悪かった。会えないか】【蘭は大丈夫か?あの子のことが心配なんだ】【お父さんにも、連絡がつかない。お父さんに伝えてくれ。あの夜はわざとじゃなかった。本当に余裕がなかったんだ。だから、もう怒らないでくれ】【俺の脚はなくなった。毎日、あの夜のことばかり考えている。どうしてあのとき振り返らなかったのか。あと一度だけ見ていればよかった。夕奈、もう一度だけ、やり直す機会をくれないか】【美咲の家族は出ていった。美咲もいなくなった。片脚を失った俺の面倒なんて見られないと言われた。俺にはもう、何もない】送信したあと、彼は画面を見つめて待った。10分、20分。スマホの画面が暗くなっては、また明るくなる。ようやく、
怜司の声はかすれていた。何日もろくに眠っていない疲れがにじんでいる。「美咲。夕奈は自分で出ていった。俺には止められなかった。君にしてやれることは全部しただろ。温かい食事も、お湯も、医療スタッフに何度も様子を見に来てもらったことも、どれも俺が自分のつてで何とかしてきたんだ。今は上層部から説明を求められている。これ以上、俺にどうしろっていうんだ」美咲の目から、たちまち涙がこぼれた。「私に怒鳴るの?前はそんなふうに怒鳴らなかったのに。夕奈さんのせいで、私に怒るの?」怜司は疲れ切ったように目を閉じ、深く息を吸った。ふと、ずっと若いころの美咲を思い出した。大学時代の美咲は、ポニーテールを揺らし、笑うと目が細くなった。怜司の後ろについてきて、甘い声で先輩と呼んでいた。けれど今、目の前で取り乱す美咲の姿には、嫌悪と違和感しか覚えなかった。その瞬間、怜司の脳裏に夕奈が浮かんだ。夕奈はずっと黙って、自分のそばにいた。怜司は美咲たちがいるテントを出た。すると、中からは、叫び声と泣き声が入り混じって聞こえてきた。その夜、余震が来た。最初の地震に匹敵するほど激しかった。地の底から鈍い唸りが響き、避難所のテントが大きく揺れた。仮設照明が何度か火花を散らし、やがて完全に消えた。怜司は折りたたみベッドの上で飛び起きた。耳に飛び込んできたのは、悲鳴と泣き声ばかりだった。反射的に救助服の上着をつかんで羽織った。まだブーツに足を入れきらないうちに、テントの入口が勢いよく開いた。髪を振り乱した美咲が飛び込んできた。化粧は涙ですっかり崩れ、パジャマの上にダウンを引っかけていた。声は震えていた。「怜司!怜司、早く!おじいちゃんがまだ高齢者用のテントに取り残されてるの!」地面がまた揺れ始めた。頭上の骨組みが、ぎしぎしと嫌な音を立てる。怜司は美咲の腕をつかみ、本部テントの外へ走り出した。外はすでに大混乱だった。山の斜面から砕けた石が転がり落ち、テントの布を叩いて鈍い音を立てている。怜司は走りながらトランシーバーで指揮本部と連絡を取りながら、美咲を安全な場所へ押しやった。「おじいさんを連れて、先にグラウンドの真ん中へ行け。俺は物資保管テントを見てくる」言い終える前に、背後で大きな音がした。美咲の後ろに並んでいた避難テントの一つが、斜面
私は拳を握りしめ、すぐに力を抜いた。そばで父が低い声で言った。「夕奈……本当に離婚するのか」「うん」私は父の腕を支えた。「私1人でお父さんを支えられない。大変かも知れないけど、一緒に来て」疲れ切った父の瞳が一瞬揺れ、やがて静かな覚悟に変わった。父は重々しくうなずいた。「行こう」町の診療所の裏口から出ると、ミニバンが止まっていた。運転手は、昨夜私たちを乗せてくれた男性だった。私に気づくと、白い歯を見せて笑った。「これはどうも、妹さん、大丈夫だった?」「はい、大丈夫です。これからどちらへ向かうんですか?」「北のほうに行く。仮設の迂回路が通ったばかりでな、市内のほうへ物資を運ぶところだ」彼は後部をぽんと叩いた。「乗っていくか?」私は父を振り返った。父は診療所を出る前から蘭を抱き、薄い毛布で包んでいる。蘭の顔色はまだ白かったが、呼吸は落ち着いていた。まぶたがかすかに震えている。「お願いします」ミニバンの後部座席は、運ぶ予定のミネラルウォーターや毛布でいっぱいだった。私は父を支え、父は蘭を抱き、3人で荷物の隙間に身を寄せ合った。車は悪路を進むたびに大きく揺れた。それでも、こんなに安心したことはなかった。私はスマホを取り出し、地図を開いた。それから、地元で活動する災害支援団体の連絡先を探し、メッセージを送った。1時間後、私たちは迎えに来た災害支援団体の車両と合流した。団体のリーダーは、真田という短髪の女性だった。彼女は私たちの事情を聞くと、迷うことなく自分たちの四輪駆動車へ乗せてくれた。「北へ15キロほど行ったところに、臨時のヘリポートがあります。今日の午後、被災者を搬送するヘリが来る予定です」真田は運転しながら言った。「間に合いましたね」私と父は涙ぐみ、顔を見合わせて笑った。午後3時、私たちは臨時ヘリポートに着いた。そこには大型の救助ヘリが止まっていた。搭乗を待つ人は多くなかった。ほとんどが高齢者と子どもで、消防隊員が1人ずつ名前と体調を確認していた。私は来た道を振り返った。山道は曲がりくねり、土ぼこりが舞っていた。私は前を向き直り、蘭を抱いている父を支えながら、隊員の指示に従ってヘリの機内へ乗り込んだ。やがてローターの回転が速くなり、轟音がすべてをかき