登入紬の問いかけに、正俊の表情がわずかに強張った。「……まあ、簡単に言えば、がんの治療に使う薬です」そう答えてから、彼は取り繕うように笑い、湯呑みに口をつけた。「そうなんですね。それがどうかしたんです?」紬が本当に何も知らない様子を見て、正俊は内心ほっとした。それどころか、胸の奥にはかすかな喜びさえ湧いてくる。「いや、たいしたことではないんですが……」正俊はわざとらしくため息をつき、困り果てたような顔を作った。「工場のほうに、なかなか承認が下りない特効薬がありましてね。ご存じのとおり、製薬会社の扱う薬は審査も厳しい。まして今は、偽造医薬品の摘発が厳しくなっている時期ですから」そこで一度言葉を切り、声を落とす。「今回の薬は先発医薬品ではない、いわゆる後発品なんですが……正規のルートに乗せるのが難しくて、なかなか承認を通せないんです」「先発品じゃない特効薬……それって、偽物なんですか?」「いえ、それは絶対に違います!」正俊は慌てて手を振った。「今回の薬は偽造医薬品ではありません。いわばジェネリックのようなものです。先発医薬品とは価格が違いますが、効果そのものは同等なんですよ。ただ、うちの会社が正式に扱っている先発品とは違って、通常の販売ルートに乗せるのが難しい。かといって、このまま倉庫で眠らせておけば、私のところで不良在庫になってしまいます」正俊はそこで一呼吸置き、紬の反応をうかがった。「ですが、もし松本さんにこの薬をさばく手助けをしていただけるなら……会社から支給される利益の、2倍はお渡しできます」そう言って、正俊は2本の指を立てた。「純利益で2倍です。つまり、うちが1年かけて先発医薬品から得る利益に匹敵する額ですよ」紬は湯呑みをテーブルに置き、思わず目を丸くした。「そんなに?」その反応を見て、正俊は口元に意味ありげな笑みを浮かべた。「ええ。この話は難しいようでいて、実はそれほど難しくありません」声を少し落とし、身を乗り出す。「松本さんには、『臨床試用』や『緊急調達』といった名目でヤクモヘルスグループ内部の手続きを通してもらえれば、あとの処理はこちらでやります。誰もそこまで細かく調べたりはしませんよ。何しろ――」正俊はさらに声を潜めた。「今、薬局のほうも、この特効薬を待っているんですから」
近くにはまだほかの同僚たちがいる。帰るに帰れず、紬は覚悟を決めて彼のもとへ歩み寄ると、何でもないふうを装って口を開いた。「まさか白石さんが来るとは思わなかったよ。それで、その医薬総合研究所ってのは、あなたの会社なの?前に勤めていた研究所は?」「医薬総合研究所は、あの研究所からできた会社なんです」「……」紬は気まずそうに笑った。「そうだったんだ……」「今の髪型、よく似合っています」不意にそんなことを言われ、紬はぽかんとした。その言葉にどんな意味があるのか、まるで分からない。そのとき、倫也がスマホを取り出し、電話に出た。紬は我に返ると、ふと、婚約者からの電話なのかもしれないと思った。これ以上ここにいる理由もない。紬は長居せず、すぐにタクシーを拾って立ち去った。倫也が電話を終えて振り返ったときには、もう彼女の姿はどこにもなかった。――2日後。由奈はパソコンに向かい、間近に迫った手術の術式を確認していた。そこへ、突然、綾香から電話がかかってきた。しばらく近況を話したあと、綾香がふと東山夫妻のことを口にした。由奈はキーボードを打つ手を止め、数秒間、呆然とした。「2人がどうかしたんですか?」「この前、何度か病院に来てたんです。東山先生を探しに来たって……」凪紗が行方不明になって、もう1年以上になる。東山夫妻が江川市を離れてから、由奈も2人とは一度も顔を合わせていなかった。「娘が行方不明になったんだもの。親なら、そう簡単に諦められないですよね」由奈は自分の実の両親のことを思い浮かべた。立場を置き換えて考えれば、2人の気持ちも分かる気がした。「私もそう思います。でも、佳苗さんが、東山先生はもう戻ってきてるって言い張ってて……しかも、実際に東山先生を見た人がいるって」由奈は息を呑んだ。「凪紗さんを見た?誰が?」「それは私にも分からなくて……」綾香は数秒黙ってから、静かに続けた。「池上先生。もしかしたら……本当に東山先生が戻ってきたんじゃないかって思うんです」由奈は何も答えなかった。ただ、激しく上下する胸元が、その言葉に心を揺さぶられていることを何よりも雄弁に物語っていた。――それが本当なら、どれだけいいのか。……正俊の指示で、凪紗が紬を訪ねてきた。紬は、前回凪紗が何も言わずに帰
倫也と知り合いだなんて、正俊に言ったことがないはずだ。紬は戸惑いながら考える。いや、違う。凪紗にだけその話をしたことがある。――じゃ、どうして正俊がそれを知っているのか。紬が考えを整理する間もなく、倫也がほかの人間を伴ってこちらへ歩いてきた。紬はわずかに眉を寄せ、顔を上げる。倫也は顎を引き、ふっと小さく息を吐いた。彼が口を開くより先に、紬が答えた。「以前、白石さんの研究室でアルバイトをしていたんです。それで何度かお会いしたことがあって」その話を聞いて、倫也も顔を引き締めた。正俊が訝しげに尋ねる。「白石さんの研究室でアルバイトを……?」「はい。大学を卒業してから、家族にいい加減社会に出て仕事の経験を積んでこいと言われまして。それで白石さんの研究室で働かせてもらっていたんです」紬はそこまで淀みなく説明すると、倫也へ視線を向けた。「そうですよね、白石さん?」倫也はわずかに目を伏せ、「はい」と短く答え、それ以上何も言わなかった。それを聞いて、正俊もようやく疑念を引っ込めたようだった。一方、人の輪の中にいた麗子は、さっきから気が気ではなかった。紬を助けるために割って入ろうとまでしていたが、本人がうまく切り抜けたのを見て、ようやく胸を撫で下ろす。そのまま人混みから離れると、スマホを取り出して電話をかけた。やがて全員が揃い、会食が始まった。席は役職に応じて決められており、ヤクモ側の幹部と倫也のチームは当然、上座に近い位置を占めている。紬の席は倫也から数人分離れたところだった。幸い、向かい合わせではない。会食が始まってからも、紬は凪紗の姿を一度も見かけなかった。どこへ行ったのかも分からない。その間、何人もの人間が紬のところへ挨拶しにきた。紬はその度に立ち上がっては、笑顔で応じた。誰も声をかけてこないときは、ひたすら料理を口に運んでいた。そして、倫也のほうには一度も視線を向けなかった。「白石さん、以前は医薬総合研究所から代理の方が来られていたと記憶しています。まさか今回は、白石さん自らお越しになるとは思いませんでした」ヤクモヘルスグループの執行役員・山本和典(やまもと かずのり)は、倫也とグラスを合わせながら、探るように尋ねた。倫也はグラスを手に持ち、一口だけ酒を含む。「滝沢グループと
どうして倫也が……?紬はしばらく呆然と倫也を見つめていた。やがて、彼がこちらを振り向きそうになった瞬間、紬は慌てて背を向けた。握りしめた指が、スカートの裾を強く掴む。もう、決めたはずだった。あの人への未練も、叶わなかった想いも、全部きれいに断ち切って前へ進むと。それなのに――こうして再び本人を目の前にすると、平静ではいられなかった。紬は胸の奥から込み上げてくる感情を、必死に押し込める。そのせいで、隣にいた凪紗の様子がおかしいことにはまったく気づかなかった。凪紗は倫也の背中を食い入るように見つめていた。その瞬間、頭の中にいくつもの断片的な光景がよみがえった。何の記憶なのかも分からない。けれど、次々と浮かんでは消えていく映像に、頭の奥が締めつけられるように痛む。「……っ」凪紗は反射的に額を押さえた。目の前がぐらりと揺れる。このままここにいたら、頭がおかしくなりそうだ。ふらつく足を引きずるようにして、凪紗はその場から逃げるように立ち去った。「東山さん、やっぱり私たちは――」紬が振り向く。けれど、さっきまで隣にいたはずの凪紗は、もうどこにもいなかった。そのとき、人の輪の向こうから、倫也の視線がまっすぐ紬へ向けられる。2人の視線がぶつかった。ほんの数秒だけなのに、紬の心臓は今にもおかしくなりそうなほど激しく鼓動を打った。慌てて視線を落とすと、倫也を避けるように人の間をすり抜け、足早にその場を離れようとした。ところが、数歩進んだところで、にこやかな笑みを浮かべた正俊に行く手を塞がれる。「松本さんはお一人なんですか?東山と一緒だったのかと」「東山さんは……たぶん、急用ができたんだと思います。私も少し気分が悪くて……先に帰ろうかと」紬はどうにか笑顔を作り、横をすり抜けようとする。だが、正俊はそれを許さなかった。「松本さんは、我々製薬会社の代表として来ているんですよ。ここで帰るのは、少しまずいんじゃありませんか?」声を荒らげたわけではない。それでも、その言葉は周囲にいた人間の耳には十分届いた。一瞬にして、そこにいた者たちの視線が紬へと集まる。「彼女が、最近製薬会社に送り込まれたあの子なの?」「そうだ。噂の金持ちのお嬢さんだろ。みんな『歩く福袋』って呼んでるらしいぞ」紬が製薬会社
凪紗は眉をひそめる。「松本さんを連れていくんですか?」正俊は鼻を鳴らす。「そうだ。彼女、白石家の人間と知り合いなんだろ?それが本当かどうか、確かめるんだ」数日後。ヤクモヘルスグループと江川市の医薬総合研究所との会食は、セントラルタワーのレストランで開かれることになった。20人ほど入れる個室では、何人もの店員が手際よく食器やグラスを並べている。医薬総合研究所の一行はまだ揃っていないため、先に到着した者たちも席には着かず、個室の外にあるソファスペースで談笑しながら待っていた。もちろん、そこで顔を並べているのは、ヤクモヘルスグループでもそれなりの地位にある幹部ばかりだ。正俊でさえ、端のほうでほかの管理職たちと話をしている。紬は凪紗や他部署の代表者たちの後に続き、一人ひとりに挨拶を済ませていった。その後、2人で隅のほうへ移動すると、紬が小声で尋ねる。「ただの食事会なのに、どうしてこんなに人が集まってるの?」凪紗は肩をすくめた。「ヤクモヘルスは江川市の医薬総合研究所との提携をかなり重視してるからね」「また江川市か……」紬は小さく呟き、ソファスペースへ視線を向けた。祐一の姿は見当たらなかったが、その代わりに麗子の姿が目に入る。ちょうど麗子も紬の視線に気づき、2人の目が合った。その瞬間、正俊も彼女たちのほうへ目を向けた。麗子は何食わぬ顔で視線を逸らす。紬も特に声をかけることはせず、ただ周囲を物珍しそうに見回していた。その顔には、隠しようのない好奇心が浮かんでいる。凪紗はそんな紬の様子をしばらく横から観察していた。けれど、やはり不審なところは見当たらない。正俊もそれを確認すると、彼女たちにこれ以上注意を向けるのをやめた。「滝沢社長はいらっしゃらないんですか?」ヤクモヘルスグループの幹部の一人が、麗子に尋ねた。麗子は祐一の側近として動いている。祐一が出席できない場では、決まって彼女が代理を務めていた。麗子は笑顔で頷く。「ええ。社長は、どうしても手が離せない仕事がありまして」それを聞いた正俊は、意味ありげに麗子を見つめる。そして、探るような笑みを浮かべた。「滝沢社長は、本当にお忙しい方ですね。先日もヤクモヘルスの事業を海外まで広げられたばかりでしょう。今は海外事業にかかりきり、といったところですか?
紬は呆然とした。自分が不用意なことを聞いてしまったと気づき、慌てて謝る。「ごめんなさい。まさか、そんなことが……」「気にしないで」凪紗は笑って流したものの、視線は手つかずの料理へ落ちた。「でも、私も松本さんのこと、ちょっと気になってたの。会社ではみんな陰でいろいろ言ってるけど……私が実際に接してみた感じだと、聞いていた話とは少し違う気がして」紬はさほど気にした様子もなく、あっけらかんと答えた。「そりゃそうだよ。人に何を言われたって、私は気にしないもん。こういうの、今に始まったことじゃないし。前に江川市でバイトしてたときも、散々言われたから」――江川市。その地名を聞いた瞬間、凪紗の目が止まった。次の瞬間、勢いよく顔を上げ、紬を見つめる。けれど紬はそんな異変に気づかず、何気なく話を続けていた。「でも、江川市は私にとって、もう戻りたくない場所なんだ。まあ、これから先は二度と行かないと思うけど」「……そう、なんだ」凪紗はわずかに震える手を握りしめ、掠れた声で尋ねた。「どうして、もう行きたくないの?」「実はね、前に江川市にいたのって、好きな人を追いかけてたからなの。でも、その人には全然相手にされなくて」途端に食欲が失せたのか、紬は箸を置き、両手で頬杖をついた。「しかもその人、もうすぐ婚約するんだって」凪紗のまつげがかすかに震える。それでも平静を装い、さらに尋ねた。「そうか。その人って、何をしてる人なの?」「医療研究。白石倫也って名前、聞いたことない?ほら、白石家の――」その瞬間、凪紗の手から箸が落ちた。カラン、と乾いた音が響き、紬の言葉を遮る。異様な反応に、紬は怪訝そうに凪紗を見た。「どうしたの?もしかして、白石さんのことを知ってるの?」凪紗は勢いよく立ち上がった。「ごめんなさい。急に用事を思い出したの。続きはまた今度話そう」紬が返事をする間もなく、凪紗はテーブルの上を手早く片づけ、そのまま足早に立ち去っていった。残された紬は、遠ざかっていく凪紗の背中を呆然と見つめ、首を傾げた。――倫也の名前を出した途端、どうしてあんな反応をするんだろう?……翌日の午後、田辺正俊(たなべ まさとし)は凪紗を自分の執務室へ呼び出した。どうやら、紬についての調査状況を確認するつもりらしい。凪紗は落ち着かない様子で、唇を何