「池上先生、江川病院への異動……本当に決めたのか?」斉藤勉(さいとう つとむ)院長は、池上由奈(いけがみ ゆな)の異動願を手にして目を丸くした。由奈はわずかにまつげを震わせ、苦みを含んだ笑みを浮かべる。「はい、もう決めました」その瞳に揺るがぬ決意を見て、勉は深いため息をつき、静かに署名した。院長室を出て廊下を歩いたとき、由奈は白衣を着た長門歩実(ながと あゆみ)と、その隣にいる滝沢祐一(たきざわ ゆういち)、そして小さな男の子に出くわした。一瞬、足が止まる。まるで幸せな家族のような光景が、目に飛び込んできたのだ。二人の間を歩く男の子が、左右の手をそれぞれ歩実と祐一にぎゅっと握られ、無邪気な笑顔を浮かべている。由奈の胸に鋭い痛みが走った。祐一が歩実と子どもに向ける柔らかな眼差し、穏やかで優しい仕草――それは、由奈が一度も与えられたことのないものだった。彼は自分を憎んでいるのだと、由奈はよく知っている。祐一の初恋の相手は歩実だった。だが、由奈が祐一の祖母・和恵(かずえ)と取引をして彼と結婚したとき、すでに二人は別れていた。とはいえ、その事実を知ったのは結婚後のことだった。結局祐一にとって由奈は、隙を突き、卑怯な手で妻の座を奪った女でしかないのだ。けれど――彼は知らない。本当は、由奈の方が先に祐一と出会っていたのだ。だが彼は、その記憶をとっくに忘れていた。結婚すれば思い出してくれる。冷え切った心も、寄り添えば少しずつ温まっていく。由奈はそう信じていた。けれど、それは思い上がりにすぎなかった。祐一は彼女を憎んでいる。愛してくれることなど、決してないのだ。その証拠に、六年間の結婚生活のあいだ、彼は周囲に「独身だ」と言い続け、妻である由奈をまるで存在しない人間のように扱った。「池上先生?」歩実が気づいて声をかける。祐一は眉を寄せ、じっと由奈を見つめる。その視線には、まるで「余計なことを口にするな」と言いたげな緊張があった。その距離感が、刹那に由奈の胸を締めつける。けれど彼女はすぐに表情を整え、頭を下げた。「長門先生、滝沢社長、お疲れ様です」祐一は最近、中央病院の出資者となり、病院経営に名を連ねている。もちろん、それは由奈のためではなく、歩実のためだった。歩実が帰国してすぐ、祐一が彼女
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