تسجيل الدخول風の神殿を束ねる『風の柱』シルフィ、三十三歳。 誰からも慕われる慈愛の女神――そんな彼女には、一つだけ頭の痛い問題があった。 護衛騎士ユーロス(20)が、会うたびに「結婚してください」と求婚してくることだ。 年の差十三歳。 上司と部下。 恋愛とは無縁に生きてきたシルフィにとって、真っ直ぐすぎる年下騎士の想いは、ひたすら困るだけ……のはずだった。 けれど、ある出来事をきっかけに、二人の関係は少しずつ変わり始める。 これは、恋を諦めていた気高き女神と、一途な年下騎士が織りなす、不器用でじれったい恋の物語。 「シルフィ様。俺と結婚してください」 「……お断りします」 ――今日も風の神殿は、少しだけ騒がしい。
عرض المزيد精霊たちと人々が共存する世界、ダイタニア。
その高き峰にそびえ立つ『風の神殿』は、心地よい微風と木漏れ日に包まれる神聖な場所だった。 今から十一年前―― 『風の柱』という世界の重責を担ってまだ間もない、二十二歳のシルフィは、神殿の庭園で静かな祈りの時間を過ごしていた。 薄緑色の長い髪と、少し垂れた目尻。 透き通るような碧い瞳に見つめられるだけで、不思議と胸の力が抜けていく。 風の柱シルフィは、『慈愛の女神』と呼ばれるに相応しい女性だった。 「……おや? こんなところに、迷い子ですか」 ふと、庭園の植え込みの陰でうずくまる小さな気配に気づき、シルフィは歩み寄った。 そこにいたのは、まだ九つか十ほどの、泥だらけの少年だった。どこで転んだのか、膝や肘を擦りむき、服も汚してしまっている。 神殿の厳かな空気に怯え、痛みを堪えるようにぎゅっと唇を噛み締めていた。 「痛かったでしょう。見せてごらんなさい」 シルフィは嫌な顔一つせず、純白の法衣が土で汚れることも厭わずに、少年の目の前でふわりと膝をついた。 そして、泥だらけの小さな手を自身の白く滑らかな両手で優しく包み込むと、そっと意識を集中させる。 『――清らかなる風よ、この子の痛みを癒やしておくれ』 シルフィが優しく囁くと、目に見えない無数の風の精霊たちが嬉々として集まり、少年の傷口を柔らかく包み込んだ。 淡い緑色の光が瞬き、擦りむいていた傷が嘘のようにすーっと消えていく。 「ほら、もう大丈夫ですよ」 シルフィは少年の頭を優しく撫で、春の花が綻ぶような、どこまでも優しく慈愛に満ちた微笑みを浮かべた。 その瞬間―― 少年の目に映る世界は、完全に色を変えていた。 痛みも、神殿への恐怖も、すべてが吹き飛んでいた。 目の前で微笑む、人間離れした美しさを持つ薄緑色の髪の女性。 自分のような泥だらけの子供にも分け隔てなく触れ、傷を癒やしてくれたその温かい手のひら。 少年はただ圧倒され、言葉を忘れたまま彼女を仰ぎ見ていた。 陽射しを受けた瞳だけが、朝露のようにきらきらと輝いていた。 ――それは、強烈な崇拝の芽生え。 そして、幼い心に落ちた、決して消えることのない『初恋』の雷だった。 「お家の方も心配しているでしょう。気をつけて帰るのですよ」 シルフィにとっては、神殿の日常における“数多く救った子どもたちの一人”との、ほんのささやかな出来事に過ぎない。 彼女は再び優しく微笑むと、ふわりと立ち上がり、風と共に神殿の奥へと戻っていった。 少年は、その気高く美しい背中が見えなくなるまで、ずっと、ずっとその場から動くことができなかった。 胸の奥で、小さな、けれど決して消えることのない熱い火種が燃え始めたのを感じながら。 「……シルフィ様」 幼い声で紡がれたその名前は、祈りのように風へ溶けていった。 それが、十一年続く恋の始まりだった。神殿の修練場は、いつになく穏やかな空気に包まれていた。 木剣が打ち合う乾いた音と、騎士たちの威勢の良い声。 それは普段と変わらない日常の風景だが、決定的に違うことが一つだけあった。 「……今日は、平和だな」 修練場の隅で腕を組む騎士団長が、深い安堵の息を吐き出した。 「ええ。午前の修練が半分終わりましたが、木剣の消費はゼロです。経費係が泣いて喜んでおりました」 隣に立つ副団長も、まるで嵐が過ぎ去った後のような穏やかな顔で頷いている。 二人の視線の先には、若き新任騎士ユーロスの姿があった。 彼は三人の先輩騎士を相手に、流麗な剣捌きで立ち回っている。 恵まれた体躯から繰り出される剣撃は重く鋭いが、そこには一切の力みがない。相手の隙を的確に突き、次々と木剣を弾き飛ばしていく。 「参った! 相変わらず強えな、ユーロス」 「いえ、ケイロン先輩の今の踏み込み、非常に鋭かったです」 地に倒れたケイロンに爽やかな笑顔で手を差し伸べるその姿は、どこからどう見ても『非の打ち所がない完璧な騎士』そのものだった。 「ユーロス、今日は妙に落ち着いてるわね」 短く結った髪を解き、汗を拭いながら、先輩騎士のサティが声をかけた。 「いつもなら、渡り廊下の方をチラチラ見ては、勝手に木剣を握り潰してるのに」 そのからかい半分の言葉に、ユーロスは剣を納め、涼やかな顔で答えた。 「当然です。本日はシルフィ様は東の街へ巡礼に出向かれておりますから。お姿が見えないことは、朝から承知しております」 「ああ、そうだったわね」 「はい。シルフィ様がこの神殿にいらっしゃらない以上、私の心は凪いだ水面と同じです」 「へえ」 「今朝もお見送りした後、三十七回ほど深呼吸を行い、動揺は完全に鎮めました」 「全然凪いでなくない?」 シルフィが視界に入ると途端に頭のネジが吹き飛んで狂気的な握力を発揮する彼だが、彼女が不在であれば、ただの『最強の若き騎士』に過ぎない。 「なるほどな。お前、シルフィ様がいないと普通に超優秀な奴なんだな……」 先輩騎士たちは、どこか遠い目をしながら納得した。 平和だ。 誰もがそう思った。 修練場には爽やかな風が吹き抜け、木剣がへし折れる不穏な破裂音に怯える必要もない。 シルフィ不在の神殿は、ユーロス本来のポテ
心地よい風が吹き抜ける神殿の中庭。 シルフィは、職務の合間の休息として、花壇の手入れをしていた。 彼女は植物の世話が好きだった。 種を撒き、苗を育て、花を咲かせることは、人々を導き、見守る柱としての務めとよく似ていた―― 手塩にかけて育てた花々は、美しく咲くたびに人の心を満たしてくれる。 神殿の結界は強固であり、ここはダイタニアでも最も安全な場所の一つであるはずだった。 しかし、その平穏は突如として破られた。 『ギャアアアアッ!』 耳を劈くような怪鳥の叫び声。結界の僅かな綻びから、一体の魔獣が侵入してきたのだ。 巨大な翼と鋼のように鋭い鉤爪を持つ、下級の竜種。 それは中庭で立ちすくむ若い神官たちへ向けて、一直線に急降下してきた。 「いけません……!」 シルフィはスコップを持ったまま瞬時に立ち上がり、風の精霊に呼びかけて魔力を練り上げようとした。 だが、彼女が魔法を放つよりも、その《純白の閃光》が走る方が圧倒的に早かった。 『ザンッ!!』 大気が裂けた。 それが剣閃だったと理解した時には、怪鳥の巨体はすでに上下へと滑るようにずれ落ちていた。 次の瞬間、血飛沫すら許されなかった竜種の亡骸が、轟音と共に石畳へと崩れ落ちる。 「……遅い」 吹き荒れる血しぶきと砂埃の中心に、一人の騎士が静かに着地した。 ユーロスだった。 引き抜かれた長剣は魔獣の血に濡れることなく、白銀の輝きを保っている。 彼が剣を振り抜いたままの姿勢で見せた横顔は、一切の感情を排した、冬空から垂れ下がる氷柱のような『最強の騎士』のそれだった。 (……なんて、見事な剣筋でしょう) 風に揺れる彼の白銀のマントと、研ぎ澄まされた精悍な横顔。 それを見た瞬間、シルフィは純粋な感嘆の息を漏らした。 いつも自分にまとわりついてくる厄介な部下。その認識が、今この瞬間だけは完全に吹き飛んでいた。 圧倒的な強さと、守り抜くための確かな力。 これほどまでに洗練された武を振るう若者が自分の護衛についていることに、深い安心感を覚えたのだ。 魔獣を仕留めたユーロスが、剣を鞘に納め、こちらを振り返る。 シルフィは身構えた。いつものようにふやけた顔で、おかしなことを叫びながら駆け寄ってくるのだろう、と。 しかし、予想に反
神殿の裏手にある騎士団の修練場には、朝から木剣の打ち合う乾いた音が響いていた。 「……見事な太刀筋だ」 騎士団長の唸り声の先で、ユーロスが三人の先輩騎士を相手に剣を振るっている。 「……踏み込み、魔力の練り上げ、そしてあの冷静な判断力。非の打ち所がない」 樽のような筋肉と圧倒的な長身から繰り出される剣撃は重く鋭いが、決して力任せではない。相手の呼吸を読み、最小限の動きで的確に木剣を弾き飛ばしていく。 倒れた先輩に爽やかな笑顔で手を差し伸べるその姿には、誰もが憧れる若き英雄の風格が漂っていた。 「ええ。人望もあり、性格も誠実。間違いなく騎士団随一の逸材です」 「ああ、完璧な男だ。だがな――」 隣に立つ副団長の同意に、団長は眉間を深く揉みほぐし、重いため息を吐き出した。 「奴は完璧だ。……シルフィ様さえ絡まなければな」 「絡むと?」 「全部吹き飛ぶ」 「……おっしゃる通りです」 副団長もまた、遠い目をして深く頷いた。 彼らの視線の先で、ユーロスの動きが不自然にピタリと止まった。 修練場のずっと向こう、中庭をぐるりと囲む渡り廊下を、朝の祈りを終えたシルフィが一人で歩いていくのが見えたのだ。 距離にして五十メートル以上は離れている。普通なら気に留めることもない距離だ。 しかし、ユーロスの顔は、彼女の姿を視界に捉えた瞬間、まるで別人のように甘く蕩けたものへと変貌した。 「ああ……我が女神。今日の足取りも、春のそよ風のように愛らしく、麗しい……」 彼はうっとりと恍惚な吐息を漏らし、完全に周囲の状況を忘却した。 そして、シルフィの姿を網膜に焼き付けようとするあまり、彼自身の無意識下でとんでもない力が両腕に込められていく。 『ミシッ……メキメキッ……』 ユーロスの大きな手に握り込まれていた訓練用の分厚い木剣が、不穏な悲鳴を上げ始めた。 「……ねえ、ユーロス。あなた、また手に力が入って――」 「今すぐお側へ……いや、汗まみれで近づくなど不敬……! 滝だ。まず滝へ行かねば!」 『ミシッ……』 「あ」 『メキ……メキメキッ……』 「ユーロスっ!?」 「シルフィ様……!」 『バキィィィィンッ!!』 先輩騎士のサティが止める間もなく、彼が握りしめていた頑丈な樫の木剣が、重すぎる情念の握力に耐えきれず、
風の神殿の午後は、穏やかな木漏れ日と共にゆっくりと過ぎていく。 シルフィは、午後の祈りを終え、回廊を静かに歩いていた。 ふと、中庭に続く広場の方から、小さな悲鳴と鈍い音が聞こえてきた。 「あっ……!」 視線を向けると、まだ十歳にも満たない幼い神官見習いの少年が、自分の背丈ほどもある重そうな文献の山を抱えきれずに落としてしまったところだった。 古い羊皮紙や重厚な装丁の本が、石畳の上に無残に散らばっている。 (いけませんね。あんな重いものを一人で運ばせるなんて――) シルフィが助けに入ろうと足を踏み出した、その時だった。 「怪我はないかい?」 ひらりと純白のマントを翻し、一人の青年が少年のそばにふわりと片膝をついた。 ユーロスだった。 彼は素早く、それでいて本を傷つけない丁寧な手つきで散らばった文献を拾い集めると、軽々と自らの片腕に抱え込んだ。 「あ、ありがとうございます、騎士様……っ」 「いいよ。こんなに重いものを一人で運ぼうとするなんて、君は立派だな」 ユーロスは少年の頭を大きな手で優しく撫で、太陽のように爽やかな、労いの微笑みを向けた。 その大柄で逞しい騎士の優しさに、少年の瞳は憧憬でキラキラと輝き始める。 「書庫まで運べばいいのかな? 一緒に行こう」 そう言って少年の歩幅に合わせてゆっくりと歩き出すユーロスの背中を、シルフィは回廊の陰から静かに見つめていた。 (……意外と、面倒見が良いのですね) 毎朝の求婚騒ぎさえなければ、きっと誰もが理想の騎士だと口を揃えるのだろう。 その数日後、シルフィは日課の散策中、神殿の修練場を通りかかった。 そこでは騎士たちが木剣を交え、汗を流している。 一際目を引いたのは、やはりユーロスだった。 彼は屈強な先輩騎士三人を相手に、息一つ乱すことなく優雅な剣捌きで次々と打ち倒していた。 「参った! 相変わらず、恐ろしい剣筋だな、ユーロス」 「いえ、ケイロン先輩の先ほどの踏み込み、非常に鋭かったです。ただ、右肩が少し下がる癖があるので、そこを狙わせてもらいました」 地に倒れた先輩騎士に爽やかな笑顔で手を差し伸べ、的確な助言をおくる。 その謙虚で誠実な態度は嫌味を感じさせず、周囲の騎士たちも彼を囲んで和やかに笑い合っている。 (剣術も神殿随一。礼