Masuk妊娠を報告しようと夫へ電話をかけた美月。しかし電話口から聞こえてきたのは、自宅で愛人と笑い合う夫の声だった。信じて支え続けた無職の夫に裏切られ、ショックで倒れた美月を助けたのは、大企業CEO・桐生蒼真。家も仕事も失った彼女へ、彼はホテルの一室と新しい職場を用意する。新たな人生を歩み始めた美月だったが、離婚を受け入れない元夫は執拗に付きまとい始め――。
Lihat lebih banyak『ねぇ~、拓也さぁん、そんなのほっといて、こっちにきて……』
電話の向こうから聞こえてきた衝撃的な言葉。 手から力が抜け、エコー写真が滑り落ちた。 『黙り込んでどうした? 用があるならさっさと言ってくれよ』 しかも、追い打ちをかけるように夫の苛立った声。 ショックのあまり、その場で倒れそうになる。 「大丈夫ですか」 そんな美月を支えたのは、静かについてきてくれていた蒼真だった。 美月の目から、涙がこぼれる。 もう限界だった。 「大丈夫じゃありません。私――離婚します」 「わかりました」 美月の宣言にうなずくと、蒼真は彼女の手から電話を取り上げた。 「もしもし。美月さんはもう帰りません。離婚すると言っています」 そして一方的にそう告げると、そのまま電話を切ってしまう。 「電話は終わりました。少し休める場所を借りましょう、顔色が良くないですよ」 蒼真は美月を病院のラウンジへ案内した。人目の少ない窓際の席へ腰を下ろすと、スタッフへ一言声をかける。
「温かい飲み物を二つお願いします」
それだけ告げると、美月の向かいへ静かに腰を下ろした。
「今は何も話さなくて構いません。落ち着いてからで大丈夫です」
責めるでも、慰めるでもない穏やかな口調。
その言葉に張り詰めていた糸が切れたように、美月の頬を涙が伝った。
どうして、こんなことになってしまったのだろう。
今日の朝までは、幸せだったはずなのに。
美月は街角の小さなカフェで働いている。
昼どきの忙しい時間帯、急に目の前が真っ白になり、その場へ倒れかけた。
異変に気付いて駆け寄ってくれたのが、常連客の蒼真だった。
『顔色が悪すぎます。病院へ行きましょう』
最初は遠慮した。
忙しい時間帯に常連客へ迷惑をかけるなんて申し訳ないと思ったし、ただの貧血だろうと考えていたからだ。
けれど蒼真は首を横へ振った。
『無理をして悪化させる方が問題です。店長には私から説明します』
その落ち着いた態度に押され、美月は病院へ来ることになった。
驚いたことに、受付のスタッフは蒼真の姿を見るなりすぐに診察を手配してくれた。
顔が広い人なんだな、と、その時はそれくらいにしか思わなかった。
そして診察室で告げられたのは、思いもしなかった言葉だった。
『おめでとうございます。妊娠していますよ』
胸がいっぱいになった。
拓也もきっと喜んでくれる。
そう信じて、診察室の外で、エコー写真を握りしめながらスマートフォンを取り出した。
――その結果が、あれだった。
「……どうして」
かすれた声が漏れる。
「子どもができたって伝えたかっただけなのに……」
その時、湯気の立つ紅茶が運ばれてきた。
蒼真はカップを美月の前へ静かに置く。
「少し飲んでください。何も口にしていないでしょう」
美月は小さくうなずき、両手でカップを包んだ。
温もりが冷え切った指先へじんわりと伝わってくる。
「ありがとうございます……」
「礼を言われることではありません」
蒼真はまっすぐ美月を見つめた。
「ですが、一つだけ確認させてください」
穏やかな声色は変わらない。
それでも仕事のできる人間らしい真剣さがにじんでいた。
「本当に、離婚するつもりですか?」
「……はい」
美月は迷わずうなずいた。
リストラされて無職の夫を、アルバイトを掛け持ちしながら支えてきた。 そして妊娠を告げようとした矢先に発覚した浮気。限界だった。「離婚します。お腹の子のためにも……、私のためにも」
蒼真は静かにうなずいた。
「承知しました」
「それでは、私がお手伝いします」
『私も一度、赤ちゃんに会わせてもらえないかしら』 拓也は母から届いたメッセージを見つめた。 これまで母が子どものことを気にしていなかったわけではない。 生まれたことを知った時から、孫なのだから会いたいとは何度も言っていた。 けれど、美月との離婚問題がこじれ、拓也自身の面会すら簡単ではなかったため、具体的な話にはなっていなかった。『急にどうしたの』 返すと、すぐに既読がついた。『急じゃないわよ。ずっと会いたいと思ってたもの』『この前、拓也は会ったんでしょう?』 拓也は少し考えてから電話をかけた。『もしもし』「母さん、赤ちゃんに会いたいって本気?」『本気よ。どうしてそんなこと聞くの?』「いや……」『私にとっても孫なのよ。一度くらい顔を見たいと思うのは普通でしょう?』「まあ、それは分かるけど」『写真しか見たことないんだもの』 拓也は黙った。 母が孫に会いたがること自体は、不自然ではない。 自分だって会いたかった。『拓也が今度会う時に、一緒に行くことはできないの?』「勝手には決められないよ」『じゃあ、美月さんに聞いてみて』「俺から直接は連絡しない」『どうして?』「今は弁護士を通してるから」『離婚はもう成立したんでしょう?』「成立したからって、急に何でも直接連絡していいわけじゃないよ」『じゃあ、その弁護士さんに聞いてもらえばいいでしょう?』「……母さんも一緒に会いたいって?」『そうよ』「分かった。聞くだけ聞いてみる」『本当?』「でも、美月が嫌だって言ったら無理だからね」『どうして?』 母の声に、素直な疑問が混じった。『私、おばあちゃんよ?』「……うん」『拓也だけなら分かるけど、どうして私まで美月さんの許可がないと孫に会えないの?』 拓也は返事に詰まった。 以前の自分なら、母と同じことを言ったかもしれない。 自分たちの家族なのだから、会えて当然だと。「赤ちゃん、まだ自分でどこかに行けるわけじゃないだろ」『それはそうだけど』「今、一緒に暮らして世話してるのは美月だから」『だからって、私が祖母じゃなくなるわけじゃないでしょう?』「それはそうだよ」『だったら、一度くらいいいじゃない』 母の中では、それで話が終わっているらしかった。 ◇ 翌日。 拓也は弁護士へ連絡した。「母
『なお、九条氏とお子さんとの関係については、交際に伴い接触する機会はあるものの、九条氏が父親として養育を担っている事実はなく、現時点で再婚の具体的な予定もないとの回答です』 拓也は、その文章を何度も読み返した。 九条は子どもに会っている。 やはり、昨日母から聞いた話は事実だった。 けれど、父親として養育しているわけではない。 再婚の予定もない。「……」 少し安心した自分に気づいて、拓也はスマートフォンを握り直した。 何に安心しているのだろう。 美月と九条が付き合っているという事実は変わらない。 ◇ 昼休みになって、拓也は弁護士へ電話した。『はい』「朝倉です。今朝の連絡、見ました」『はい』「あの、養育費は……今までどおりってことですか?」『現時点で伺っている事情だけなら、直ちに変更を求める事情が生じたとは考えにくいですね』「九条は金持ちでも?」『九条さんが美月さんと交際しているというだけで、九条さんがお子さんの扶養義務を負うわけではありません』「……そうですよね」『今後、再婚や養子縁組などで事情が変わった場合には、その時点で改めて検討することになります』「養子縁組……」 また、聞きたくない言葉が増えた。「それって、九条が俺の子の父親になるってことですか」『仮に将来そうした話になった場合は、法律上の関係を含めて整理する必要があります。ただ、今はそういう話ではありません』「はい」 拓也は返事をした。 今は違う。 分かっている。 それでも頭の中では、昨日から同じ光景が繰り返されていた。 美月。 九条。 子ども。 三人で歩いている姿。
翌日の夕方。 仕事を終えた拓也が会社を出たところで、スマートフォンが震えた。 母からだった。 一度はそのまま帰ってからかけ直そうかと思ったが、何度か続けて着信が入る。「……何だよ」 拓也は駅へ向かう途中で電話に出た。「もしもし」『拓也? 今、大丈夫?』「仕事終わったところ。何?」『ちょっと聞きたいことがあるんだけど』 母の声は、妙に落ち着かない。「何?」『美月さん、今、お付き合いしている人がいるの?』 拓也の足が止まった。「……なんで?」『やっぱり、いるの?』「俺が聞いてるんだけど。なんでそんなこと聞くの」『今日、知り合いから聞いたのよ』「何を?」『この間、美月さんを見かけたって』 拓也はスマートフォンを強く握った。「どこで」『公園の近くだって。赤ちゃんを連れていたそうよ』「それで?」『男の人と一緒だったっていうから』 一瞬、周囲の音が遠くなった気がした。「……どんな男?」『そこまでは知らないわよ。私だって直接見たわけじゃないんだから』「年は?」『だから、そんなことまで聞いてないわよ』「写真とかは?」『ないわよ。偶然見かけただけなんだから』 拓也は黙った。 九条だ。 真っ先に浮かんだ。 昨日、弁護士に確認してもらったばかりだった。 九条蒼真と美月は付き合っているのか。 九条は自分の子どもと会っているのか。 その答えが来るより先に、こんな話を聞くとは思わなかった。『拓也?』「……何」『心当たりがあるの?』
蒼真と付き合い始めてから、美月の日常は少しずつ変わった。 仕事へ行き、赤ちゃんの世話をして、母に助けてもらいながら毎日を過ごす。 そこに、蒼真と過ごす時間が加わった。 大きく何かが変わったわけではない。 それでも美月は、以前よりよく笑うようになっていた。 ◇ その日の午後、仕事を終えた美月は、カフェの更衣室でスマートフォンを確認した。 藤崎からメッセージが届いている。『お時間のある時に、一度お電話いただけますか。緊急ではありません』「……何だろう」 離婚後の手続きについては、ほとんど片づいている。 美月は着替えを済ませて店を出ると、駅へ向かう途中で藤崎へ電話した。『お疲れさまです、藤崎です』「朝倉です。メッセージ見ました」『ありがとうございます。今、お話ししても大丈夫ですか?』「はい」 藤崎の声はいつもどおり落ち着いていた。『拓也さん側の代理人から連絡がありまして』 その名前を聞いた瞬間、美月の足が止まった。「……何かあったんですか?」『大きな問題ではありません。今後のお子さんとの交流について、改めて希望を整理したいという連絡です』「ああ……」 美月は少しだけ力を抜いた。 離婚しても、拓也が赤ちゃんの父親であることまでなくなるわけではない。『それと、いくつか確認したい事項があるそうです』「確認?」『現在のお子さんの生活環境についてです。九条さんがお子さんと日常的に接触しているのか、美月さんと同居しているのか、今後再婚などの予定があるのか、といった内容ですね』 美月は眉を寄せた。「……そこまで聞いてきたんですか?」『はい。養育費や今後の面会交流との関係で確認しておきたい、という趣旨です』