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恋人の裏切り

恋人の裏切り

By:  カタツムリCompleted
Language: Japanese
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私の恋人――新川祐輔(あらがわ ゆうすけ)。彼は私を骨の髄まで愛してくれていた。誰もが「理想の夫」と称えるほど、優しく誠実で、完璧な男だった。 ――けれど、彼は私を三度裏切った。 最初の裏切りは三年前のことだった。祐輔の親友であった中地博(なかじ ひろし)が、祐輔をかばって命を落とした。祐輔は私に何も告げず、博の恋人であった菊浦美羽(きくうら みう)と婚姻届を提出した。 その事実を知ったとき、私は心が粉々に砕け、別れを決意した。祐輔は美羽を国外へ送り出すと、すぐに私の前に現れ、膝をついて泣きながら訴えた。 「桃恵……博は俺のために死んだんだ。だからせめて、彼が遺した美羽を守りたい。あの婚姻届は、美羽を安心させるためだけのものだ。博の仇討ちが終わったら、すぐに美羽と離婚する。俺が本当に愛しているのは、お前だけだ」 その時、私は彼を許した。 しかし一年後、祐輔は記者会見で突然、美羽を「新川組組長の妻」として公に紹介した。 私に対して、祐輔はまたも言い訳を重ねた。 「美羽は菊浦組の一人娘だ。新川組と菊浦組が手を組んだのは、博の仇を討つためだ。美羽ともきちんと話し合ってある。敵を片づけたらすぐに離婚して、お前と結婚するつもりだ」 私はまた、彼を信じてしまった。 だが、一年ほど前、祐輔は晩餐会で何者かに薬を盛られ、美羽と一夜を共にした。そのことを、彼はずっと私に隠していた。 そして、つい半月ほど前、私は偶然彼が美羽の妊婦健診に付き添っているのを見かけた。その瞬間、真実に気づいた。 祐輔は俯き、私の目を見ようとせず、小さな声で弁解した。 「桃恵……これは本当に、わざとじゃないんだ。でも、生まれてくる子は俺の両親に預ける。美羽もすぐに国外へ行かせる。二人とも、お前の前に二度と現れることはない」 彼はいつも「愛している」と言いながら、私に何度も犠牲を強いた。だが今、私ははっきりとわかった。もう彼との未来はない。去る時が来たのだ。

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Chapter 1

第1話

私の恋人――新川祐輔(あらがわ ゆうすけ)。彼は私を骨の髄まで愛してくれていた。誰もが「理想の夫」と称えるほど、優しく誠実で、完璧な男だった。

――けれど、彼は私を三度裏切った。

最初の裏切りは三年前のことだった。祐輔の親友であった中地博(なかじ ひろし)が、祐輔をかばって命を落とした。祐輔は私に何も告げず、博の恋人であった菊浦美羽(きくうら みう)と婚姻届を提出した。

その事実を知ったとき、私は心が粉々に砕け、別れを決意した。祐輔は美羽を国外へ送り出すと、すぐに私の前に現れ、膝をついて泣きながら訴えた。

「桃恵……博は俺のために死んだんだ。だからせめて、彼が遺した美羽を守りたい。あの婚姻届は、美羽を安心させるためだけのものだ。博の仇討ちが終わったら、すぐに美羽と離婚する。俺が本当に愛しているのは、お前だけだ」

その時、私は彼を許した。

しかし一年後、祐輔は記者会見で突然、美羽を「新川組組長の妻」として公に紹介した。

私に対して、祐輔はまたも言い訳を重ねた。

「美羽は菊浦組の一人娘だ。新川組と菊浦組が手を組んだのは、博の仇を討つためだ。美羽ともきちんと話し合ってある。敵を片づけたらすぐに離婚して、お前と結婚するつもりだ」

私はまた、彼を信じてしまった。

だが、一年ほど前、祐輔は晩餐会で何者かに薬を盛られ、美羽と一夜を共にした。そのことを、彼はずっと私に隠していた。

そして、つい半月ほど前、私は偶然彼が美羽の妊婦健診に付き添っているのを見かけた。その瞬間、真実に気づいた。

祐輔は俯き、私の目を見ようとせず、小さな声で弁解した。

「桃恵……これは本当に、わざとじゃないんだ。でも、生まれてくる子は俺の両親に預ける。美羽もすぐに国外へ行かせる。二人とも、お前の前に二度と現れることはない」

彼はいつも「愛している」と言いながら、私に何度も犠牲を強いた。だが今、私ははっきりとわかった。もう彼との未来はない。去る時が来たのだ。

……

「祐輔……」

背後から美羽の悲鳴が聞こえた。彼女はお腹を押さえ、苦しそうに顔を歪めている。

祐輔の体がびくりと硬直し、思わず私を突き放すと、すぐに美羽を抱き上げた。

不意に押されてよろめいた私は、壁に肩をぶつけた。鋭い痛みが走り、涙が滲んだ。

祐輔は美羽を宥めながら、慌てて私に言った。

「桃恵、美羽の状況は一刻を争う。俺が診療に連れて行く。お前は先に帰っててくれ。あとでちゃんと説明するから!」

彼は一度も振り返らず、「先生!誰か先生!」と叫びながら、美羽を抱えたまま診療室へ駆け込んでいった。

私は壁にもたれかかり、ただ涙を流すことしかできなかった。

命の恩人としての絆、表向きには「組長の妻」という立場、そして――彼女が身ごもっている子ども。祐輔……あなたはもう、美羽を切り離すことなどできない。

私たちに未来など、もうあるはずがない。

壁に沿って歩きながら病院を出て、車に乗り込んだ。

運転手が慎重に尋ねた。

「奥さま……新川家の別荘にお戻りになりますか?」

私はぐったりとシートに身を沈めた。

「……いいえ。まずはパスポートセンターへ行って」

――二時間後。

私はパスポートの申請手続きを済ませた。

窓口の職員が丁寧に告げた。「上里桃恵(あがり ももえ)様、パスポートの発行には約七日ほどかかります」

「……あと七日」

私は小さくつぶやいた。

「七日後には、祐輔との縁を断ち切ることができる」

新川家の別荘に戻ると、私は荷造りを始めた。家の中には、私の持ち物が溢れている。

祐輔は仕事で世界中を飛び回るたびに、必ず高価なバッグやジュエリーなどの贅沢品を買ってきてくれた。

別荘内には、彼からの贈り物だけを収納するための部屋が三つもある。

家の隅々まで、私たちの思い出で満ちている。

毎月撮っていたプリクラは、一面の壁を埋め尽くし、毎年の記念日には必ずダイヤの指輪を贈ってくれた。指輪を収納する箱は三段重ねにしても入りきらないほどだ。

限定ぬいぐるみや絶版フィギュア――どれも彼の愛情の証だった。

美羽が現れるまでは、私は本気で「この人と一生を共にする」と信じていた。

涙を拭いながら、壁に貼られた写真を一枚ずつ剥がし、ゴミ箱に落としていった。

贈り物はすべて段ボールに詰め、一か所にまとめた。

――出発前に、すべて彼に返す。

荷造りをしていると、階下が急に騒がしくなった。

私は廊下に出て、下のリビングを覗くと、使用人たちが大きな箱を次々とリビングへ運び込んでいるのが見えた。箱の中にはジュエリーがたくさん詰められている。

美羽はリビングに立ち、柔らかく首を横に振りながら祐輔に言った。

「こんなにたくさん……ただ『好き』って言っただけなのに、まさかあなたがオークション会場を丸ごと買い占めるなんて」

祐輔はうつむきながらも、彼女をじっと見つめた。

「お前が気に入ったなら、それでいい。気持ちが安らげば、出産もきっと順調に進むだろう」

そのとき、彼はふと顔を上げ、二階にいる私と目が合った。一瞬、表情が固まった。

「……悪いな、桃恵。美羽が診察のあと落ち込んでたから、気分転換にオークションへ連れて行ったんだ。もしお前も欲しいものがあれば、今度一緒に行こう」

少しの沈黙の後、私は静かに答えた。

「もう私には十分な贈り物をくれているから、美羽に買ってあげて」

祐輔が何か言いかけた瞬間、美羽は彼の手を取り、目をこすりながら言った。

「祐輔……眠くなっちゃった。たぶん、赤ちゃんが眠りたいみたい」

祐輔はすぐに彼女を支え、心配そうに声をかけた。

「ゆっくり歩け。転んだら大変だ。眠いなら、もっと早く言えよ。もし寝ぼけて倒れたら、どうするんだ」

彼はもう私の方を振り返ることもなく、美羽を抱きかかえて主寝室へと消えていった。

胸の奥がずきりと痛んだ。

――主寝室は、本来なら私と祐輔が結婚後に住む場所だった。彼はあの部屋の内装に力を入れ、真剣な表情でそう言った。

「この部屋には誰も入っちゃいけない。秘密にしておきたいからだ。結婚式の日、俺が自らお前をこの部屋に迎え入れる」

けれど今、祐輔が精一杯用意してくれた部屋を、すでに別の人のために使っているのだ。

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松坂 美枝
極道なのに組員たちは組長の周りの女を調査しないのか 他の組の連中は知ってるのに何故クズだけ知らないのか 極道らしく(?)引き際はアッサリで抗争で落ちぶれて良かった
2025-10-28 09:45:37
1
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蘇枋美郷
「仇討ちが終わったら」と言葉ほど信用出来ないものはない。そういう言い訳を1回した時点で終わりだよ。その後ズルズルいくのが手に取るように分かる。クズ女もクズ組長も相応の制裁受けてざまぁ。
2025-10-28 12:27:03
0
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第1話
私の恋人――新川祐輔(あらがわ ゆうすけ)。彼は私を骨の髄まで愛してくれていた。誰もが「理想の夫」と称えるほど、優しく誠実で、完璧な男だった。――けれど、彼は私を三度裏切った。最初の裏切りは三年前のことだった。祐輔の親友であった中地博(なかじ ひろし)が、祐輔をかばって命を落とした。祐輔は私に何も告げず、博の恋人であった菊浦美羽(きくうら みう)と婚姻届を提出した。その事実を知ったとき、私は心が粉々に砕け、別れを決意した。祐輔は美羽を国外へ送り出すと、すぐに私の前に現れ、膝をついて泣きながら訴えた。「桃恵……博は俺のために死んだんだ。だからせめて、彼が遺した美羽を守りたい。あの婚姻届は、美羽を安心させるためだけのものだ。博の仇討ちが終わったら、すぐに美羽と離婚する。俺が本当に愛しているのは、お前だけだ」その時、私は彼を許した。しかし一年後、祐輔は記者会見で突然、美羽を「新川組組長の妻」として公に紹介した。私に対して、祐輔はまたも言い訳を重ねた。「美羽は菊浦組の一人娘だ。新川組と菊浦組が手を組んだのは、博の仇を討つためだ。美羽ともきちんと話し合ってある。敵を片づけたらすぐに離婚して、お前と結婚するつもりだ」私はまた、彼を信じてしまった。だが、一年ほど前、祐輔は晩餐会で何者かに薬を盛られ、美羽と一夜を共にした。そのことを、彼はずっと私に隠していた。そして、つい半月ほど前、私は偶然彼が美羽の妊婦健診に付き添っているのを見かけた。その瞬間、真実に気づいた。祐輔は俯き、私の目を見ようとせず、小さな声で弁解した。「桃恵……これは本当に、わざとじゃないんだ。でも、生まれてくる子は俺の両親に預ける。美羽もすぐに国外へ行かせる。二人とも、お前の前に二度と現れることはない」彼はいつも「愛している」と言いながら、私に何度も犠牲を強いた。だが今、私ははっきりとわかった。もう彼との未来はない。去る時が来たのだ。……「祐輔……」背後から美羽の悲鳴が聞こえた。彼女はお腹を押さえ、苦しそうに顔を歪めている。祐輔の体がびくりと硬直し、思わず私を突き放すと、すぐに美羽を抱き上げた。不意に押されてよろめいた私は、壁に肩をぶつけた。鋭い痛みが走り、涙が滲んだ。祐輔は美羽を宥めながら、慌てて私に言った。「桃恵、美羽の状況は一
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第2話
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第3話
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第4話
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第5話
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第6話
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第7話
美羽は我慢できずに怒鳴った。もうたくさんだった。誰も彼もが彼女を死んだ博に縛りつけようとすることに。しかも、あの頃の彼女には博だけでなく、他にも男がいたというのに。祐輔は彼女の手を振り払った。そして、一言一言を噛みしめるように告げた。「お前の幸福は、俺のもとにはない。俺が最初から、そして今も愛しているのは桃恵ただ一人だ。お前と籍を入れたのも博のためだ。新川家は子どもを認めるが、組長の妻の座だけは――桃恵のものだ」彼は病室を後にし、車で急ぎ去った。その慌ただしさのために、彼は見逃してしまった――美羽の瞳に宿った冷たい光と、唇から零れた怨めしい呟きを。「ふん……あなたが桃恵を追い出したくせに、何を愛ぶってんのよ」彼女はスマホを取り出し、素早く番号を押した。「久しぶりね。さっき送金した分、届いた?……ええ、そう。常井俊行(つねい としゆき)の最近の動向を調べて。ちょっと用があるの」電話を切った瞬間、彼女の唇に笑みが浮かんだ。「祐輔、あなたに時間を費やすんじゃなかった!組長の妻になれないなら、あなたのそばにいるかよ!本当に縁起が悪い」自分の腹にそっと手を当て、その目には残酷な光が宿っている。「でもまあ、幸い――この子の父親も組長だからね」美羽の口角がかすかに上がった。一方、その頃。祐輔は街中を駆け回っているが、あらゆる場所を探しても、私の姿はどこにも見当たらない。ようやく祐輔は悟った。私は単に拗ねているのではなく、本気で彼の世界から消えるつもりなのだ。「桃恵……お前はどこにいるんだ……!俺は必ず見つけ出す!」祐輔は運転しながら街中をうろうろしていると、視界の隅を淡い黄色の人影が横切った。大きくせり出したお腹を抱え、早足で近くの高級ホテルへ入っていく女性。「……美羽?」祐輔は疑いの声を漏らした。なぜここに?彼女は病院のベッドにいるはずだ。胸騒ぎがして、彼は急ハンドルを切り、ホテルへと飛び込んだ。地下駐車場からロビーへ駆け上がると、ちょうど美羽が足早に個室へ入っていくのが見えた。彼女は焦っていたようで、ドアがきちんと閉まっておらず、細い隙間から中の声が漏れ聞こえてきた。「俊行、この子はあなたの子よ。本当に捨てるつもり?」――あの声。やはり美羽だ。祐輔は思わず目を見開いた。「いい加
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第8話
個室のドアが激しく開き、蒼白で怒りに満ちた祐輔の顔が現れた。その瞬間、美羽の頭の中には、ただ一つの言葉だけが浮かんだ。――終わった。俊行もソファの上で腰を抜かしたように崩れ落ちた。常井家もヤクザだが、新川組の傘下に属する小さな一族に過ぎない。到底、新川組に逆らえる立場ではない。祐輔はゆっくりと個室に足を踏み入れ、俊行は慌てて席を譲った。「……どういうことか、説明しろ」ソファに腰を下ろすと、祐輔はすぐに問いかけた。「組長、お茶をどうぞ。どうかお怒りをお鎮めください!」俊行は震える手で湯呑みを差し出し、作り笑いを浮かべながら言った。「組長、俺はこの件に関係ないんです。確かに、この女とは一時的に関係がありました……でも、ご存じないでしょう?この女の遊びっぷりを!俺のせいじゃないんです!それに、妊娠したときはきちんと四千万円を払って中絶するように言いました!それなのに、しつこくつきまとってきて、結局あっちでもこっちでも騙して……!俺だって被害者なんです!」「つまり、お前の話では……俺と籍を入れた後も、美羽はお前と関係を持ち続けていた。そして妊娠し、俺の子だと嘘をついた――そういうことか?」祐輔の声は冷徹そのものだったが、俊行には無言の重みとして強く迫ってきた。俊行はぐっと唾を飲み込み、苦しそうに言葉を発した。「まじで俺のせいじゃないんです!でも、俺も知らなかったんですよ。組長と結婚してたなんて!それに、この女は昔から派手に遊んでて……寝てたのは俺だけじゃないんです。彼女のことは何年も前から有名で、俺の友達も知ってるんです!」「このクソ女め!」祐輔は激しい怒りを表し、湯呑みを粉々に砕いた。「……美羽!お前はあの時、博の恋人だっただろう!俺の親友を騙し、浮気をしてたなんて……博は死ぬ間際までお前のことを心配してたのに……」「もうやめて!死んだ人の名前を出さないでよ!」美羽は突然泣き崩れ、叫び出した。「みんな博のためだとか言って、私に仇討ちをしろって……私は自分のために生きちゃだめなの?もう三年も経ったのよ!どうして誰も、私を許してくれないの!」祐輔の表情が歪み、手で美羽の喉元を掴み上げ、冷たく言い放った。「お前が今まで得たものは全部、博のおかげだ。もし彼がいなかったら、俺は一生お前なんか見向きも
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第9話
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第10話
私はカフェを出て、雅樹の家に引っ越すことになった。彼の家はカフェから遠くなく、歩いて約十分の距離にある。私は毎朝歩いて店に向かい、夜は雅樹が仕事帰りに迎えに来てくれる。二人で並んで家に帰る途中、時々スーパーに寄って食材や日用品を買う――そんな穏やかで温かい日々が続いている。かつて祐輔と一緒にいた頃、彼はヤクザ新川組の組長であり、家族の重圧を背負っていたため、私はいつも息苦しさを感じていた。私の一番の願いは、ただ小さなカフェを開き、好きな人と共に自由で穏やかな日々を過ごすこと。けれど、祐輔を愛するようになってからは、彼のために生き方を変え、優しく寛容に、ひっそりと彼の背後で支える女性になっていた。その日も閉店後、私は雅樹と一緒にスーパーの中を歩きながら、「今夜は何を作ろうか」と相談している。彼は私の手をしっかりと握り、時折頬を寄せて私の額にそっと触れた。その小さな幸せの光景が――遠くから誰かの神経を逆なでした。祐輔は大股でこちらに歩み寄り、私の腕を乱暴に引き寄せた。その瞳には独占欲が渦巻いている。「桃恵!」私は祐輔に必死に抱きしめられ、耳元で掠れた声が囁かれた。その声には、嫉妬が溢れている。「どうして他の男に触れさせた?桃恵、どうして俺にそんなことができるんだ……!」彼の目は血走り、心臓を誰かにえぐられたかのように痛々しい表情を浮かべている。「祐輔、離して!」しかし、彼は狂ったように私を腕の中に閉じ込め、私がどれだけもがいても力を緩めなかった。「桃恵、お前は俺のものだ。ずっと……俺だけの女だ!」彼が私に顔を近づけ、唇を奪おうとしたが、私は必死にそれを避けた。「離れろ!」雅樹の拳が祐輔の顔面を正確に打ち抜いた。祐輔の体がよろめき、倒れ込んだ。私も引きずられるように揺れたが、雅樹が強く抱き寄せて私を庇った。「雅樹……」涙が私の頬を伝った。恐怖と動揺で全身が震えている。雅樹は心配そうな表情で私を庇うように前に立ち、私の手を強く握ってくれた。祐輔は唇の端の血を拭い、血走った目で私たちを見据えた。「桃恵!」私は両耳を押さえた。もう、その声を聞きたくなかった。「桃恵、お願いだ。そんな顔はしないでくれ……」祐輔は私の拒絶を見て、胸を貫かれたかのような表情を浮かべた。「そん
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