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夫のえこひいき

夫のえこひいき

By:  スネイルCompleted
Language: Japanese
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私が妊娠三か月のとき、極道の夫の黒川智成(くろかわ ともなり)の幼なじみ、月島詩乃(つきしま しの)が戻ってきた。もし三年前、彼女が突然彼のもとを去らなかったなら、智成の妻は私――桐谷雪織(きりたに ゆきおり)ではなかったと、誰もが囁いた。 そして今、詩乃が戻ってきた。私はその座を譲らなければならない。 どうやら、智成も同じ思いらしい。詩乃が幾度となく私を傷つけるのを彼は黙認し、ついには私のお腹の子さえ二人の愛の名のもとに犠牲にされた。 私はとうとう心を決め、彼のもとを去った。智成との絆も、そこで完全に断ち切った。 ところが、私が跡形もなく消えた途端、彼は取り憑かれたように私を探し始めた。

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Chapter 1

第1話

極道の夫の黒川智成(くろかわ ともなり)の二十八歳の誕生日の日、私――桐谷雪織(きりたに ゆきおり)は彼の好物であるマンゴーケーキを、自分の手で心を込めて焼き上げた。

けれど、ケーキを抱えて宴会場の扉をくぐった私の目に飛び込んできたのは、彼の幼なじみの月島詩乃(つきしま しの)がグラスを傾け、智成に艶めいた仕草で酒を口移しで飲ませようとしている光景だ。

周囲は一斉に沸き立ち、口々に叫ぶ。

「キス!キス!」

「兄貴、今こそチャンスよ!あんたが一番悔いてるのは、月島さんを女房にできなかったことだろ?今日はたっぷり仲良くしてもらわないと!」

どっと笑いが起き、人の波が二人の方へ押し寄せる。智成は両腕を壁際について人垣を押しとどめ、詩乃を胸にかばった。

詩乃の頬が赤く染まり、グラスの縁で頬をなぞりながら、甘ったるい声を零す。

「だめよ、雪織に見られたら、焼きもちを焼くわ。いまの奥さんは彼女なんだから」

智成は伏せ目がちに詩乃を見つめた。その眼差しは、私が一度も見たことのないほどの優しさを帯びている。

「月島さん、兄貴が本当に愛しているのはあなたなんだ。あの女はただの身代わりにすぎねえ。あんたが戻ってきた今、もう居場所なんかねえさ。あんたが頷きさえすりゃ、二、三日であいつを叩き出してやる!」

「そうだそうだ。どうやっても本物には敵わねえ。兄貴が彼女と結婚したのも、月島さんに似てたからってだけの話だろ?ただの代用品だ」

「偽物は偽物だ。どんなに取り繕っても本物にはなれねえ。兄貴があんなのを好きになるわけがねえ」

私はケーキの箱の取っ手を握りしめたまま、貼りつくように寄り添う二人を茫然と見つめる。

囃し立てる声に、智成は口元に薄い笑みを浮かべ、「もうよせ」と軽くいなした。視線は一瞬たりとも詩乃から離れず、まるで何よりも大切なものを守るように、彼女をしっかりと腕の中に抱き込んでいる。

こんなに優しい智成を、私は一度も見たことがない。

そして、こんな賑やかで親密な空気の中に、私が入り込める余地もないのだ。

彼が何ひとつ拒まなかったその瞬間、私はもう、この結婚が終わりへ向かっていると悟った。

そっと一歩を引き、ケーキを提げたまま踵を返そうとしたとき、詩乃が入口の私に気づいて、わざとらしく声を上げる。

「雪織、どこへ行くの?」

彼女は拗ねたような眼差しを智成に投げて、身なりを整えてこちらへ歩み寄る。

「雪織、誤解して怒って帰ろうとしたんでしょ?ただの王様ゲームで罰を受けてただけ。私と智成の間には、何もないんだから」

兄弟分たちは私の突然の登場に驚き、口々に言い訳をして散っていく。

智成は眉根を寄せ、うんざりした調子で言う。

「やめろ、雪織。たかがゲームだ。大騒ぎして、みんなの気分を壊す必要なんてない」

私はなすすべもなく、膨らみはじめた腹を思わずかばった。胸の奥には、鈍い痛みが波のように押し寄せてくる。

詩乃は口元をわずかに吊り上げ、得意げな眼差しで智成に甘える。

「智成、奥さんを怯えさせちゃだめよ。せっかく誕生日にケーキを持ってきてくれたんだから、そんなに怖い顔しないで」

彼女は当然のように私の手からケーキを受け取ろうとし、まるで正妻のような口ぶりで言葉を続ける。

「智成なんて張り子の虎よ。怖がることないわ」

私は思わずケーキの箱の取っ手を強く握りしめた――そのとき、詩乃が甲高い悲鳴を上げる。箱が傾き、ケーキがふわりと滑り落ちて、彼女のドレスを汚した。

「きゃっ、私のドレス!」

詩乃は瞬く間に涙目になり、頼りなげに智成を見上げる。

「智成、雪織はわざとじゃないの。怒らないであげて」

「文句があるなら俺に言え。詩乃を傷つけるな。お前ももう母親になるんだろう?どうしてまだそんなに我を張るんだ」

智成は詩乃をぐいと引き寄せ、私をうんざりしたように睨みつけた。

「よく考えて反省しろ。自分の過ちに気づかない限り、二度と俺の前に現れるな」

そう言い捨てて、詩乃を大切に庇いながら私の脇を通り過ぎる。

その刹那、脛に鋭い衝撃が走った。体のバランスが崩れ、私は脇の階段を転げ落ちる。

鋭い痛みが全身を襲う中、私は遠ざかっていく智成の背中を見つめ、声にならない悲鳴を絞り出す。

「智成、行かないで。私のお腹が……」
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松坂 美枝
極道の奥さんって権力あるはずだし側近も控えてると思うがこんな目に遭うんじゃやってられないよな 潰されて当然だし主人公は自由に幸せになって欲しい
2025-10-23 09:21:45
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11 Chapters
第1話
極道の夫の黒川智成(くろかわ ともなり)の二十八歳の誕生日の日、私――桐谷雪織(きりたに ゆきおり)は彼の好物であるマンゴーケーキを、自分の手で心を込めて焼き上げた。けれど、ケーキを抱えて宴会場の扉をくぐった私の目に飛び込んできたのは、彼の幼なじみの月島詩乃(つきしま しの)がグラスを傾け、智成に艶めいた仕草で酒を口移しで飲ませようとしている光景だ。周囲は一斉に沸き立ち、口々に叫ぶ。「キス!キス!」「兄貴、今こそチャンスよ!あんたが一番悔いてるのは、月島さんを女房にできなかったことだろ?今日はたっぷり仲良くしてもらわないと!」どっと笑いが起き、人の波が二人の方へ押し寄せる。智成は両腕を壁際について人垣を押しとどめ、詩乃を胸にかばった。詩乃の頬が赤く染まり、グラスの縁で頬をなぞりながら、甘ったるい声を零す。「だめよ、雪織に見られたら、焼きもちを焼くわ。いまの奥さんは彼女なんだから」智成は伏せ目がちに詩乃を見つめた。その眼差しは、私が一度も見たことのないほどの優しさを帯びている。「月島さん、兄貴が本当に愛しているのはあなたなんだ。あの女はただの身代わりにすぎねえ。あんたが戻ってきた今、もう居場所なんかねえさ。あんたが頷きさえすりゃ、二、三日であいつを叩き出してやる!」「そうだそうだ。どうやっても本物には敵わねえ。兄貴が彼女と結婚したのも、月島さんに似てたからってだけの話だろ?ただの代用品だ」「偽物は偽物だ。どんなに取り繕っても本物にはなれねえ。兄貴があんなのを好きになるわけがねえ」私はケーキの箱の取っ手を握りしめたまま、貼りつくように寄り添う二人を茫然と見つめる。囃し立てる声に、智成は口元に薄い笑みを浮かべ、「もうよせ」と軽くいなした。視線は一瞬たりとも詩乃から離れず、まるで何よりも大切なものを守るように、彼女をしっかりと腕の中に抱き込んでいる。こんなに優しい智成を、私は一度も見たことがない。そして、こんな賑やかで親密な空気の中に、私が入り込める余地もないのだ。彼が何ひとつ拒まなかったその瞬間、私はもう、この結婚が終わりへ向かっていると悟った。そっと一歩を引き、ケーキを提げたまま踵を返そうとしたとき、詩乃が入口の私に気づいて、わざとらしく声を上げる。「雪織、どこへ行くの?」彼女は拗ねたような眼差
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第2話
私の呼びかけが、智成を振り向かせることはできなかった。彼の背中が視界から消えてしまう前に、私は震える指で彼の番号を押した。けれど、目の前の彼はほんの一瞬足を止めただけで、私からの着信を確認すると、ためらうことなく通話を切った。やがて彼の姿が完全に消えてから、ようやくメッセージが一通届く。冷たい文面だ。【先に詩乃と買い物に行く。反省できないうちは俺の前に来るな。できたら、まず詩乃に謝れ】私は絶望のあまりスマホを握り締めた。その拍子に、下腹部から激痛が込み上げ、思わず声が漏れる。「お願いします。誰か、私の子どもを助けてください……」脚のあいだから熱いものが流れ落ち、血の匂いがあたりに満ちる。私は、底知れぬ恐怖に身をすくませた。やっと授かった子なのに――失うわけにはいかない。「奥様、すごい量の出血です。いま救急車を呼びますから!」気のいいスタッフが私を救急車に運び込んでくれたが、私の容態は決して楽観できるものではなかった。「出血が多すぎます。赤ちゃんを助けるのは難しいかもしれません。心の準備を……」診察を終えた医師は、痛ましげな表情で私に告げた。私はくらくらする頭を必死に支えながら、涙に濡れた声で医師にすがりつく。「先生、もう三か月なんです。もう形になってるんです。お願いします、どうか助けてください!」医師はしばらく考え込み、ためらいがちに口を開く。「もし榊原(さかぎはら)医師がいれば、望みはあります。産婦人科の第一人者です。ただ、非常に予約が難しくて……よほどの大物の紹介でもない限り、会うことはできないでしょう」胸の奥に、かすかな希望が灯る。「夫は銀糸組のトップです。彼から頼めば、予約は取れますか?」医師の顔に笑みが浮かんだ。「ご主人は黒川智成様でいらっしゃいますか。それなら大丈夫です。院長とも長い付き合いがありますから、彼が頼めば赤ちゃんを助けられる見込みはかなり高いでしょう」私は震える手で、もう一度智成に電話をかける。四度、五度と呼び出し音が続き、やっと繋がった。「雪織、もう反省はできたか?とにかく詩乃に謝れ。それで今回のことは水に流してやる。服の弁償もいらないと詩乃が言っている」反論する暇はなく、私はただ焦りに押されて声を投げかける。「智成、赤ちゃんが危ないの。今、病院
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第3話
ようやく胸をなで下ろしたそのとき、智成から電話がかかってきた。だが、受話口から聞こえてきたのは詩乃の得意げな声だ。「雪織、よくできた嘘ね。お医者さんまで巻き込んで芝居を打つなんて。写真も上手に撮れてる。でもね、智成は今、私の買い物に付き合ってるの。スマホは私が預かってるから、その写真はもう消したわ。子どもを盾にすれば智成が折れると思った?私は絶対に、あなたの思い通りにはさせない」胸がひやりと冷え、心臓が激しく脈打ち、私は不安を押し殺しながら、震える声で言う。「嘘なんかじゃない。あなたと張り合うつもりもない。智成が欲しいなら、譲る。今はただ、お腹の子を守りたいだけ……」「守りたい?結局はその子で智成をつなぎ止めたいだけでしょ。そうはさせないわ。今日、はっきりさせてあげる。智成にとって、私と、そのお腹の子と──どっちが大事かを」「やめて、何をする気なの?もしもし?」詩乃は一方的に通話を切り、さらに私の番号を着信拒否にした。胸の奥に強いざわめきが広がり、どうしても悪いことが起こる気がしてならなかった。ほどなくして、榊原医師から先の医師あてに電話が入る。「どこの詐欺師だ、黒川様の奥さんを名乗るなんて!さっき本人に確認したが、奥方は無事で健在だ。ここに連絡してきたのは偽物だ!」受話口の向こうの声は怒りに満ちている。「本来なら、人の命がかかっていると思って特別に手術を引き受けるつもりだった。だが、あんな人間性の卑しい患者、たとえ死にかけていようが僕は絶対に診ない!」私は血の気が引き、思わず医師のスマホを奪い取るようにして掴んだ。「違います、榊原先生!私は嘘なんてついていません!そうだ、私の手元には、銀糸組の代紋があります。どうか、一度だけでいい、見に来てください……」しかし相手は一切耳を貸さず、無情にも電話を切った。私は途方に暮れたまま医師を見つめたが、医師も首を振るしかない。「奥様、もうすぐにでも手術室に入らなければなりません。赤ちゃんを守れるかは分かりませんが、せめて子宮だけは残せるよう、全力を尽くします」「だめ!私の子ども……」私は絶望の叫びをあげながら、諦めきれずにもう一度智成へ電話をかけた。だが「おかけになった電話は現在つながっておりません」という無機質な音声が、刃のように胸を貫いた。
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第4話
医師の目には同情がにじんでいた。それ以上は何も言わず、入院の書類と会計伝票をそっと差し出す。「ご家族がいないようなら、ご自身でお支払いをお願いします」私はそれを受け取り、静かに口を開く。「すみません、退院の手続きをお願いします」「え?流産したばかりですよ。もう二日ほど様子を見た方がいいんじゃありませんか」「いいえ、もう帰ります」私はきっぱりと言い切り、退院の手続きを済ませた。そして、頼りない足取りのまま家へ戻った。別荘の中は真っ暗で、お手伝いさんたちはそれぞれの仕事を終え、すでに帰っていた。寝室は私が出ていった日のまま、何一つ変わっていなかった。どうやらこの二日、智成も帰ってきていなかったらしい。以前の私なら、すぐに電話をかけて行き先を問いただし、気を回して胃に優しい食事まで用意して、帰りを待っていただろう。けれど今の私は、彼がどこにいようともう気にしない。私は黙々と荷造りを始める。そして、身の回りの物をスーツケースに詰め終えると、弁護士の友人に電話をかける。「俊介、離婚協議書を作ってほしいの。できたら、それを智成に渡して」稲岡俊介(いなおか しゅんすけ)は智成の友人でもある。私の頼みを聞いた彼は、少し意外そうだ。「雪織、本気で智成と離婚するのか?」そして、どこか弾んだ声で続ける。「まあ、そうだよな。詩乃が戻ってきたんだ。智成もいずれは君と別れるつもりだったんだろう。でも君のほうから切り出したなら、もしかしたら情にほだされて、少しは多めに譲ってくれるかもしれない」心の奥がずしりと重くなった。この数年の付き合いで、俊介とはもう友人のようなものだと思っていた。けれど今になってわかった。彼らが考える智成にふさわしい妻は、最初から私ではなく、詩乃だった。「心配するな。できるだけ有利に話を進めてやる。せっかくの縁だ、損はさせないから」私はそれ以上、何も言わなかった。そんな得になりそうな話なんて、最初からどうでもよかった。ただ一刻も早く智成ときっぱり縁を切り、互いに別の場所で穏やかに暮らしたいだけだ。すべての段取りを終えると、私はスーツケースを引きずり、そのまま空港へ向かった。一度も振り返ることなく、ただまっすぐに。この二日間、智成はどこか落ち着かなかった。私が彼に連絡をしなくなって、もう四十八
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第5話
智成は眉をぎゅっとひそめる。「何言ってんだ。雪織が俺と離婚?あり得ないだろ。彼女は俺の子どもを身ごもってるんだぞ」「本当だよ。雪織に頼まれて、離婚協議書を渡すところまで任されてるんだ」「そんなはずがない!」智成はまるで信じようとはしない。詩乃の瞳に一瞬、喜びの色がよぎる。けれど口では、取り繕うように言う。「智成、今回は本当に雪織、怒ってるみたいよ。離婚協議書まで用意してるんだし。早く帰って、機嫌を直してあげて」智成も詩乃の言葉にうなずき、軽くため息をついた。「俊介、雪織は拗ねてるだけだ。君を使って揺さぶってるんだよ。離婚協議書なんて本気じゃないさ。夫婦のことは、夫婦で解決する」俊介は、その返答にどうも納得がいかないようだ。「でもさ、雪織が拗ねてるだけにしても、ここは流れに乗ってサインしちまえばいいじゃないか?どうせ詩乃も戻ってきたんだし、雪織が身を引けば、あなたと詩乃の間に障りはもうないだろう」俊介の言葉を聞いた詩乃は、頬をほんのりと染めた。そして、潤んだ瞳で智成を見つめながら、甘えるように言う。「智成、あなたが好きなのは、ずっと私だったよね。雪織は、私の代わりでしかなかった。私だってこの三年、あなたを忘れたことはないの。だから、あなたが雪織と離婚してくれたら、私もあなたのプロポーズを受けるわ」そう言って、彼女は恥じらうようにうつむいた。その横顔は、まるで初めて恋を知った少女のように見える。智成はその様子に、はっと息をのんだ。詩乃がずっと自分に誤解を抱いていたことに、ようやく気づいたのだ。彼は一歩、後ろへ退き、そっと詩乃とのあいだに距離を取る。「詩乃、誤解だ。俺はもう、お前のことを好きじゃない。今の俺が好きなのは雪織だ。お前のことは、妹みたいにしか見ていない」詩乃は信じられないというように智成を見つめる。「私のこと、好きじゃない?そんなはずない!私が帰国したとき、真っ先に迎えに来てくれたじゃない?それに、雪織との結婚記念日だって欠席して、ほとんど毎日そばにいてくれたじゃない?何から何まで気を配ってくれて、コンサートには付き合ってくれたのに、雪織の検診には行かなかったよね。私が帰ってきてから、あなたが雪織のことを後回しにしたこと、もう数えきれないの。それなのに今さら、好きなのは雪織だなんて、笑
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第6話
智成は最速で家へ引き返した。道すがら、彼は私が謝らなくても構わない、と思っていた。「妊婦は情緒が不安定でも仕方がない。少し気が強いくらい、気にしない」と。それどころか、彼はすでに秘書に連絡を入れ、海辺のリゾート旅行を手配させていた。ずっと前から、私は一緒にどこかへ旅行に行きたいと言っていたが、そのたび、彼は何かと理由をつけては断ってきた。そのことを思い出し、智成の胸にかすかな罪悪感が芽生える。結婚して三年、私は一度も遠出をしたことがない。毎日、彼のまわりばかりを気にして生きていて、自分の時間なんて、まるで持てなかった。子どもが生まれたら、私はきっと、もう自分の時間を持つことさえできなくなる。彼はようやくそう思い至った。航空券の手配を済ませた彼は、私がそのことを知って見せる笑顔を思い浮かべ、胸を躍らせた。けれど、家に戻ってリビングの扉を開けたとき、そこに私の姿はなかった。以前なら、彼が遅く帰る夜には、私はリビングのソファに腰を下ろし、まだ生まれていない子どものために小さなセーターを編みながら、彼の帰りを待っていた。けれど今夜、リビングはがらんとしていて、そこに私の気配すら残っていない。「雪織?」探るように呼んでみても、家の中は静まり返っている。彼は二階へ向かい、寝室の扉を開ける。そこには確かに何かが欠けていた。目を凝らすと、私の持ち物が一つ残らず消えている。そのとき、俊介から届いていた離婚協議書のことが、彼の脳裏をよぎる。「執事!」智成は声を荒げ、執事を呼びつけた。「旦那様、お帰りなさいませ」執事は慌てて駆け寄ってきた。手には芝の切れ端がついており、どうやら庭の手入れをしていた最中らしい。「奥様はどこだ?」執事は一瞬、きょとんとした表情を浮かべる。「奥様ですか?特に行き先は伺っておりませんが、二日前にお出かけになってから、お戻りにはなっていません」智成は怒りに駆られ、執事の腕をつかむ。「戻っていない?なぜ俺に報告しなかったか!」執事はびくりと肩を震わせ、慌てて弁解する。「奥様からは何も伺っておりません。それに、旦那様ご自身がおっしゃったではありませんか。『奥様のことは報告しなくていい』と」執事は胸の内でひどく理不尽さを感じていた。結婚当初、彼は職務に忠実で、智成へ私の様子を
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第7話
「携帯番号が解約された?」智成は信じられず、反射的に言い返した。「そんなわけない。あの番号は何年も使ってきたんだ。彼女の唯一の連絡先だぞ。解約なんて、あり得ないだろ!」「間違いありません、黒川様。通信会社にも直接確認しましたが、その番号は一日前に契約者本人の手で解約されたそうです」智成の胸の奥に、言いようのない不安がじわりと広がった。彼は再び俊介に電話をかけた。「俊介、君はまだ雪織と連絡が取れるか?どこにもいないんだ」俊介は一瞬だけ、動きを止めた。だが、すぐに職務的な声色に切り替える。「桐谷さんから離婚協議書の送付は依頼されています。もしかすると、ご本人は今は連絡を望んでいないのかもしれません。ご要望があれば、協議書の内容は調整します」「ふざけるな!誰が離婚なんて言った!」思わず智成は怒鳴り声を上げた。「おまえらは、俺と雪織がうまくいくのがそんなに気に入らないのか?離婚なんて絶対にしない。すぐに雪織に伝えろ。もう拗ねるのはやめて帰ってこいってな。いいか、これ以上俺を怒らせるな!」俊介は苦笑を漏らしながら、口を開く。「智成、俺はあなたの友人だ。けど同時に、ひとりの弁護士でもある。依頼人からの指示は、離婚協議書を渡すことだけだ。彼女が今どこにいるのかは、俺にもわからない」私の突き放すような態度に、ようやく智成は気づいた。私は本気で、彼との離婚を望んでいるのだと。ただの怒りや意地ではない。「どうしてだ?彼女はあんなにも、俺を愛してくれていたのに」誰もが知っている。私が、どれほど智成を愛していたかを。彼が仕事の付き合いで夜遅くなっても、電話が一本あれば、私はすぐに車を出して迎えに行った。彼が酔って、みんなの前で詩乃の名を呼び、取り乱しても、私は怒らなかった。ただ黙ってそばで待って、ようやく落ち着いた頃を見計らい、そっと家へ連れて帰った。この何年ものあいだ、どれほど振り回されても、私は彼の隣を離れなかった。やがて彼も少しずつ私に情を寄せ、私たちには子どもまで授かった。それなのに、なぜ今回は、私は許さなかったのだろう?そのとき、これまでずっと「離婚したほうがいい」と言っていた俊介でさえ、深くため息をつく。「正直に言うとね、雪織は本当に稀に見る良い人だ。どれほどあなたを愛していたか、みんな見て
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第8話
詩乃は智成の姿を見るなり、ベッドから飛び降りて駆け寄ってくる。「智成!来てくれたのね!」智成は彼女を上から下までじろりと見て、低く問う。「交通事故に遭ったって聞いたけど?」「そうよ」詩乃は唇を尖らせ、額の絆創膏を指さした。「見えない?頭、ぶつけたの。すっごく痛かったんだから」智成はその小さな絆創膏に目をやり、そして、脇で困り顔をしている医師へ視線を移す。その瞬間、からかわれたのだと悟った。「どうして俺を騙した?」「騙してなんかないわ。私、本当に事故に遭ったのよ。ほら、ちゃんとケガしてる!」詩乃は、ようやく彼の様子がおかしいことに気づく。いつもなら自分の怪我を知れば真っ先に飛んできてくれるのに、今日は医師に少し大げさな言い方をさせて、ようやく彼を呼び寄せたのだ。「意識が戻らないんだって言ってたろ。深刻だとも。擦り傷ひとつで、俺を呼びつけたのか?」一歩、また一歩。智成は詩乃に詰め寄り、気配は鋭く、空気が張り詰めていく。詩乃ははっとして肩をすくめ、たちまち目に涙をためる。「ただ、あなたに会いたかったの。智成、今日はどうしたの?そんなに怒るなんて。私のこと妹みたいに大事にしてくれるって言ったじゃない?なのに、どうしてそんなにきつく当たるの?」智成は胸の奥の怒りを押し殺すように、深く息を吸い込む。「詩乃、俺たちは近づきすぎた。俺はもう結婚している。たとえ本当の兄妹でも、やっぱり線は引くべきだ。これからは特に用がなければ、連絡しないでくれ」「なんで?結婚したら、もう私のことは放っておくの?私たち、子どものころからずっと一緒にいたじゃない!あなた、私の両親にずっと守るって約束したじゃない?」詩乃は悔しそうに唇を噛み、涙に濡れた目で智成を見上げる。どう言えば詩乃を落ち着かせられるのか――智成が考え込んでいると、突然、肩をとんとんと叩かれた。「黒川様、やっぱりあなたでしたか。お久しぶりです」来た男は、ちらりと詩乃を見て、にこやかに言い続ける。「奥様ですね?何かお力になれることがあれば、ぜひお知らせください。そういえば、数日前、あなたの奥様を名乗る方に騙されかけましてね。あなたに確認を取ったおかげで、未然に防げましたが」来たのは榊原医師だった。その騒ぎの件に触れると、彼は露骨に眉をひそめた。
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第9話
「なんで手術をしてあげなかった!どうして見ていながら流産させたんだ!」次の瞬間、彼は榊原医師の喉元をつかみ上げた。血走った両目には理性の光がもうなく、まるで狂人のようだ。榊原医師は喉を押さえられ、顔がみるみる真っ赤に染まる。空気を求めて口をぱくぱくと動かしながら、なんとか声を絞り出す。「あなたから『あれは偽物だから相手にするな』とお聞きして、そのように対応しただけです。もしあの方が本当に奥様だと知っていたら、たとえ何があっても見捨てたりはしませんでした」「誰が相手にするなと言った?彼女は俺の妻だ!」智成は喉が裂けるほどの声で叫び、顔は怒りと絶望で歪みきっていた。「あ、あなたの秘書がそう言いました。彼女が電話に出たんです」榊原医師は慌ててスマホを取り出し、通話履歴を開いて見せる。もう、理解できないことなど何もなかった。ゆっくり振り返ると、智成の視線が詩乃を貫く。彼の全身から放たれる怒気が、まるで目に見えるほどに重くのしかかった。詩乃はすでに顔面蒼白だった。二人のやり取りのあいだに、バッグをつかんで逃げ出そうとしていたところを、智成に髪をつかまれ、壁へ叩きつけられる。「どうして俺の子を殺した!なぜ榊原医師に見殺しにさせたんだ!」額から血がつうっと流れ、詩乃は苦しげにもがきながら縋りつく。「ごめんなさい!わざとじゃないの!雪織はあなたを取り戻すためなら、どんなことでもする人で……まさか、本当に流産するなんて思わなかったのよ!」智成の表情から、もはや信じる色は消えていた。彼は冷え切った声で秘書に電話をかける。「二日前の俺の誕生祝いの映像と、その日の病院の監視映像。雪織が映っているものを、すべて探し出せ」詩乃はとうとう本気で恐れを感じた。「本当にそんなつもりじゃなかったの!智成、お願い、私たちは子どものころからの仲でしょ?どうか許して……」秘書の手際はとても早かった。ほどなくして映像が届いた。画面の中で、詩乃に足を引っかけられた私が階段から転げ落ち、助けを求めても誰にも届かない。その一部始終に、智成の目が血の色に染まる。「まだ言い逃れができるか?すべてお前の仕業だ!雪織を突き落とし、榊原医師を止めさせて……俺の子どもを殺したのは、お前だ!」狂ったように、智成は詩乃の髪をつかんで窓辺へ引きずる。
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第10話
そのときの私は、モルディブの砂浜で日光浴をしている。ここの景色は本当に美しい。海を目にするのは初めてだったのに、もうすっかり心を奪われている。子どもを失ってからというもの、私は心がずっと沈んでいた。けれど、ここへ来てから、不思議と胸の中の霧がすっと晴れていくのを感じた。コーチが準備を整え、これからシュノーケリングに行こうというところで、私のスマホが鳴りやまない。スマホを取り出して画面を見た瞬間、私はすぐに悟った。智成が人を使って、私の新しい番号を突き止めたのだ。きっと、離婚協議書も目にしたのだろう。そしてもう、私たちの子どもがいないことも、知っているはずだ。出る気にはなれず、私はそのまま通話を切った。それでも智成は諦めない。電話はひっきりなしにかかってくる。コーチが私を促した。「なんだか急ぎの電話みたいですね。先に出てきちゃってくださいよ、僕らは待ってますから」私は深く息を吸い込んだ。言うべきことは、はっきり言っておいたほうがいい。そう思って、私は通話ボタンを押した。「もしもし」「雪織!やっと電話に出てくれたんだな!」電話の向こうから、智成の焦った声が聞こえてくる。私は瞬きをひとつする。何年も一緒にいたのに、こんな声の調子で智成が私に話すのは、初めてかもしれない。「何の用?」「今どこにいるんだ?会いたい……迎えに行ってもいいか?」智成の声は、ほとんど懇願のようだ。「全部、俺が悪かった。詩乃ばかり庇って、お前を何度も傷つけた。本当にすまなかった。頼む、許してくれないか?」その言葉を聞いても、私の心は微動だにしない。「智成、もうあなたに言うことはないわ。言うべきことは、この何年かで全部言い尽くした。離婚の件はすべて俊介に任せてあるから、協議書の内容に異議があるなら彼に言って。私に連絡する必要はない」「詩乃があなたにしたことは、もう全部知ってる。あいつはお前を傷つけた。だから、俺がもう生き地獄を見せてやった。頼む、俺を許してくれ。もう一度、お前に償わせてくれないか?」ただ、滑稽だと思った。「智成、私を傷つけてきたのは、あなただよ。生き地獄を見るべきなのは、あなたの方じゃない?」「雪織、そんなこと言わないでくれ。俺が悪かった!殴られても罵られても構わない。お前が俺のそばに戻ってきてく
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