LOGINShare
第6話
Latest chapter
愛しき日々の果て、余生は安らかに 第22話
「彼女は同意しない！」正明は式場の一角に立っていた。病院の服のままで、下には無数の傷跡が隠れている。整えていたはずの髪は額に乱れ落ち、その姿はみすぼらしく、不気味ですらあった。だが彼は周囲の視線など気にも留めず、ただまっすぐ千里を見つめていた。「橘社長、これは一体どういうおつもりですか？」竜一は目を細めながら千里の前に立ちはだかる。「まさか、結婚式を妨害しようとでも？」正明は赤くなった目で竜一を睨みつけ、拳を強く握りしめたが、自分の目的を思い出し、急いで千里のもとへ駆け寄った。「千里、頼む、あいつと結婚しないでくれ。どうか……結婚なんてやめてくれ！俺が悪かった、全部俺のせいだってわかってる。だから……もう一度だけチャンスをくれ。今度こそ、本当にお前を大切にする……」信じてもらえないかもしれない。そう思いながら、彼は懐からずっと隠していた小箱を取り出した。箱の中には、ひと揃いのダイヤモンドジュエリーが納められていた。ダイヤのピアス、指輪、そしてあの優勝者に贈られるチャンピオンネックレスまで。彼は再び試合に出ていたのだ。しかも以前より遥かに激しく、命を削るようにして。「二十戦連続でリングに上がった……全部、お前に贈るためだ。安心してくれ、雅美のネックレスはもう捨てた。これは、お前のためだけの、唯一無二のネックレスだ。気づくのが遅すぎたのはわかってる。でも……まだ間に合うはずだろう？」震える手で箱を差し出し、恐る恐る千里を見上げた。会場はざわめきに包まれる。かつて感情を見せず、妻を軽んじ続けた橘家の冷酷社長が、いま元妻の結婚式でプライドを捨て、許しを乞うている。その姿は、地面に頭を擦りつけるような、見るに堪えないほどに惨めだった。「正明」千里は表情を変えず、淡々と告げた。「遅すぎたわ。そんな贈り物、もうとっくに興味ないの」そう言って千里は、正明の目の前で手を差し出し、竜一から婚約指輪を受け取った。正明の身体から力が抜け、そのまま床に崩れ落ちる。目の前で千里と竜一が寄り添い、唇を重ねた。まるで、本当に運命の相手であるかのように。宴が終わるまで、正明は会場の入口で待ち続けた。座り込んだまま、赤く充血した目で、無表情に、ただ千里が現れるのを待ち続けた。
愛しき日々の果て、余生は安らかに 第21話
千里が否定しなかったことに、涼真は胸を痛めながら彼女の身体の傷を確認した。かつて彼は、正明が妹を傷つけるのではないかと常に心配していた。だが千里はいつも彼の肩を持ち、何も話そうとしなかった。小林家が大切に育ててきたお嬢様が、こんなにも無惨に傷つけられていた。その現実に、涼真の胸は締めつけられるような痛みに襲われた。彼は無言で竜一と視線を交わし、そこに同じ怒りと決意を見た。二人は小さくうなずき合い、警備員に命じて正明を外へ引きずり出させた。涼真は千里の傍に残り、静かに看病を続けた。一方、竜一は警備員と共に正明を人気のない裏路地に引きずり込んだ。泥だらけの地面に正明を放り投げると、竜一は冷ややかな声で言った。「九十九箇所、きっちり刻め。一刀たりとも手加減するな」意識がぼんやりと遠のく中、正明の脳裏に、過去の記憶が甦っていた。あのとき、雅美が言った言葉。「私を一回切ったでしょ？私はそんなに優しくないの……だから、彼女には九十九回、切り返して」今回、彼はその願いを拒んだ。それでも記憶は、千里が山に連れ去られたあの日へと続いていく。「正明っ、復讐してよ！あの女に一回切られたから、99回返すの。あなたは黙って見てて。あの女が絶望して、二度とあなたを愛さなくなるまで。そしたら私たちはずっと一緒にいられるのよ」地面に縛られ、運転手によって何度も切りつけられる千里。冷や汗を浮かべ、血の滲む瞳で彼を見つめる彼女は、絶望と麻痺の狭間にいた。「やめろ、やめてくれ！俺は……後悔してる！お前と二人で逃げるなんてしない、千里しかいらないんだ！」彼は必死に千里へ飛び込み、その身で刃を受けた。激しい痛みの中で、正明は微かに微笑んだ。もう二度と、同じ過ちを繰り返さない。次に目を覚ましたとき、正明は病院のベッドに横たわっていた。消毒液の匂いが鼻をつき、ぼんやりとした意識の中で体を起こそうとしたが、身体はほとんど動かず、腰も腹も分厚い包帯で覆われていた。少し動いただけで傷が裂け、血が滲む。それでも彼の脳裏には、意識を失う直前に見た千里の姿が浮かんでいた。俺を心配してくれた。まだ、俺のことを気にかけてくれている。そう思った瞬間、彼はかすかに笑みを浮かべ、身の傷も顧みずベッドから降りようとした。「千
愛しき日々の果て、余生は安らかに 第20話
だが、どれほど後ろで叫び、追いすがろうとも、その車は一瞬たりとも減速することはなかった。三ヶ月前の正明は、まさか自分が千里のためにプライドを捨て、すべてを投げ出してまで許しを乞う日が来るとは思ってもいなかった。どれだけ言葉を尽くし、どれだけ行動で示そうとも、千里の目に自分が一瞥すら値しない存在になっているとは、考えたこともなかった。テールランプが遠ざかっていくのを見つめながら、正明の胸の中はぽっかりと空洞になっていた。その瞳に渦巻く感情は、次第に偏執と執着が大部分を占めていった。絶対に、諦めない。きっと、千里の心の傷がそれだけ深いのだ。だからこそ、正明は耐えて待とうと決めた。正しい方法を見つけ出す。何があろうと、必ず彼女を取り戻す。虚ろな足取りで病院を後にした正明の顔には、動揺と絶望の色が滲んでいた。その後、何日経っても、千里に一度も会うことができなかった。彼女は意図的に彼を避けていた。会社の前には警備員が立ち、別荘では管理会社に出入りを止めさせ、外出時にはボディーガードを伴い、誰も近寄らせなかった。正明はあらゆる手を尽くした。花を贈っても、すべてゴミ箱行き。プレゼントも、受け取られることはなかった。何をしても、拒絶しか返ってこない。またしても、竜一に連れられて帰る彼女を見送り、男の挑発的な笑みに歯を食いしばって耐える。このままでは、本当に千里を失ってしまう。正明の瞳に、かすかな狂気が宿る。拳を握り締め、低く呟いた。「黒川……そんな余裕ぶっていられるのも、今のうちだ」服を着替えた彼は、小林家の別荘前で何時間も気配を消して身を潜めていた。やがて、建物の灯りがすべて消えた頃、ようやく植え込みの影から姿を現す。玄関の警備員を数人昏倒させ、音もなく身を翻して二階へと向かった。ちょうどその頃、千里は竜一の傷に薬を塗った帰りだった。部屋のドアを開けた瞬間、窓辺に立つ人影が見え、脳裏を様々な考えが駆け巡る。後ずさろうとしたその瞬間、人影が一歩踏み出し、カーテンをはらって突進してきた。頭皮が粟立つような嫌悪感。逃げようと振り返り、ドアノブに手をかけたところで、その影が飛びかかってきた。強引に両腕を広げ、彼女を抱き込む。「怖がるな、俺だ。千里、俺だ」かすれた低い声が部屋に響く。彼女を落
愛しき日々の果て、余生は安らかに 第19話
「こちらに暴行事件の加害者がいます。恋人を故意に殴りました」千里の言葉に、正明の目がさらに大きく見開かれた。信じられないようにその場に立ち尽くし、しばらく何も言えずにいた。彼女が竜一を連れて立ち去るのをただ見ていた。執事に通報の対応を任せる様子も見ていた。振り返ることなく、一瞥すら寄越さずに去っていく後ろ姿を、呆然と見送った。正明の胸が、ぎゅうっと締めつけられるように痛んだ。まさか千里がここまでやるとは思ってもみなかった。彼女の目には、もはや自分の存在が一片たりとも映っていない。怪我をしているというのに、何の関心も示さないなんて。そのまま正明は警察に連行され、千里は竜一を病院へと連れて行った。傷はそこまで深刻ではなかったが、外見はかなり痛々しかった。千里は彼の顔に浮かぶ青紫の痕を見つめ、看護師から消毒液をもらうと、丁寧に手当を始めた。「今日のことは、私の見通しが甘かった。ごめんね。これからは正明の動きには注意する。彼がまた何かしたら、すぐ警察を呼ぶ。もうあなたに手をあげさせたりしない。薬も、傷が治るまで毎日私が塗るから……竜一さん……」言いかけたところで、彼が淡々と口を開いた。「……前からそうだったのか？」「え……？」「なんでも自分ひとりで抱えて、怪我しても何も言わない」彼の視線を追って自分の手首を見下ろすと、くっきりとした青紫の痕が残っていた。さっき正明に強く掴まれたときのものだった。何か言う間もなく、竜一は彼女を自分の隣に座らせ、無言でその痕に薬を塗りはじめた。「橘のことで俺に謝らなくていい。それはお前の責任じゃない。もっと、自分を大切にしてくれ……いいな？」真剣な目で見つめられ、千里は一瞬、喉がひりつくような乾きを覚えた。黙ったまま、そっと頷くしかなかった。正明は元ボクサーだ。万が一、内臓に損傷があったらと心配になった千里は、竜一に全身検査を受けさせた。異常なしとわかってようやく、ほっと息をついて病院を後にしようとした。病室を出たところで、目を赤く染めてドアの前に立ち尽くす正明と鉢合わせた。どれほど待っていたのか、まるで幽霊のように、彼女の姿を見た瞬間、すぐに近寄ってきた。「千里、朝は俺が悪かった。本当にごめん。これからは──」正明が何かを
愛しき日々の果て、余生は安らかに 第18話
彼はまだ何かを言おうと、唇をわずかに動かした。しかし、千里はもう完全に我慢の限界に達しており、彼に視線すら向けず、くるりと背を向けて立ち去った。正明の胸がきゅっと痛み、とっさに足を踏み出して彼女を追いかける。「千里、行くな！頼む、話を聞いてくれ。謝るから……最後まで聞いてくれ！」千里のあとを追って玄関まで来た正明は、必死に動揺を抑えながら、そっと彼女の手に触れようとする。だが、その手が届く前に、バタンと無情な音を立てて、ドアが閉まった。完全に彼女に拒まれたのだ。「千里、昔のことは俺が間違ってた。雅美のことも全部調べた。彼女にはきっちり償わせたし、もう追い出した……俺、離婚なんてしたくない！今までの俺が間違ってたのはわかってる。全部やり直すから！だから黒川とはもう関わらないでくれ……頼む！」正明の声は懇願に満ち、ドアノブを握る手には力が入りすぎて白くなっていた。「とっくに終わったの。もう追いかけないで。誰のためにもならないわ」まるで心臓をわしづかみにされたような痛みに、正明は呼吸すらままならなくなる。頭の中は真っ白になり、千里の言葉が耳鳴りのように何度も反響する。どれもこれも、耐えがたいものだった。その言葉を飲み込めないまま、背後から突然、二人の警備員が現れた。正明の両腕を左右からしっかり掴み、そのまま外へと連れ出す。どれほど叫ぼうが、千里は一度も姿を見せなかった。正明は一晩中、玄関先で待ち続けた。車の中で、ハンドルを握る指先は強く握りしめられ、怒りと焦りを押さえ込もうとする。竜一は出てこなかった。夜が明けるまで、どれだけ待っても、彼は姿を見せなかった。あいつは泊まったんだ。千里と一緒の家に。一体、いつから同棲してたんだ？彼女が海外に行ってからずっとか？それとも……もう結婚の話でも出てるのか？だから千里は、あんな態度で迷いなく自分を拒絶したのか？正明の嫉妬に目が赤く染まり、悔しさと苦しさがこれまでにないほど膨れ上がっていた。どうしても信じられなかった。たった三ヶ月で、自分だけを見てくれていた、あの優しくて柔らかな千里が、もう別の男のものになっているなんて。正明のこめかみはピクピクとけいれんし、拳を硬く握り締めたまま、別荘の外で一晩を過ごした。彼の視線
愛しき日々の果て、余生は安らかに 第17話
正明は勢いよく振り返り、ちょうど車から手を繋いで降りてくる二人の姿を目にした。かつて二つの会社を一人で切り盛りしていた頃、千里はいつもキリッとした装いで人前に立っていた。だが今、M国に来た彼女は黒のショートスカートを身にまとい、長い髪を後ろでまとめて、清潔感のある顔には太陽のように明るい笑みを浮かべていた。この姿を彼が目にしたのは、彼女がまだ二十歳にもなっていなかった頃のことだった。結婚してからの千里は、その明るさも鮮やかさも、彼が与えた「結婚という墓場」の中に埋もれていったのだ。正明はその場に凍りつき、瞳が震えた。目の前の二人を凝視した。最初はただ手を繋いでいるだけだったが、次第に距離を詰めていき、唇が触れそうなほど近づいた瞬間、胸の奥で突然燃え上がった怒りが、視界を真っ赤に染め、理性を焼き尽くした。「千里っ！お前、何をしてるんだ！」その声は低く、冷たく響き、強い威圧感を伴っていた。庭ではしゃいでいた二人が、ぴたりと動きを止め、同時にこちらを振り返る。男もこちらを見た。鋭い目元に整った顔立ち、どこか獰猛さを感じさせる美しさ——だがその雰囲気には終始余裕があり、正明を見下ろすような目線と口調で、ゆっくりと言った。「橘、だな？何の用だ？」正明は、その顔に見覚えがあった。表情はさらに冷え込んだ。黒川竜一。涼真の親友にして、黒川家の一人息子。学生時代から「天に選ばれし者」と呼ばれ、名門たちの間では常に引っ張りだこだった。周囲の同世代がまだ遊びに耽っている頃、彼はすでに冷酷な手段で黒川家の実権を掌握していた。誰もが彼にひれ伏し、取り入ろうとしていた。だが正明だけは、彼を好まなかった。関わりたくもなかった。それは、注目を奪われたからではない。あの男の目が、いつも、まるで湿ったガムのように千里にまとわりついていたからだ。学生の頃も、結婚してからも、それは変わらなかった。だが千里と結婚して以降、竜一は姿を消し、めったに人前に出てこなくなった。それが今、ここで――しかも千里と一緒に？正明は竜一の問いには答えず、視線をその隣に立つ千里へと移し、もう一度問いかけた。「千里、説明してくれないか。一体どういうことなんだ？」竜一の眉がわずかに動いた。その瞬間、千里が後ろから手首をふわり
