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第3話

Author: 山嶺しずく
会議室の扉を開けた瞬間、空気が変わった。

司と美優、そして他の同僚たちが整然と並び、私に無言の視線を注いでいた。

私は静かに頭を下げ、席に着く。

資料を開いた途端、目に飛び込んできたのは——

美優に奪われた、あの案件だった。

「今回の件で、会社は通常の十倍の手数料を支払った。全部、君のせいだ」

司の声が、冷たく響く。

「そうよ。自分の力もないのに案件を抱えるから、私たちまで苦労する羽目になるの」

美優が追い打ちをかけるように言う。

私は視線を上げず、静かに答えた。

「ご迷惑をおかけしました。ただ、この案件の正式な責任者は、私ではありません」

司は契約書を指差す。

「名前があるじゃないか。責任者欄に、君の」

私は契約書の最後のページをめくり、スクリーンに映した。

「最終ページの署名が、会社の正式な責任者と定められています」

プロジェクターに映ったその文字。

——そこには、美優の署名が、はっきりと記されていた。

空気が凍りつく。全員の視線が、次々と美優に突き刺さる。

顔から血の気が引いていく彼女。

——あの時、私が九割まで進めていた案件を横取りし、手柄にしようとした。

だが、相手に見透かされ、逆に出し抜かれた。

涙が今にもこぼれそうな目元で、彼女は俯く。

その瞬間だった。

司が彼女を抱き寄せ、皆の目の前でそっと腕を回した。

「今月、営業部全体の給与を一割カット。会社の損失分として。

特に雪乃——君は年末賞与と、これから三ヶ月分の給与、すべて差し引く」

静まり返る会議室に、ひび割れたような怒りが沈殿していく。

半月後、給与明細が配られた瞬間、社内は嘆きと怒りに包まれた。

その一方で、美優は「業績優秀者」として表彰され、給与は五割増。

彼女は嬉しそうに、言った。

「私がここまで来られたのは、皆さんのおかげです。これからも応援してくださいね」

誰も声を発さなかった。

無音の会場に、彼女だけが浮いていた。

やがて、その空気に気づいた彼女は、何も言えずに出ていった。

私は黙って、営業部全員の口座番号を控え、減給分を自分の貯金から補填した。

「この数年、皆さんと一緒にこの会社を築いてこられたことは、私の誇りです。

でも——この会社の名前は、結局のところ、私の姓ではありません」

その言葉に、同僚たちの目が悔しさに揺れた。

私は座り直し、辞表をプリントアウトする。

フライトの時間が迫っていた。

司のオフィスに入ると、目を疑うような光景が広がっていた。

美優が彼の膝に座り、蜜柑の房を口移しで食べさせていた。

私を見ると、彼女はすぐに立ち上がり、態度を変える。

「司くん、あなたの秘書、私のこと睨んできたの。怖かった……」

司は机の前を指差した。

私は理解し、書類を広げ、ペンを差し出した。

「こちらに、ご署名を」

彼は書類も確認せず、笑いながらサインした。

「それでは、私はこれで」

「うん」彼は一瞥もせずに応じた。

私は静かに背を向け、歩き出した。

引き継ぎが終わった頃には、外はすでに闇に包まれていた。

荷物をまとめ終えると、ちょうどそのとき司が酔っ払って帰ってきた。

酔い覚ましの茶を淹れ、飲ませる。

そして私は、もう寝ようとした。

だが——彼は急に私に手を伸ばしてきた。

まるで、今さら何かを取り戻そうとするように。

その瞬間、彼はふらりと顔を背け、床に嘔吐した。

私は、酒の匂いが何よりも嫌いだった。

書斎に移動し、ひとり、静かに眠った。

翌朝。彼の姿はなかった。

電話が鳴る。クラブの喧騒の中から、彼の声が響いた。

「今週、大口の商社がA市に来る。必ず契約を取ってこい」

——七年前、私が働いていた法律事務所に火事が起き、その炎の中から私を救い出してくれたのは司だった。

これが最後の借りの清算だ、と私は思った。

化粧を整え、その商社の担当者に連絡を入れて、ホテルへ向かう。

取引先の男は、中年の大物だった。

すでにライバル企業の幹部たちも顔をそろえていた。

「一番酒を飲めたやつに、この契約を渡す」そう言い放った男の声に、場がざわつく。

誰もが私を見て笑った。「女には無理だ」と。

私は黙って、ブランデーを六本飲み干した。

場が凍りつく。

契約は成立した。

私は胃の激痛に耐えながら、まっすぐ病院へ向かった。

胃洗浄を終えると、医師が厳しい声で言った。

「これ以上無理をすれば、胃の一部を切除することになりますよ」

私は苦笑いを浮かべるしかなかった。

——本当は、酒なんて一滴も飲めなかった。

それでも、数々の商談の場で無理を重ね、酒をあおり、この会社をここまで引っ張ってきたのは、私自身だ。

司、もう、あなたに借りはない。

契約書が会社に届くと、司は祝勝会を開きたいと言い出した。

私は行きたくなかったが、同僚たちの勧めで顔を出した。

司からのメッセージ。

【微酔いできる酒を持ってきて、忘れるなよ】

私は言われた通りの酒を持っていった。

だが、彼はその酒を美優のもとへ。

彼女はひと口飲んで、頬を赤らめる。

「なんか……酔っちゃったみたい」

ふらりと倒れかけた彼女を、司が慌てて支える。

「度数の低い酒を頼んだだろ!何買ってきたんだ!」

私は静かにラベルを指差す。

「これはただのアルコール飲料です。度数はありません」

美優は表情を変え、取り繕うように笑った。

「ごめんね、雪乃さんのせいじゃないの。私、嬉しくて……お酒に弱いの、忘れてたの」

司が私に詰め寄ろうとしたその瞬間、私の青ざめた顔に気づき、声の調子を変えた。

「……クライアントに、何か嫌なことをされていないか?」

「たかが、ブランデー六本です」

司の表情が、苦悩に染まる。

それを見て、美優が大袈裟に言った。

「キャッ、もう限界かも……」

彼は彼女を抱きかかえ、上階の部屋へ運んでいった。立ち去る前に、こう言い残して。

「美優のコート、家で洗って、明日持ってきてくれ」

同僚たちは皆、私の方を向いた。

誰もが、私がいなくなることを知っていた。何も言えず、ただ見送ることしかできなかった。

私は微笑みながら言った。

「また、どこかで。皆さん、ご自愛ください」

玄関に置かれたスーツケースを手に取り、私はその場を後にした。

誰も知らない。

私が語ろうとしなかった「両親」が、ロンドンにいることを。

唯一知っていた司でさえ、私がただ旅行に行くのだと思っていた。

空港には、両親が立っていた。無言のまま、私を迎えてくれた。

家に着き、少し休んだ後、私は一通の訴状を書き上げた。

被告人:神谷司

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