旦那の隼人と一緒に、年末に実家へ帰る途中だった。 ……そのはずが、事故に巻き込まれて、気がついたら――恋人になる前の時間に戻っていた。 前の人生では、七年間、彼と結婚していた。お互いに礼儀正しく、表面上は平穏な夫婦。でも、彼は最後まで一度も子どもを望んでくれなかった。 あとになって、私はやっと気づいた全部わかったのは、死んだあとだった。彼の心の中にはずっと「思い人」の影が残ってたんだ。 だから私は決めた。今回は、彼を解放してあげようって。 黙って連絡先を消して、距離を置いて、それぞれ違う道を選んだ。 ――そして、七年後。 彼は株の世界でトップに登りつめ、思い人の水瀬水無瀬さんと一緒に、同窓会で堂々と婚約を発表した。 私が一人でいるのを見ると、彼は皮肉を込めた笑みでこう言った。 「詩羽、俺のこと、二度の人生どっちでも一番愛してたって自覚してるけど……だからって、いつまでも俺のこと待ってなくていいんじゃない?」 私は何も言わずに、そっと息子の手を取った。 その瞬間、隼人の顔から血の気が引いた。目を真っ赤にして、私を睨みつけながら叫んだ。 「……お前、『一生一緒にいたい』って言ったよな?『俺のためだけに子どもを産む』って……言ったじゃないか!」
View More「彼には、前向きに治療を受けてほしい。それと、もう、私の前に現れないでほしいです」二人のご両親は、申し訳なさそうに深くうなずいた。それから間もなく、隼人は別の病院へ転院し、その後は一切連絡もなかった。再び彼のことを耳にしたのは、彼のお母さんからの一本の電話だった。「詩羽ちゃん……隼人の容態がもう持たないの。あの子、最後にあなたに会いたいって言ってるの。お願い、来てくれない?」私はしばらく黙ったまま、受話器を握りしめていた。そしてようやく、かすれた声で返した。「……わかりました」電話を切ったあと、不思議と涙も出なかった。ふと、前世で彼と過ごした時間を思い出そうとしてみた。けれど――何も浮かばなかった。時間とは、本当にすべてを流してしまうものなんだと、ただそう思った。彼と再会したとき、隼人はすっかり人が変わっていた。頬はこけ、骨ばった顔に突き出た頬骨――もはや、かつての姿を留めていなかった。虚ろな目で窓の外を眺めていた彼は、私が病室に入った瞬間だけ、はっとしたように瞳に光を宿した。自分のやつれた体を見て、少し自嘲気味に笑った。「詩羽……今の俺、きっとひどい顔してるよな?」私は何も言わなかった。彼は続けた。「ごめん……あの頃の俺、本当に弱かった。夢に必死で、それでもうまくいかなくて、現実から逃げてばかりだった。全部お前のせいにして、自分を守ろうとしてたんだ。……これが、俺の報いなのかもしれないな。詩羽、もしも――もしも、もう一度やり直せたとしたら。今度はちゃんとお前を大事にできたなら……お前はまた、俺を選んでくれたかな?」輝きを取り戻したようなその目と、淡い希望のこもった声。私は、その幻想を、はっきりと断ち切った。「ありえないわ。人生って、そんなに何度もやり直せるものじゃないから。それに、隼人。あなたは変わらない。これから先も、きっと一生満足することなんてできない」欲望に限りがない人間は、どれだけチャンスがあっても、本当の幸福には辿りつけない。隼人は私を見つめながら、ぽろぽろと涙をこぼした。「……本当に、もう一度のチャンスもないの?俺、本気で間違いを認めたんだ……」私は、静かにはっきりと答えた。「ないよ」それが、最後だった。それから私は、彼の元を
「それとね、隼人。前の人生で、あなたと結婚したこと――あれが私の『最大の後悔』だった。私はもう、あなたを愛していないし、これからもあなたとの子どもを望むつもりはない。過去に縋らないで。私にとって、あの過去はもう二度と戻りたくない場所なの」そう言い切ると、隼人はまるで時が止まったように、その場で凍りついた。顔には、言葉では言い表せないほどの痛みが浮かんでいた。けれど――私は一切気にせず、そのまま背を向けて病室を出て行った。すると、彼の叫び声が私の背中にぶつかってきた。「世の中の男なんて、どれも同じだよ!桐島颯真だってそうさ!A市の一番のお金持ちが、なんでお前みたいな普通の女を選ぶってんだ!?目を覚ませ!お前らが幸せになれるはずない!本当に合ってるのは、俺なんだ!!」うんざりするようなその声に、私は歩くスピードをさらに速めた。……あの人は、前世とまったく変わっていない。うまくいっている時は、人を見下す。うまくいかない時は、成功している人を恨んで、引きずり落とそうとする。そんな人間は、いつまでも後悔し続けて、決して満足することがない。世間はきっと思っている。――私が颯真と結婚できたのは、「高嶺の花を掴んだ幸運な女」だって。でも、私はそうは思っていない。この愛は、対等なもの。私たちは、ちゃんと「並んで」歩ける関係だった。隼人は、私のことをただの「平凡な医者」だと思っていた。でも彼は知らない。私が医学の世界で、どれだけの成果を上げてきたか。どれだけ命に関わる研究を重ねてきたか。颯真は、それを見てくれた。ある日、私のレポートを抱きしめながら、そっと耳元で囁いてくれた。「詩羽、君の報告書は命を救った。それって、どんな金より価値がある……君こそが、本物のヒーローだよ」私は彼の存在によって、初めて「本当の愛」を知った。愛とは、一方的な犠牲や奉仕じゃない。ふたりで夢を追って、支え合って、生きていくこと。だから、たとえ隼人がどんな言葉をぶつけてきたとしても。私の中にある信頼と愛情は、揺らぐことなんてない。隼人は、まだ諦めきれていないようだった。その日――彼は一本のギターを抱えて、突然私のオフィスに現れた。そして、かつて私に告白したときに歌ってくれた曲を弾き始めた
「……詩羽、それ言いすぎじゃない?僕は、ちゃんと良心持ってるほうだからね……?」横で颯真が、ちょっとだけ拗ねた声を出した。私は思わず笑ってしまった。彼は、常に「コスパ最強の品質」を追求してきた人だった。彼の扱う商品も、ホテルも、マンションも――すべて最高級の素材を使いながら、できるだけ手頃な価格で提供していた。だからこそ、会社はどんどん大きくなり、信頼と名声を集めていった。消費者を大切にするから、消費者もそれに応えてくれる。それに比べて、水無瀬さんの父親は……手抜き工事で利益を得て、人の命や暮らしを踏みにじった。――あれは、もはや人としての倫理すら欠けている行為だった。しばらくして、見覚えのない番号から電話がかかってきた。一瞬ためらったが、私は通話ボタンを押した。「……あのニュース、見たか?」沈黙の向こうから聞こえたのは、隼人の声だった。「俺が通報したんだ」私は眉をひそめる。なぜそれを私に告げるのか、まるで理解できなかった。「それは国民代表として、感謝しとくわ」電話の向こうの彼は、どこか力のない声だった。「……詩羽、一度だけ、会えないか」「前にも言ったよね。私はもう終わったの。これ以上、過去に――」言い終わる前に、電話の向こうから咳き込む音が聞こえた。「ゴホッ、ゴホッ……!」苦笑混じりの声が続く。「……この前、病院で検査を受けた……肺癌、末期だった。詩羽……お願いだ。一目だけ、会ってくれないか?」その言葉に、脳の奥がきしむような感覚が走った。何かが、ぷつんと切れる音が聞こえた気がした。私はしばらく沈黙し、それからかすれた声で答えた。「……診断書を持って、私の病院に来て。話はそれから」そして、午後。隼人は、本当に病院に現れた。すっかり痩せ細った姿で、ゆっくりと私の診察室に入ってきた。そして、無言で一枚の診断書を、私の机の上に置いた。私は彼の診断書にざっと目を通しながら、眉をひそめた。「……すぐに入院の手続きをして。治療にちゃんと協力して」ちょうど手元に空いているベッドがあったから、そのまま彼と一緒に入院の手続きを済ませた。一通りのことが終わったあと。隼人は目を赤くしながら、私を見上げて言った。「……詩羽、やっぱりお前は俺のこと
「私たち、あのとき『別れよう』って暗黙の了解だったじゃない。前世の私たちも、今世の私たちも――関わらないほうが、お互いのためだったでしょ?それに、前世のあなたは私と一緒にいたことを後悔してた。子どもだって望まなかった。そんな人生、私は受け入れられないよ」すると隼人は、まるで堪えきれなかったかのように、怒鳴り声を上げた。「俺が後悔してたのはな……お前が一度だって俺を支えてくれなかったからだ!お前が音楽出版社にメールして、俺の曲を載せないように頼んだんだろ!?」――私は、一瞬何のことかわからず、思わず目を見開いた。「……は?何を言ってるの?全然意味がわからない。私、そんなメール一通も送ってない。あの頃、あなたの夢のために私は一日に三つの仕事を掛け持ちしてたの。そんな暇なんてあるわけない。私は誰よりも、あなたに成功してほしいって願ってたよ……それ、本当に気づかなかったの?」その言葉が雷のように彼に直撃したのか、隼人は一歩も動けなくなった。その場に固まったまま、呆然とした目で私を見ていた。彼は、口元を手で押さえて、まるで現実を受け入れられない子どものように震えていた。「じゃあ……あの時、俺がギターを買ってって頼んだねだったのを断ったのは、なんでだよ?」私は、ようやく思い出した。あのとき、隼人が同窓会で言いかけて途中でやめた「あの言葉」の意味が、ようやく繋がった。「……あの頃、家にお金なんて残ってなかったの。お義父さんが病気で、家族でかき集めたお金は全部、入院費に消えてた」「食費だってギリギリ。あの時の私たちに、どこにギターを買う余裕があったの?盗んででも買えって言うの?」隼人はその場で、完全に崩れ落ちた。「そんなはずない……遙遥香が言ってたんだ……お前が出版社にメールして、俺の邪魔してたって……お前は俺が成功したら、自分が捨てられると思ってたからだって……」前世のことは、思い出すだけで胸が締めつけられるように苦しかった。けれど――今のこの瞬間、私はそのすべてに、心の底から絶望していた。「私たち、何年も一緒にいたのに……他人の一言で、私がしてきたこと全部、簡単に否定されるの?自分でおかしいって思わないの?」私は深く息をついて言った。「旦那と息子が待ってるから。じゃ」背を向けて歩き出
ほんの数分前まで、私のことなんて「いないも同然」だったくせに。「えっ、詩羽って……あの桐島颯真と結婚してたの!?隼人、さっき小切手渡そうとしてたよね?今考えるとマジで笑えるんだけど!」「ほんとほんと、元カノが落ちぶれてると思ったら、むしろ格上の旦那捕まえてたってオチ!元カレが未練たらたらで、『かわいそうな元カノ』扱いしてたら、実はこっちのほうがハイスペックな男捕まえてたとか……うける」「遙遥香って、詩羽にネイルサロンの仕事紹介しようとしてなかった?意味わからん。今さっき聞いたけど、詩羽ってA市市立第一病院の外科医で、しかも執刀医なんだってよ?紹介どころか、むしろ尊敬される立場じゃん!」「詩羽、結婚したって大事なこと、なんで言ってくれなかったの〜!ご祝儀、用意しそびれたじゃん!」さっきまで私に興味なさそうだった面々が、今度はやたら親しげに話しかけてくる。その変わり身の早さに、思わず笑いそうになった。――けど、私は淡々と微笑み、当たり障りのない言葉で返す。それが「大人の対応」ってやつ。同窓会はまだ続いていたけれど、もう私の中で興味は完全に失せていた。「……もう帰ろうか」颯真と悠翔の手を取って、会場を後にした。成華ホテルを出てすぐ、背後から声が飛ぶ。「詩羽!」隼人だった。私は颯真に、先に悠翔を連れて車で待っていてもらうように伝えた。11月の夜は、さすがに肌寒い。彼は何も言わず、静かにうなずいた。いつも通り、私を信じてくれている。それだけで十分だった。隼人の視線は、複雑な色を帯びたまま、私をじっと見ていた。「……どうして、お前があの桐島颯真と結婚してるんだ?」特に隠すつもりはなかった。颯真の母親が心臓病で、私たちの病院に入院していたとき――私は彼女の主治医を担当していた。病状の都合で、彼とは何度もやり取りをすることになり、それが私たちの出会いだった。彼は、私がどの患者にも誠実に向き合う姿勢を尊重してくれた。そして、私の専門性や、学問への姿勢も、真っ直ぐに評価してくれた。それから颯真は、まさに電光石火の勢いで私にアプローチしてきた。母親思いのその姿を見て、私は彼に対して悪い印象を持つことはなかった。そして、ある日。彼が正式に想いを伝えてくれたとき――私は、いくつかの質問をし
さっきまでキリッとした表情だった悠翔(はると)が、私を見つけた瞬間、みるみるうちに涙目になった。「昨日、ぜんっぜん帰ってこなかったじゃん……ボク、ママに会いたかったんだから……!」その小さな体が勢いよく私に飛び込んでくる。私は彼をぎゅっと抱きしめながら、耳元で優しく囁いた。「ママはお仕事してたんだよ。昨日、ちゃんと言ってたでしょ?明日はママお休みだから、一緒に遊びに行こっか」「うんっ!ママだいすき!」息子の満面の笑みに、私は微笑み返すしかなかった。……そして、静まり返る会場。全員が、信じられないものを見たような顔で、固まっていた。誰かが口を開こうとした、その時――スタスタと早足で階段を下りてくる男性の姿が現れた。仕立てのいいスーツに身を包み、端正な顔立ちがどこか焦っている。「詩羽、ごめん、ホテルのマネージャーに聞いてここに来た。仕事終わったなら一言言ってよ。帰る前に一言言ってくれたら、車で迎えに行ったのに車出せたのに……!」隣に立っていたホテルのマネージャーが、すかさず周囲に説明する。「皆さま、ご紹介いたします。こちらが成富グループの代表取締役、桐島颯真(きりしま そうま)様。詩羽様のご主人でございます。本日は、奥様のご同窓の皆さまへのご配慮として、可能な限りのサービスをお約束いたします。どうぞ、心ゆくまでお楽しみください」一斉に、場の空気が変わった。さっきまで私を見下していた同級生たちの顔が、驚愕で引きつっていく。何人かは青ざめ、明らかに動揺していた。そんな中、数人の女子がこそこそと私に話しかけてくる。「詩羽、まさか……あんたの主人って、あのA市の首富で一番お金持ちって言われてる人?」「えっ、だってさっきマネージャーも『詩羽様』って呼んでたし、坊ちゃんも『ママ』って……え、つまり……」「わあ……やば、本物のセレブじゃん……!」私は、とりあえず微笑んで返すしかなかった。周囲がざわつく中、私はただ静かに、息子と夫を見つめていた。そのとき、隣にいた颯真が、私の姿を上から下までそっと見て、少しだけ眉をひそめた。そして、優しく肩を引き寄せる。「また病院から直行した?……終わったらすぐ帰ろう。ゆっくり休まなきゃ」私は静かにうなずいた。「うん、わかった」その直後――氷のようにクー
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